第60回「リテラシー教育の発見と行方」

 「読み書き算盤」の読み書きを意味する「リテラシー教育が必要だ」と、あちこちの分野で叫ばれるようになった。この連載第2回「100校プロジェクトと教育現場」は、コンピュータ・リテラシーの問題を取り上げ、中学・技術家庭科への「情報基礎」導入からのつまずきを紹介した。今年になってしばしば目にするのは、ネットワーク・リテラシーであり、情報リテラシー、さらにはメディア・リテラシー教育が求められている。どうやら言われる事柄の実体はひとつなのではないか。背景にあるのはインターネットの国内利用者1000万人突破(「インターネット白書'98」)であり、さらなる急増である。

◆座視できなくなった日米格差

 通信白書の「第1章 デジタルネットワーク社会の幕開け・第3節 情報リテラシー」は、情報基礎とコンピュータ、ネットワークの3項目を総合して情報リテラシーとし、日本と米国の住民600人ずつについて、リテラシー習熟度を調べている。「15点満点で平均点は、日本8.29点に対して米国8.97点で、米国の方が高く、日米格差は0.68点」だったが、得点分布に大きな落差があった。「日本は7〜10点が最多層になっているのに対して、米国は10〜13点が最多層」であり、全体を引っ張る前線部分の能力に明らかな差を感じさせる。

 日米格差が目立つ部分を拾うと、さらに問題点が見えてくる。「10代における日米の格差であり、PCリテラシーで20.3ポイント、ネットワークリテラシーで30.7ポイント、日本の方が劣っている」。2番目に目立つ傾向として「各階層とも男性では日米格差がほとんど見られないのに対し、女性では、顕著な格差が見られ、PCリテラシーで21.3ポイント、ネットワークリテラシーで24.0ポイント、日本の方が劣っている」。米国がもともとタイプライター社会だったとはいえ、学校でのインターネット導入の後れ、女性の社会進出の差がこんな結果を出してしまった。

 経団連はこの7月に「次代を担う人材と情報リテラシー向上策のあり方に関する提言」を出した。第3章「情報リテラシー向上のための環境整備」は「1998年3月末現在、コンピュータを使用して教科等を指導できる教職員は、小学校で21.7%、中学校で23.2%に過ぎない。現役の教職員に対する情報リテラシー教育、ならびに大学での教員養成カリキュラムを充実させる」よう、強く求めている。

 「国公立の学校でのインターネット接続率は極めて低く、1998年3月末現在、小学校で13.6%、中学校で22.7%、高等学校で37.4%にすぎない。また、1学校当りの回線数は2.6本しかないという調査結果もある」「情報化先進国である米国では、昨年秋時点で、小学校で75%、中学校は89%がインターネット接続をしている。また、米国では5教室以上接続している学校が43%を占め」と、ネットワーク接続の現状を憂えている。学習指導要領や教科書は機動的でないと、見直しにまで触れている点で、腰の重い文部省に、国際競争の場にいる産業界は、もう放置できないと苛立ちの意思表示をしたようだ。

 これに対応する問題意識が、平成9年度版の教育白書「第3章 初等中等教育の一層の充実のために 」に、かけらほども見つけられないのは驚くべきことである。文部官僚には、いまだに従来型の教育問題しか見えていないのか。

◆現場人の認識

 宮崎県で行われた「インターネットを活用した情報活用能力の育成に関する調査研究」は、児童のメディア活用の実態を調べている。「児童の生活の場には多くのメディアが浸透しているものの、学校での活用は十分とはいえず、そのため、今後の学習の中でも、積極的にメディアを活用していこうとする児童が少ない」「昨年度の本センターによる県内の教諭対象に行ったアンケート調査でも情報活用能力を意識した授業の取組が少ないという結果がでている」と指摘する。テレビ、新聞、ビデオ、ファクスなど日常にメディアはあふれているのに、今の子供には学習に使えるとイメージできるものは限られているらしい。取りあえずの望みは子供が関心を持ち始めたインターネットを使っての取り組みしかない。

 大学でもインターネット利用は理工系から文系に広がっている。「インターネットと法学教育」に、鹿児島大の例が紹介されている。「法学が対象とする問題解決のための、情報収集・解析技術、判断技術、説得技術などを、情報科学の成果と基礎法学的な知見とを組み合わせることにより、実際に体験し、修得する」講義「法情報学」が、98年から正規科目として組み込まれた。オーストラリア法の集中講義に招いた外国人講師から「レポートの提出にあたって」「インターネットを使って判例や法令を検索するよう学生に指示がなされた。これは、たまたまオーストラリアが法情報をインターネットで容易に収集できる国であったためであるが、当該機関の図書館や資料室に乏しい分野もネットワークを利用すれば十分に調査可能となる一例であろう」と具体例があがっている。

 もっと進めて「インターネットと大学教育のクロスロードで【付論】情報リテラシー教育についてのメモランダム」は、こう言い切る。「『情報リテラシー教育』の目標は何か。それはネットワーク・コミュニケーションの主体となるチャンスを学生に提供することである。市民として公共の場で発言できるコミュニケーション能力を開花させることである。情報取得の技術やマシンの操作技術はそのほんの一側面にすぎない。しかも、それは1年ほどでスクラップ化する技術である。それをリテラシー教育の中心にすべきではない」

 やはり、大学人による「ほとんどすべての人のためのメディア文化論入門」は、活字メディアから電子メディアに移りつつある現在、「メディア・リテラシーとは、『あらたなメディアの時代』に直面している今日、このあらたなメディアに対応した『あらたな(メディアの)読み書き能力』が必要になっている、という問題意識に基づいている」と規定した上で、「教師・生徒・学生が、これこそが『教育の基本だ』と考えていたもの(以前からのリテラシー=読み書き能力)が、【じつは、古いメディアの発展段階に対応したものでしかない】かもしれないのである。この点が、私が『メディア論的視点は、ほとんどすべての教育にとって必要』である、と考える根拠である」と主張する。

 「【ほとんどすべての学生のみなさん!!】貴女がこれまで受けてきた教育が、古いメディアの発展段階に依存したものでしかないかどうか自問してみてください。そして、貴女がいま受けようとしている教育が、あたらしいメディアの発展段階に対応しているものであるか、自問してみてください。たとえば、『講義』という教育形態や、『訳読』という外国語教育形態は、このような視点から再検討されるべきだろう」とも。

◆メディアを使いこなす智恵

 「メディア・リテラシーの世界」が立命館大で試みられている授業実践のホームページであるが、それを紹介している「メディア・リテラシー (情報教育の鍵を握る新しいアプローチ)」が簡潔で読みやすいだろう。メディア・リテラシーへの取り組みはカナダが先んじてきた。「歴史的にイギリス型の文化や精神風土を持ちながら、一方で隣国アメリカから押し寄せるメディア文化に応じなければならなかった」「アメリカでは三大ネットワークに代表されるような商業メディアが強大な力を誇っており、それが国境を越えてカナダ側に大量に流れ込んでいる」。カナダの文化を守り「カナダ人としてのアイデンティティを確保するためにも、メディアに対する危機的な問題意識が自然の流れとして芽生えるようになった」。「87年には世界ではじめてオンタリオ州の中学・高校教育の正規カリキュラムにメディア・リテラシーが導入され」「『中学・高校の国語科の少なくとも三分の一の時間はメディア・スタディーズに使う』など具体的なガイドラインが示された」

 具体的には、次のような実践になる。立命館大の授業で、「『松本サリン事件』の誤報に対するテレビ局の検証番組を題材として取り上げ、『メディアと人権』をテーマに学生たちに分析・討論を行わせたところ、反省と信頼の回復のためにつくられたはずの検証番組が実は誤報の根本的な原因究明を試みていなかったのではないか、などとする活発な意見交換が見られたという。テキストを細かに分析していくことで、制作者側の意図や視点、あるいは見る側の視点が客観的に整理され、疑問点が明確に浮かび上がってきたようだ」。しかし、国内の公教育の中で、こうした実践をすることが極めて困難であろうことも容易に想像がつく。前述のように、インターネットに接続することだけでも、全国に4万ある学校の大半は、人もカネも、多分、時間も足りないのだ。

 現実には、当面は事態に気付いた個人の力で立ち向かうしかない。インターネット利用者の激増と見合うように情報提供サーバーも増えて、マスメディアで流されてきた見方、切り口を絶対視しないで、相対化するために役立つデータが豊富に流されるようになった。例えば、大手の検索サイトには1日に300万件の検索依頼があり、自分向けの情報を引き出そうとする人の多さが分かる。私の連載もそうして成り立っている。

 しかし、誰にでも入手可能になりつつある半面、インターネットの情報は宝庫のようでいて、くずの山とも言われる。「現代を読み解く情報倫理学・求められる『情報』選別スキル」は「インターネットが双方向のコミュニケーション・ツールであるかぎりにおいて、そこを流れる情報のほとんどが『有用』ではないということのほうが、より本来の姿を示している」「たとえば、電話という現代を代表するメディアが運んでいる情報の大半は『どうでもいい』内容であるにちがいない」と見切る。そして「世界に存在するすべての情報の99%が現在における特定個人にとって『くず』であるのと同様なのだ。要は、新しいメディアの発生にともなって、いまの自分にとって必要な情報を獲得するためのちょっとしたスキルが別に必要になっているだけなのである」と説く。

◆メールマガジンの台頭

 その智恵はネットサーフィンをしているだけでは得られそうもない。各種のリンク集も手助けにはなるが、ホームページが数も増えて、個々も分厚くもなっている今、それだけ使えと言われれば、私だって疲れ果ててしまう。相当なトレーニングが必要で、手助けしてくれる先達も欲しい。そんな好条件がないとき、もっと簡便な智恵はないものか。98年に入って爆発的なブームになった、企業ベースでない「草の根メールマガジン」に、一部の人たちは手掛かりを見つけたのではないかと、私なりに観察している。

 先発の無料配信システム「まぐまぐ」を利用している人だけで約110万人いて、過半は今年になって増えた。6千種以上あるマガジンの延べ利用者数は660万に膨れ上がっている。「10月の発行部数ランキング」をながめると、動きの活発さが見て取れよう。トップを切って10万部を超えた「MSNニュース&ジャーナル」を個人マガジンと呼ぶのは不当だが、ハンドメイドの色彩は濃い。近い将来に透けて見える事態は、個人のマガジンでも数万部のミディメディアが林立することだ。そうした成長が可能である以上、マスメディアの切り口とは異なったものがあるはずで、メディア・リテラシーのツールとして期待し得る。

 後発の無料配信システム「Macky!」も含め、「まぐまぐリンク」には企業ベースのメールサービスも網羅されている。ホームページが既に無数と言えるほどに増えてしまったことに比べれば、まだしもながら、メールサービスも選択する個人にとって、どれが自分に必要か見通しが利かないほどに増えつつあり、補助システムが真剣に考えられねばなるまい。それでも、もっと多彩な、特徴のあるマガジンが出て欲しいと思う。まだ知の需給バランスを満たしているとは思えないし、そうしたマガジンを生むこと自体が、リテラシーの重要部分だから。