評価を他人任せにするのは自殺行為
本質的なところを置き去りにした改革である点を指摘した「大学と小泉改革:担い手不在の不幸」を1年前に書いて以来、改革について大学からの意思表示が世間に現れることが少ないと感じ、出来るだけ大学人が登場するシンポジウムなどに出ている。
先日も同じ阪大の工学系に2001年に出来た、阪大フロンティア研究機構の第3回シンポを聞いた。こちらは企業化まで考えられそうな科学技術の色々な「種」を持っていて、大学改革を積極的に利用したい人たちが集まった。シンポには「社会と大学は連携から『融合』へ」とのタイトルが付く。最も印象的だったのは、法人化法案などについて「我々が思っていたほどの自由が与えられるのではない」との声だ。お仕着せの改革は、改革に積極的な大学人の思いにも合わない。
各種シンポなどで共通して聞かれたのは、大学での研究なり教育なりについて評価システムが出来ていないとの指摘と嘆きである。評価不在は私も書いてきたことなのだが、この期に及んでなお「誰かが正しい評価をしてくれる」と大学人が思っているのには呆(あき)れている。
長い時間を経て形成された格付け機関のような存在が無い以上、大学人全体で適切な評価を共有して、大きく外れないようにするしか採るべき道はないと考える。具体的に言えば、現在のように理系も文系も蛸壺にこもって自分の専門にしか関心がない状態を脱し、各自が目が届く範囲で二まわりも三まわりも遠くの人まで、どんな仕事をしていて、どんな意味があるのか知り、口に出来るようになることだ。
そんなこと、時間の無駄だ――とんでもない。そういうことが当たり前に出来てこそ自分の研究テーマがどうあるべきか、対自的に捉え直せ、意義を鮮明にすることが出来る。そういう大学人が多数になれば、研究の質的平均値も随分上がるに違いない。
改革の中で任期制導入が押し進められている。その任期制を入れた京都大再生医科学研究所で2月下旬、再任を拒否された井上一知教授が京都地裁に地位保全を求め仮処分申請する騒ぎが起きた。外部評価委員会は「全委員が一致して再任を可」としたのに、内部の協議員会で再任が否決されたのは不当としている。
現在の制度では再任しない理由を本人に明らかにする必要はなく、救済する機関も置かれていない。井上教授は日本再生医療学会の立ち上げに参画し、初代会長も務めた人だから業績に乏しいとは考えにくい。ケースは少し違って、教授の横暴による助教授以下への理不尽ならあちこちで聞かれる。自律的な評価が根付かねば、今後、騒ぎはどんどん拡大しよう。
また、私の会社が出している「☆☆賞」の選考で経験したように、かなり有名な研究でも近い分野の研究者から「よく知りません」との答えが続出するなら、新たに学外から経営に加わる人物が切れ者であるほど「どれもこれも切り捨て可能」と考えて当然である。
国立大学法人法をめぐる在京メディアの理解も、予想されたこととは言え、あまりに文部科学省べったりだった。読売新聞による社説[国立大法人化]「自主運営は結果への責任を伴う」が好例である。文部科学省が語っていない部分で何が起きるのか、現場を知らず、考える素材すら持たないとしか思えない。
場当たりの法人化で先進国に例がない有名大学純血主義は守られ、現在の学閥はますます固定され、特定大学の特定部門だけが肥大化し、力のない地方大学は急速に寂れよう。評価の名に値しない独善的判断で右往左往が起きるのは、目に見えている。
残念なのは、反対している大学人が今に至ってもなお、実質的には改革の必要など無いとの姿勢を変えず、大学の現状に苛立っている社会から遊離している点だ。不勉強なメディアの責任は否定しないが、文部科学省とは別軸の、メディアが納得して依拠できる「改革」を提起しなかった罪も極めて大きい。(了)
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