では、文部科学省はベストを尽くしてきたのか。新しい第三者評価の仕組みが「科学研究費補助金の審査方式に準じて」とあるのを見ただけで、現実を少し知っている人には答えが出せる。科研費審査のいい加減さ、恣意性が日本における科学技術の発展をどれほど阻んできたことか。科研費審査を米国並のレベルに高めるだけで、大学改革は大きな一歩を踏み出せる。それを怠ってきた文部科学省が、遅れている責任を大学だけに押しつけるのは失笑を買う怠慢である。

 どうしたらよいのか。「ポスドク1万人計画と科学技術立国」などでの検討を踏まえて、私なら2項目の処方箋を書く。

 1.助手や助教授に対する教授の人事権を廃止、教官選考は公開、公募制とし、選考委が学部にどういう専門分野の人材が必要かを検討して選ぶ。

 2.その大学の出身者は学外機関での勤務経験を経ていなければ給与を70%しか与えない。この規定は現職の全教官に対しても5年後から適用する。

 澱んでいる学閥人事を一掃し、若手教官を縛る制約から解き放とう。早期に何らかの成果を得たいなら、多くを期待すべきは彼らしかない。教官を選考するたびに、大学内部で学部の進む方向まで含めて真剣な検討があれば、しかも選考対象に情実が加わりやすい学内持ち上がり者は給与制限で参加していないのだから、社会の要請と大筋でかけ離れるはずがない。

 さらに、給与70%では現職に居座ることは不可能だから5年のうちには大半の教官が、どこか別の大学で選考委審査の洗礼を浴びる。積もり積もった悪弊はこうでもしなければ除去できまい。科研費審査は仕組み自体を変える必要があるが、審査する人間自身が経験を欠いている点が実は致命的なのだ。狭い研究分野に閉じこもりがちな教官に一回り広い学問分野全体のことを考える機会を持たせ、公開で公平な審査を数多く経験させることにしか、本質的な改善に導く方法はないと考える。大学の自治とは本来はこうした営みだろう。

 もう一度言いたい。国立大学はこうして変わるのだ、と大学人自ら立案しアピールせず「学問の自由」を唱え続けて、社会を説得できる可能性は零である。ひょっとして若い教官たちは思っていても、後が怖くて言い出せないのかも知れない。老成した教授陣はそんな目に遭うくらいなら独立行政法人にして、文部科学官僚につつかれながら自らの貝殻に籠もる方が良いと考えるかも知れない。果たして、それで大学は「知」を追求する人たちの集まりなのだろうか。大学改革をめぐる在京メディアの知的レベルも確かにひどいが、今の大学人に笑う資格があるとは思わない。(了)

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