ノーベル賞・土壌外に落ちた種たち(20021024)

 今年のノーベル賞国内受賞者二人は対極的な存在だ。小柴昌俊・東大名誉教授の物理学賞は退屈なニュースだったが、田中耕一・島津製作所エンジニアの化学賞は確かに衝撃的だった。記者会見でも予想範囲内発言の前者と違って、後者は何を言い出すか、発言そのものが新鮮に映った。受賞決定を知らせるホームページの作り方も、会見のブロードバンド長尺ムービーまである東大と、並べる素材に窮しているのが明らかな島津製作所とでは……。

 しばらく途絶えていた科学関係のノーベル賞に過去3年で4人が選ばれた。その中で田中さんと2000年の白川英樹・筑波大名誉教授の二人は、福井謙一さんの受賞以来、ノーベル賞対策に随分な準備、労力を費やすようになった科学ジャーナリズムの裏をかいた。この「土壌外に落ちた種たち」について考えてみたい。

 島津製作所のページから田中氏の「略歴」を見よう。1983年に東北大工学部卒で島津製作所入社、中央研究所に配属、86年5月に計測事業本部第二科学計測事業部技術部第一技術課に転じる。87年に宝塚市で開いた日中連合質量分析討論会での研究発表が今回の受賞対象なのだから、入社3、4年目の仕事だ。大学院も出ていない。その若さでチームリーダーとして働かせた島津に、京都の地に科学技術を根付かせた老舗企業ではあるが、京セラ、村田製作所など京都ベンチャー企業群と共通するベンチャー魂を感じる。

 田中さんの発明の中身は、高質量のタンパク質分子をレーザー照射と特殊な方法で単体分離させたこと。レーザー脱離イオン化法と言葉は難しいが、一度、浮かばせられれば飛行時間を測るなどの方法で質量を短時間で割り出せる。現在ではタンパク質のデータベースは整備されているので、質量で何かが分かる。1年も2年もかかって分析し、突き止めていた時代からは途方もない進歩だし、研究用に限らず、がん診断治療など臨床医療での応用にも見通しがついた。

 読売新聞の「ノーベル賞・田中さん発案の装置、商品化や販売で壁も」が当時の状況を伝えている。社内での発表会では反応は冷ややかだったものの「中堅幹部の『今までなかった装置。何か用途があるはずだ』との言葉が製品化に道筋を付け、翌年、1号機が世に出た」。しかし、数千万円もする機械。売れない。「論文を評価した米国の研究機関から引き合いがあった。1台売れただけだが、このおかげで研究は生き延びた」という。

 討論会の発表後に反応があったのも海外に限られた。直接、訪問してきた研究者もいれば、討論会の英文要旨集にヒントを得て改良を進めた人もいた。島津は、この件で特許申請は国内にとどめ、国際特許にはしなかった。

 特許で縛らなかったことが逆に質量分析機器の進歩を早めて、今回の受賞につながったとの論調も見られる。しかし、それは違うと思う。当時、斬新とされた阪大細胞工学センターでの仕事を見ていた私には、国内にもっと広いサイエンスの土壌があれば、全く新しい分析手法に巨大な可能性を見つけられたに違いないと思える。ヒトゲノムの解読が終わった今、遺伝子から組み上げる動きと高分子のタンパク質から降りていく動きは激しく交錯している。当時の細胞工学センター周辺での取材でも予感は十分にあった。(次項へ)


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