第49回「性差の科学と環境ホルモン」

 環境ホルモンについて、国内でも本格的な調査と研究が開始されようとしている。厚生省の「食品衛生調査会毒性・器具容器包装合同部会 議事次第」に、内外のいきさつや中間的な報告類がまとめられているが、現段階のお役所の資料では、はっきり言って何も分からないに等しい。インターネットで調べられるデータを単に並べてみても、同じことかも知れない。性ホルモンというと生殖に関係しているイメージが強いが、実は我々の存在をかなり深いところで規定している。今回は男と女の性差について、科学的に分かってきたことを整理した上で、性ホルモンに類似した構造を持つ環境ホルモンが、人類のこれからにどう絡むのか、あるいは既に影響してしまったかも知れない事柄を考えてみたい。

◆脳に見られる性差

 外性器の違いだけが、男と女、あるいはオスとメスの違いでないことは容易に理解されるだろう。男性的な女性もいれば、女性的な男性もいる。これは日常的に感じられる感覚的なものだし、同性愛者といった性の行動として中間的な存在もある。個人的な趣味の問題と笑い飛ばすのは勝手だが、脳にも性差があることが分かってきた今、脳の器質差として説明できてしまう日が来ないとも限らない。

 「脳の性分化」はこんなエピソードを紹介している。「1980年Gorskiは、脳内の内側視索前野という部分の神経核に性差があることを示し、さらに、この体積の大小に性ホルモンが関与していることを証明して、この部分は性的二型核(sexually dimorphic nucleus,SDN)と呼ばれるようになりました」「同性愛者であるLeVayが最愛の相手をエイズで失い、同性愛も異性愛と同様、人間の本性であるという信念から、エイズで死亡した人たちの性的二型核を調べ、同性愛者のそれは異性愛男性の半分で、異性愛女性と同じ大きさであったと報告しています」

 脳の性差について、いろいろなことが言われ始めている。懐疑的な専門家もいるが、この内側視索前野の性差と、「新井康允の『男脳と女脳は、ここが違う』」の脳梁部についての指摘には異論は出まい。

 「MRI(核磁気共鳴画像撮影装置)などの発達により、脳内の構造に男女差のあることがわかってきました。そのなかで、左右の大脳半球を連絡する2億本もの神経繊維の大きな束である脳梁に男女差のあることが話題を呼んでいます。女性の脳梁後部の膨大部は、球形をしていて大きく、男性のほうが細いのです。この部分は、視覚情報や言語情報を左右の大脳半球間で交換する繊維が通るところです。ここが女性のほうが太いということは、この部分を通る繊維が男性より多いということです。これは、女性のほうが、とくに意識をしなくても細かいところまで目が行き届くことや、言語能力がすぐれていることなどと大いに関係しているものと思われます」。

 ちなみに空間認知能力は右脳、言語能力は左脳が主に司っていると言われる。

 こうした脳の性差は、母親の胎内にいる時期にアンドロゲン(男性ホルモン)によって形成されると考えられている。日本医大生理学講座の「最近の和文総説・解説」にある「女性の性行動とホルモン」を見ていただこう。「脳の性差は脳の個体発生の途上で、妊娠90日前後に決まる。脳の性分化の臨界期と呼ばれるこの時期には男性胎児の精巣のアンドロゲン分泌が盛んで、アンドロゲンが神経細胞の軸索の伸展や樹状突起におけるシナプス形成を促進することにより、男性型の脳が形成される。アンドロゲン作用がない場合には女性型の脳が完成する。脳・脊髄の初期発生では成熟個体で見られる数のおよそ2倍の神経細胞が発生し、標的細胞に軸索が到達してシナプスを形成した細胞だけが生存すると考えられている」

 ネズミによる実験では、こうした性分化の臨界期に男性ホルモンの代わりに大量のエストロゲン(女性ホルモン)を投与しても、不思議なことに男性型の脳になる。男性ホルモンはそのままの形で作用するのではなく、脳内に入って女性ホルモンに転換され男性化に働くのだった。それなら女性胎児の脳も男性化しそうだが、臨界期に限って血液中のエストロゲンとだけ結合するタンパク質が出現し、血管から脳への入り口である脳血液バリアのふるいに引っ掛けて、通れなくしてしまう巧妙な仕組みが用意されている。もし、この邪魔をするタンパク質よりも多量にエストロゲンがあれば、女性胎児でも脳の男性化は起こってしまう。

◆性分化の行動への影響

 「Man & Woman」に性差と甘党辛党に関する面白い実験が紹介されている。「ラットに水道水と3%のブドウ糖水の二種類を飲み水として別々の給水瓶から自由に選ばせて飲ませてみる。雄も雌もブドウ糖水のほうを好んで飲むが、雌のほうがはるかに多量のブドウ糖水を飲む。次に0.25〜0.75%のサッカリン水を用いて同様な実験を行ってみた。これは人間にはうんざりする甘さである。雄ラットは、初めはサッカリン水を飲んでいても、やがてあまり飲まなくなるのに、雌の方は、サッカリン水の方を好んで飲み、しかも、だんだんとその量が増加していった」「雌ラットの卵巣を取ってしまうと、正常な雌と比べてサッカリン水を飲む量が明らかに減少する。しかし、この去勢した雌ラットに卵胞ホルモン(エストロゲン)と黄体ホルモン33を注射して卵巣のホルモンを補ってやると、再び甘党にもどり、正常な雌と変わらずサッカリン水をたくさん飲み続けるようになった」「一方、雄ラットは去勢しても、甘味の好みはほとんど変わらなかった。女性ホルモンが甘党の原因ならば、雄ラットに女性ホルモンを注射すれば、甘党へ変えることができるはずだが、去勢した雄ラットに女性ホルモンを注射しても効果はなかった」

 「雌ラットが甘党であるためには女性ホルモンが確かに必要であるが、甘味の好みに対する雌雄差を生ずる原因はもっと根本的なところにあるようだ。つまり味覚の情報を受けて、それを行動に移す脳に雌雄差があり、それがカギをにぎっていると思われる」。人間と違い、母胎内にいる時間が短いネズミでは脳の性分化の臨界期は生後数日である。「生まれてすぐ雄ラットを去勢し、精巣から分泌されるアンドロゲン(男性ホルモン)の影響を取り除くと、遺伝的に雄でありながら、雌と同様に、甘党になることがわかった。逆に、生後5〜6日までに、雌ラットにアンドロゲンを一回注射しておくと、雄と同じように甘党でなくなった」

 毎日新聞の伝える「<同性愛女性>内耳が男性化−−米テキサス大研究グループが発表」も、脳の性分化と関係しているようだ。小さなクリック音を聴かせて内耳を伝わってくる「同性愛女性から得られた振動は、同性愛でない女性の振動よりかなり弱く、バイセクシュアルの女性はその中間に位置することが分かった。男性から得られた振動は同性愛者であるなしにかかわらず、同性愛女性よりも弱かった。内耳は胎児期のホルモンの影響で性差が進む器官とされている。男性ホルモンにさらされる男性の内耳は男性化し、音に対する感受性が女性より低くなることが知られてきた」。脳に極めて近い場所にある内耳にこの変化が現われるのなら、脳内にも関係した変化が発生していると考えるのが自然だ。最初に取り上げたエピソードは男性の同性愛者のものだったが、女性の同性愛者にも脳に器質的な差があるのではないか。同じ雷の音を聞いて、男と女、さらにそれぞれの器質差によって聞こえる音の大きさが違うということになり、示唆的な話だと思う。

 性分化の臨界期に、性ホルモンの微妙なバランスが狂うことで何かが起き、行動に影響が出るとみて差し支えあるまい。胎児期に男性ホルモンの「シャワー」を浴びた後、思春期になって再び男性ホルモンの分泌が盛んになるまでの間に、男の子にはもう一回、血中の男性ホルモンが高まる時期がある。出生後半年の期間であり、何かの形成が体内で行なわれているようだ。我々の存在を規定する秘密について、知らないことの方がはるかに多いことだけは断言できる。