ニュースを読み、コメントを付ける。コメントがなく、項目羅列のケースでも1日に複数回更新で客を呼んでいる。ニュースサイトを個人で切り盛りするには労力が要る。なぜ、ニュースサイト、日記サイトを運営するのか。
運営当事者が自ら評論している「破竹と死守と」を見つけた。「考察 インターネット時代の情報」の第五回「台頭する個人ニュースサイト(その2)」 はこう主張する。
「我々は長いこと、受動的な情報手段しかもたなかった。人は物事を知ると本質的に他人の教えたくなる性癖を持っている。つまりそれが個人発信の波だと前回で述べた」
「『情報を処理する』とは事の真意を確かめ適切な意見・考察を述べることだ。処理されていない情報は独り歩きするものだし、勝手な推測を生んでしまう。ちなみに、このマスコミがこの作業を怠りすぎたから、個人ニュースサイトの促進を生んだという向きが出来なくもない」
「インターネットによって多様に処理された情報を数的にかなり選ぶことが出来るようになった。考えに同調したり、個々で議論が出来る。マスメディアなんぞの得体の知れぬ集合体が相手じゃない。『なるほど、こういう考えもあったのか』と知ることで閲覧者の知的水準は上がる。受動的になっていて麻痺していた本来持って生まれた情報処理の技術が成長していくはずである」
筆者HN.乾さんは無秩序なネットの世界だからこそ、情報を見分ける能力も鍛えられると考えている。それだけの気負いを持って運営しているところが多数ならば、面白いと申し上げたい。
研究者から「日本ウェブログ学会」設立が提唱されている。呼びかける静岡大の赤尾晃一さんは講義資料「ハイパージャーナリズムとしてのウェブログ」を公開していて、「ジャーナリズムの語源」で「Journalistは新聞(雑誌)記者と同時に,日記をつける人の意味」と記している。
「ウェブログの利用・満足」で指摘される「膨大なリソースへのインデックス 」「ジャーナリズムには存在しない情報への期待 」「面白い/笑えるテキスト(娯楽性) 」「他人の生活の“のぞき見”」「納得/共感できる等身大の生活感覚あふれるテキスト(あるある性)」は、現在のメディア報道から抜け落ちている部分である。
確かに新聞が日々に届けているデータがいかに多かろうと、一般読者がインターネットを知った以上、はるかに膨大な情報の存在が認識されてしまった。マスメディアを万能ではなく限定的な存在として、検証対象に置こうとする「大衆」が現れて当然である。
社会学の立場からは、一種の予言が数年前に書かれていた。ソキウス「社会学の作法・初級編【改訂版】」(1999年)で、パソコンがワープロや表計算のための孤立した機械である時代が終わり、コミュニケーションの道具として欠かせなくなった状況をもとに、野村一夫さんはこう述べている。
「大学などでおこなわれている『情報リテラシー教育』の目標とすべきことは、ネットワーク・コミュニケーションの能動的な主体となるチャンスの提供であり、市民として公共の場で発言できるコミュニケーション能力を開花させることであろう」「しかし、情けないことだが」「ほんの数年でスクラップ化するような技術の修得が中心になってしまっている。これでは、交通規則をまったく知らないドライバーを大学が量産しているようなものである」
大学でパソコンを使ってきたはずの、メディアの若手記者でも、この指摘に該当する例は多い。パソコンを使いこなすとはどういうことかと、野村さんは問い、主張する。
「送り手になる経験は社会学的見地から見ても重要である。というのも、こうした作業は、やや大仰ないい方が許されるならば、ジャーナリズムの系統発生的な歴史を自分たちの経験として個体発生させることになるからだ」「ひとりひとりがメディアをもつことによって、いうべきことがいわれないままになることを防止する。これは健全な市民社会の基本的条件だ」 (了)
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