【国に続き個人も生き方モデルを見失った】

 「岐阜を考える」98年秋号「座談会・少子化から見た21世紀の展望」に、問題の当事者である20代を考えるポイントが表現されている。

 江原由美子・東京都立大学人文学部助教授 「今の20代の子どもたちの父親というのは40代、50代ですが、大学生はその父親や母親の行動を非常によく見ています」「ものの見事に性別分業役割家族を実践している父親、母親が多いのです。男女平等の理念で育った人たちがそうなんですよ。父親も母親も男と女には役割があると思っている。言葉としての男女平等ではなく、現実にやってることが問題なんです」

 大江守之・慶應義塾大学総合政策学部教授 「でも、母親に面倒をみてもらってる男子学生は自分の父親をみていいとは思っていないのでしょう」

 江原「そう、思っていない。母親にしてもらうことについてはあまり考えていないけれども、父親のような企業に埋没する生き方はしたくないとは思っている」

 大江「そのことと家庭内での役割分業の話は結びついていかないのですか」

 江原「全く結びつかない。しかし、仕事だけという生き方を強いられることには恐怖感が強い。共働きをすれば家計的には非常にいいとわかっている。それがなぜか家事分担の問題となると、家事を分担するのは面倒としか思えなくなる。男子にとっては女の人が家事全部やってくれて、共働きするのが一番いいと思っているのです」

 椋野美智子・日本社会事業大学教授 「もし、女の子が納得しているのなら、男の子にとって最高でしょうね」

 江原「そうでしょう。ただ、女子にとっても男の人が家事も育児も半分手伝ってくれ、働かなくて済むというのがいい。5、6割の女の人はそれがベストだと思っている。全部やれとはいわないが、せめて私と同程度に家事や育児をし、働いてない時は家事、育児を手伝ってほしい。それで、給料は持ってきてくれて、私は働かなくても、当然その給料を全部もらう。それがいいと思っている」

 父親も母親も自分の生き方のモデルにしたくない。では新しい生き方を生むのか。男女の間で、ちっとも甘さのない、辛いところの方が多い議論をし、互いに汗を流して、新しい夫婦・家庭像を創造するのか――とても、そんな気はない。若いわがままのぶつかり合いと言えばほほえましいが、「生き方モデルを見失ったのだ」と冷静に指弾すれば、いささか寒気がしてくる事態だと思う。

 この事態は、人と人との間の関係を取り結ぶ力が、若い世代で衰退してきたのだ、とも捉えられる。

 精神分析家として知られる野田正彰氏の講演「少年犯罪と教育―エピソードを持って生きよう」はコミュニケーションの場を避ける生き様を痛切に描いている。

 「欧米でも『一人っ子的二人っ子』は日本より早く到来しましたが、日本とは対処が違いました。欧米では、子どもたちどうしの社会をつくることを進めた」「日本では、細切れのスキルを付けさせようとしました。この結果、自閉型の遊びが増えました。ゲームウオッチ、テレビゲームがそれです」

 「その結果か、感情表現が乏しくなりました」「奇妙なことに、『心が傷つく』という不可思議な言葉が当り前に多用されるようになりました」

 「傷つかなければ人間でないように思い始め、さらに『心が傷つく』と、『心』を実体化させるようになりました。『心』は実体ではなく、人と人との関係の中で生まれるものにもかかわらず、『心』を実体化させることによって、ただ耐えるだけになってしまった」

 「『心が傷つく』という、こうした言い方で済ませず、『嫌なことを言われた』と返せば、コミュニケート可能な状況が育まれたはずなのですが、そうしない、そうできないから、耐えに耐えて『切れる』」

 「ここに、私たちの文化が行き詰まっている一面が見えます」

 賢明な読者はもう気づかれたと思う。前の座談会で指摘された、男女ともの冗談のような身勝手な結婚観は、男女一人の「心」で勝手に育くんだものに過ぎない。それが絶対であって「妥協は嫌だな」と思って過ごす限りは、あの「新しい荒れ」が問題になった学校時代の精神年齢から一歩も出ていないのである。

 夫婦である限りは少なくも二人の関係、共同の関係を作り出さねばならない。その構築は、政府の「少子化対策プラスワン」がいかに男女共同参画社会のスタイルだけ説こうとも補いきれるものではない。(了)

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