80年代、ジャパン・アズ・ナンバーワンの雰囲気と、もうひとつの要因が可能にした錯誤ではなかったか。都市部では子どもの中核部分は私学に去る状況にあり、90年には東大入学者で私学が公立を上回ったことに象徴されるように、成績上位グループは実質的に文部省の管轄から離れた。失敗したら国家的に取り返しがつかなくならないか――その恐れ、歯止めはなくなっていた。むしろ学力面でも校内活動面でも中核を失った公立校対策が急がれたのだろう。
しかし、「生きる力」導入は逆効果を生んでいると思う。動かない国、日本社会の中で「どう生きても同じさ」と感じている「新しい子どもたち」に、新学力観による、門外漢には禅問答のようで訳が分からない、あいまいな評価手法の導入は、こう生きればよいとクリアに教えるどころか、ますます「世の中、こんなものさ」と思わせたに違いない。
江森一郎・金沢大教育学部教授の「冷戦後の日本の教育と若者のゆくえ」に、その一端が現れている。
「文部省主導の90年代全般の政策は、それ自体の意図は了解されるが、この頃の政策はその結果に対する予知能力に欠けており、結果的に学校教育をさらに虚偽化した」「観点別評価を導入(93年から)し、積極性や協調性などの客観的に評価できないものを教師が内申書で評価するようにした。また、92年の生涯学習審議会がボランティア活動を生涯学習とし、国の規制緩和策でもボランティア活動の単位化を提言する雰囲気のなかで、入試の際の評価の対象として内申書でこれを評価する傾向を生じさせ、結果的に教師の生徒に対する心の管理を更に進行させた。さらに教師・生徒関係をさらに陰湿化・複雑化し、敏感な生徒は内申書の評価を良くしてもらいたい願望と、そういう含意を含んだボランティア活動ヘの参加への後ろめたさに悩んだ」
東大教養学部の松田良一・助教授が高等教育フォーラムの「居眠り、必修科目化、検定外教科書、その他」で「今年の教養学部1年生は必修科目の授業中に平気で教室の出入りをする。客観的データはないが、授業中のおしゃべりも例年より多い気がする。レポートの宿題を課すと声を上げて文句を言う。原因は自分の『講義力低下』かと頭をかかえる。でも、同僚もそう感じているらしい」「これが『講義力低下』が進んだ私の邪推なのか、それとも全国的に起きている現象か。後者だとしたら大変だ」と書かれた。
こうした現象は高校を含めて、既に各地で観察されていたものだ。「勝ち組」牙城のはずの東大にも、とうとう来た――私の印象である。学習指導要領改定による「ゆとり教育」や「甘やかし評価」がその表層を修飾しているだろうし、大学にさえ入れば、後はだれもきちんと評価が出来ない日本社会のシステムに内面の深いところが毒されているのだ。 (了)
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