第69回「続・日本の自動車産業が開いた禁断」

 日本の自動車産業が、過酷な競争時代に導く「パンドラの箱」を開けてしまったと指摘した前回コラムは、多くの方の目から鱗を落としたようだ。私の手元に様々なメッセージが寄せられている。単なる感想を超えた、専門家からの発言もあり、個々に私の考えを返事として書くより、まとめてコラムにした方が読者全体の役に立ちそうだと気付いた。通常なら次回のテーマは別分野に飛んでしまうが、執筆の予定を変更して、寄せられたメールと対話する形で続編をお届けする。

◆強者連合は不敗か……リーン生産方式と創造性

 自動車業界の動きはますます急だ。私のコラムは、1年経っても切り口が古くならない先見性を売り物にしている。臓器移植にせよ、子供の暴力にせよ、1年前に書いたもので今を十分に解説している。末梢的な動きは気にしないことにしているが、トヨタとGM、この巨人同士が自動車の環境対策技術で全面的な提携に入るビッグニュースには触れなければなるまい。本命の燃料電池車はもちろん、つなぎ役のハイブリッド車も新たに開発し直すらしい。

 日米トップ同士が組めば勝敗の行方は明らか、と言えそうでいて、言えないのが自動車の世界である。四角いボディに4つの輪を付け、どこかにエンジンを配する。それだけのことなのに生まれてくる車の個性は歴然と違い、場合によっては高価であっても人の心を捉えて離さない。車というものの基本に立つと、巨人同士の組み合わせには、むしろ弱点が見える。

 都内のシンクタンクで自動車業界のアナリストをされている方は、こう寄せている。「『リーン生産システム』の私の理解は『モノの考え方』『全体のシステム体系』で無駄を除くことです」「『リーン生産システム=日本メーカーの専売特許』とは必ずしもいえず、日本のほんの数社が非常に典型的にうまく開発したものに過ぎないという分析もあります」「欧米が日本の工場の生産方式を取り入れて『カイゼン』を進めているのはある意味、『同じ土俵にのった』ものと解釈しています。ですので、この『開発・生産の生産性』の分野でどれほど今後もクリエイティブになりうるか、が、地球環境問題への対応と並んで、日本の課題と見ています」

 これが業界の多数意見なのだろう。基調講演「日本を創生するTQM--経営の視点から21世紀を展望する--」で、トヨタ自動車会長もこれまでのトヨタ経営の欠陥を認めている。「人材育成の面では、『効率性』が重要な要素とされ、定められた目標を効率的に達成するために、平均的に質が高く、組織との協調を優先するような人材が求められてきました」「教育の課題は、外から与えられた目標を達成するという点に重点が置かれまして、『じっくり考える』、あるいは『別のやり方を工夫する』あるいは『目標や課題そのものを自ら見つけ、設定し直す』というような創造力の養成に不可欠な要素は、十分には求められてこなかったといえます。また、私ども企業のサイドでも、あまり求めてこなかったのではないかと思います」

 しかし、その上で説かれている、TQCから発展したとされるTQM手法を読んでみると平板である。こうすれば創造性を発揮できそうだなとの道筋が見えてこない。こちらの心の琴線に触れてくるものが無いのだから仕方がない。次の世紀初頭は自動車の大転換期になり、「生産性」を問題にしないようなブレークスルーが出現する可能性がある。起業家スピリットこそ求められ、そのための創造性が必要な時期ではないか。失礼だが、GMも、米国内でみてもそれほどクリエイティブな企業ではないと考えている。ダイムラー・クライスラーの方が、何をするか分からない怖さがある。

◆ホンダは北米企業を目指す?

 トヨタ・GM提携と前後して、ホンダは新工場を北米に建設することを決断した。北米の生産能力は国内と並び、年間120万台規模に拡大する。ホンダは既に強力な研究・開発部門を北米に展開している。独立系メーカーとして大手に立ち向かうには積極的な攻勢しかない、とホンダは考えているというが、このニュースを聞いた私の印象は「ホンダは北米企業として生きる道を選択した」である。前回コラムの文脈を思い起こしてもらうと、直面している事態に対し、いかにも身軽なホンダらしい対処策、解決法に見えるのではあるまいか。これは私の勝手なレトリックではない。「北米産自動車輸出台数」は、既に1996年時点で、ホンダの輸出台数が10万台もあって、5万台前後のビッグスリーをはるかに上回っていることを示す。

 車メーカーのデザイン部にいらっしゃるデザイナーは、こう書いて来られた。「車はやはり趣味的魅力が不可欠で、皆様の喜びを満たせる(所有感)車の形が、どうしても主になりがちです」「ただ、いつも思うことは世の中に同じような車が多く、どのメーカーが作っても同じ形、同じ用途な車が多く、もっと淘汰されれば車の種類も減り労働量やゴミ(廃車)も減るだろうと残念に思います」「21世紀を迎える車社会にとって地球規模でいうなら、メーカーの淘汰されたことによる使う人々の意識変化を望みたいと願います」

 どの会社もトヨタのようなフルラインメーカーになろうとした、国内の在り方がおかしかった。たいした台数も売れない、小さなセグメントにまで競争が絶えない国内。その競争を乗り切るために日本的生産システムは磨かれ、結果としてグローバルな基準になろうとしている。生み出した側を裏切る事態になっても、技術は責められない。技術は一人歩きするモノだから。

 前々回「箸(はし)の国の野村ID野球」は、とんでもなく遠いテーマに見えて、実際には前回コラムを書く伏線になっている。同時に、前回コラムの厳しい結末を読んでいただく前に、この国の人々には、まだ何か生み出す力があるはずだ、との救いも込めておいた。もの作りがこれだけ好きな人たちだから、ここまで仕立ててしまった。もし、こんなに人がひしめき合って暮らす島国がなければ、もっと世界は平穏だったかもしれない。

◆人間を幸せにするだろうか

 「この続きがあるとすれば是非トフラーが第三の波で十数年前に警鐘を出していた(特に役所的利権をまもる様な組織は崩壊する)事象を米、仏の自動車企業は乗り越えて来ているし、日本のソニー、トヨタ等も しっかりした足取りで前進しています。世界のリーダー達はゴヴィーの提唱する相互依存を視野に入れながら末端の労働者にもやる気をださせるような企業方針を打ち出していると考えます。この当たりに焦点を当てられて書いていただけたらと希望いたします」とのメールもいただいた。

 このご希望には既に半ば、お応えしたと思うが、重要な論点を追加しておきたい。車メーカーに限らず働いている労働者の存在は見えやすいが、日本的生産システムのグローバルな浸透で解雇されてしまった多数の人々が別に存在している。

 「企業の力と生活の質」で、ビル・トッテン氏は「米国企業のトップ500社の資産は1980年から1992年の間に1兆1,800億ドルから2兆6,800億ドルに増加する一方で、同時期、従業員数は1,590万人から1,150万人に減少している」と切り出し、企業の多国籍化・合理化を中心に論じるケビン・ダナハー氏のレビューを提供している。

 「その昔、ジェネラル・モーターズ(GM)社にとってよいことは米国にとってもよいことであるといわれた。しかしこの表現もグローバル化とダウンサイジングの時代にはむなしく聞こえる。GM社は1993年以来、7万人以上の従業員を解雇し、現在最も富裕な米国企業に位置づけられ、1995年の売上は1,680億ドルを越す。これは最低賃金で働く米国人1,900万人の年収の合計に等しい」

 GMのダウンサイジングとは、日本的生産システムの浸透にほかならない。

 「これまで、製造分野で失われた雇用が、サービス分野で創出されるといわれてきた。しかし、現実はそうではない。第一に、サービス分野の賃金は製造分野よりも低い。次に、サービス分野においても技術が労働者の代わりをする。何階層にも及ぶホワイトカラーのオフィス労働者はすべてが、最新のコンピュータ技術を使用する、少数の熟練労働者のチームに取って代わられている」「1983年から1993年の間に米国の17万9,000人の銀行の出納係はATMに取って代わられ、今後数年間にさらに多くの銀行員が技術にリプレースされるであろう」

 日本の銀行が何故弱いか、この部分だけからでも読みとれよう。ホワイトカラーの生産性を高める方向は、日本の立ち後れにもかかわらず、どんどん進んでいる。

 「米国政府は定義を変えることによって失業を隠している。常識的な失業の定義は、職を求めていても職に就くことができない者を指し、この定義に基づけば1994年の失業者数は1,590万人で、労働人口の12.5%であった。ところが、公式に発表された1994年の失業率は6.1%であった。こうなったのは、絶望して職探しを止めた600万人を失業者に含めず、またパートタイムで働いている約3,000万人を完全就業者として数えたためである」

 これも厳しい指摘である。結果として、米国内での貧富の差は拡大する一方である。各国固有の労働文化として温存されていたクッションが失われたとき、何が起きたか、また起きるのか。当面の敗者、日産は、4万5000人いる間接人員のうち、2000年度末までに5000人強削減すると発表した。勝者も敗者も、このありさまである。