第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」

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 国立大学協会は11月15日に開いた総会で、大学入試センター試験で5教科7科目を課す原則を決めた。2002年に実施される新学習指導要領で教科の内容が3割削減される。その前日14日に発表した今年度「教育白書」で、文部省は「新要領の実施で学力低下は起きない」と主張しているが、大学関係者は信じず、反旗を翻した。国大協の第2常置委はこの9月に、学生の学力低下に歯止めをかけることを目的に「入試科目を増やし、高校レベルの基礎学力を確保する」改革案を打ち出していた。大学によっては2、3教科しか課していない現状から、80年代の共通一次試験型に戻る。しかし、「ゆとり」教育か、猛烈受験勉強の強制か――こうした切り口で学力低下問題は解けるだろうか。もっと深い、最深層に突き進んでみたい。

◆新学習指導要領をめぐる攻防

 新要領による教科内容の削減は例えばこうである。小学校では3桁以上の掛け算や4桁以上の足し算を扱わない、中学校の英語での必修単語を500語から100語に減らすなど。小数点第2位以下の計算はしないので円周率「3.14」を掛けるときは「3」にまるめる。

 西村和雄・京都大教授が「真の『教育改革』を〜学力低下が招く技術の危機」で、現在の大学生の計算能力について調べた結果を示している。数学を受験しなかった文系学部生は極端に悪く、理工系の学生でもマイナスが入った簡単な四則演算問題を3分の1以上が間違えている。現状でこれなのに、さらに削減してどうなるのか。「2002年の新指導要領は最悪の結果をもたらすおそれがあるので、即座に中止すべきだ」との指摘になる。

 戸瀬信之・慶応大教授による「大統領が数学と理科に力をいれるアメリカと小数ができない新日本人」など、「日本を滅ぼす」とのトーンにまで上がってきた。

 大阪教育大が全学の教員に聴いた「学生の学力低下に関する調査結果」を公開している。学力低下が目立つようになったのはいつごろかとの質問に、1997年以降とした人が「24%」、1990年以降が「26%」で、90年代になってから顕著になったことが分かる。もっと早く1979年以降とした人も「13%」いた。

 国大協が入試科目数を「80年代以前」のフルラインに戻したいと考える根拠が理解できる。だからこそ、最近の「ゆとり」教育が求めている軽量化とは反対方向に舵を切った。

 これに対して、守る側の文部省は「教育改革Q&A」で、削減しても学力低下の心配はないとする。小学生の3割、中学生の5割が授業の半分以上を理解できていないことを紹介して「新しい学習指導要領では、教育内容を基礎・基本に厳選し、子どもたちがゆとりを持って学習し、その内容を確実に身につけられるようにしました」と述べる。

 今年度「教育白書」はさらに「高校卒業レベルの教育内容の水準はこれまで通り」とも主張しているのだが……。

◆学力低下の実証調査が示唆するもの

 果たして学力低下はあるのか。実はそれすら吟味しないと定かでない。少子化によって、大学受験のハードルが下がれば、難関大学でも学生の質が下がって不思議でないからだ。

 大手予備校の河合塾が昨年11月に「高校生の学力低下問題を検証する」を公表している。毎年4月に実施する入塾者クリニックテストでは同じ問題が使われ続けていることを利用し、20万人規模で実施している第1回模試の結果で成績別4グループに分けて、旧課程最後の学年だった95年と99年の生徒を比較した。偏差値でグループ分けしているから、学力低下がなければ成績はほぼ同じはずである。

 「資料2*クリニックテスト(共通問題)に見る正答率の<科目別>」が最も端的に結果を示している。偏差値65以上の上位グループはわずかな落差しかない。この下で偏差値55以上の中上位グループは、正答率が数学で9ポイント程度落ちるなど明確な低下があり、偏差値50前後の中位グループや下位グループはさらに激しい。

 中位グループの文系・数学なら、95年の正答率「61.3%」が、99年には「42.3%」へと19ポイント落ちた。「61点」とれていた子どもたちが「42点」しかとってくれないのだから、相当鈍い教師でも気付いて当然だ。

 この最も変化が激しかった数学についてまとめた「数学の傾向」が興味深い。

 ベクトルや数列で、下位グループでも6、7割解けていた問題の正答率が半減した。「ベクトルや数列が『苦手になった』というレベルを越えて、基本的な意味すら理解できず『素通りしている』生徒が急増していることを物語っていると考えざるを得ない」

 逆に正答率が上がった珍しい例として「数学IIの範囲の微分の問題」があげられる。「扱う関数の次数が3次までに制限され、4次・n次を扱わなくなるなど学習内容が軽減されているため、数学IIの範囲の出題では現行課程生の方が正答率が高くなっている」「しかし、逆に『数学III』範囲の内容が過密になったため、数学IIIの範囲の問題では、現行課程生の方が正答率が下がってしまう」

 学習内容を軽減して十分に理解させる「ゆとり」教育がうまくいった例であり、同時に失敗した例にもなっている。全体として正答率の低下は下位グループほど激しく、出来る子と出来ない子の二極分解が進んでいる。出来ない子にきちんと分からせる「ゆとり」の理念は空理空論に終わっている可能性が高い。

◆勉強する必要を感じない――団塊世代のコピー

 4月にあった「教育改革国民会議・第2回議事録」で「プロ教師の会」を主宰する中学教諭の河上亮一さんがこう発言している。

 「十数年前からそれ以前と全く違った『新しい子ども』たちが登場したのではないかという感じを持っています」「特徴はひ弱で、しかも他方で非常に強いと言いましょうか、攻撃的と言いましょうか」

 「生徒たちは学校で学ぶ姿勢というんでしょうか、学ぼうという意欲を大幅に低下させているという気がします。30年前の中学生と現在の中学生を比べますと、学校での学ぶ姿勢は大きく低下していると思います」

 「基本的に学校というところで何を学ぶ必要があるのかないのか、こういうことが子どもも含めて親についてもはっきりしなくなっているんではないだろうか。こんな感じを持っています」

 私は、この発言の「十数年前から」に鍵があると感じた。「平成11年度学校基本調査速報」で中学校の生徒数推移を見て欲しい。昭和61年(1986)に生徒数は610万人のピークを迎えた。もう一つ前の史上最大ピーク「昭和37年」を形作っていた「団塊の世代」、現在50代前半にいる世代の二世がつくったピークである。

 「『新しい子ども』たち」は団塊の世代の生き方のコピーとして現れたと考えれば理解できることは多い。もちろん、華々しい学園闘争などを戦った青春像のコピーではない。戦後の知性を批判し、偶像を破壊した割には自分たちが主役の時代になっても、新しいものを生まなかった。いや、主役になろうとせず、「老害」と呼ばれる世代に喜々として追従し続けた。第一次石油ショックの前に社会に出て就職してしまい、成長社会の中、右肩上がりの安寧をむさぼり、新しい路線を敷く必要すら感じず、前例踏襲主義の管理職になり高収入を得てきた。その生き方の反映である。

 学力低下問題で検索しているうちに、私の戯画化した言い方があまり酷なものではないと感じさせる資料を見つけた。

 出島敬久・上智大助教授の「経済分野の学力低下は今の大学生に始まったことなのか 〜 ある地方銀行員の数学力にみる驚きと今後」である。そこでは、「日経マネー」7月号の角川総一氏のコラムから、ある地方銀行の研修所でのエピソードが語られている。

 「新入行員から支店長クラスまで年齢を問わずに60人程度を集めた行員対象の公開講座で」複利計算の問題をさせてみたら、だれも正解を出せなかったという。16年後に年収が1.585倍になるには、年率何%の年収増加が必要か、平方根キー付き電卓で出すだけである。

 この数学の知識が現在の職場と無縁であれば別だ。「資産運用では複利計算が必須となる。この利率で運用すれば何年後にいくらになるかという問までなら掛け算の繰返しで済むのだろうが,求めたい値の設定によってはいずれ指数・対数に関する知識が不可欠になるはずである。こうした知識を専門外として切り離すことはできないはずだ」

 地方銀行はたいていの場合、地方では最も良い就職先のひとつである。その「金融専門家」たちの実態と、最近、JRの運賃表の間違い表示が私鉄各社にも広がっていることとを、私は重ね合わせて見ている。銀行員と鉄道員――社会の中で最もきちんとした仕事をする人たちではなかったのか。その人たちが実は自分の頭を使って仕事をしていなかった。我々のプロフェッショナルとはこのようなものだった。

 教育程度が高くて勤勉、それはいったい何処の国のことか。雇っている企業の側も個人の本当の能力を使うこと、また、それをきちんと評価していないことは明らかだ。個々の企業から官僚機構に至る、前例踏襲型の壮大な積み上げ結果が「動かない国・日本」になって現れている。そして、悲しいことに、この国のメディアの人間さえも多くが前例踏襲型の安寧に浸り込んでいる。

 親がどうして生きているのか、委細、詳細を知らなくても、子どもは本能的なところで知ると主張したい。学力低下問題の最深層にある「根」とは、親たち、あなたの生き様なのだ。

 「『新しい子ども』たち」は90年代には大学へと進んだ。80年代と違う子どもたちが相手になっていることを熟知していない国大協の「80年代フルライン入試作戦」が成功するとも、また思えない。


◆◇メールマガジン版の編集後記から

 本文の中で触れると、ややこしくなるので避けましたが、今回のコラムは、私の連載のうちで第29回「過労死と働くことの意味」と深く関係していると考えています。

 そこでは社会心理学者が日米で行った「世代別の仕事中心性」調査をグラフに表現してあります。82年と91年、ほぼ10年を経てどう変わったか。

 団塊の世代は82年では30代、91年では40代とみてよいでしょう。もっと上の世代は10年を経ても仕事中心性が変わらないのに、団塊の世代以下は落ちていきます。さらに、91年の10代は他の世代と比べて、極端に仕事中心性が落ちているのです。そして、この世代で日米逆転が発生します。関心がある方は、是非そのグラフをご覧になり、意味しているものを考えてみて下さい。


◆◇2001/1/25 大反響を得て「再論」をリリースしました

◆◇2002/6/25 さらに進展した第120回「負け組の生きる力・勝ち組の奈落」リリース