第33回「宗教者が直面している死そして生」

 葬式を切り盛りするだけのように一般に思われている、この国の宗教界にある変化が起きている。トピックとしてオウム真理教事件のように、週刊誌好みの派手なものではないが、ずっと懐の深い変化だと、京都支局時代に宗教記者クラブを経験した私は考えている。10年余り前にさかのぼる末期患者などへの宗教的ケア運動の拡大と、3年前の阪神大震災による修羅場での宗教者のボランティア活動、それに今年成立した臓器移植法をめぐって赤裸々になった死とは何かの問題。この3波が重なり合って、「死の専門家」を自称していた宗教者が、実は言うほどには死について知らないことに気付き、ようやく死と、そして本来の生の営みと直面し始めたのだと思っている。インターネットで発信されている発言を読むと、高齢化社会の入り口で与えられた歴史の必然とも見える。なお、死についての情報源に「死の総合研究所」など世俗側に便利なページがある。

◆ホスピスとビハーラ

 終末期の患者が死への旅立ちを準備する場所として、キリスト教の世界はかなり早く、'30年代からホスピスという空間を持っていた。近代的なものとしては、'67年、英国でセント・クリストファーホスピスが創設されたのを皮切りとしている。ほぼ同時期にモルヒネによる疼痛除去法が開発され、医療と心の両面からターミナルケアが施されるようになった。国内で早くから独自の老人ケアに取り組んでいる神父による講演「ホスピス運動とは」に、ホスピス運動の真髄を伝える記述がある。

 「そうなってくると、だんだん神父様もその医者と喧嘩することになり、神父様は相変わらず薬を飲まない。看護婦に薬を一つ一つ説明しろ、と言うわけです。その上で薬を断るわけです。看護婦にそんな薬は捨ててしまえ、いらない、と。わたしが自分で自分の飲む薬を選ぶ、というのです。この神父は最後に、もう3日か4日しかもたないということになって、臨終に近い病人のための『病癒』という祝福がカトリック教会にありますが、それを受けました。祈りながら本人を祝福して、清めの祝福と励ましの祝福とを授けて、そして神様に自分を捧げる、そういう気持ちを固めるための祈りと祝福がこの『病癒』の秘蹟なのでけれども、聖母病院でパリ・ミッション会の管区長様が、東京にいた神父様すべてその病院にやって来て、その秘蹟を行なったわけです」

 「神父様の薄暗い部屋に入って、そしてみんなで病癒の秘蹟を与えました。本人が質問に一つ一つちゃんと答えていたそうです。そして終癒といって、額のところに十字架を描きしるしながら、安心してあの世へ行きなさいというような意味の祈りなんですが、そうすると本人が『はいはい分かりました』と答えたそうです。さて、このセレモニーが終わった。それまでは点滴をしていたそうです。酸素吸入もしていました。本人が要らない要らないと言っていたそうですが、若い医者がやらなきゃ駄目だ、ということでつけていたそうです。ところが、終癒の秘蹟が終わったら、自分で酸素吸入をパッパッと外し、点滴も外して、今度はもう何にも要りませんと、こうやったわけです。もうあの世に行く準備ができましたから、もう結構です、ありがとうございました、ごくろうさまでした、と。その後いっさい何も受けつけませんでした。そうして非常に穏やかな最後を迎えたわけです。これが、ホスピス運動そのものなのです」

 一方、ビハーラとは仏教による終末期ケアの場である。ホスピス運動に比べて少し遅れて始まった。「ビハーラに関して・・・」に「ビハーラ(Vihara)という言葉は、古代インドでしようされたサンスクリットで、『休養の場所、気晴らしをすること、僧院または寺院』などの意味をもっています。もともとビハーラとは上記のような意味ですが、これから述べる『ビハーラ』とは次のような意味を持ちます。『ビハーラ』は『仏教のホスピス』という表現に代わる、仏教を背景としたターミナル・ケア施設の呼称として1985年に田宮仁氏(現在:飯田女子短期大学教授)が提唱したものです」とある。死を前にして患者は自分を静かに見つめ、望みのように看護され、仏教を基盤にした小さな共同体の中にいることで癒しを受ける。「平成5年度より佛教大学専攻科に仏教看護(ビハーラ)コース(平成6年度より(ビハーラ)を削除)を開設し、平成9年度で、第5期生を迎え、熱心な学生が仏教とターミナル・ケアに関する研究を行っています。入学資格は僧侶に限りません。看護婦さんや薬剤師さん、福祉関係に従事されている方々も多く学んでおられます」という。「日本のホスピス一覧」には、キリスト教系に加えて仏教系のビハーラも顔を出している。

 この連載29回「過労死と働くことの意味」で、社会心理学者が調査した日米の仕事中心性について触れた。100点満点で「レジャー、地域社会、仕事、宗教、家庭」の5部門に、個人生活中の重要度に応じて点を配分してもらうと、日本人は米国人より仕事に10点も高い点を付ける。その差10点は米国では、どこに回るのか。平均的な米国人は宗教生活に10点程度を与えており、ゼロに近い日本人とここが一番の違いになっている。高齢者介護などの問題が表面化した今、介護する側、される側の心の癒しも含めて宗教の持つ意味が見直されて良い。

◆ボランティア活動で見えた社会

 「苦沙彌の雑文集」に「病院に法衣姿のお坊さん」という一文がある。「1984年、京都を中心とした仏教伝統教団の僧侶が宗派を超えて『信仰に根ざした社会活動をしよう』というスローガンのもとに京都仏教青年会(現薄伽梵KYOTO)を結成。その活動の一環として、翌年から病院において患者さんを対象とした法話の会などを始めました」

 「もともと私たちは病院に限った活動をするために会を結成したわけではありません。しかし、結成当時の社会情勢が病院・医療と私たちを結びつけました。めざましい医療技術の進歩に伴って結核などの感染症が征圧され、平均寿命も延び、逆に成人病などの増加すると共に、ガンによる死亡が第1位になりました。ガン患者の多くは意識が鮮明な状態で死に近づいていく。その身体的・精神的・社会的・宗教的苦しみなどに、医療・看護職のみならず、もっと幅広い職種の関わたチームで対処していこうという動きが、日本では1977年頃から盛んになってきます。そして、身体的な苦痛は医療的処置で緩和できても、『死んだらどうなるのだろう』というような精神的不安は宗教家に対処にして欲しいという要望が高まってきます。このような動きに触発される形で、仏教系団体などの動きが84年頃から始まり、以後、仏教を背景としたターミナルケア『ビハーラ』が提唱され、仏教者などが病院で活動することが全国に広まっていきます。私たちもこういう流れの中で、全国に先駆けて病院活動を始めました。しかし、私たちは『病院』や『ターミナル』は一つの場であると考えています」「寺に引きこもることなく、もっと自由に、あらゆる機会と方法を使って、生きるための仏教を広め、自分の信仰に対しても真摯に求め続けようというのが、私たちの基本的な立場です。仏教の活性化運動といってもよいでしょう」

 私が科学部員から京都支局員に出た'89年は、伝統仏教の大教団の内部でもボランティアとしてビハーラ活動に取り組む動きがかなり見え始めたころだった。青年僧や寺族と呼ばれるお寺の子女らを中心に病院での経験はどうだったか、と話題になっていた。出発点は患者さんの話をよく聞いてあげることだ。もともと田舎のお寺では、住職の妻は檀家の奥さんたちが持ち込む悩みを聞き、一緒に背負って荷を軽くしてあげる役だった。その都市的・現代的な再生と考えれば、理解しやすいかもしれない。

 記者クラブと名の付くものの中で、京都の宗教記者クラブは極めて珍しい存在で国内唯一、大教団の司令塔がひしめくこの街ならではのものだ。科学部の少しシニアのライターをいきなり宗教担当に回すという人事は不思議だが、郷里の先輩にこの記者クラブに長く在籍して宗教の専門記者になった人物がいたため、むしろ因縁の深さを感じた。私の場合は同時に経済記者クラブも任されて、この古都の聖と俗を一手に引き受けることとなった。

 宗教記者クラブは、東西、両本願寺の宗務所の一室を借りている。宗派名は真宗大谷派と浄土真宗本願寺派、いずれも門信徒800万人と称し、浄土宗の知恩院などと並ぶ大教団である。宗務所は小ぶりな市役所と言ったら、雰囲気が伝えられる。全国各地から集まった僧籍を持った人たちが「公務員」として働いている。浄土真宗で剃髪は子供の頃、一度するだけだから一見して僧に見えない人ばかり。ますます役所風である。各地の激しい選挙戦を経た議員による宗議会を持ち、その多数派から宗務総長以下の執行部が選出される「議院内閣制」を敷き、親鸞の血筋をひく大谷家の門主(門首)が「天皇」で、宗務総長が「首相」に当たる。門主に天皇家から嫁したりしていたから、そのままミニ日本国家であり、官僚制が仕切る空間だった。生命倫理や死生の問題について鋭い意識の方は散見される程度であり、科学記者として見ると全体に素朴な認識、意識状態と感じられた。

 京都新聞の「西本願寺、宗門挙げボラティア活動 基本構想策定へ 震災教訓に人材、財政を支援」は、その浄土真宗本願寺派が宗議会での請願採択をうけて、伝統仏教教団として初めて、本格的に長期、多彩なボランティア活動に取り組むための枠組み作りと財政支援をすると伝えている。「同派によると、阪神大震災発生後、宗門の僧りょや門信徒ら計1万人が、被災地で炊き出しや慰問活動に参加した。しかし、それぞれが個々に取り組んだため他の支援グループとの連携が十分でなく、財政基盤も弱かったため活動に限界があったという」

 禅宗の一派、曹洞宗の青年組織のページ「青年僧に望む」で老師は「年の功をかさにきて若い人に偉そうなことを言う気はさらさらにない。それどころか先の阪神大震災のとき素早く行動を起した青年僧諸君のことを聞いて、さすがやるなと感心しわが身を反省した程である。あの頃私の講義に出ていた学生僧の一人がしばらく顔を見せなかったので後で聞くと、ボランティアで被災地の焚き出しに行っていたと言う。その表情の明るさを見て、生きがいとはこういうものかと思った」と述べ、「いま宗門では人権と平和と並べて環境問題に取り組んでいる。環境問題を現代的視点の四摂法から見たらどうか。オウム教のため大分ダメージを受けた『布施』も、大地に施す肥料になぞらえれば報恩のいとなみとして、経済合理主義のみではない人間の生き方への原理となる。『愛語』は家庭や学校・社会あるいは民族間のいじめや疎外・対立から人間を回復する働きとなろう。『利行』はボランティア活動だ。自未得度先度他の理想は、人間と自然の共生を願う究極の理念と捉えたい。『同事』も『利行』と同様、現代の痛恨であるエゴイズムを克服し、共同体の一員としての確証をうるセルフ・アイデンティティへの説得力がある」と、教団そのものが社会への関わりにシフトした姿を示す。

 その大震災は終わってはいない。祈りの心を持つ者には、しなければならないことがまだあるが、個の力で救いきれるものでもない。「日本基督教団 兵庫教区震災ニュース」から引用する。「『今、仮設の人たちに対する差別がある』と彼女は教えて下さいました。街を歩いている人の背中を見ると、あの人は仮設だということがわかるというのです。仮設に住んでいる人たちの中にも、そのような思いがあるのです。『ふれあいセンターに出てこれる人は良いほうですよ。』と、彼女は言います。地震から一年が経ち、仮設に住んでいる人たちの中にも、新しい住まいを得て、仮設を出られる方も出てきました。そのような変化の中で、仮設を出ることの出来ない人たちは、自分の生活を顧み、どうしてどんどん自分の殻にこもってしまいます。ですから、初めのうち、私たちに話を聞かせて下さった女性が訪問をしても、その人たちは何も受け取ろうとしなかったそうです。その人たちは『人から物も貰いたくない』という状態なのでしょう。それが、交わりを深めていくうちに、物を受け取ってくれるようになってきたと彼女は語って下さいました。彼女は、毎日仮設の中を歩きながら、そこで出会った人たちに声をかけ、交わりを持っているそうです。その交わりの中で、彼女は、『自分に出来ることは何か』と言うことを祈り求めるようになりました。そして、『私に出来ることは、現在仮設に住む人々の声に耳を傾け、その人たちの実状を1人でも多くの人に訴えていくことです』と話して下さいました」

 ボランティアの多くが去った今、豊かなはずの社会から「棄民」された人々を救う方法を模索して、公的支援法案の国会通過などに力を注ぐ人もいる。

◆医療による死の判定への異議

 6月に成立した臓器移植法は臓器提供側の意思表示に厳しい枠をはめ、提供意思のある場合に限って脳死判定をすることにしたが、その前の4月に単に脳死は人の死とする内容で、衆議院で一度可決された。これまで動きが少なかった宗教界もたまらず、真宗大谷派は、「教団の動き」で「人々の中にある様々な医療不信や脳死の判定に対する危惧が払拭されないままに、強引に脳死という状態にある人を死んでいる者としてしまう脳死=個体死とする法案には、全く納得できません。また、臓器移植についても、移植をすすめようとする人たちが言うようなすばらしい医療技術と果たして言えるでしょうか」と、宗務総長声明を出した。

 全日本仏教会の「『全仏』誌より」は「それでは私たち仏教者は、法案が成立していく様子をただ傍観するしか術がないのだろうか。残念ながら個々の意見が存在しながらも、日本という社会の中では、仏教者の意見を取りまとめ、この法案に影響を与えるだけの機敏な反応は起こり得ないだろう。筆者の生命倫理研究の米国留学(ジョージタウン大学ケネディ倫理研究所)の体験で垣間見た米国のこの事情は『私はこう生きたい』という意思を表現することが一番大切と主張する『自己決定権の尊重』によって支えられていた。米国事情がそのままわが国に充当するものではないが、私たち仏教者にできることは、日頃の布教活動の中で、漠然として教えのスローガンだけではない、具体的な意思を表示するための方法を教え、私はこう生きたいという主体的な問いかけをする『いのちの教育』である。そこで落としてならないことは、理論づめではない、どうしようもならない人間の判断をも含み取るところにこそ、仏教の素晴らしさがあるということだ」と、浄土宗研究者の意見を掲げている。

 臓器移植法成立をうけて、キリスト者でもある救命救急医療現場の医師は、脳死以前の救命措置が十分だったのか、担保される必要性を説いている。この国ではそれが十分だとは言えないのだ。最善を尽くされて脳死になったのでなければ、その人に臓器提供意思があったとしても、根本が狂ってしまう。

 「脳死・臓器移植論議に欠ける視点とシステム」で「私達は長く議論を続けた末に、つまらないものを作った。この愚かさの正体は何か。脳死・臓器移植という新技術の導入に際して、何故私達の社会は効率的に賢明にふるまえなかったのか」「脳死・臓器移植問題において配慮すべき筆頭の条件は安全性であった。この場合、その安全とは移植医療に限定した範囲に止まらず、広く医療社会全体を視野に入れたものでなけれぱならない。つまり、医療社会が安心で健全なサービスを提供し、被診療者に信頼される環境であることが、脳死体からの移植開始後も保証されなけれぱならないということである。この点で、脳死臨調や国会の認識は明らかに不足していた」とした上で「臓器不全患者の治療を早急にしなけれぱならないという原則は曲げられないからである。であるからこそ、中心に据えられるべき案件とは、脳死体からの臓器摘出という荒技がこの社会においてなされる時に、そのために誰ひとりとして、いかなる被害をも被らない為にはどのようなことが最低限必要か、このことなのである。患者に移植の機会を提供するための社会的なルールが急がれるが、その実施の結果、誰かが人権を阻害されたり、納得のいかない思いのままに放置されたりしてはならない。そのためには、どのような施策をひき、どのような監査機構を臓器移植医療の中に機能させるべきか。そういう姿勢で議論を進めるべきであったのだ。それは迂遠なようであるが、臓器移植の倫理的な導入という解決への最短路だったのである」と結論する。

 動きは、まだ始まったばかりである。