学力低下問題への読者の声

 第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」には多数の読者の皆さんから意見を寄せていただいた。内容、質からみても全部を紹介するのが適当と考え、以下のような分類でひとつのファイルにまとめた。

◆20代の意見
◆30代の意見
◆団塊世代周辺
◆米国から見ると
◆現場の教師として
◆異論、別論あり
◆専門家の能力に疑問ほか

 関連した発言がある「高等教育フォーラム」にもリンクをはっている。このフォーラムは実名主義なので名前を明記しているが、読者の投書は微妙な問題がありそうなので、全て匿名扱いとし、場合によっては一部省略や伏せ字にした。

◆20代の意見

*Hさん

そもそもなぜ学校があるのでしょうか?
教育は広く全人格を形成させるものであるのはだれもが認めることだと思います。そしてそのなかで、学校教育(公教育)はどのような役割を果たしているのでしょうか。

近年の学校教育のキーワードは、「生きる力」と「ゆとり」です。そして、そこから生まれてきたものが、総合的な学習の時間です。教育にとってこれらは、とても価値のあるものであると考えます。

しかし、学校教育において、この考えはどうでしょう。
そもそも学校教育の目的は、次の世代をになうこどもたちに、今まで受け継いできた文化(技術や哲学など)を計画的に伝えていくものではないでしょうか。 今の学校教育はこのことをみうしなっているのではないでしょうか。

はっきりいって、今の学校に行く価値は皆無といっていいでしょう。
それゆえ、学校に行く目的を見失った子ども達は、なにをしていいかわからず、悩んでしうのではないのでしょうか。

どうして学校に行くのか、子ども達に聞いてください。たぶん学校本来の目的とはかけ離れた答えが帰ってくるでしょう。
いえ、子ども達だけではありません、大人達にもなぜ子どもを学校へいかせるのかを聞いてください。どのような答えが返ってくるのでしょうか。

「やまびこ学校」という本を呼んでください、子ども達はもっと勉強したい、生きていくためにいろいろなことを知りたいと、書いてあります。 教えていく、これが本来の学校の目的ではないでしょうか。

最後に、日本は科学技術で生きている国です。しかし、諸外国に比べて、理科の時間は半分しかありません。また、将来理科や数学に関係す職についたい子ども達は、20%しかいません。これでは20年 後の日本は、・・・どうなるのでしょうか。

            愛知教育大学 大学院 学生 



*Iさん

学力低下問題の最新層をえぐるを拝読させて頂きました。 本文を読ませて頂き私なりの感想を書いてみたいと思います。

学習の本来の目的は社会へ出る為の準備ではないでしょうか? また大学の役割はそもそも研究機関であり教育機関ではない筈です。 当然の事ながら日本国民全てが大学を卒業する必要は無いのです。

普通の労働生活を送る為の教育としては中学程度でも十分すぎる程だと思います。読書きが出来て簡単な計算が出来るならば十分に教育水準としては高いのです高学歴が就職活動において高く評価される から大学へ進学するといった状態が既に異常なのだと思います。

何の為活動するのか?
これが明確でないのならば一体どうしてその活動に一生懸命になれるのでしょうか? 無意味かもしれない事にどうして時間を割けるのでしょうか? 現在の子供たちは常識社会と親の奴隷と言っても過言ではないでしょう、本人が望んでも居ないのにどうしても覚えなければならない強制によって学習する以上単なる記憶の労働です、やる気がない者が 応用力をつけられる筈が有りません。 その結果、テストが頻繁に行われますが単なるふるい分けであり本来の目的である本人の学力の確認という目的が喪失してしまうのでテストの製作者の意図を探るような無意味な事すら起こりうるのです。

そんな学習が社会に必要であるか?
ある訳が有りません、想像力と表現力を駆使して人に物を売る商売や知恵を振り絞って物を作る作業に紋切り型の作業は必要がないからです。

そんなに英語が必要か? 必要ならば一生懸命に勉強すれば良い
高等数学が必要か? 必要だと思えば学習すれば良い
必要な事は選択肢を提示して彼らに選ばせる事であり強制的に一定水準に引上げる事ではないのだと思います。

大学の入試も個々の研究科目に必要な最低能力を試せば良いのであって入りたければどんどん入学させれば良い。そして選択科目を研究し成果を上げられるのならば良いのでしょうし、必要な能力を身に 付けられるのならばそれもまた良いでしょう。

学生の学力が低くて嘆く必要は無い、大学で研究も学習もしないのならば進級させなければ良いのだし卒業させなければ良いのです、卒業に拘らなくても必要な能力が身に付いたのならばそれで良いのだ し、そもそも目的も無いのに大学に入学するのが悪い。

学業としては学習を目的とする人が必要な知識と技術を身につけたかどうかが大切なのであって有名大学を卒業した権威なんぞは学業の本来の意味としては本末転倒という物です。

子供の内はしっかり道徳観念や社会常識等の日本人として必要な知識が必要なのであり自分が将来何になりたいのかしっかり考える時間を十分に確保してあげるのが必要な事であり成長したならば自分が なりたいものになる為に努力するのがもっとも自然な勉強だと思います。紋切り型に高等教育を行う時代が終わろうとしているのであり。低学年の内は”ゆとり”教育で大学では厳しい受験というのは関 係者の思惑はともかくとしてこれからの未来の過渡期としては理想的なのではないでしょうか?

東京都江東区在住
高校卒 29才
貿易会社社長


*Yさん(地方大学大学院生)

 最初に、私は工業高校から工業大学に進んだ、三流の中の三流と言えるほど偏差値の低い頭を持っている事をお断りしておきます。(30くらい?)

 今の学部生にティーチングアシスタントとして勉強を教える時や、学校のパソコン関連を扱う部署での後輩アルバイト生に何か教える時、本当にやる気がないなぁ、と感じますし、自分も考えたらそう だなぁ、と思います。そこで団藤さんのコラムを読んで私が感じた点をいくつか書かせていただきます。  長くなるといけないので短く自分の意見だけ書かせていただきます。

「欲求不満があって、初めて実行する」 一言で言えばこれだけです。

 まず、勉強する必要性を感じない、という点について。
「勉強した結果どうなるのか?」
 今までは、成績さえよければ振るい落とし式の試験を通って人生ラクラクコースでした。しかし、団塊の世代が残してくれた常識が通用しなくなってきたのは周知の事実。何が時代の進みと共に変わったかと言えば、製造業が行き着く所まで行ってしまったという事でしょうか。日本を支えてきたのは役所・土木屋や建築屋でもなく、製造業の大量生産による輸出での外貨獲得が主だったと自分は思っています。要は物が無い時代だったので、何でも作れば売れる、欲しいものを作れば良かった時代といいますか。

 それが終わって線路が切れてしまって、次に何するの?で「情報」に「価値」が「ある」んだよ、と決め付けて現在実行されているのがIT化ですか。言い方が悪いですが、生活必需品とは言えないのでこう言ってしまいました。ある意味で、です。究極の話で言えば「ご飯が食べられれば生きて行ける」ので、というレベルです。

 子供の頃に貧乏で物が買えなかった世代の方々の物に対する思い入れというのは凄いですね。自殺するほど会社につくして日本に物を蔓延。それでもかとお金を稼ぐ。稼ぐ為には昔の意味での良い会社、大きくて社会的に認知度のあるような所、そういう所に入れたら良い訳ですね。その欲求を満たす為には何がなんでも勉強勉強勉強。別に使い道がなくても勉強。なんだか分からないけどとにかく試験さえ通ればなぜか良い仕事が出来てしまう、逆に言えば、お金が無ければ何も買えない、何も出来ない。

 ところが日本は、それだけ外貨を稼いでしまった為に物質的には豊かになりすぎてしまっているので、物やお金に対する欲求というのは若い世代ほど鈍感になりつつあります。何故って、この物だらけの時代に生まれてしまえば、なんで拘束されてまで勉強や仕事をしないといけないのか、分からないんです。少なくとも僕の年齢(今26歳です)以下の人間には、物がないから働いて稼いで頑張るぞ、その為には勉強だ、という思考ルーチンがあまりありません。「あまり」というのは、上の世代に「勉強しないとダメになっちゃうよ」と言われているから「ほう、そうですか」と言うレベルのものです。戦争を体験した人の話を「ほう、大変ですな」と思う程度と同じで実感できない訳です。「最近の若者は価値観が違う」と言われるゆえんでしょうか。

 その上、働きすぎ世代の子供です。何が幸せでそんなに働くの?。これが僕らの世代には分かりません。上の世代から「なんでそんなに働こうとしないの?」と思われている事の逆です。上の世代の考え方と言うのは、「信頼」とか「責任」とかそんな言葉ばかり。

 僕らの世代から見た親の世代と言うのは、信頼や責任というのは家族には振り向けられず、会社にむけてのみ発せられている訳です。つまり、家庭を守る為に…ではなくて、会社を守る為。言いかえれば「生きる為に働いている」のではなく「働く為に生きている」としか見えない訳で、そこには「家庭」に対する「責任」は存在しない家庭が多い訳です。(最近、それが増えてきて子供を放るのが当たり前になってきていて麻痺してるから子供が壊れちゃってるんでしょうね。壊れてるというのは親の世代から見ると、ですが。僕らからみると当たり前じゃん、こんな生活環境にされたら、って感じです。手を掛けずとも体は育ちますが、心は育ちません。)

 簡単に言うと、日本で今までのやり方で生きていく(勉強して出世して金持ちになる)という事が、僕ら以下の世代には「幸せ」とは「程遠い」世界に見える訳です。その視点の中には、食料輸入大国でお金が無くなったら日本は飢えるなんて考えは現実性も乏しく、それより親に愛情を注がれなかった代わりにもらったお金でじゃんじゃん遊ぼう、ですね。ある意味のストレス発散です。もちろん、そんな事は気にする事無く(気づかず?)ガムシャラに働きお金を稼いで遊ぶ、貯めると言う人も居ます。

「で、勉強するって意味があるの?」いや、勉強するしないの違いを考える事もなく「お金もそこそこあるし遊ぼう」。

 散々尽くして捨てられてる、サラリーマンのリストラなどを身近に感じ、皆「今を幸せに」が大切だと言います。リストラされた方々には申し訳ないですが「そんなに会社漬けになってるからだよ」という僕らの世代の冷たい一言が、親の世代には分からないんでしょうね。「社会を疑う」という考えが、団塊の世代の比ではなく僕らの世代には(自然と)浸透しています。

 私の友達は、会社の雰囲気に馴染む事を「洗脳される」と表現しています。タダ働き(サービス残業)や、無茶で無意味な要求に耐える精神を自己が完成する前に「社会の常識なんだから我慢しなさい」と叩き込まれ、それに幸せを感じてしまう事をそう言っています。

 お金を稼ぐ事だけが目的の人々のお陰で、食べ物も物欲も満足できる時代になり、あとは精神やゆとり(時間)と言うものを欲求としているのに、アメリカ式の常識のお陰でまだ勉強して働き尽くめで死んでいくのか?そう言っている友人もいます。

 僕自身、以前に会社に勤めた事があり(某メーカー)、夜中まで働き尽くめ、30過ぎても結婚もせず(というか世間ズレしてしまって出来なくなっていく)童貞のオジサン達大勢を見て「この人たち、何が幸せなんだろう」とつくづく感じました。ちょっと理系やってて踏み外すと、世俗から離れ本能的な部分が台無しになるんだ…と。本能を満たされない人生なんてどこが幸せなんでしょうかねぇ、今でも分かりません。お金一筋なのかな?。
例え結婚しても、子供が愛情不足になり可哀相ですが。

 話がそれました。
 結局、勉強した結果の「幸せ」が見えてこない。
 今、勉強できると言う人たちは「自分で信念を持って勉強している」という人と「何だか分からないが、言われるがまま、純粋に勉強してきてしまって出来てしまう」という人だけですね。あとは勉強そこそこ、お洒落と遊びに走ってます。大人の世代の方々の見方はどうなのか分かりませんが、勉強しようという欲求は、少々の事では沸いてきません。

 もう一つ、学力低下について。
「システムが出来上がりすぎている」
 受験産業の台頭と共に、効率的に覚える事だけ覚え込ませるシステムが出来上がりました。そこには「自発的に」という感覚がなくても来ている人もいます(というか大半そうでしょうが)。

 この「自発的に」というのも、生まれた時から「自分で何かする」という感覚が脳に焼き付いて、初めて色々な事(勉強に限らず遊びも)が出来る様になるものだと私自身は思っています。

 しかし、少し前の学校や予備校、熟などは「教え込む」中心で、メニューも画一的、勉強やれなければダメ人間扱い(ダメと言われなくても構造的にそうなっている)なので、取り敢えずみんなやってきたのが僕らの世代です。(他人との違いを恐れる日本人の特質?)それ以前は知りません。生まれてないので何とも。

 今は「個性化」というか、他人と違う事に関して特別に非難されない時代というか、放っておかれると言うか、干渉しない時代なので、自分より下の世代の雰囲気を見ていると「面白く教えてくれないならやらなーい」「格好良い人、美人じゃなきゃやりがいがなーい」的雰囲気が蔓延しています。更に、自分からやっている訳ではないので、10教えると7とか3しか覚えられない、でも覚えてなくてもみんな覚えてないので平気、という状態でしょうか。

 団藤さんは大学でコンピュータを触っていた時、面白そうで自分から触って行ったように思いませんか。今から比べれば貧弱で、操作性も悪く、とても業務に使えるシロモノではなかった不便なモノだが、自分で使えるように何とかプログラムを組んだり、ハードを作ったりして、と、今のパソコンでは味わえない時を過ごしたかと勝手に想像しています。違っていたらゴメンナサイ。

 そして、私はその最終世代です。自分達でDOSを設定したり、パソコンを組み上げたり、Windowsなんて訳の分からないものをインストールしないと「動かせなかった」最後の世代という事です。

 一つ下の世代から、ノートパソコンを入学時に購入しなければならなくなりました。当然、プリインストールモデル。壊れてもすぐに直してもらえるか、復旧ディスクですぐに修復可能な世代です。

 学校側の意図する所「これでみんな、ワードやエクセルを使えて情報に強い学生に!」だったはずなのですが、逆に弱くなってしまっています。インストールやプログラムの苦労を知らない学生は、授業でワードを教えてもらっても忘れていきます。4年生にもなって、フォルダの作り方が分からない学生がいて困ったよ、と言うのは隣の研究室の友人の弁。プリンタの共有を掛けた日には「うぉぉ!すげぇぇ!」と驚きの声を上げる有り様。全然中身を触ってないんですね。

 対して僕らの世代。まだAT互換機パーツショップが地方に無かった時、鼻歌を歌いながら秋葉原まで遠征、AT機を触った事もないのに突然部品を買い「こんなネジ山も切ってないケースにどうやってマザー入れるんだよ」などと言いながらドライバーとケースの歪み修正用ハンマー片手に、マニュアルもなく適当に組み上げ、OSを入れ、モデムを買ったら電話回線で共有実験。「すげぇなぁ、Windows」などと言っていた世代。当然、ワードやエクセルなどと言うもののマニュアル類は読んだ事も無い訳ですが、それでも今の学生より機能を色々と知っていたり、何気に使えてしまう訳です。(ちなみにパーティション分けしている学生など殆どいない)

 勉強も同じで、予め線路が引かれてしまっているとそれに安心してしまうこと、そして疑問を持たない事によって、自発的にはやらないんだろうなぁ、という感じはします。自発的どころか強制労働ですから。

 今まではその「強制労働」に疑問を持つ事がなかった、というか、大人の世代が言う事を完全に信じきっていたのでしょうが、今は違いますのでそれは通用しません。

 例えば三角関数。sin・cosなんか出来て当たり前だろう、という先生が、応用例を教えずに解き方を教えてくれても、僕も高校時代はチンプンカンプンで「これ丸暗記するの?」という感じでした。

 これが例えば、コンピュータを触っている人に「sin,cosで疑似3次元表示するプログラム組め」だったらどうでしょう。現実的には時間がなくて無理でしょうが、丸暗記よりは覚えるでしょうし、応用も利くでしょう。中にはキレてる人がZバッファリングまでして何か凄いものを作ってきたりして、みんなで切磋琢磨する事になるかも知れません。(でも、やるのとやらされるのでは気分が違うので、そう言われるとやらないかな…)

 実務的な事というか「丸暗記して終わりじゃないんだ」という応用先がある面白さというか、そういう物がなければ自分なりの表現というのができず、結果として鬱憤が溜まるだけで終わってしまうんじゃないかと思いますが。

 しかし現状は、その逆の路線、いかに「効率」よく「多く」の事を「知って」いるかという、そちらに力が入って居るようにしか見えません。
いや、社会がそっちの方が美味しく出来ているのでそうなんでしょうけど。応用を利かせられる製造業なんかより、公務員の方が時間給で言えば良いなんて世の中では、無理もないですね。それで歪みが日本人の独創性のなさ(実際は出してないだけでしょうけど、評価されないから)が、とか言われている気もします。日本は理系の評価低いですからね。

 数式一つとってこれだけ言えますが、結果的に良くなるのか悪くなるのか別として、アメリカ式に野放しにして、気が付いたら自分はその方面のエキスパートになっていた型もありなんでしょうか。これが日本に馴染むのか分かりませんが、格差は凄いでしょうね。総員沈没よりはマシかと思いますけど。未だに量産型人間製造するつもりなんでしょうけどね、文部省は。

 まぁどのみち、教育改革というのが教科内容の改定・削減とか筋違いな方向にしか向かっていない(現場なんて見えてないんでしょうが)ことから、持ち直すにしても当分先というか、今の教育体系で受けている世代は将来にわたって悲惨なんだろうな、とちょっと思ったりしています。

 指導者世代の(国内だけの)横並び意識と均質の価値観がなくなって、色々な方策が試され、選択肢が増えない事には解決しないのかも知れません。(どうしてあんなに考え方が似ているのか…育ってきた環境の情報量の差でしょうか。みんなでズレれば怖くない、の団塊以上の量産世代は。)

 なんだか長く書いてしまいました。もし最後まで読んで頂けたら嬉しいです。
 それでは、来年のメルマガ楽しみにお待ちしております。良いお年を。



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◆30代の意見

*Fさん

「学力低下問題の最深層をえぐる」を読んで・・・。私の意見を・・・。

私は91年に大学を卒業しました。大学では、まじめに勉強した記憶がありません。体育会のクラブ活動に専念し、親には「お前は、スポーツクラブに4年間通っただけ」、と言われてます。

私がなぜ、勉強しなかったのか?今、冷静に考えてみると、こんな答えになりました。”勉強しても得しないから”

当時はバブル絶頂の頃で、学校の成績が悪いからといって就職に困るようなことはありませんでした。学校の成績が良いからといって、入社時の給料は変わりません。

勉強が好きな人は別として、得にならないことを一生懸命やるでしょうか?(世の中全て、損得で考えられない部分もありあますが)
学生が入試科目にない教科を勉強しないのも無理もありません。

では、どうしたら勉強するのか?
”勉強すれば得をする”環境になれば良いと思います。

例えば、一流大学を、トップの成績で卒業するれば、他人より10倍の年収で会社が雇ってくれる!となれば、必死で勉強するのでは?

(私の勝手な想像ですが、アメリカの大学生がよく勉強するのは、こういった理由からではないでしょうか?みんな勉強が大好きとは思えません)
日本でもたまに新聞で、このような話を聞きますが、基本的には入社時の給料はみな同じ。ボーナスで差をつけたとしても、数万円程度。(優秀な学生は将来社長候補だ!などと言われても、今の時代数年後には会社がどうなっているか・・・)

学生(大学)も市場からもっと選別されるようになり、会社側も給与体系が変われば、おのずと勉強する学生が増えるかもしれません。



*Oさん(東京都)

記事の内容は非常に面白かったと思います。 特に、学力低下の事実評価の部分は迫力がありました。 非常に感覚にあう、納得感のある結果だとおもいます。

ただ、結論がよくわからなかった感じです。というか、せっかく迫力ある資料をだしながら、結論に活かしきっていない印象があります。

理由はたぶん、個別具体問題の指摘に終始していて、「ゆとり教育」の中身、結局何が変わっていて、上記調査結果と照らし合わせるとどこに問題があるのかの指摘が足りない為だと思います。

といいつつ、私も教育の専門家ではないこともあって、「ゆとり教育」の内容をいまいち理解していません。(そもそも、文部省、および教育委員会、および学校は、この変更内容を親に周知したのでしょうか?)

私は昭和61年(1986)に大学を受験した、受験生ピーク近くの世代なのですが、感じたのは、過程の内容の高度さ、詰め込み具合に問題があるのではなく、単に、競争率が高すぎることに問題があるのでは、ということです。

簡単にいえば、「もっと間口広げて入れて、卒業までに厳しく選別すりゃ、いいじゃん」ということです。俗にいう、アメリカの大学型、と申しましょうか。

もっといえば、大学のセンセたちが「高校生の学力なんとかしてくれ」というのも問題を感じます。そんなに困った学生が入ってくるのなら、卒業させなきゃいいんです。実際に実行に移すのは難しいの でしょうが、考え方はシンプルだと思いますが。

勉強が大変だから過程を楽にする、能力が落ちたから過程を厳しくする、この考え方の根本には、やっぱり「全員、なんとかしましょう」という悪平等(という言い方が適切かしりませんが)を感じます。大学いってまで勉強したいやつは、そうさせる仕組み、したくない人は、無理強いしなくてもすむ仕組み(ドイツのようなそこで完全に進路を規定するようなのもある意味参考になるかもしれません)をそろそろ考えていくことが必要なのではないでしょうか。

たぶん、今のままだと、平均点ないしはそこよりちょっとよいポジションにいる子供が一番苦労しそうな気がします。


*Oさん

学力低下の問題を単に教育制度や受験制度の問題ではなく、もっと深層に原因があるという著者の考え方には賛成である。しかし、問題を学力低下のみに限定している点と、更にその原因を団塊の世代にのみに押し付けている点については疑問をもつ。

私自身は昭和40年生まれで団塊の世代ではないが、問題は団塊の世代だけではなく、日本の社会システムそのものではないかと考える。もちろん現代の社会を築き上げた中心世代が、団塊の世代であることは疑いないが、かと言って他の世代が免罪されるわけではあるまい。

さらに私が学力低下の問題だけではないといったのは、現在の学生を見るに、生命力そのものが低下しているように思えるからである。思い起こせば、私自身が大学生であった15年程前からその兆候はあったように思う。我々は、新人類、指示まち世代、シラケ世代と言われたはしりである。

しかし、その原因も理解できるような気がする。私は現在の学生を見ていると、本当に可哀想だと思う。「君達に夢はあるのか。」と問いたくなる。これだけがんじがらめに閉塞した社会の中で、与えられた物質と情報を消費することだけが唯一つの生命力の発散の場であるならば、学習する意欲も生きる意欲も低下するだろう。まだ、私が学生だった時のほうが、社会において開拓できる余地が残されていたように思う。社会が硬直化すれば、退廃的になるのは、歴史をみれば明かである。

また最近一時期、IT革命でベンチャービジネスがもてはやされかけたが、結局は巨大組織による独占に落ち着きそうである。そういったことも現在の若者は直観的にわかっているのであろう。

もちろん現在でも、卓越した才能を有する一部の若者が、自己実現のために努力をしていることは否定しない。しかしながら、多くの普通の若者は、この豊かではあるが、閉塞した社会において自分にいったい何ができるのかとまどい、あきらめているのだと思う。

以下宮崎駿氏の引用である。

「マニュアルだらけの時代である。ビジネスマンになるにも、つっぱりになるにも、マンガ家や将棋指しになるにも、マニュアルが用意されている。針路を決めたとたん、手引書に従ってコース通りに務めなければならない。
 それがいやさに、針路を決めずに時間をかせぐと、結局どの辺に収まるかというマニュアルも出来ちまっている。
 ぼくの前に道はない。自分は荒野に歩み出すのだと、一寸前の詩人は戦慄と気負いをこめて語った。自分達凡俗も、その言葉にそれなりの意気を感じた時代に比べて、今はなんと生きにくいのであろう。
 ぼくの前には広い舗装道路が、それも大渋滞した道路しかない。横丁に踏み込んでも、そこにはタウンマップにとっくに登録済みの看板と店だらけ。立ちどまれば後から押され、こずかれ、ズルズル進んでしまう。損のないよう決められた道を進むしかない、そう感じている若者がなんと多いのだろう。」

要するに真に生命の価値が試される場にいれば、学習意欲の低下、生命力の低下等と言ってられないのだと思う。ブロイラーであることを強要された若者達の学力低下を嘆いてもしかたがないのだ。それよりも、社会のしくみをもう少しゆるめて、若者達を解放してあげよう。それは決して「ゆとり教育」なるものではない。活躍の場を与えるということだ。

文部省は「ゆとり教育」を通じて、子供達の自発的な知的好奇心と学習意欲の発達を促そうとしている。しかしながら、それは、わゆる普通の人間の知的好奇心、学習意欲の過大評価ではないか。この過大評価の原因は、高学歴で知的好奇心に満ちた文部官僚が他者と自己を同一視しているためだと考える。私見ではあるが、残念ながら多くの人間の知的好奇心、学習意欲は自発的な動機だけでは、文部省が期待するレベルまでは達することはないであろう。

やはり学力の向上というのならば、自発的な動機だけではなく、「生きるため」という外圧的な部分が必要になってくると思うし、それはあってもいいと思う。「学力」とか「知」とかを「生活」から切り離された何か高尚なものと捉えることこそおかしくないか。著者の複利計算の出来ない銀行員の話があったが、それは、複利計算が出来ることが、銀行において、全く評価されない所に原因がある。更に言えば、そういったことは全く評価されずに、マニュアル通りに従っていれば何とかなってしまうシステムを作り上げてしまったところが問題である。

今まで日本的なシステムの欠点をあげつらってきたが、そのすべてを否定しているわけではない。日本的なシステムが、争いを避け、エゴよりは和を重んじ、相手の気持を思いやるという日本人のメンタリティを基調に形成されていることは理解している。そして私はその日本人のメンタリティが好きである。しかし一度組織を形成しまえば、そのメンタリティが、諸刃の剣のごとく、全く別の組織の意思として動き出すことには注意しなければならない。上司のため、同僚のため、部下のためと思う気持ちが、益々、組織の意思を強固にしているのだ。

意思を持った組織は、排他的となり、保身と増殖を自己目的化してしまう。そのためにいっそう、多くのルールや制約を作ることになる。前例踏襲という話があったが、その前例が、益々増えていっているのだ。そうして組織はがんじがらめになり、全く身動きが取れなくなってしまう。現在日本では、こうして肥大化した組織ががちがちに絡み合っている状態ではないか。

早晩、この肥大化しすぎたシステムは立ち行かなくなるであろう。それは、システム自体が自らの硬直性により瓦解してしまうのか、外圧により変化を強制されるのか、それとも日本人自らの意思で、適正なシステムに作り直すことができるのか、それはわからない。しかし願わくば、自らの力で未来を切り開けるぐらいに、日本人は賢明であると信じたい。


*Eさん

12/13MSNの記事、拝見しました。 団藤さんのおっしゃる通りだと思います。

 そこで、疑問に思うのが、特に国公立大学が、どうして入試科目や入試のやり方をコロコロ変えてきたのだろう、ということです。私は、共通一次世代です。当時、国公立の入試は5教科7科目あり、理数系が大の苦手で東京志向も強かった私は、今はなき両親のおかげで最初から私立文系一本に絞らせてもらえました。そして、その後も私は漠然と国公立は5教科7科目だと思っていたのです。ところが、なんというか、場当たり的に入試の仕方を変えているようではありませんか。もしかして共通一次も、場当たり策の一環だったんでしょうか。特別優秀でなかった私は、東大、京大クラス以外の国公立に行くのは、平均的な優等生だと思っていました。

 事実、はずれものである私には、国公立に進んだ同級生に、友達はいません。体制実務型の秀才養成所、現代の国公立大学を私はそう認識していたのです。それじゃいけない、個性ある人間を育てようということで、入試方式を変えているのでしょうが(それにはもちろん文部省の方針も関係しているでしょうが)、腐り切ったわが国の行政サイドが創った大学に、現状をブレイクスルーする人間なんて育つはずないと思うのですが、このあたりのことについて、お応えいただけると幸いです。


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◆団塊世代周辺

*Mさん

学力低下問題の最深層をえぐるを拝読しました。

わたしも新学習指導要領の内容が非常にお粗末なので、とても心配している次第です。それで、国民会議や教育課程審議会等へ意見を具申してまいりました。

わたしは57才の電気主任技術者でございます。私たちからすこし下の団塊の世代までの公教育はやはり世界一でなかったかと、今になってわたしは思い当たり、感謝している次第です。私たちの内容を1と仮定したとき、今回の改定で、50%にまで低下しました。中には、英語の単語が1/5になったとか、とても目が当てられないほどの削減がなされています。私たちの当時の内容を1割か2割削減する程度ならば、大きな影響はないでしょう。しかし、現在でも、技術の伝承がおぼつかなくなっているのです。それが3割削減ではあきれ果てました。

他にもいろいろ意見がありますので、添付ファイルでお送りいたします。
「教科書を厚くしてはどうですか」
「絶対評価に反対」
「奉仕の義務化に反対」
「生徒の評価のあり方」



「教育軽量化を主張した方々は今?」
    水沢 博(国立医薬品食品衛生研究所)
http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/forum/message/2053.html          ………「高等教育フォーラム」投稿から


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◆米国から見ると

*Yさん

こんにちは。コラムを興味深く読ませていただきました。
僕は現在、役所からの派遣でアメリカの大学院で学んでいるものです。

 この夏からこちらに来ているのですが、僕も新学習指導要領の問題にはとても危機感を持っていました。小学校で小数を教えない、と聞いてびっくりしました。パイは約3だよ、と教えるらしいのですが、こんなことをしては、知的好奇心もかきたてられないのではないでしょうか。全体のレベルを下げて、みんなが80点、みんなが100点を取れるようにすることに意味があるとは思えません。

 職場の同僚の話では、ゆとり・個性重視のためには、全体の平均を下げるしかない、と、文部省の幹部が言っていたそうです。100歩譲って、多様化のためには全体の平均を下げるのがいいとしても、上のレベルの人たちを引き上げる仕組み作りを同時にやらないと、ただ全体にレベルが下がって終わるのではないでしょうか。できる人ができない人に合わせさせられてしまうのです。これでは、将来の日本は暗いでしょう。

留学の際に、日本人は英語が得意ではないけど、数学がアメリカ人よりできるから数学が第二外国語のようなものだ、(選考で求められるGREやGMATに出る)数学ができるから英語ができない分を補える、という話があります。

でもそれも近い将来に、崩れてしまうのでしょうか。

 僕は、日本でも、ロースクール、ビジネススクールといったプロフェッショナルスクールをもっと作りたくさんの人がそういうところで学ぶようにすることを提案します。

 上のレベルの人を引き上げる仕組みであり、一流と呼ばれる大学に入れなくてもそこに入り、卒業すれば社会から一定の評価を受けられるということで、再挑戦可能な社会にもつながると思います。

 プロフェッショナルスクールは金儲けの技術を学ぶところであり、学問をするところではない、という友人もいますが、そのプロフェッショナルスクールであるうちの大学(院)では、一年目に徹底的に経済学と統計学を学ばせます。宿題も毎回の授業で出ます。それだけ、実際の仕事において、これらの基本が必要だということだと思います。

 僕は昭和45年生まれで、第2次ベビーブーマーの直前の年代ですが、思い返してみると、僕が中学、高校、大学のころは、勉強をすることイコールかっこ悪いこと、勉強をしないことがかっこいいことという風潮が強くあり、勉強をしている奴も、してない振りして影で猛勉強するという一種、ひねくれた感じがありました。がんばる、なんてかっこ悪い。てきとうに、気楽にやっているのがかっこいい、なんていう感じでした。

 思うに、詰め込みがいけない、ゆとりが大切、といったマスコミや国の姿勢が、子供心に、勉強を懸命にやることいけないことといった気持ちを無意識のレベルで刷り込んでいったように思います。

 一方で、家では子供時代から、母親から、勉強をしているのだから、家の手伝いをそんなにしなくていいよ、という扱いを受けました。部活や勉強が大変だろうから、家の手伝いをしなくていい、といわれたのですが、どうも、手伝いをしてはいけないような風になんとなくとらえていました。なにか、一人前じゃないような気がして面白くなかったのを覚えています。いまの子供達もそんな感じを持っているのではないでしょうか。

 家族というコミュニティの一員なのだから、そこでの仕事を分担するのは、一人の人間として当然だと思います。家庭レベルでそういうことをすることが、国際社会で日本の分担すべき責任を分担する、という国際感覚を育てることにもつながると思うのですが・・・。

 多分、勉強して、いい大学へいったら幸せになれる、あるいはそのあといい会社に入ったら幸せになれる、というそれまでの世代の両親の思いが何か違う、間違っていると思っている人たちが両親になり、一生懸命勉強することの大切さがなんとなく否定されているのかもしれません。

 国を挙げて、勤勉はいいことだ、頑張ること、頑張って勉強することはいいことだ、という風潮をつくりだすのは、実はこの時代に必要なことに思えます。

 とにかく、自分としては、いろいろ興味ある内容、帰ってからの仕事に直結する内容を学んでいるところですが、日本の大学で勉強不足だったので、こちらでは頑張って勉強したいと思っています。
             アメリカ在住 匿名希望

P.S.
あと、個人的には英語で苦労していて、10年以上も英語を勉強しているのにどういうことか!と嘆いていますが、国際社会で活躍する人材を輩出するためにも、英語教育についてももっともっと引き上げる必要があると考えています。具体的には、会話のスピードに近いスピードでコミュニケーションをとる能力が必要だと思います。文法も、知識があっても実践ではなかなか活用できませんでした。

 中・高で、学校で英語を話すことがいいことだ、という風潮を作れないかな、と思います。英語で話すと、特に流暢に話すとかっこつけやがってとか、むかつく、とかでいじめの対象にもなりかねません。大学で、ネイティブの先生による、英語による授業を必修または選択必修にすることが必要だと思います。「英語で」学ぶことは「英語を」学ぶ近道のような気がします。日本について、もっと世界の国々に理解してもらうためにも、自分の考えなどを英語で発信できる人材を育成することが急務であると考えます。



*Kさん

新指導要領の是非よりも、それに伴う新しい学力の定義やその是非についてもっと議論がなされるべきだと思います。

私はアメリカの大学で統計学を「統計学を専門としない人」に教育することにかかわっています。そんななかで、従来ならば「統計学を自分で使うことにはとうていならないだろうと」いう人達にも、より高度な統計学の「考え方」「使い方」を教える傾向に変わってきているのを感じます。これは「手計算」を省き、複雑な計算はコンピュータに任せてしまうことによって可能になったといっても過言ではありません。

従来は答えを出すための「手計算」のメカニズムを習得するのが第一の目標で、それが評価の基準でしたが、今ではそれは全く変わっています。答えをどう解釈するか、答えが果たしてデータと比べて意味が通るか、というような検証ができることが評価の基準です。

同じようなことが小・中学校や高校でもいつかは起こるべきであると、私は考えています。小数点3桁の手計算(筆算)がうまくできなくても、超複雑な微分方程式が解けなくても、それらを実際の問題解決に応用できる考え方を養う方向に向かうべきだと思います。そして、今までの学力の基準というものも変えていかなくてはいけないと思います。

筆者の意見にも幾分かは同感しますが、議論の盲点は、「学力」をどう定義するかということだと思います。数年前に、文部省が「新学力観」というコンセプトを打ち出しました。例えば算数なんかでは、正確な計算が機械的にできることはもうそれほど重要ではない、というような趣旨でした。新学習指導要領の布石であったような印象を私は受けましたが、今では新指導要領だけがクローズアップされているような気がします。

アメリカ・フロリダ州在住


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◆現場の教師として

*Zさん

「学力低下問題の最深層をえぐる」を拝読させていただきました。的確な分析だと思います。

私は☆歳の高校英語教師です。(中略)小さな工業高校で英語を教えております。

 子供の教育や躾は最後は親の責任。(高校生にもなれば本人の責任だと生徒たちに私は常々言っておりますが・・・)

 私は教員としてまだ2つの学校しか経験しておりません。初任で県内上位の進学校に☆年勤務した後に現在の工業高校に転任してきましたが、学力差の激しさには本当に驚きました。アルファベットをAからZまで書けない。書けないどころか読めない。言えない。教科書の日本語の部分を読んでも理解できない・・・

 低いのは学力だけでなく、健康面でも、かわいそうな言い方ですが、あきらかに劣っているのです。「劣っている」というより、「弱い」という表現のほうが適切かもしれません。さらに言えば、「我慢強さ」がない。ちょっとした、単なる「疲れ」を、「具合が悪い」と思い込んでしまう。また、「テスト前だろ。37度くらいの熱だったら我慢して学校に来なさい」という考え方は彼らには通用しないのです。この「我慢強さ」。これをつけてやるのは、やっぱり親の責任です。

 私が現在勤務している学校は、中学校で下位30%以下の生徒が多いという位置付けにあります。ここの生徒の家庭は、経済的に貧しい家庭が多く、また、(不適切な表現かも知れませんが)片親も非常に多い。さらに、総じて親の教育程度が低い、という背景があります。やはり、教育の低さと貧しさは延々と続くサイクルなのだと思わないではいられません。

文部省の学習指導要領について

 前任の進学校で大きな変化を感じたことがあります。現在の3年生が入学してきた時でした。「なんだか変だ。幼すぎる。」という印象を多くの教員が感じていたはずです。小学1年から現在の学習指導要領で育てられた生徒たちでした。「ゆとり教育」に次いで、「個性重視・多面的な評価」を題目にした「甘やかし」の教育を受けてきた生徒たちです。

 「勉強がすこしぐらい不得意でも、できるだけその子の長所をみつけて、ほめてあげましょう」。この教育観自体は良いものでしょう。しかし、このお題目が「いくら欠席しても、まったく勉強しなくても進級して卒業できる学校」を作り出しているのは事実です。

 自治体の教育委員会は校長の業績を評価しますが、その評価基準の中にいくつかの数字があり、☆☆県においては、中途退学者数、処分者数(懲罰停学などの)、留年者数などがあります。現行の学習指導要領は、自分の評価を落としたくない校長にとって、これらの良くない数字を押さえるための格好の道具となっていることも見逃せない事実です。例えば、学校の内規では絶対に単位取得も進級もできない生徒が職員会議での校長の鶴の一声で進級決定などということは日常茶飯事となっています。こういったことが横行すると、学校全体に「勉強なんかしなくたって卒業できる」という雰囲気が蔓延します。ひどいことにそれは生徒の間だけでなく、教員の中にもそう考える者もいるのです。(まあ、これは個々の教師の良識の問題だと思いますが・・・)

 明らかに、文部省の教育行政は失敗を重ねています。失政の責任を認めることなしに、次々とあたらしい施策を打ち出しては現場に強要してきますが、過去に行ったものの分析検討の以来は我々現場の教員にはきたことはまったくありません。あるとすれば、文部省→自治体の教委→校長 までなのです。これじゃあダメですよね。

文部省の初等中等教育における政策指針--学習指導要領の欠陥は子供に対してだけでなく、学校というシステム、ひいては教師の理性や良識にまで悪影響を及ぼすものなのです。

 最近大流行の「17歳」はまさに、現行学習指導要領の申し子たちなのであります。



*Mさん

学力低下の問題に関するレポートを興味深く読ませていただきました。

多数の資料ともリンクされており、大変ためになりました。
先日、長野県の木曽地方で、長野県算数数学教育研究会が開催され、そのなかで、元教科調査官の清水静海先生が講演されました。その御講演の中で、「2002年からの教育改革が実行されるかどうか微妙なところにあります。」「先生方には、現行の教科書をとっておいてもらうようにお願いしています。」と仰っておられました。

実際のところ、教育改革は実行されるのでしょうか。 経済界からの反発もかなりあるように伺っています。 このあたりをまた報告していただけると、現場の先生方に一層身近で役に立つ情報になるのではないかと思います。

がんばってください。期待しています。


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◆異論、別論あり

*Hさん

第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」 を(高等教育フォーラムで知り)読ませていただきました。

いろいろと考えさせられた指摘でした。全体としては正しいと同感いたしますが、団塊の世代の生き方の批判のみでは論証が弱いと思います。心証であり、あるいはせいぜい社会学的相関であるかと思います。もう少し具体的な教育政策の変化や事件、社会現象との関連性の指摘がほしいと思いました。

私見としては、次のようなキーワードを考えています。

高校全入: この運動の目的自体は私も評価しますが、全入即全卒 となり、課程内容を修得しないものをそのまま修了とみなし、卒業生として出し続けたことのマイナスの影響があらわになってきたのだ、と考えます。もちろん、その原因としては、ご指摘の甘えがあった(父兄の圧力等)等により落第がほとんどない、ことだと思います。なお、私の知る限り、多くの国で、中等教育での落第は日本のように異端視されていない、と思います。

教科書公費負担:  これも上と同じくそれ自体が問題なのではありません。教科書公費負担自体はすばらしいことであったかと思います。しかし、他国に比べ、うすい教科書の問題点(検定のせいもありますが、網羅的だが突っ込んだ記述がない、教科書を読んだだけでは学習、理解することは困難、そのためさらに勉強したい生徒にとって自習に適さない、等々)を指摘する意見を読むにつけ、これは教科書公費負担の副作用ではないかと考えるようになりました。

過剰なジャーナリズム: 耳にさわるかとおもいますが、「受験戦争」はジャーナリズムが騒ぐことにより過大視されたのではないかと思います。昔も入試の困難さはあり、いや今以上であったかと思いますが、ジャーナリズムであおられることにより、当事者に危機意識をうえつけ、また被害者意識をもたせた、と考えられます。それが「甘え」の遠因となったのではないでしょうか。

また、古いですが、「でもしか先生」などという言葉が、先生への尊敬を失わせ(親の態度は子供に反映します。たとえ、何気ない一言でも)、やがて学級崩壊への道となった要素もある、と思います。もちろん、親の態度の要因としては、親の高学歴化もありますが。

もちろん、教師の能力問題は大きいですが、御指摘の通り、親の生き様が巨大な蔭をおとすというべきでしょう。 <<親がどうして生きているのか、委細、詳細を知らなくても、子どもは本能的なところで知ると主張したい。学力低下問題の最深層にある「根」とは、親たち、あなたの生き様なのだ。>> というご指摘どおりです。

 高級官僚、政府高官の汚職、公私混同、買春疑惑等がこんなにあるようでは、こんな政府が道徳を説いても効果があるわけがありません。子供は裏を読んでいます。今の教育問題もまた社会の鏡なのだ、というべきでしょう。



*Yさん

 筆者の主張に半分同意する

 同意できるのは団塊の世代が伝統や既存文化を否定するだけして新たな規範を全く示さなかったことが現在のさまざまな問題につながっているという点。これは教育問題に限らぬ多くの問題の元凶である。

 同意できないのは、筆者自身問題を批判するだけしてなんら対策なり、自ら規範を示すなり、問題解決の糸口を与えようとすらしていない点。これは団塊の世代の典型的な問題行動ではないか。

 さて私自身の考えを示せば、たとえば複利計算ができない、分数の計算ができない、という人がいるのは大きな問題ではないと思う。コンピュータというものが事実上の社会インフラになった今、人間に求められる役割というのは計算自体ではない。ビジネスにおいて人間は(コンピュータを含む)機械に何をやらせるかを考え、そしてやりかたを機械に教えるという2つの役割が主になる。そこで求められる知的能力とは想像力、構想力、論理的叙述力、読解力などであり、やみくもに数式や元素記号を知っている必要はない。

 では今後求められる知的能力はどうやって養っていくべきなのだろうか。

 ソフトウェア開発というのはまさに、人間知性の総合能力を要する作業である。単純なプログラムにおいてなら要する能力は限定的だが、ビジネスの潜在的ニーズを読み取り、それを適えるシステムを作るなどはまさにもてる知的能力をを総動員しなければ十分なものができない。長年そういった開発の管理指導を行ってきて不思議だったのは、人間にはそれができるタイプとできないタイプがいるということだ。

 できるタイプはたとえ経験がなくても短期間で開発作業の勘所をつかみ、質の高い作業を行える。

 できないタイプは長年経験をつんでもプログラムは低品質でバグが多く、ビジネス上のニーズを把握することも、それに対応するシステムをどう実現するかも全くアイデアがもてない。

 特に不思議なのは、両者を分かつのにその人の生まれも育ちも全く関係していないようなのだ。性別、出身、年齢、学歴、経験、興味の対象、いずれも余り関係ない。文系卒でコンピュータを毛嫌いし家電製品も満足に扱えない30代女性がやらせてみるとスラスラとプログラムがかけると思えば、理系在籍コンピュータ大好きの10代男子がいくら教えても論理的矛盾を抱えたプログラムを作りつづける。

 それが最近、両者を分かつ強力な要因らしきものが見つかった。それは本を読むか読まないかだ。読書量の多い人はシステムを作れる、少ない人は作れない。もちろん例外はあり、読書量がシステム開発能力を決定する必要十分条件ではないのだが、今のところ唯一見つかっている要因なのだ。

 考えてみれば、プログラミングとはコンピュータ言語を使った作文である。そして本を多く読む人は概して作文能力(特に論理的叙述能力)も高いが、読まない人は概して低い。そしてビジネス上のニーズなどをシステムによって適えるというのは、文字を使って何を表現したいか考えるという作業に似ている。これについても多くの本を読む人は概して考え方、考える力において読まない人より高い能力をもつ。

 加えて言えば、たとえば複利計算を行うシステムを開発する場合、それがどういう論理によってなされるものかきちんと解説された本があり、きちんとした読解力があれば開発はできる。事前に覚えておけることには限りがある以上、より求められるのは沢山知っていることではなく、必要が生じたときに説明を読んで理解できることだ。

 以上のことから、基本的に「ゆとり教育」は悪くないと私は考える。やたらに多くのことを覚えさせるより、範囲を絞ってしっかり理解させること、理解する能力を養うことが重要。範囲を絞って丸暗記させるなら無意味だが。80年代以前のフルライン受験への逆戻りは逆効果ではないか。

 そしてなにより重要なことは、本を読む楽しさ、意義を子供の頃から知らしめることではないか。そのうえでは本の種類は二の次。読みずらい名作よりは読みやすいミステリーのほうが良い。まず、大量の活字を摂取し、活字から何らかの感慨を得られるようにすることが肝要。

 次いで、本に書いてあることから何かを深く考え、それをまとめて表現する訓練も必要。そのうえで重要なのは歴史教育ではないか。年号丸暗記の教科書は捨て、司馬遼太郎や宮城谷昌光などをみなで読んでディスカッションするのが良いと思う。

 以上のような講習を、既存教科を圧縮して生じた時間でもつならば「ゆとり教育」はきわめて効率的なものに思える。

 教育の問題はどのくらいの量を覚えるかどうかにあるのではなく、理解力や表現力など知的能力そのものをどれだけ高められるかにある。私の案がその観点においても十全なものとは思わないが、議論する上でこの点は忘れるべきでない。


*Kさん

興味深く記事を拝見させて頂きました。非常に参考になる良い記事だと思いましたが、一点だけ意見を述べさせて頂きます。

現在の学校教育の現場における学力低下を憂慮されているようですが、銀行員が複利の計算が出来ないことやJRの運賃表が間違っているということと現在の学校教育での学力低下をどう関連づけたら良いのでしょうか?つまりこれらの問題というのは現在ではなくはるか昔に高等教育を受けた方々が起こしたものと思われます。例えば、支店長というのは20年ほど前に大学を卒業したものと推測できますが、その支店長が今複利計算が出来ないということは20年前にすでに学力低下の問題が存在していたのではないかということです。

たまたま現在同じような現象が学校と職場で起きていることを無理に現在の学校での学力低下につなげられているような気がします。この辺の分析があいまいだと思います。

追伸:16年後に年収が1.585倍になるには、年率何%の年収増加が必要か?という問題の答えは2.92%だと思います。現代風に答えるのであれば小数点を捨てて3ということになるのでしょうか?


「Re: 学力低下問題の最深層をえぐる:マスコミ人の責任」
       井口和基(Freelancing Physicist)
http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/forum/message/2056.html          ………「高等教育フォーラム」投稿から


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◆専門家の能力に疑問ほか

*Hさん

『学力低下問題の最深層をえぐる』に対する投稿

私は勤務先の会社の倒産などにより、いわゆる多重債務の状態に陥ったことがあります。金融業者の多くは法定利息の上限を超えた金利を設定していたので、私の債務の多くは過払い状態にあると思われ、弁護士に相談して整理することにしました。

しかし驚いたことに、私が相談した弁護士は、債務額の確定の計算を自力で出来なかったのです。債務額の確定は債務残高、月々の返済額、返済額のうちの過払い額、などを過去に遡って複利で計算します。確かに複雑ではありますが、高校程度の数学で十分対応可能なものです。結局私はエクセルを使って自分で債務の計算をし、弁護士に渡しました。

この弁護士は私が飛び込みで事務所を訪れ相談したのではありません。東京弁護士会の「クレサラ問題」(クレジット、サラ金問題)の相談窓口で、クレサラの「専門家」として紹介された弁護士です。

最終的には問題を解決できましたが、この弁護士は通常はどのように相手側(金融業者)と交渉しているのでしょうか。この程度の能力では、相手側の提出した資料の検証すら出来ません。日本の「文系 専門家」の能力とは、この程度のものなのでしょうか。



「Re: 2052」 萩原慎一(なし)
http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/forum/message/2054.html          ………「高等教育フォーラム」投稿から


*Oさん

何時も、お世話になっています。 教育、社会関連の記事について興味を持って、読ませて頂いております。

最近、yahooの、掲示板でいろいろな意見を読み、「個人主義」、が否定されている論調を多く目にします。多くは、とても、幼稚な印象をもつのですが、でも一方で、確信犯的に、「民主主義」の限界を指摘し、社会を変えねばならない、というかなり、本気で、真剣な「熱意」?も感じます。

わがままな個人を許すな、という論調は、教育に関する考え方にも勢いを増してきているようで、「個性」、「個人」を尊重する、という、まだまだ、理想ではあるけれども一応、正しい(と私は思っています)方向にも、微妙に影響を与えるのではないか、と心配しています。

何より、こんなことで、民主主義は大丈夫なのか?と、気になります。
団藤さんの、記事にもあった、「行き過ぎた個人主義」という考え方が、その根底にあるのだと思いますが…。


*Cさん

大学でも 出席するだけで 卒業できるんですか
(大学を知らない私の 素朴な疑問です。悲しい話ですが 私の周りに そうとしか思えない人たちがいます)

一定の学力レベルがなければ 卒業させない ことを 考えるべきです
(人脈を作るだけが 学校の存在価値とは 思えないのですが)
入学が最大の難関 に見えるのは おかしなシステムです


覚えないのは 教えかたが悪い とは 考えていないようですね
企業であれば 稼ぐための教育を 必死にします
そんな姿勢が 学校(制度)に あるんでしょうか
覚えないから 水準を下げましょう・・・・  手抜きされてる と思いませんか 卒業させないことを 留年させることを  もっと考えるべきではないでしょうか

教育には もう少し時間を(金も)かけては どうでしょうか


*Rさん

The ratio of circumference is 3 ?? That's wrong! What on earth is the problem of memorising 3.14?

100 English words? Can you ever speak with only 100 words?

I think every human is capable of learning Quantum Phyics at primary school.

...From Albert Einstein in the heaven


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