第437回「続・2016年に国立大の研究崩壊へ引き金が引かれる」

 政府・文科省が主導しマスメディアが煽っている国立大改革。その結果起きた研究開発の病み方は途方もない深さまで進みました。根拠になるデータ無しに何か変えれば好結果と決めつけた上意下達がまかり通っています。6月末にリリースした第435回「2016年に国立大の研究崩壊へ引き金が引かれる」はツイッターやフェースブックなどソーシャルメディアで合計5500回以上(転載分含む)と経験したことがないほど言及されました。大学関係者以外にも多くの方に憂慮が広がっている証拠でしょう。

 この5月に横浜国大の室井尚教授が書いた《国立大学がいま大変なことになっている》が注目を浴びています。横浜国大には文科省から「ミッションの再定義」に基づいて「文系学部は不要、理系学部に再編せよ」との通達が出て、実際に動き出していると言います。《もう少し昔なら、学長と団交するとか、霞ヶ関でデモをするとか、署名運動するとかいう抵抗もあったのかもしれないが、これらの度重なる「改革」にすっかりうんざりして牙を抜かれた同僚たちは諦め切ってしまって気力を失っている》

 《敵は文科省の奴隷にされて苦労している学長ではないし、実際にプランを作った総研の社員や元社員は霞ヶ関にはそもそも居ないし、署名が集まってもそれを出したらそれ専門の処理班に回されるだけなのだから、どうしていいのかすら分からないのである。基本的に、自分の頭で考えずに国が与えた「ミッション」を忠実に遂行する者だけが大学教員に求められているような場所で、教員が良心を持って生きることなどできようもない》

 「国立大学改革プラン」に大学別「ミッションの再定義」の数々が記載されています。東大工学部出身で科学部記者を長年していた私からは言葉の遊びに見える項目多数であり、横浜国大のように「押しつけ再定義」なのだと知れば、納得できます。

 しかし、マスメディアは文科省の言う通りに信じています。京大総長選の報道が端的に表しており、誰が選ばれるかよりも、学長の国際公募の試みが機能しなかった論点が先に立っていました。大学を維持する生命線資金かつかつ、過酷財政の国立大学に「経営手腕がある」外国人学長を招いて何をさせようと言うのでしょうか。もし潤沢に資金を回すというなら、日本人の学長でも十分に仕事は出来ます。

 ここに、中央官庁の官僚から教えられないと記事が書けない在京マスメディアの弱みが顕在化しています。文科省に限らず2、3年で持ち場が変わる官庁クラブ所属記者は自分で現場を確かめず、官僚からレクチャーを受けて鵜呑みです。オルタナティブなニュースソースを持ちません。2004年の第145回「大学改革は最悪のスタートに」を書いた背景を説明しておきます。私は科学部時代の内、丸5年間は手に入る限りの国内学会・研究会の抄録集を全て読みました。十分に手間を掛けた経験と大学現場取材から大学改革の方向が間違っていると確信しています。補足すると科学部を出た後で、文系学会も1年間は同様の抄録集全読破を試みています。  研究論文の異常な減少ぶりを指摘した元三重大学長、豊田長康氏が「何度見ても衝撃的な日本のお家芸の論文数カーブ(国大協報告書草案18)」で新たに出されたグラフです。日本が得意とし、科学技術立国の支えだった物理化学物質科学分野の論文数が「2004年という国立大学が法人化された年に一致して明確に減少に転じているカーブは、衝撃的である」と評されています。今回の分析は理系ばかりでなく社会科学まで分野別に世界の論文数動向と比較しています。多少は増えている分野もありますが、世界傾向からはどの分野も日本だけ異質な低迷カーブです。これは恐るべき事実ですが、視野狭窄に陥った文科省には関係ないのでしょう。

 現在は英国のオックスフォード大教授に転じている元東大教授で高等教育問題に詳しい苅谷剛彦氏が文藝春秋7月号で《日本の大学が世界の「落ちこぼれ」になる》との論考を書いています。「今、日本の高等教育の閉塞感のひとつは、一部の理系分野を除くと、自分たちがいま学んでいることが世界の最先端なのだ、という実感が持てないことにあります」――理系と文系を問わず世界規模で存在する評価・ランクに全く馴染まない「たこつぼ型」研究が日本でこれまで主流でした。現在進んでいる大学改革は根拠の無い恣意的な改変であり、評価の仕方を世界標準に合わせるのではなく、「たこつぼ型」研究者の自主性まで取り去りつつあります。2016年に生命線ラインを下回る大学交付金重点配分が始まれば、多数は最低基盤まで奪われるのですから無残な結果は見えています。