【独走商品の現場・京都】

〜新聞とパソコン通信で語る25社の市場開拓型商品開発〜



 《目次》
§0  はじめに
§1  カード型pH計……………堀場製作所
§2  静電気防止繊維……………日本蚕毛染色
§3  37形テレビ………………三菱電機京都
§4  カラー写真直接製版機……大日本スクリーン製造
§5  遠赤外線警報機……………竹中グループ
§6  無補水バッテリー…………日本電池
§7  CD包装機…………………京都製作所
§8  一粒タイプまんじゅう……タカラブネ
§9  硬質レジン歯………………松風
§10 ゲームボーイ………………任天堂
§11 高吸水性樹脂………………三洋化成工業
§12 組み合わせ式計量機………石田衡器製作所
§13 形状記憶ブラジャー………ワコール
§14 完熟用トマト………………タキイ種苗
§15 マイクロ波フィルター……村田製作所
§16 電動フォークリフト………日本輸送機
§17 遺伝子工学試薬……………宝酒造
§18 ファクシミリ………………村田機械
§19 ビデオテープ………………日立マクセル京都
§20 指式血圧計…………………オムロン
§21 インテリア布地……………川島織物
§22 磁気ディスクモーター……日本電産
§23 X線テレビ…………………島津製作所
§24 地域ビール…………………キリンビール京都
§25 電力用太陽電池……………京セラ
§26 京都企業論(工場なしの地場産業・その曲がり角)



 《はじめに》

 京都にユニークな企業群が存在することは広く知られている。高い技術水準を武器に伸び、全く新機軸の製品を生み出して従来存在しなかった需要と市場そのものを作り出す「市場開拓型」が多い。日本の企業は他社の売れ筋商品によく似た商品を開発しては利益を上げがちで、知的所有権の面で世界中から厳しい批判にさらされている。それと際立って違った営みが、ベンチャー色の強い企業群によって、京都盆地から一部は琵琶湖東岸にかけての狭い地域に集中して展開されてきた。自動車、電気製品を始め民生品技術を中心に米国を上回り始めた日本製造業の技術水準が、物まねに終始して生まれ得たはずがなく、こうした、規模は比較的小さくとも、独創的な企業の輩出に基盤を置いているはずである。京都はそうした企業を、いくつかの理由で全国平均よりも多く生み出したと思われる。その実態はどうなっているのか、朝日新聞大阪本社の科学部で科学技術の領域を主な取材対象にしていたわたしにとって数年来の関心事だった。

 たまたま一九八九年春から九〇年秋にかけて京都支局員となり、京都経済記者クラブに在籍、市場開拓型企業群の中で二十五社を選んで商品開発の現場を取材する機会に恵まれた。この世に存在しない商品を生み出す技術者の苦闘と、開発を企画し技術者を触発する経営陣との葛藤などを、朝日新聞第二京都版に大型ルポ「うちのヒット商品」(二十五回)として連載した。これはそれをもとにした、技術とビジネスのサクセス・ストーリーである。

 現代の経済社会動向にテクノロジーが与える影響は大きい。わたしは「われわれの社会は何をつくり出し、それゆえにどこへ行くのか」との問題意識で、現代社会の原動力のひとつ、技術の動向を追っている。科学部が通常の取材対象にしている大学や研究機関ではつかめないものを求めて、生の開発現場と接する機会に、日本の技術の今日から明日の姿をほのかにでも見通そうと試みた。そうした意味からも純粋の地場企業だけでなく、京都に独自の開発拠点を置く全国規模の大企業も対象に含めており、取り上げた商品群は大型家電のトレンドを決めた大画面テレビもあれば、形状記憶合金を使ったブラジャー、完熟物に青果市場を変えた桃太郎トマト、紙おむつの隠れた主役・高吸水性樹脂、個人ユースを開拓した低価格ファクシミリなど、驚くほど多彩である。

 ここには、もうひとつ実験的な試みが含まれている。連載二十五回分と関連記事に加えて、連載内容についてパソコン通信を通じた読者とのやり取りが追加されている。わたしは最近、一方的な情報の提供に終わりがちな新聞の役割を見直して、新聞紙面と読者の間で双方向性の交流をしたいと願っており、今回の企画でそれを試みた。大手の商業パソコン通信ネット「ニフティー・サーブ」に月額五百円で借りられる自分用の小さな会議室を構え、ネット内にある「ビジネスマン・フォーラム」などの皆さんの協力も得て、呼び掛けに応じた全国の読者百数十人に連載記事を提供し、質問や感想を受け、追加説明をすることになった。

 技術の話、経済や経営についてから、ときには日米摩擦、商品がかかわる生活や趣味の話題まで、この交流のおかげで普通なら記事にし切れないエピソードを数多く盛り込め、わたしなりの視点も入っている。商品開発から見た技術史、経済・産業史、あるいは高度成長期以降の生活史の一面も描く膨らみがもてた。なお、パソコン通信の原文をそのまま使うと冗長になるので、読者からの発言は少数を選択して要約、追加説明とともに各回の後半に「パソコン通信でのコメント」としてまとめた。新聞記事が「である・だ調」なのに、パソコン通信は「です・ます調」が普通で、文体の統一を欠くことになったが、パソコン通信のアットホームな雰囲気を感じていただこうと、敢えてそのままとした。

 時には企業秘密に触れる部分にまでも、快く取材に応じていただいた二十五社の皆さんとともに、パソコン通信を通じて励まし、取材へのインスピレーションをかき立てていただいた方々にも改めて心から感謝したい。

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 微量でも、固形物でも測れるカード型pH計/堀場製作所

《《うちのヒット商品》》第1回・1989.10.20

 米・ピッツバーグで毎年、世界最大の分析理化学機器フェアが開かれる。酸・アルカリ度を測るpH(ペーハー)計の国内トップメーカー堀場製作所から一九八六年三月、デザインセンターの河内英司課長(40)が、そこに初めて派遣された。米国メーカーが出品した百ドルのペン型を見た。「うちには数倍も高い製品しかない」。瞬間にトップの自信がぐらついた。

 リトマス紙で測る酸性、アルカリ性は目安程度にしかならない。pH7の中性からpH値が減れば酸性、増えればアルカリ性で、細かな測定は化学技術の大切な基礎だ。pH計の中で精度が高いガラス電極式は戦後、同社の堀場雅夫会長(65)が国内で初めて開発、会社の礎にした。形の大小はあっても、ガラス棒電極を溶液に浸けて生じるわずかな電圧を測る方式は変わっていない。

 素肌の酸性度まで測れた

 帰国後、河内課長は会長に会って危機感を訴えた。そこで意外な話を聞かされた。開発本部がガラス棒を厚さ一ミリ以下の小さなガラス円板に変え、pH計の心臓部にあたるセンサー部分を安価な平面形にしたのだ。

 問題はどんな商品にするか。開発本部から当時の副本部長、小谷晴夫さん(53)=退職=と冨田勝彦課長(45)の開発担当者コンビが加わってプロジェクトチームが出来た。専門家向けの機器ばかり作っている同社では、売れる商品でも年間一千五百台。新pH計は値段の安さから、万の規模で売れると見積もられ、会社がこれまで経験しない商品になると予想された。

 しかし、営業サイドから「そんなに売れたら、高価な在来機種がたまらない」と悲鳴が返って来た。販売側が求める商品でないならデザイン優先で作ってみるしかない。世は挙げてカード商品時代だった。体温計型など五十種のデザインを検討した結果、ポケットに入るカード電卓型に決まった。

 九月、試作品が出来た。営業畑から選んだ二十歳代前半の女性五人に、一人一台ずつ「二週間、何でも測ってみて」と試作品が渡された。

 まとまった量の液体がないと測れぬガラス棒pH計と違い、新製品は液体なら数滴センサー部に垂らせばいい。純水を含ませた小さな布切れで肌をふいてセンサー部に置くだけで肌のpHを測る芸当さえできる。朝昼晩、自分はもちろん家族の肌まで測ったし、化粧品や食品、薬などに手を伸ばした。

 「男は女よりも酸性なんですね。化粧品の中には、塩酸に近いほど酸性のものがあって驚きました。肌のpH値に化粧品を合わせた方がいいみたい」と河内課長の下にいる石田揚子さん。雨の降り始めで測定が必要な酸性雨も簡単に調べられた。社員ですら使うのが難しい機器ばかりの商品構成に、初めて風穴が開いた。

 「今世紀最後」とライバルが絶賛

 小谷さんは会社が出来て間もなく入社、十年間はpH計一筋に送った。小型軽量化は技術者として夢だが、当時は果たせそうになかった。ほかの技術分野に移っても忘れられず、全く発想を変えて半導体技術を使い、高価なものになってよければ実現できるところまで進めていた。

 忘れられないのは堀場会長も同じだった。半導体で可能と分かっても、市場で売りやすいガラス電極式をと指示し続けた。焦点のガラス薄板作りに半導体製造技術が応用できると知り、八四年に開発ゴーを決めた。

 そのとき、構造上の難関はいくつも残っていた。化学屋の冨田課長は「皆さん、技術者としての青春時代にやり残しがあって、あれも、これもと要求される。それを全部入れてカード型にまとめたんです」と言う。

 八七年三月、一年ぶりのピッツバーグでのフェアに、河内課長らはぎりぎりで仕上がった量産試作品二十台を手荷物に詰めて持ち込んだ。展示の飾り付けをしている最中に、早くも競合メーカーがのぞきにやって来た。フェア初日は黒山の人だかり。米国メーカーのトップは、居合わせた堀場会長に「今世紀最後のpH計」と、物まねでない独創性に惜しみない称賛を贈った。

 国内ではその九月、一万九千八百円で売り出した。三年間で三万台売れれば生産ラインの新設などが引き合うのに、三万台は一年で達成、最初の二年で五万五千台を売った。

 高温・強酸など厳しい条件で使える在来機種の売れ行きには響かなかった。印刷インクの載りが悪い紙は、酸性度を測ってチェックできる――といった新しい使い方で買われたからだ。

 これまでの会社は、赤外線を使った独特の分析技術を生かして自動車排気ガス測定機の分野で世界シェア八割を押える業務機メーカーだった。小さなカード型商品は、健康管理で関心が高まっている塩分計などシリーズを生み出し、大衆の生活の中に浸透する気配がある。

 《会社》一九五三年設立。八八年度の年間売上百七十九億円は、自動車の排気ガス計測機器四三%、pH計などの科学計測機器二四%、さらに生命科学関係や電子情報機器で構成。本社・京都市南区。資本金二十五億三千万円。従業員八百七十九人。米国と欧州の子会社はそれぞれ約四十億円の売上規模。 


 《パソコン通信でのコメント》

 排ガス測定でのトップ企業


 堀場製作所は、pH計をルーツにしてはいますが、現在では自動車排気ガス測定で圧倒的な世界シェアを持つ企業です。その装置は単価が億円のオーダーにもなり、商品構成では一般理科学機器よりこちらが主力です。

 排気ガス問題が深刻化した際に、ではどうしてガス成分を測定したらよいかが問題になり、同社が赤外線で二酸化炭素を測る技術を工業用に開発していたのに目が付けられたといいます。規制する側の米国政府が同社のシステムを採用して測定するのですから、自動車メーカー側にしてみたら事前に同じシステムで測定しておきたいのが人情です。そのため、排気ガス規制が世界化すると、自動的に堀場のシステムが世界制覇してしまう結果になりました。

 排気ガス規制では早く手を打った日本の自動車各社が触媒などを使う一方で、一酸化炭素や窒素酸化物が出てきにくくさせようと完全燃焼させる技術開発を進め、結果的に燃費の向上を果たしてしまいます。それが石油ショックによるガソリン高騰の時勢にうまく合致して、国産車が米国でも売れたのでした。米国のビッグスリーは排気ガスと燃費への技術開発でまだまだ遅れを引きずり続けているようです。流れが変わることの面白さ、怖さでしょうか。

 大衆商品へ模索の道

 読者の皆さんから・・・「分析器械で実績がある企業が新製品開発の努力を続けていることに、企業の力を感じました」「開発の過程の、正当な手順または真正直な態度といえるものに感銘を受けました」「堀場製作所は有名ですが、わたしもガラス電極のpH計しか知らず、いままで不便だなと思っていました」

 いただいた感想の通り、外部からはうかがい知れぬ努力が企業内でずっと続いたことに取材した当時も驚きました。さらに他社の商品開発例と比べて相当な粘り強さ、こだわりぶりと改めて感じます。それは手順の正当さなんてものだけでなく、結構どろどろした人間的なものも含んでいました。主な取材対象だけで四人になるのに、それぞれの方が「自分こそが開発したんだ」と思っていらっしゃる風に見えました。だから、どういう具合に事実の流れを見るのが一番妥当なのか悩み、ストーリーがいくつも出来そうになって、あわてました。連載第一回だったので、一週間だけ企画スタートを遅らせ、さらに詰めたほどです。結果として、いろいろなテーマが伏線として語られてから、ヤマ場に向かう書き方になったと思います。

 堀場の製品販売は現在でもプロ向けルートで、一般消費者を対象にした販売形態になっておらず、このpH計を契機に通信販売を本社で始めたくらい。理科学測定の専門家の方にもあまり知られていないようです。もちろん、一般家庭にもまだまだです。

 このほかにも「肌のpH値に化粧品を合わせた方がという話を読んで興味を抱きました。化粧品で肌を痛める原因がpH値だけだとは思えないにしても重要という気がします。酸性雨の測定は個々の測定点の精度の問題のほかに、測定点の量的拡大による統計処理が重要なので、その方面からも期待できると思います。塩分計としての方が家庭用としては本命かもしれませんが」との感想も寄せられましたが、酸性雨問題が注目されてきたことがこの商品の追い風のひとつになっていることも間違いないようです。高血圧が心配な人は、食卓でみそ汁の一滴をカード型塩分計に落とし、塩分量を自分で確かめてから飲むことができるのです。そんなハイテク食卓の好き嫌いはあるでしょうが・・・。

 また、経済面の「情報ファイル」欄に書いた通り、このシリーズが発展したイオン計が三種発売されました。メロンの甘さが茎に含まれるカリウムイオン濃度から推定できることを利用して、ハウス農家が施肥量を現場で調整できるとか、ちょっと楽しい使い方をするそうです。土や作物の栄養状態を畑で測って調節する農業なんて、夢物語みたいな感じです。

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 抗菌防臭効果まで持つ静電気防止繊維/日本蚕毛染色

《《うちのヒット商品》》第2回・1989.10.27

 冬の乾燥期がやって来ると、自動車や建物のドアに手を触れた瞬間、ビリッと走る電気に不愉快な思いをする。体にたまった数千、数万ボルトに達する静電気の仕業だ。このビリッが石油タンクで起きると引火、爆発を引き起こす。この厄介な静電気を鎮める繊維を京都市南部、酒造会社が並ぶ伏見の町工場が作り出した。大手が挑戦しては挫折し続けていた難関は、意外な糸口からほどけた。

 繊維のままか、糸の状態、つまり織物にする前に染めるのを先染めと呼ぶ。この分野の技術で、日本蚕毛染色は国内で一番と自負する。友禅以来の染めの名人芸を、徹底したデータの集積に置き換えた先駆者であり、戦後、新しい合成繊維が生まれると、大手繊維メーカーは最適な染色法を求めてこの会社に持ち込んだという。

 失敗した反応が解読された

 一九七七年、石油ショック後の不景気で受注は二、三割以上落ち込んだ。おまけに、染色機で使う液を数分の一に減らせる省エネ技術を開発し、新工場を建てたばかり。長兄の死去で社長に就任して間もない、技術屋の冨部信二さん(54)は、染色試験室の隣にベテラン技術者ばかり八人を集め、新事業の開発室を設けた。大手の下請け専業から脱皮したかった。

 ファッション商品、小物といろいろ挙がった。冨部社長が思い付いたアイデアが静電気防止繊維。当時の静電気対策用に、クラレから委託でビニロン繊維にニッケルをメッキしていた。導電性の金属や炭素と繊維を複合すれば静電気を逃がせるので、各社が試みていた。こんな手間をかけないで染色技術で作れないか。

 ひとつ手掛かりがあった。六〇年前後、染めにくいアクリル繊維を銅イオンを仲立ちに染色していた。「銅が繊維に付く面白い現象」と文献に記されていたのを覚えていた。この繊維に電気を逃がす作用は無いが、銅さえ付着すれば工夫できそうだ。

 半年は失敗の連続だった。どう調合しても、反応温度をぎりぎりに下げても化学反応が急激に起きて、銅が十分にアクリル繊維に付く前に液中に出てしまう。連日午前二時ごろまで、冨部社長や技術者たちの議論が続いた。

 「そんなことが社長の仕事ではないぞ」。当時、会長をしていた伯父から、取締役会で叱られたことも一度でなかった。

 七八年のある日、冨部社長は開発室のそばにある広さ三平方メートルの専用実験室に入った。一週間ぶりに、いつもの薬品をビーカーに入れた。いつもなら瞬間的に反応し、真黒くなるはずが、そのままだった。じっと十数分見つめると、白い繊維にぽつぽつと黒い斑点が現れた。還元剤が入った瓶のふたを閉め忘れたために、変質していた。開発室長の五味淵礼三さん(59)=現技術部長=が起きた反応を解読、突破口が開けた。

 「マジック」と信用されず

 分析したら、アクリル繊維は硫化銅を含む極めて薄い膜で染まっていた。試行錯誤の末、安定した導電性繊維の量産は八〇年になって始まった。さて、出来た繊維を何の商品にして、どう売るか。これまでは大手から染色を受注するだけだった社内に、販売の経験者はいない。開発技術陣から南忠男さん(56)が販売部長に起用された。まずスカートの裾のまとわり防止テープを作ったが、繊維製品の展示会に出しても反響は無かった。

 この年、南さんは東京で工業紙が主催した静電気講習会に出席した。村崎憲雄・東京農工大教授(66)=現・帝京大教授、日本静電気学会長=は、人体の静電気がいかに逃しにくいものか、自ら実験した。「うちの作った靴下をはいてもらえれば静電気が逃げます」。南さんが差し出した靴下で確かに効果があった。

 驚いた村崎教授が講習会後に靴下を取り寄せて再実験すると、効果が出ない。それから半年かけて追究した結果、静電気を逃すには繊維が短く切れて外に突き出していなければならないと分かった。最初の靴下には、たまたま一部ほつれがあったのだ。

 染色で静電気防止繊維が出来るのではないかというのは、三十年前の村崎教授のアイデアでもあった。共同研究していた大阪の染色会社が倒産、夢がついえていた。それが実現して「出来っこないと学界で否定された悔しさが晴れました」と喜んだ。

 教授の指導で、石油施設の安全製品など製品化が軌道に乗り始めた。大手商社を通じたカーペット混入も進んでいる。コンピューターは静電気による雑音に弱く、設置する部屋のカーペットとして強みを評価された。同じく静電気に弱い集積回路の包装にも欠かせなくなった。除電を目の前で実演して見せても「マジックだ」と相手にしなかった米国から、商談が寄せられ始めた。製品は数十種にのぼる。

 銅が持つ殺菌作用は、悪臭になりやすい靴下ばかりか老人用のおむつに使っても、雑菌が生む臭いを消す。寝間着やシーツに混ぜれば寝たきりの病人が起こしやすい床ずれを予防するにも有効だ、と最近分かった。生産量は年間三十トン足らずだが、商品開発に経験が無い町工場が生んだ発明のため、応用面での潜在能力はまだまだ試し尽くされていない。

 《会社》一九三八年設立。絹繊維を擬毛加工した蚕毛(さんもう)糸の生産で伸び、合成繊維の染色に重点を移して五六年に現社名に。年間売上高は染色部門を主体に三十三億円。静電気防止繊維「サンダーロン」はその三分の一を占める。本社・京都市伏見区舞台町。資本金八千万円。従業員百八十人。


 《パソコン通信でのコメント》

 不思議な放電の仕組み


 京都では西陣、友禅といった染織関係の伝統技術を現代のハイテクに応用するケースが、かなりあるよう。その中でも、静電気防止繊維化はちょっと変わっています。単純な適用ではなく、独創性があるアイデアです。取材の際に、登場人物の村崎教授と電話でお話していて「日本蚕毛染色は町工場ですから」と再三指摘されたのが印象に残ります。

 開発スタッフが製造現場を若手に取られ、中二階に上げられてしまったようなベテランばかり。実質的に指揮をした社長自身が、その仲間の世代というのも、表面的な派手さはありませんが、わたしには興味深かった。

 静電気の科学は難しくて説明しきれませんが、この静電気防止繊維サンダーロンは静電気を空気中に逃してしまうのが特徴です。静電気を帯びた物に近付けると、瞬間的に誘導されて周囲の空気に強い電界ができ、空気が電離、コロナ放電してしまいます。火花放電でないために安全とされています。直径五十分の一ミリ以下の細い繊維に、一万分の一ミリ以下の極めて薄い導電膜が化学的に結合しているので先端が非常に尖った避雷針のように効くそうです。村崎教授によると、断面での導電膜の面積が小さいこの繊維の性能は、従来からあるメッキ繊維や炭素などに比べて桁が二つ三つ違うくらい画期的らしい。避雷針は先がとがっているほど高性能なのと、同じ理屈です。

 この繊維は、はっきり混入が明示されいていない製品(高級乗用車のシート布地など)にも、相当入っています。ウールマーク表示が許される〇・三%までの混入でもかなりの効果があり、その繊維本来の性質を失わせない唯一の存在と言われています。もちろん、日米欧の特許を押さえています。

 技術屋のトップ

 読者の皆さんからの反応は「京都近辺には小粒でピリリって会社が多いとか聞いたことがあります。コロンブスの卵ってのは不滅ですね」というのが代表的なものでした。最初の堀場製作所に比べて、一挙にマイナーな町工場に行ってしまったので、イメージが狂った方がいるのでは、と心配してましたが、そんなことはなかったようです。

 わたし個人は、床ずれ防止に注目しています。科学部の医学担当をしていたころの取材で、高齢化社会を迎えて寝たきりになった病人に床ずれができる悲惨さを痛切に感じていました。床ずれができると治りにくいし、苦痛が長期に及ぶばかりでなく細菌感染して死に至ることさえあります。防止の原理は銅の殺菌作用と、導電性による電位療法的な血行の改善の相乗効果でしょう。信州大などで研究中です。別の方法ですが、京都には布団に導電性を持たせた健康布団という商品を開発した寝具メーカーがあります。

 「技術屋がトップにいるか、トップが技術に理解があることの重要性をまざまざと見せられたように思います。トップが生産現場や研究開発分野の近くにいられる中小企業の方が、小回りが利くのでしょう。大企業も事業部制のような独立採算システムを取り入れ、小集団でのメリットを得ようとしていますが、まだまだ」との感想に、わたしも賛成です。比較的小さい企業で、トップがものにしたいとの意欲を持ったら出来るとの思いを強くしました。

 堀場製作所と日本蚕毛染色を取材した印象では、商品開発はかなり奥が深く、何が来るか分からない感じです。どんどん開発の経緯を詰めて行くと、意外にも開発の当事者間でも分かっていないことが飛び出します。インタビューに同席していた当事者が「ああ、あれは、そういう訳だったのか」と言われたりします。その当時は成功した事実に目が行っているので、なぜそういうふうに出来たのかまで考えている余裕が少ないんでしょう。また、開発の皆さんそれぞれに「サムライ」だから他人のことにまでは首を突っ込まない、あるいは突っ込ませないのかもしれません。

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 超成熟のテレビ市場を一変させた37形テレビ/三菱電機京都

《《うちのヒット商品》》第3回・1989.11.3

 テレビは一軒に二台以上普及し、最近まで安価な製品が買い替えの中心になる超成熟商品だった。ところが売れ方が一変、一九八八年の国内市場では、かつては珍しかった二十五形以上が半数に迫った。大型ブームの火付け役は、三十七形ブラウン管を開発した三菱電機京都製作所。現在も生産を独占し世界中のメーカーに一社で供給する。

 八五年三月開幕の「つくば科学博」は映像の博覧会とも言われた。NHKが四十形ハイビジョン(高品位テレビ)の展示を企画、三菱電機を含む三社が競作して提供した。

 科学博の盛況ぶりがニュースに流れたころ、三菱電機の本社と京都製作所の間で百億円を投じるブラウン管生産ライン新設が決まった。横長の四十形を普通のテレビ形状にした三十七形。業界の常識とされた「三十形以上は量産不可能」を無視して、年に十万本生産する。

 当時も大型テレビはあったが、小さな画面をスライドのような仕組みで投影、拡大する方式しかなく、鮮明度が違った。「もし売れなかったら、投影方式大型テレビ十万台の米国輸出に振り替えたらいい」。ブラウン管を作る管球工場長の能勢哲也・副所長(58)=現・三田製作所長=は腹を決めた。同業他社には無い、輸出の逃げ道がある。もともと、斜めからは見づらい投影方式の欠点克服が、大型ブラウン管開発の出発点だった。

 米社失敗の試作ガラスに日の目

 八三年初にハイビジョン管に着手した。売り物でないから何本か作れば済む。しかし、画面の対角線で一メートルと大きく、重い。人間の手仕事で済まない。ロボットが要る。試作ラインは広さ六百平方メートルのミニ工場になり、投資数億円にのぼった。

 八四年六月、ハイビジョン管は完成した。能勢さんが「設備を生かし家庭用の大型を作ってみたい」と言い出し、清水義樹・管球工場次長(54)=現・参与=が応じた。「ブラウン管用ガラスさえ用意してもらえたら」と。

 ブラウン管は前面の平たい部分とじょうご形の背後部分を、ガラス専門メーカーが別々に作る。電機メーカーは赤、緑、青の蛍光体を塗り、電子銃を取り付け、蛍光体に当たる電子線の流れを色別に整えるシャドウマスクと調整して一体に仕上げる。

 本体がガラス製なのに百分の一ミリの組み立て精度が要る。単に大きくしただけなら色ずれで画面は荒れる。真空だから十トン以上の圧力がかかる。米・RCA社がかつて三十五形に挑戦してあきらめた。そのとき滋賀の専門メーカーに特注されたガラスが、倉庫に眠っていた。事情を薄々知っていた能勢さんが持ち掛けると、専門メーカー側は「使ってみて下さい」と積極的だった。

 「とにかく画面にして見せろ」と号令が掛かった。白黒テレビにしたら色ずれなどの精度は問題ない。八月、鉄枠に取り付けた裸のブラウン管にテレビ放送が映った。

 ハイビジョンは四十形ながら、家庭で使っている普通のVTRの映像と互換性が無いから、工場ではテストパターンしか映していない。白黒でも三十五形の動く映像は、はるかに印象鮮烈だった。浜田孝テレビ技術部マネジャー(49)=現・同部次長=は「アップでない、何気ない場面で等身大の人間が動いて見えるんです。迫力が違いました」と思い起こす。

 カラー化が決まった。角が丸い三十五形から四角い三十七形へ。「早くカラーで見てみたい」と、岩崎安男・管球技術部マネジャー(43)=現・開発部=をまとめ役に、三十人の開発陣は深夜まで残業の日々。十一月には、普通の製品に比べ、三倍以上のスピードで試作品が出来た。

 予想外の買い手多数

 八五年明け、能勢さんらが米・ラスベガスのトレードショーに試作機とともに飛んだ。一般公開せず、ホテルの一室で販売業者だけに見せると「いつ売り出すか」「値段は」。米国側の熱っぽさに手ごたえがあった。

 重さ百キロ、百万円近いテレビが国内で売れるか。皿池良治・営業部商品企画課長(48)に市場調査が命じられた。デパート、雑誌社など回り歩く。「高額商品を買う高収入層等で、年に四万五千台程度の需要がありそう」との結論が出た。

 七月、試作ラインを生産に使って月産二百本で先行生産がスタート。テレビの宣伝は当分、三十七形に集中すると決まった。当初冷たかった国内の販売部門も、幅七十二センチ、縦五十四センチ、新聞見開き大に近い大画面に魅せられてきた。半年間の生産分を全部売ったより多額の宣伝費が用意された。

 十月、七十九万八千円で発売した。画質のきめ細かさは従来と変わらなかった。三十七形を店頭に置き、従来最大の二十八形と比べ二倍近い面積を持つ大画面の迫力を比べてもらおうと作戦を立てた。しかし、思惑と違って、並ぶより先に売れて行った。販売網間の奪い合い調整に手を焼くほど。

 展示会に来たお年寄りが「これが欲しい」と現金を渡して引き取った。買い手は事前の市場調査で予想できなかった層に多かった。うれしい誤算である。定年退職後のお年寄りに圧倒的にうけた。若い層には家族全員でより、個人用として飛ぶように売れた。テレビの需要全体を大型に引っ張った。

 現在は年間二十万本を生産。十万をブラウン管のまま米国に、五万を自社製テレビに組み、五万を国内他社に売る。

 国内で四十形以上のテレビが発売されたことはあるが、生産台数はわずか。欧米勢の三十七形生産は二年後とのうわさがあるだけ。量産された最大テレビとして、独走が続く。次のハイビジョンでも優位を狙う。

 《会社》一九六二年、テレビ部品工場として発足。ブラウン管とカラーテレビを生産。投影方式テレビ、家庭用VTR、ビデオカメラへへと拡大。工場出荷額は二千八百億円で、全社売上高の一割を超す。長野市にもつ分工場と合わせて従業員四千人。投下資本二百七十六億円。京都府長岡京市馬場図所。

 《パソコン通信でのコメント》

 市場調査と商品企画の勘


 三菱電機京都製作所は単独の事業部に属していません。本社にある三つの、つまり、商品、デバイス、海外の各事業部の下にあります。要するにテレビやビデオを国内に売るし、ブラウン管などは他社が使うデバイスとして出し、海外への輸出も大きいという訳です。こんな複雑な商売をしているので、所長さんは猛烈に忙しくて、頭がいるそうです。しかし、組織として本社側が引っ張っているでなくて、具体的な開発は製作所主導で出来ます。本社の機能は戦略的な方針決定、投資の配分です。

 読者の皆さんからは、事前の市場調査が外れたことについて、いろいろな意見をいただきました。むしろ、一致しないのが、商品開発の面白さかもしれません。皿池課長も冗談のように「数字は必要だから調べさせるけど、ぼくも信じないことにしている」なんて言われてました。勘の方を重視するようでしたね。

 そう言えば、ソニーの大ヒット作ウォークマンですらマーケティングではとても製品にならなかったものでしょう。それに、商品が出来る前の調査は、当たり前ですが新商品を大衆に見せていない状態です。わたし流に言えば「第0次予測」です。そして、新商品を公開して第1次予測、ぱっと当たったと知れ渡って消費者の行動が変わって第2次予測・・・と続く感じでしょうか。メーカーにとって本当に欲しいのは、第何次かの予測で出て来る安定した需要でしょう。

 37形テレビの場合は、試作ラインによる当初原価からみると百万円を超しそうなのに七十九万円の値を付け、量産に入って五十万円に下げ、現在四十万円で売っています。発売時の日本の家庭のありようからは、やはり高価な商品です。

 皿池課長らはこれを買うことが出来る所得層をまず探した訳です。医者とか弁護士とか、あるいは個人で買わなくても、病院、会社や個人企業が「節税」目的などで買うとか、喫茶店などが従業員の定着を良くしようと店に魅力を持たせる目的で買うとかをリストアップして、四十五万台くらいの需要が見込め、十年間で一巡するとして年間四万五千台とはじきました。

 あの時点の「第0次予測」は、こうした所得によるものしか考えにくかったのです。ただ、見落としたとしたら、日本人のテレビ生活が最近の歌番組の衰退に象徴されるように、画一的なものから個々人的なものになる兆しがあったようには思えます。あの大きな画面を六畳の個室で見たりするんです。

 皿池さんが「勘」と称しているものの中には、そうした文明観、生活感覚の変動があるようでした。

 技術の良循環

 40形ハイビジョンを手掛けたほかの二社、松下電器と東芝にも三菱と同じチャンスがあったと思います。あのブラウン管なら、同じような試作ラインなしには無理でしょうからチャンスは同等です。それで三菱が踏み切れたのは、輸出への逃げ道が確保されていたからでしょう。

 ここで、では米国勢はなぜ失敗したのかと考えてしまいます。「RCA社のマーケット調査でも年間四万台程度の需要が見込まれていた」と、皿池課長から教えてもらいました。製品化しなかったのは、推測ですが技術の難点と投資効果の問題がダブッていたのではないかと考えています。

 あれがどれくらい技術的に難しいのか尋ねたら「電子線がシャドウマスクの思った所を通るのが、自分でも不思議なくらい」と技術陣が答えてくれました。シャドウマスクのところで精度〇・一ミリは是非ほしいそうです。いろいろな部品を組んでから、画面部分とじょうご部分の高融点ガラスを融点四百度のガラスでつないでブラウン管にします。六十キロのガラス体を厚さ一センチくらいでつなぎ成型しながら、その精度を保証するノウハウはかなり大変と見ました。窓越しに見た現場はなにげなくやってましたが・・・。

 技術の世界には、一度壁を乗り越えてしまうと「良循環」が起きることがあります。三菱の場合にそれです。大画面に小画面用の電子線を送ると密度が下がります。つまり暗くなります。大画面化のためにもっと多量な電子線を取り出す材料開発に成功、結果として充分すぎる電子線を得ます。量が余ると、電子線の束をしぼり込んで、焦点をぴたりと合わせる余裕を生じました。それが高画質という評価を一層高めたのです。つまり、明るく、かつ、くっきりに。堀場の排ガス規制のことを思い出しますね。

 日本企業と米国企業

 「五年も前に百億円もの投資を決定した、経営者もしくは技術開発管理者の意志決定過程に大変興味を持ちます」と、記事でもの足りない部分にご注文をいただきました。

 この部分は、実はオフレコで聞いた話が絡んでいます。それを避けながら説明しますと、37形ブラウン管工場に相当する別の投資計画があったが、そちらの見通しが必ずしも良好でなかった――これもラッキーなんでしょうね。そして、少なくとも京都製作所の上層部は投資決定した段階では、国内でこれほど売れるとは考えてもいなかったとして、良いようです。

 日本の企業がかくも果敢な投資が出来るのは、経営者に設備投資についてフリーハンドが与えられているからでしょう。短期的な投資の回収が出来なくても打って出ることができます。米国はかなり難しいよう。最近「日本企業の設備投資はやりすぎだ」と思ってもみないクレームが、日米摩擦関連で米国から出されました。米国では、株主から決算期ごとに厳しく利益確保を要求されます。短期に利益を挙げて行かないと、トップは株主から首を切られます。では「株主は神様」というのもウソでして、非常に多くの株式が投資管理業者に委託されていて、投資管理業者はよそに比べて十分な運用利益を出さないと、すぐに乗り換えられてしまいます。こうした株式は個人が持っているのではなくて、企業年金などの原資として存在していて「ひたすら利益を」というお金の持つ純粋な性質を発揮しているだけなので、何人も手が付けられない−−いやはや。

 最近、東芝などがハイビジョン用のブラウン管ライン設置を発表しました。当面は月産数百本で動かすそうです。米国も欧州も日本と違う方式になりそうですが、どの方式でも国内メーカーが生産の主力になるでしょう。普及に至る価格面のブレークスルーも、きっと国内メーカーが達成すると思えます。

 連載のきっかけ

 ところで、この連載企画が出来るのではないかと思いつくきっかけになっている記事を次に紹介します。八七年末に大阪本社の紙面に「高画質ビデオ」の一ページ特集が載りました。わたしが担当したもので、一部として入れた三菱電機のVTRデッキ開発ルポの取材を通して、商品開発の現場取材という企画が膨らんでいったのです。だから、ここに紹介する記事は習作に当たります。

 《他社より半年早く、進んだ機能を》
  〜S−VHSとEDベータ登場の年に

 「画質だけはよそに負けてはならん」。三菱電機京都製作所の皿池良治・商品企画課長(47)は、ビデオ技術部の三橋康夫マネジャー(44)に念を押した。S−VHSの規格が決まった八七年二月初めのことである。商品の企画から発売まで、普通は一年かかる。だが、S−VHSの一号機は四月末発売と決まった。「短期決戦で、事前に準備をしているS−VHS規格の開発メーカー、ビクターに勝てるかどうか」。その不安をみんなが胸に飲み込んだ。

 同社のビデオ部門は十年の歴史しかない。主力になる技術陣はほとんど二十歳代。ふだんも遅くまで残業が続くビデオ技術部は、未明まで試作に明け暮れた。

 新方式は情報量を増やした結果、雑音成分もそれだけ増える。それを従来以下まで引き下げねばならない。回路をいじって画像のくっきり感など微妙な味付けをする。いずれも簡単にはいかない。  理由があった。磁気テープもテープメーカー四社が並行して開発していた。どんどん届く試作テープの性能がばらばらなのだ。

 一号機は何とか五月に発売、本格生産にこぎつけた。一号機を生産しながら、主力技術陣はなお納得せず、微調整に掛かり切りだった。しかし、秋に発売する新製品の開発に全力を傾ける時期にきていた。三橋さんは非常手段に出た。入社一、二年の新人組に一号機のノウハウを勉強させ、秋の設計を始めさせたのだ。「二号機では、絶対にナンバーワンに」と、皿池さんからの要求はトーンが上がった。

 ビデオはいま最も競争が激しい商品の一つだ。春、秋と年に二回新製品が出て、高機能化して行くのに値段が下がる。五〇%の家庭に普及したのに、専門家の予想を超えて売れ行きが伸び続ける。この秋、同社の従来型の最上級機を買った消費者の六割は、この二年以内に別のビデオを買った買い替え、買い足し組だ。趣味商品だからこそ「ああ、欲しい」と思わせる魅力があれば高価でも売れる。

 「他社より半年早く、一歩進んだ質、機能を付ければヒットできる」。そう考える皿池さんは技術者にアイデアをため込ませない。先々の新製品にと考えられていた高音質化技術を聞き出し、四十日後発売の新製品にねじ込んだことさえある。

 今年は高価な大型テレビも大ブームだった。日本の消費者だけが高画質の世界に突き進んでいるように見える。メーカー側が三年前に始めた高画質化競争が火をつけたかたちだ。人気がある超高画質ビデオは、一台二、三十万円もするのに店頭には姿さえ見せない。いま消費者の熱気にあおられて、メーカーの側が異様に燃え続けている。

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 カラー印刷の世界を飛躍させた直接製版機/大日本スクリーン製造

《《うちのヒット商品》》第4回・1989.11.10

 「国内の印刷物は百%、どこかの工程でうちの会社が作った機器を通ります」と、大日本スクリーン製造の広報マンは言い切る。製品は写真製版機器を中心に生産用の機械が主体。消費者の手元に届く物はカラーテレビのブラウン管に収まって見えないシャドウマスク以外には無いのに、家庭との見えないつながりが意外に深い。

 印刷物の華やかさを演出するカラー図版製作に、石油ショックが起きた一九七三年、大きな飛躍が生まれた。

 従来はカラー写真の原画を色フィルターなどを使って撮影し、赤、青、黄、黒の四色に分解、それぞれフィルムを作った。着色部に色がべったり載ったままでは印刷できないから、非常に細かい網目を掛けて再びカメラで撮影する。出来た各色製版フィルムの像は微細な点の集まりになり、金属板などに焼き付けて印刷版にした。

 途中でカメラのレンズを通すと画像が劣化する。カメラ追放が業界の夢で、六〇年代、色分解の段階がまず電子化された。このときは外国メーカーが先行、追随して国産化を果たした。

 未知の技術なら新人技術者でも同じ

 次は製版フィルム作りからのカメラ追放に関心が向いた。しかし、製版フィルムは非常なきめ細かさが要求され、光への感度が極端に低い。原画を細かく走査、色分解しながら、実用になる速さで点を焼き付けられる強い光源は無かった。

 七〇年代に入り、世界で三社が実用化され始めたレーザーの強い光でこの難関に挑んだ。その中で製品化のトップを切ったのが、大日本スクリーン製造の直接製版機「ダイレクトスキャナグラフSG−701」。従来よりカラー印刷物の鮮明度を数段上げ、一台五千万円なのに「前金で払うから納入順を早めてくれ」と催促された逸話を残し、印刷業界から引っ張りだこになった。

 レーザーに触ったことさえない段階からの出発だった。上田定男・開発本部員(53)=現・第一開発部長=がプロジェクトチームに集めたのは、大卒入社二、三年目の技術者ばかり。「ベテランはそれぞれ仕事に張り付いているし、全く新しいことだから新人もベテランも同じ」と割り切った布陣が敷かれた。

 電子工場技術課の前田潔さん(44)=現・彦根機械工場技術課長=は、「勉強に」とウシオ電機播磨工場に送り出された。

 当初、在来の放電管などの光で実現を模索した技術陣に、「レーザーを使うしかない」と指摘してくれた研究室長の広井得輔さん(59)=現・レオ技研会長=がいた。阪大とレーザー核融合を研究しながら、実用商品を考えていた人物。会ってみると阪大の先輩後輩。意気投合、一気に進みかけたが、レーザー光を当てるだけでなく、光の量を自在に調節する至難な技術が必要と分かった。

 針のような細い結晶に光を通し、電圧を掛けて通り方を変える。ガラスに超音波を当てて光の屈折率を変える。現在もハイテクで通る技術を飲み下し、わずか二年の開発期間で製品化してしまう。ところが難しいのはレーザーばかりでなかった。

 生産中止の淵からよみがえる

 二十分の一ミリほどの間隔で点を作って行くから、機械が千分の数ミリでも狂うと写真全体に雨が降ったように乱れる。悪いことに、レーザーからの発熱が狂いを呼ぶ。この悪条件下で精密機械を作る技術が備わっていなかった。

 発売しても安定した製品が出来ない。折あしく、石油ショックで会社は初の赤字を計上した。生産を手づくりで維持しながら、山崎威・電子工場生産課長(51)=現・彦根機械工場長=の下で、原因を究明してつぶすプロジェクトが開始された。機械を各部に分割して徹底的に測定した。不具合ぶりを、何とか数字としてつかまえる基本に立ち返った。測定方法を自ら考え出しながらの一年間が、生産中止まで考えた商品をよみがえらせた。以後、内外に五百三十台を出荷、社の業績を立て直した。

 八四年には三千七百万円の「SG−608」が登場、現在までに千八百台を超す空前のヒットになった。開発チームが最初の苦労を糧に、性能安定と使いやすさを追求した結果だった。

 外国メーカーと並び、さらに一歩前に出て、技術開発の先頭に立つ役割が回って来た。印刷したカラー図版は原画の写真に比べれば百分の一しか表現の幅がなく、操作する側が経験と勘を生かし製版段階の巧妙な色調整で補う。その絵作りの秘密を分析して「めりはり感」「立体感」などを自在に演出できる人工知能を製版機に組み込めないか――上田さんたちの開発は次に向かっている。

 《会社》一八八六年(明治初年)に創業の石版美術印刷業がルーツで、三四年に写真製版用ガラススクリーンの国産化に成功、四三年に会社設立。写真印刷業界向け六割、電子工業界向け三割、業務用複写機など一割と製品群は多様。資本金百八十九億円。売上高千百二十六億円。従業員二千六百四十人。本社・京都市上京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 よくぞレーザーを


 率直に言って、レーザーを全く知らなくて、よくレーザーを使いこなした製版機を開発したものと思いました。家庭にコンパクトディスク・プレーヤーが当たり前の顔をして座っている現在ではなく、二十年くらい昔のことです。

 競争相手のヘル社(西ドイツ)には、大手電機メーカーのシーメンスという後ろ盾があっり、アイデアそのものは進んだものを出してます。大日本スクリーン製造の場合、独立独歩だった中で、ウシオ電機の広井さん(最近までレーザー学会の常務理事をされていました)に出会えたのが幸運だったのでしょう。広井さんが「レーザーしかないよ」と助言した場面は、大日本スクリーンの担当者が「従来の光源高度化でなんとか」と相談に来ていた席に、たまたまぶつかったので、のぞいてみてアドバイスしただけだそうです。ちょうど、広井さん自身が商売っ気よりも、レーザーを世の中の役に立つ商品として、何とか使ってみたい気持ちになっていた時期でした。

 開発チームに大卒二、三年目の技術者しか投入できなかったのも、やむなくという感じだったようです。「それでも、当時はむちゃくちゃ馬力があった」と前田さんは回顧していらっしゃいました。生産がうまく行かなくなってから、前田さんたち設計チームも全員が生産現場に投入されて、不具合の究明に向かいました。調整のための測定はもちろん、生産も、顧客への据え付けも全部やってみて、安定した製品にするためにはいずりまわった・・・。

 熱くなれる時代だったのでしょう。

 直接製版機は電子的な画像処理の要

 「開発までに数々の困難を乗り越えて行く、日本の技術力を現場で支える人達の姿を頼もしく感じました」――いただいた感想は、本当にそうだと思います。この連載の取材候補に挙げている企業リストの中には、地味だけれど、そんなところがいくつもあります。はた目には地味だけれど、本人たちは熱狂的に仕事をされています。

 直接製版機はコンピューターによる電子的な修正装置の入出力機としても使われます。十余年前、大学を卒業する直前に研究室から凸版印刷の工場に見学に行きました。カレンダーの女優さんの顔から産毛を全部消す、と聞いてびっくりしたものですが、現在の修正は、当時に比べてとてつもなく進んでいます。自動車を「く」の字に曲げたりなんてことも簡単にやります。今年の大日本スクリーンのカレンダーは、そうした合成技術を生かした鮮やかな動物もので、特にクジャクの細部と表情の合成はファンタスティクでした。

 肌の印刷発色は国により

 話が変わって、少し色の話をしてみます。取材の中で聞いた話ですが、国によって肌の色の好みにはっきり差があるといいます。例えば「プレイボーイ」誌で、明らかに同時に撮影されたネガが元になっている女性モデルの写真が、日米の雑誌でかなり違うそうです。日本人のモデルさんのネガを、そのままほぼ忠実に発色させると「肌が黄色い」と不評を買うので、手を加えるのが常識だそうです。カラーテレビ、ビデオカメラなどでも「肌の色がきれいだ」とされる機種は実はかなりの色作りがあるように思えます。この間の三菱電機の取材で、最高級機が非常に忠実な色を再現をしているのを見せてもらいました。バラの花の赤はすごかった。肌の色ではどうなるのか、見逃したのが残念です。

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 機械警備の主役になった遠赤外線警報器/竹中グループ

《《うちのヒット商品》》第5回・1989.11.17

 会社や倉庫、店舗、学校などから宿直勤務が次々になくなっている。警備員が居なくても、遠隔地から各種の検知器を駆使して侵入者を監視できる機械警備が普及してきた。対象施設数の全国集計は無いが、東京都五万カ所、京都府なら一万カ所にのぼる。その走りは一九七〇年代初め。警備保障会社の急成長もこのころ始まる。

 大学卒業後間もなく工業用光検知器を造る竹中電子工業を興した竹中新策・竹中グループ社長(56)は七二年、会社分割を思い立つ。大企業に対抗して新興のベンチャー企業が技術で売って行くには、技術者はいろいろ出来るゼネラリストより、スペシャリストの方が良い。専門会社を作るべきだ。そう考えがまとまると、直ちに四分割した。

 ひとつが竹中エンジニアリング工業。工場の生産ラインで流れている製品や部品の有無を検出している赤外線技術を、警備会社が侵入者を検知する技術に転進させたい。その課題が、十人の社員に与えられた。テレビ番組でガードマン物が話題になり「有望な市場になる」と直感があった。

 人間とネズミを見分けるには

 機械警備の初期はドアや窓に磁石式スイッチを置いて、夜間に侵入者が開けると警報を出す単純な方式だった。侵入手口の巧妙化に合わせて室内にも「目」が欲しくなった。警備会社は超音波や電波を室内に飛ばして、動く物体があれば発見する監視網を張りめぐらすようになる。

 発射した赤外線をどこかにおいた検出器で受ければ、遮る物体があると分かる−−この原理はすぐに製品化でき、警備会社との取引に成功した。しかし、赤外線の見えない糸をあちこちに張って置くのでは効率が悪い。採用されても、屋外で警戒ラインを敷くのにしか使われなかった。

 七八年、英国の会社が、周囲より体温が高い動物が放出する微弱な遠赤外線を検出する新方式を開発した。既に四十人ほどの会社に成長したころ。直ちに検出素子を輸入、室内侵入者用の遠赤外線警報器「スペース・センサー」国産第一号を生む。

 業務用に使う機器はどんな分野でも信頼性が重視され、少々性能が悪くても使い慣れた製品が選ばれる。二百平方メートルの部屋に超音波警報器は七、八個必要で、相互干渉で障害もあった。遠赤外線警報器は小型鏡と組み合わせれば警戒範囲が広く、二個置けばカバーできた。しかし、ネズミのはい回や、微弱な信号を一万倍も増幅したため電気雑音で誤動作する欠点があり、採用されても補助的とされた。

 やがて同業他社が追い付いて来た。誤動作は解決できず、八一年ごろ、順調に伸びた社勢が足踏みした。

 警戒視野に入った人間と小動物と区別するには、小さい視野を縦、横に四つ目で並べてみたらと、羽根田薫・技術部員(33)=現・新製品開発部課長代理=ら技術陣が思い付いたのが八二年初め。小視野四つの大きさ設定がみそで、人間なら上下四つに引っ掛かるが、ネズミや猫の背丈では下二つだけになるよう設定した。

 独創的な防御機構を次々に

 電気雑音も四視野分で同時発生はまれだから、雑音を消す信号処理でも有利になる。強力な無線通信などで誘発される外部雑音にも強い構造にしたい。半年かけ、作ってはつぶす繰り返しで初の複合型が完成した。四視野を設定、物体の移動方向をまず上下ごとに調べ、上下一致するかどうかで判断する新方式は国際特許になった。

 東京営業所員だった穂積正彦・大阪営業所長(34)は、ネズミなどで誤警報が続発していた都内のスーパーで複合型に取り替えると、ぴたりと止まったのを記憶している。ネズミに見立てたラジコンカーを走らせる実演もした。誤動作は従来より桁違いに少ない。歴然とした差を見て、大手の警備保障会社が初めて超音波警報器に代わる存在と認めてくれた。

 翌年にかけて売上高は四割伸びた。警報機市場で一時は推定六〇%のシェアを占め、グループの中核会社に育った。赤外線警報器の性能も向上、遠赤外線と併せて米国の保険会社の賠償規格に、国内から初めて合格。円高で輸出が厳しい現在でも製品の二割を海外へ出す。

 各種警報器を年間三十万個作るトップメーカーとして、羽根田さんたちの新製品開発は続く。犯罪者が警報器の死角から機能を止めようと仕掛けて来ても発見してしまう自己防御型、ガラスを割る音を検知する警報器と独創的な製品を次々に生んでいいる。

 《会社》一九五九年に竹中電子工業創業、七二年の分社を経てグループは八社に拡大している。いずれも光技術を基礎に工場用、警備業用、レーザー計測、製品検査などに応用。ほとんどの本社は京都市山科区に。八社合計で資本金二億五千七百万円、従業員四百六十人、売上高百二十億円。

 《パソコン通信でのコメント》

 ベンチャービジネス育成融資第一号


 ひとつの国の経済力、技術力をみる指標として、中小企業の活動ぶりは見落とせません。先日、来日した東ドイツの貿易相が、テレビのインタビューで中小企業の活力を付けるのを怠っていたと自己批判していました。それが特別のハイテクでなくともローテクであってもいいのです。今回の商品を見ても本体の焦電素子生産は別のメーカーに依存しながら、警備機器としての活用だけに純化して、それなりの経済的な成功を得ているのです。身軽な起業家のチャレンジに乏しいという点では、欧州が米国よりも弱い感じです。

 遠赤外線警報器の竹中エンジニアリング工業は、京都の財界がベンチャービジネス育成のために設けたファンドから、第一号の融資を受けた「由緒ある」ベンチャーということになります。竹中社長はベンチャービジネスの宿命として、商品の差別化を第一に考えている人でした。「技術の課題を潜在意識まで持ち込んで、遊んでいる時だってふと意識にのぞくようにしておかないと大手に勝てるような物は出来ない」と、若い技術者に説いています。

 よそにない物を生み出して社会に貢献する、つまり「社会の一隅を照らす」のが行き方です。ビジネスのきっかけとしてテレビ番組の「ザ・ガードマン」から商売になると直感したのですが、地道な積み上げもしています。遠赤外線警報器を生み出した焦電素子の開発情報のキャッチが相当早かったのも、この分野の内外技術文献を網羅して目を通しておくシステムを、自前で確立しておいたからです。当たり前のことが効くんですね。結果として、赤外線応用の警報器分野で国内のトップを切り続けています。警報器は英国のバッキンガム宮殿と京都御所を守り、NASAのスペースシャトルが自社グループ製品のCCDカメラを載せたとか、小さな分野ながら頑張る企業でした。

 八九年秋、京都には「京都リサーチパーク」第一期分が完成して、ベンチャー育成のための貸し研究室などが出来ました。設備利用のほかに、いっしょにある研究機関のメンバーとの交流で成果を生もうと計画しています。

 分社経営の割り切り

 「マイコン時代の世の中ですが、そのCPUに何をやらせるかは、目・耳・口に相当する各種センサーの技術にかかっています。その意味でシーズが英国であろうとも、遠赤外線センサーの実用化に成功したことは、ユニークな商品を探している全国の中小企業にとって、よいお手本」との好感とともに、「開発経過が教科書通りの実践で、ひらめきに欠ける感じ」という指摘もいただきました。二視野方式は存在していたので、さらに分割するのは確かに連続した発想です。わたしの取材方法が良くなかったのかもしれませんが、どうしても「ひらめいた」瞬間のリアリティがつかみ切れませんでした。ここは、竹中社長の「分社してひとつの商品にこだわる」行き方が、決して豊富とは言えない技術陣での開発に成功をもたらしたとみるべきなのでしょう。「一商品日本一」のモットーで分社経営をしている中小企業グループが甲信越地方にありました。

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 GMの壁に立ち向かった無補水バッテリー/日本電池

《《うちのヒット商品》》第6回・1989.12.1

 車のエンジンが掛からない。車のボンネットを開けてバッテリーを見たら、液が減って電極が露出していた――といったドライバーの失敗が少なくなってきた。一九八〇年に日本電池が売り出した補水不要の鉛蓄電池「スーパーCX」をきっかけに、電池メーカー各社が無補水化に追随、自動車各社も八四年ごろから一斉に採用した結果だ。

 七一年、技術部員だった小寺利一さん(49)=現・第一設計課長=らの若手チームが、宿命とされるバッテリー液減を気にしなくて済む蓄電池「GS7」を開発した。電極の鉛合金を変えただけの試みは成功と言えなかったが、思わぬ反響が海の向こうから届いた。米国最大の自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ社(GM)の蓄電池部門が、同じ狙いで動いていた。

 町工場との共同開発で

 当時のGMは規模の巨大さばかりでなく、技術力でも恐れられた。「本格的に研究を始めねば」と、技術部主管の遠藤寛さん(51)=現・東京支社サービス課長=ら十人余りが、各部門から研究チームに選抜された。

 バッテリー液が減る原因は、鉛電極板に混ぜるアンチモンが分離して蓄電池の中で小さな電池を勝手に作り、水を電気分解してしまうからだ。電極板は格子形をした鋳物で、柔らかな鉛を鋳物にするのにアンチモンがどうしても必要だった。アンチモン追放には電極板の作り方から変えねばならない。

 ちょうど国際研究機関が、溶かした鉛を板にする簡便な製法を開発、公開した。アンチモンの代わりにカルシウムを使い、電気分解を起こしにくい。問題は格子形にどう加工するか。板から多数の穴を打ち抜く方法を考えたが、柔らか過ぎてうまくいかない。

 一年以上過ぎたころ、遠藤さんが山田利雄・生産技術課長(62)=現・大栄製作所機械事業部長=に呼ばれた。「建築材料に鉄板に切り目を入れて押し広げた網がある。あれはどうか」。山田さんはたまたま自宅の新築現場で、モルタル壁に塗り込む網を見て「これだ」と思った。

 大阪市内の加工業者に鉛板を持ち込んだ。鉄板なら端から切り目を入れて次々に割り裂く。建材の網はこうして作るが、鉛には粘りがなくちぎれやすい。加工機械そのものを手掛ける、従業員数人の町工場を探し出して、共同開発を申し込んだ。

 一年余り、京都から大阪に毎週通ううち、意外な解決策が浮かんだ。数センチの切れ目をまず縦に無数に入れておき、横から引っ張れば鉛は柔らかいからダイヤ形の網目ができた。七夕の飾りにも同じような紙細工がある。

 七六年、GMは無補水バッテリーを実用化する。GMの電極板製法はやはり鉛板から網目を作るもので、こちらがあきらめた順次切り裂き式だった。GMは工夫を凝らし、世界中に製法特許の網を張り巡らした。

 他社に無い強力電池へ

 蓄電池を部品として組む自動車メーカー各社は、品質管理の厳しさで定評がある。わずかでも不良品を出したら取引停止を覚悟するほど。GMに対抗して全く経験がない新方式の電極製造法を採用するか、決断が迫られた。

 七九年、四十億円かけて群馬に無補水化の新工場建設が決まる。GM車の影響は大きく、米国市場はほとんど無補水化しかけていた。国内トップメーカーとして座視できなくなった。

 寿栄松憲昭・第一技術部長(61)=現・社長=には、なお心配が残った。メキシコでの国際会議に出席すると、カナダの鉛精錬会社レミンコ社が「うちも同じ技術を開発した」と売り込んで来た。懸案だった切れ目を入れる刃物が優れていた。自社技術の発想の良さに一部技術導入で、GM方式の二倍も高生産性の製造ラインに仕立て上げた。

 八九年六月、さらに進んだ強力電池「スーパーウイング」が生まれ、五カ月で八万個を売った。ダイヤ形網目の電極とアンチモンをわずかに含んだ鋳物格子の電極両方を、長所を生かし使い分けた。電極板間の分離材を〇・一五ミリと薄くし、液を大幅に増やして無補水化した。エンジンのスタート時に二、三割増の三百四十アンペアも電流が流せる。

 開発チームは技術、営業など三部門八人が集まり、昨年末に出来たばかり。積み上げた技術上の優位を集約、他社に無い商品を一気に作り上げた。

 「十年もしたら自動車バッテリーは随分変わっているかもしれない」と小寺さんはみる。車の前輪駆動化などでエンジンルームは機器があふれ、すし詰め状態だ。スタート用だけの小さなバッテリーが置かれ、残りは別種の電池になって後部に回る可能性がある。完成されたと見えた自動車バッテリーは、激変期へ準備が始まっている。

 《会社》一九一七年設立。商標の「GS」は発明家で創業者の島津源造のイニシアルから取った。八八年度(決算期変更で十カ月分)売上高は七百三億円。鉛蓄電池が六五%と主力で、残りがアルカリ蓄電池、整流器、照明器、各種電池電源。資本金百一億円。従業員二千五百七十三人。本社・京都市南区。

 《パソコン通信でのコメント》

 今はなかった町工場


 これまでの中では、比較的なじみがある商品でしょうか。日ごろ、割になんとなく使っていますが、結構いろいろな苦労といきさつが秘められていました。

 GMの無補水バッテリー開発は、おそらく物量戦だったのでしょう。よくあるたとえで言えば、ステーキを食っている相手にに対してお茶漬で対抗している感じがあります。従業員二千五百人の企業研究者が、大阪の数人規模の町工場と共同開発して作り上げる技術で、GMに向かっていくんですから、逆に見るとGMとしては「たまんないよ」と言い出しそうですね。その町工場「新光機械」を捜し出そうとしましたが、残念ながら大阪市内では見付かりませんでした。大阪商工会議所の名簿にもないし、移転したのか、廃業したのか・・・。

 でも、最終段階ではカナダから技術導入があります。社長さんがメキシコでの会議で休憩時間に先方から声を掛けられたとのこと。直ぐに飛び付いたのではなくて、半年間おいて訪問しています。結局、そこの技術を導入してものになっている会社はほとんどなく、自分のところの技術に接木して初めて使えたようです。技術陣はあまりコメントしませんが、本当は全部自社技術にしたかったよう、一方、トップ側はリスクを負い切れなかったのです。

 技術的にはいろいろと補足したいけど、ひとつだけ。バッテリー液の減りしろが、従来品が六十四ミリリットル、最初のスーパーCXが八十一ミリリットル、最新のスーパーウイングが九十九ミリリットルと大きく取られています。電極板の高さを下げたり、分離材を薄くしたり、容器の形状の工夫とほんとに細かく稼いで、電池としての高性能化と、保証の寿命期間中での無補水化を両立させています。

 蓄電池の鉛電極には厄介な性質が

 技術的な問題で、指摘をいただきました。「網にする必要はあったのでしょうか。網にすること自体が目的ではなく、表面積を増やすことが目的ではないでしょうか」というのは、お説の通りです。表面積が要るので、新電池では電極板の高さを削って厚さを増やしました。極板間の分離材を薄くするのはここにも効きます。同じ規格の容器なのに、液の最低ラインが下がるので、液が減ってもかまわない量を稼げます。そして、カルシウム合金でも液減りはしますが、お察しの通り減り方がずっと少ないのです。液減り可能分を増やしたうえで、新電池はアンチモンの含有量を極力少なくした鋳物電極も併用、液減りと高性能のバランスを取って、寿命期間内での無補水化を果しました。

 「柔らかい鉛を鋳造するのは難しいと有りましたが、どういうことなのでしょうか」。これは、記事の中にある鉛板の新製法との関連で説明しましょう。新製法は冷した大きなロールを溶かした鉛の液体上で回して、高速で板を作るという面白いものです。これを可能にしたのは、鉛のカルシウム合金が非常に狭い温度範囲で凝固する性質です。一方、アンチモン合金はこの凝固範囲が広いので、鋳物にしやすいそうです。いろいろな合金が試されたが、このアンチモン合金に勝るものはなかったようです。鋳型に入れてさっと固まっては傷物になりやすいので、カルシウム合金を鋳物にする場合は鋳物を温めたりなどの手間が大変とのこと。日本電池の特許に触れたくないメーカーには、この方法で電極板を製造しているところもあります。

 充電・放電の繰り返しが悪い

 「信号待ちでヘッドライトを消灯するのは、バッテリー保護のためになるのでしょうか」という疑問も出ました。わたしもこれまで消灯派で、バッテリーの保護になると信じていました。取材の機会に、何がバッテリーに悪いのかたずねてみました。答えは、放電と充電を繰り返すのがいけないとのことでした。バッテリーがあがるのに加えて、寿命まで落ちます。この繰り返しで、記事の本文で触れたようにアンチモンが分離して来ます。

 現在の電気系統はしっかりしていますので、過充電でバッテリーを傷めるようなことはなくなりました。昼間だけ運転している場合はバッテリーは充電も放電もしないのに、例えばタクシー車だと夜間に確実に放電があるので、昼間にもよく走って充電しているのに寿命が短くなるのだそうです。

 課題解決から課題提示に進みたい

 「成熟産業といわれる自動車部品産業の熾烈な新製品開発競争の激しさを見せ付けた一幕と承知します」

 そうですね。自動車産業ほど量的拡大に加え質的にも成長し続けている部門は少ないと思います。例えば、この間まで富士重工は「スバルの車は値段が高くても別格の技術力がある」と思われていたのに、その技術的な優位は同社がのんびりやっているうちに消し飛んでしまい、立て直しに懸命のありさまです。イタリアのアルファスッドにデッドコピーされた名車「スバル1000」の伝説はいずこへ、です。しかも、自動車産業の質的な成長はかなり細かい部品レベルから積み上げられているのです。

 「新しいものの開発には資本金、人材、時間が必要だと思うが、人の力がいちばん重要だと思う」「比較的劣悪な開発環境での努力に感銘を受けました」

 日本人の特性として解決すべき問題さえ与えられれば、なんとか答えを出してしまう力はあるようです。次の課題は、世界に恥ずかしくない先見性がある問題を見付けて提出することでしょう。自動車電池の分野では、現在の蓄電池方式でない分散型などの提案でしょうか。産業として米国を圧倒しているのだから、今度は国内から決定版のアイデアが出て欲しいものです。

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 精密包装で世界に広まったCD包装機/京都製作所

《《うちのヒット商品》》第7回・1989.12.8

 LPレコードからオーディオ界の主役の座を奪ったコンパクトディスク(CD)は、ブームを呼んで生産を増やし、一九八九年は国内で一億九千万枚を売る見込みだ。LPの二十倍に達する勢いが、世界中に広がっている。しかし、CD本体、CDを乗せて固定するトレイ、ケース、表紙、歌詞カードはそれぞれ量産体制ができているのに、まとめてケースに挿入、包装するのは最近まで人の手作業だった。

 八五年十一月、包装機械の専門メーカー京都製作所で山本薫・技術部設計課長代理(38)を中心に六人の設計チームが生まれた。この年、国内生産はLP六千万枚に対して、CD二千万枚。ソニーとフィリップス社(オランダ)が協力して、つい三年前の八二年に生み出さたばかりのCDの伸び方は目覚ましかった。

 カセットテープで苦い経験

 「人手に頼るCD包装の自動化要請が来るに違いない」と自信があった。工場の生産ラインに合わせた特注機械ばかりの包装機械業界では、使用する側の都合に合わせた一品生産が当たり前なのに、見込み設計を始めた。パソコンやワープロで使うフロッピーディスクを包装する機械を、三百五十台出荷、市場の八割を制した裏付けがあった。

 やはりフィリップスが開発、世界に特許を開放したオーディオカセットテープの包装機械に、フロッピーディスク包装機のルーツはさかのぼる。たばこ包装機や段ボールへの箱詰め機械のメーカーだった七四年、大株主の日商岩井から開発を要請された。一台十人分の能力がある包装機を開発、瞬く間にカセットテープ業界を席巻してしまう。七六年、本家フィリップスにも出荷して話題をまいた。

 国内でカセット包装機械を独占した実績から「海外でもどんどん売れる」と踏んだ。ところが、フィリップス向けの輸出は一台切りに終わってしまう。

 「日本のユーザー各社の細かい注文に応じて性能が良過ぎる機械を造り、結果的に高価になってしまった」と、下村晨蔵・技術部長(45)は振り返る。欧州製のカセットテープ包装機は一台三人分の仕事しか出来なくても、京都製作所製二千八百万円の半値だったために、海外市場を奪われてしまった。

 カセットテープ包装機に限らず技術至上主義では立ち行かないとの反省で、七九年からコストを意識し設計を単純化、部品を減らす社内改革が始まった。

 アフターケアで評判取る

 CDケースは全く「遊び」なし、はめ合い誤差零で設計されている。例えばトレイを入れるとパチンと音がして納まる。人なら具合を確かめながら出来るが、微妙な感覚が無い機械がちょっとずれてはめ込むとケースやCDを割ってしまう。これまでの自動包装に例がない難題に、誤差零に向かって精密に位置決めを狙うのではなく、挿入機構側がはまるように動く「遊び」を持たせる解決策を思い付く。

 間もなくソニーをはじめ各社から開発要請が届いた。八六年、LPとCDの世代交代の年はもう来ていた。五月、試作機が完成、関東の会社が人手不足に音をあげて「試作機でいいから」とCD生産現場に導入した。

 外国の会社も困っているはずだと見込みをつけて、日比野政雄・東京営業部長(52)は八月、初めて渡米する。機械の動作ぶりをビデオに収め、六社を回って見せた。うち二社には、フィリップスが依頼してイルゼマン社(西ドイツ)が開発した同種機が入ったばかり。能率は一分六十枚で、イ社機の二倍あることを売り込んだ。

 帰国二カ月で三社から注文が舞い込んだ。「もう一カ月も遅れたら、イルゼマンに全部さらわれた」。薄氷の商戦だった。

 しかし、落とし穴が待っていた。明けて六二年五月に五台を米国に出荷した。一台四千万円。フロッピーディスク包装機で輸出経験があるが、相手はすべて日系企業で純外国企業へ輸出は初めて。慎重を期してサービス要員を巡回させてみると、機械が三十分と連続して動かない。国内のケースと違って樹脂成型の質が悪く、国内向けの設計ではふたが開かなかったり、閉まらなかったりしてしまう。

 「ハンマーが飛んで来るか」と思って渡米した山本さんに、米国側は「包装機のせいではないよ」と言ってくれた。開かなければこじ開ける、閉まらなければもう一度押さえ付けるなどの仕掛けを設計、改造した。それが適応力が高いとの評判になって、最初は西ドイツ機を入れた会社から軒並み注文が寄せられることになった。

 当初は世界で数台あれば足りるとされたCD包装機を既に五十数台出荷し、さらに同じくらいの需要が見込まれている。フィリップス子会社のフランス工場に納入、西ドイツ工場からも受注できるか、地元イルゼマン社と競っている。

 《会社》一九四八年、当時の専売公社が使う機械を製作する会社として設立。マッチ箱自動製造プラントを開発、独占して発展のきっかけをつかみ、各種の包装機械に業務を広げた。大半は一品生産で従業員二百七十人中、百人は設計要員。資本金六億九千八百万円。年間売上高六十八億円。京都市伏見区。

 《パソコン通信でのコメント》

 人間的な仕掛けの機械


 今回は、ちょっと面白い仕事で生きている企業です。皆さんが持っていらっしゃるコンパクトディスクは、まず間違いなく、この京都製作所製の機械で詰めて出荷されたものです。国内では他のメーカーは手を出しかけただけで終わり、百%近い市場占有率と言って良いでしょう。記事の行数を合わせるために削った試作機段階の苦労話に、こんなのもあります。

 「現場では思わぬクレームが待っていた。歌詞カードはケースの片面と四本爪のすき間に滑り込ませる仕掛けだったが、最高の三十二ページもあると厚すぎて入らなかったり、無理をするとケースに傷を付けた。試作機を納めた関東の工場に飛んで行った下村さんらは手直しを試みるが、どうにもならない。一カ月半悩み続け、人が手で入れるならどうするかと考えて解決した。ケースと爪のすき間に滑り込ませるのではなく、歌詞カードを軽く丸めて四本爪の内側に引っ掛ければ、カードはすっと納まった」

 こんな人間的な入れ方のために、なかなかスマートな機構が作られ、実用新案になっていました。単純で効率的な仕掛を考え出すのは、受注制の一品生産で生きるメーカーにとって重要なことです。

 独立採算制がバックボーンに

 この会社は、設計、生産、営業など課の単位で実に徹底した独立採算制を敷いています。事業部の独立採算制なら、あまり珍しくありません。大企業ではこうしないと訳が分からなくなると言っても良いでしょう。しかし、三百人にも足りない企業、しかも機械製造業が実質的に「課」の単位で独立採算なのですから、そのユニークさにびっくりしたのも理解してもらえると思います。

 京都製作所では、総務、経理、生産管理からなる管理本部以外はお金儲けをする事業部で、売上の一〇%くらいを上納金として管理本部に納めることになっています。コピー代も電話料金も各部門に割り振れるようにメーターが付けてあり、その他の経費もいろいろ工夫して各部門に割ってしまいます。そして年度ごとに、各部門は年間の利益ノルマを課せられます。

 こんな仕組みといいます。オールマイティな権限を与えられている生産管理部が、営業からの受注情報を受け取ると、注文の機械についていろいろと解析して設計、製造、部品購買に細かく区分けし、仕事の標準値を指示します。例えば、製造には納期、作業時間、性能、コストなどです。これを全部こなせば各部門は利益が出るように設定されます。もし、こなせないと、もちろん赤字です。また、設計のミスで組み立て段階がうまく行かず、やり直したりすると、設計チームのキャップが「社内小切手」で損害分をその場で製造部門に支払います。通期で赤字になった部門の管理職は賞与がもらえない厳しさ。

 技術者たちがいい機械を作ることに熱を上げてコストのことが頭から離れ、会社は忙しいのにほとんど利益が出ない状況になった十年前、断行された制度です。実施当初はパニックで、定着するのに五年かかったそうです。会社側は経理内容の全面公開などガラス張りにしたうえで、生産管理部による交通整理の在り方、毎月末の決算会など、オープンな議論が出来るようにしています。

 かなりの気配りもあります。最初は設計部門からの自己申告に近い標準値を採用し、それが達成できると分かってから、年を追って余分なところを締め付ける方法がとられました。もちろん、設計や開発は全部が「当たり」ではありません。設計にかかる時間の標準値には、失敗してやり直す余裕も組み込まれています。

 結果として業績が上向き、社員の海外旅行三回を経て、八八年四月には社員と家族全員の五百人をグァム旅行四泊五日に招待したとの自慢話も聞きました。人手不足の解消になる包装機械をほとんど一品受注で作る会社なので、世間が不況になっても合理化ニーズはなお強くなるからますます注文が増える訳です。この強さが背景にあるのでしょう。

 なお、一品受注でない機種としてCD包装機についで、ポテトチップスとか形状が不ぞろいなものを箱詰めする万能タイプのロボット包装機が完成し、ランニングテスト中でした。食品などモデルチェンジが激しい業界では、特注の包装機械はすぐに役に立たなくなるので導入しきれなかったところが多く、かなりの反響を呼んでいます。

 包装機械の専門メーカーは初耳

 「包装機専門メーカの存在を初めて知りました。CDケース側が精密なので挿入機側に遊びを持たせるという発想。トラブルへの対処の良さが受けたという部分が興味深い」「うーむ、包装の世界って機械も職人芸なのね」

 精密なものだから機構側も高精度に走るといった常識的な解決でなく、遊びを持たせて対処するという解決法を生んだのでした。職人芸というのも当たっていると思います。そうできた背景には、京都製作所が小さな機械メーカーなのに、実質的に課単位での独立採算制を取るに至る苦闘の過程があったように思えます。経営の在り方と技術の在り方が影響しあっている感じでした。

 「我が家ではCDをかなり早い時期から導入してたんですが、当時のCDパッケージのCD装着状態はひどいもので、爪が食い込んでてなかなかCDが取り出せないかと思えば、新品パッケージを開けたなら、中でCDが踊ってた、なんてことが茶飯事だったんです。いつ頃からかそういう不満が無くなってたのに、記事を読んで気がつきました」という、実感のこもったメッセージもいただきました。包装という仕事は、いったんパッケージを開けてしまったら消し飛んでしまうのですから、考えてみると奇妙な商品ですね。

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 量産まんじゅうを生き返らせた一粒タイプ/タカラブネ

《《うちのヒット商品》》第8回・1989.12.15

 菓子業界は消費者の甘さ離れからしばらく伸び悩んでいた。全日本菓子協会(東京)のまとめでは、一九八三年から売上高が前年比マイナス一〜プラス二%の停滞だった。それが、洋生菓子からトップを奪った和生菓子の好調で、八八年は四・六%増の三兆円を記録した。健康志向から、生クリームやバターより、豆から作るあんを主体にした和風の甘さの方が良いと見る風潮が女性を中心に強い。

 タカラブネは仙台から下関までチェーン千店を展開、シュークリームやケーキで知られるが、もともと京都で和菓子の製造からスタートした。主力工場の館野弘・京都工場長(42)=現・製造本部副本部長=には、古くから量産しているまんじゅうの行方が気がかりでならなかった。近年の売上高が毎年一割ほど減り続けていた。

 仕掛けた「しっとり感」

 ほかの菓子では和風の良さを見直す動きが現れていたのに、まんじゅうは八五年発売の新製品で失敗した。値上げを伴うモデルチェンジで、包み方でも値打ち感を出そうと新型の包装機を開発した。しかし、厚めのまんじゅうが包めず、製品は客に薄っぺらい感じを与え裏目に出た。  八八年十月に、朝香広・工場次長(41)ら製造現場から「まんじゅうをもう一度売れる商品に」と声が上がった。マーケティング部、製造本部開発センターからも参加して十人余りのプロジェクトチームが動き出した。

 まんじゅうは九州と北海道に小規模メーカーが集まり、二大名産地を成している。メンバーは製造が九州へ、マーケティングが北海道へ現地調査の旅に出た。従来とはっきり違う商品にしたい。しかも、全国に流すから大量生産が可能でなければ。

 あんを皮で包む自動包あん機に、あんの中にさらに何かの粒を入れられる新製品が出た。オーブンで焼くと、従来、手作りの領域だった一粒タイプのまんじゅうが量産できる。

 消費者に人気が高いクリを、一粒そっくり入れる案がまず決まった。イチゴ大福のように風変わりな取り合わせがうける時代だ。「もうひとひねりした果物を入れたい」。ギンナン、ユズなど、調査旅行をもとに討論は年明けまで続いた。

 「和風の見直し、懐古調にぴったり」と、最後にキンカンが選ばれた。同種のものが無い魅力がある。果実を入れない従来タイプのまんじゅうも三種用意、詰め合わせの変化を付ける企画ができた。

 味をどうするか。担当する開発センターの津嶋純一課長(41)らが、パートの女性ら社内モニター三、四十人を相手に、試作品や世間で評判のまんじゅうと食べ比べる会を繰り返した。  白あんにして余分な味は付けず、糖の種類を加減して甘さを抑えクリそのものの味を。蜜炊きのキンカンからは自然に風味を染み出させる。焼き上げた後、熱いうちに密封包装し、あんの水分を数日間かけて皮に移して全体にしっとり感を出す――など、味の演出が決まった。鮮度を保つのに全部に脱酸素剤を同封することも。

 さばき切れず二十四時間操業

 五月末、トップから承認が下りた。八千万円で自動包あん機四台を買い、包装機械も一新する。死にかけた商品へぎりぎりの投資が認められた。従来品は一個七十円。手作り市販品に数百円するものがある一粒タイプだが、百二十円に止めた。

 「試作品そのままの味を量産で出せることはまずない」と、津嶋さん。量産ラインに載せると、中の果物がつぶれたり、はみ出したり、狙ったような柔らかな皮では包み切れなかったり−−量産試作が繰り返され、毎日何千個か作っては捨てた。

 お盆の需要期が済んで工場を改造、九月十五日発売と決まった。館野さんらの期待は「なんとか目減りは食い止めたい」だった。

 特に販売攻勢も掛けなかったのに、店頭からうれしい手ごたえが一週間で返って来た。九月上旬まで二千万円前後だったまんじゅうの旬間売上高が、中旬が三千三百万円、以後五千―八千万円と伸び続けた。注文がさばき切れず、二十四時間操業に追い込まれるほど。一息ついた現在でも、前年同期比六割増の生産を続け、下請けまで動員する。

 「責任が無い他人の意見を聞くより、身内の動きを見ておくべきでした」と、吉田秀明マーケティング部次長(42)は反省を込めて振り返る。気が付いたら社員までまんじゅうを買わなくなっていたのに、新製品で変わったという。

 《会社》一九五二年設立。菓子製造卸売りから製造小売りへ転換、さらにフランチャイズ店方式導入とともに急成長。年間売上高三百億円で、構成はシュークリーム、ケーキなど五八%、まんじゅうなど一五%、冷菓七%など。資本金二十三億三千万円。従業員八百三十五人。本社・京都市中京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 お父さんの職場を描ければ


 タカラブネの量産まんじゅうの話、食品を何かやってみたくなって、チャレンジした次第です。先日、社内の上司とこのシリーズについて話をする機会をもちました。「これまで無かったタイプの企画で、現在の新聞では、経済面にも科学面にもはまらないね」と言われました。わたしは「学芸部担当の家庭面に出せるような内容にもしたいと思っていた」と話しました。現実には、技術について説明的な部分が必要なので、家庭面風な人間ぽい要素をこれ以上持ち込むのは、スペース上から無理です。しかし、お父さんの職場が何をしているところなのか、ますます分からなくなって来ている現代の家庭では、こうした形の企画で知らせるのも、無意味でないと考えています。

 「飽き」への対策

 「食品は耐久消費財と大きく違って、同一消費者に何回も買ってもらえます。つまり、良いと思わせたらまた買ってくれるし、飽きさせてしまったら需要が急速に冷えこみます。この飽きるというポイントを企業はどのように見極めているのか興味があります」

 タカラブネのまんじゅうを開発した方に聞くと、本当は満足していないそうです。皮の質など量産に伴う技術的な妥協があって「まだまだこれから。今のまま売れ続けるとは思っていない」とのことでした。試作品はずーーっとおいしいんだそうです。これは食べてみたかった。残念です。

 味覚はかなり微妙な世界ですし、お菓子は必需品でもないのでいつ捨てられてもおかしくなく、「飽きる」時期が来るかもしれません。前の製品は「飽きる」以前、魅力が薄かったようです。実は、和菓子には飽きが来にくい仕掛けが昔からあります。それは季節感の演出です。京都の老舗では作り手の感性で四季折々に微妙に変えたものを作って売ります。木の葉の色なら、初夏、盛夏の緑を変え、秋はもちろん紅葉という具合です。量産品であっても飽き対策にそれを考えていて、九〇年春から、キンカンに代えて梅の実一粒を入れた新製品が登場しました。クリは通年で、春夏に梅、秋冬にキンカンという季節の演出ですが、わたし個人はキンカンの方が完成度が高くて好きです。

 お菓子屋さんの情報・物流管理

 生ものは天候や輸送の問題があり、一定の量産をすることは危険で、大手メーカーは手を出せないものですが、これに挑戦しているのが、タカラブネだと思います。記事でお分かりの通り、同社の主力商品は多品種の洋生菓子で、しかも大衆価格で菓子を提供する路線を守り続けています。

 そのためもあって、かなり早くから千店のチェーンと本社を結ぶ販売時点管理システム(POS)を導入しています。品物が欲しい日の前々日の夜中までに注文を出せば、生産、配送して店に届きます。作り置きをしないのは、ケーキよりも日もちするまんじゅうでも同じだそうです。曜日によって売れ方が変動し、月火水木が一なら、金が一・二、土が一・五、日が二になるとのこと。それを満たすように、なおかつ余って捨ててしまわないよう、いろいろなノウハウがチェーン店と本社にあるようです。そうでないと大衆価格維持が難しくなります。

 ところで、まんじゅうの場合は焼きたては皮がぱさぱさしていけません。三日は置くほうが、あんから水分が戻ってしっとり感が出ます。それも見込んで店頭在庫が図られます。まんじゅうには、固い乾いた感じのから、水分たっぷりのまであります。しかし、水分の含有率でみると、以外に差は少なくて、一般的なまんじゅうが二四から二七%で、固いのは二割以下、水分たっぷりで三割以上だそう。ちなみに、一粒シリーズでは、キンカン一粒がほぼ上限、クリ一粒が下限辺りだといいます。

 「だれがどうして生産計画を立てているのでしょうか。オーダー表を見て、人間がやっているとはとても思えないのですが」との質問をいただきました。

 これは製造本部の管理者たちが交替で泊まり込んで処理しているようです。千店もチェーンがあり、店の経営者の中には転職したばかりで菓子の扱いには素人という方もいるので、商品注文以外にもいろいろな問い合わせや相談があって、かなりの責任者が常時応対できないと、うまく回らないのです。

 取材時に聞いた話ですが、生クリームを使った洋菓子でも、脂肪の質を変える、つまり動物性脂肪を減らして植物性脂肪に置き換えることで日もちを良くする技術があって、これで現在のような量産と長距離発送が可能になったとのこと。しかし、味については動物性脂肪が多い方がおいしいので、日もちとの兼ね合いを考えながら動物性の割合を増やす努力がされてます。現在は配達が一日一回ですが、将来は一日何回も配達をして、菓子の鮮度保持と需給調整をしやすくすることも検討されていました。

 しっとり感余聞

 「まんじゅうもできたての湯気がでているやつをはふはふしなが食べるのがいいのよね。でも、そういえば一日おいてさめたまんじゅうもしっとりしておいしいのよね」なんて書かれると、本当にお菓子がお好きなんだなと分かります。

 取材をしていて、この水分の戻り現象は和菓子だけでないことに思い至っていました。身近なことですが、あるホテル製のチーズケーキを好んで買っていたことがあります。値段の割においしいからですが、これも冷蔵庫で一日寝かせたら、しっとり感が増してずっと良くなった経験がありました。ケーキの下のほうにある水分が全体に拡散するのでしょう。聞いてみると、洋菓子にもあちこちで起きる現象でした。

 戻りとはちょっと違いますが、一粒タイプまんじゅうには、キンカンの風味を引き出すある仕掛がしてあります。蜜炊きしたキンカンの果汁が、出来たまんじゅうの中で自然に回りの白あんに吸われるよう、あん側の糖度が炊いた蜜より高めてあるのです。浸透圧かな。こうしているのでキンカン一粒タイプはしっとり感がいっそう強いのです。ただし、白あんをあまり甘く感じないように使う糖の種類を工夫しています。この辺りも菓子作りのノウハウですね。またまた食べたくなってしまうお話でした。

 という訳で、今回の感想は「何気なく食べている菓子にも技術があることを再認識しました」「甘いものとは無縁のわたしです。まんじゅうの製作で苦労があるとは思いもよらなかった」「これはほんと、よだれものでした」と、理屈抜きに楽しんで読まれた方が多かったようです。

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 入れ歯保険治療の難点を克服した硬質レジン歯/松風

《《うちのヒット商品》》第9回・1989.12.22

 六十五歳以上の高齢者人口が一一%を超え、「その八割は自分の歯を半分以上失っている」と厚生省が発表している。入れ歯を作るために、一九八八年に生産された人工歯は一億一千万本にのぼった。しかし、最近まで健康保険で作られる入れ歯は主にプラスチックのレジン歯で、自然の歯に比べてかなりの差があった。

 京都で陶器会社を興していた松風家が、歯科医学界から国産陶歯の開発を勧められたのは、米国に陶歯供給を頼っていた大正時代のこと。戦後になるとレジン歯が登場、研究者と協力してやはりその開発で先頭に立った。陶歯からレジン歯に中心が移っても国内市場の半分近くを占有、製品は歯科技工士の国家試験や、現在はなくなった歯科医の実技試験に採用され続けた。

 決定版への意気込み

 東京歯科大学教授を退いて東京・銀座で開業している河辺清治さん(81)は、入れ歯治療で内外に知られている。学生時代から付き合いがある縁で「新しい人工歯が必要な時期が来ているのでは」と助言したのが八〇年ごろだった。亡くなった大学の恩師が、その準備にと多数の歯を収集して残していた。

 陶歯とレジン歯、いずれにも欠点があった。陶歯は自然の歯に比べて硬過ぎ、入れ歯を作ったときに向き合う歯が自然歯なら削り取ってしまうし、陶歯同士なら瀬戸物がぶつかり合うのでカチカチと異音をたてる。レジン歯は逆に軟らか過ぎて減りやすい。どちらも自然の歯に比べて輝きが足りない。

 七五年、イボクラール社(リヒテンシュタイン)が常識を破る硬質レジン歯を売り出していた。自然歯に近い硬さと外観をもち、陶歯とレジン歯の欠点を補った。しかし、健康保険で認められているレジン歯は前歯六本組三百円なのに、二千三、四百円もして自由診療でなければ使えない。技工士が扱いにくい欠点もあった。

 新しい歯を求める歯科医の声は河辺さんに限らなかったし、社内にも意欲が見えた。「高齢化を迎える時代を先取りして、保険で使える硬質レジン歯を作ろう」と、当時社長だった松風嘉定会長(71)が決断、研究開発部が動き出した。

 歯の形を担当したのが林昭三主任研究員(58)のグループ。「決定版を作ろう」の意気込みで、河辺さんらを通じて数千本の歯を集め、大学の先生たちによる研究会を組織、協力してもらうことになった。分類し各タイプの標準形を決め、彫刻を作って意見を求める。結局、前歯だけで四十の形状に分類、九色ずつ計三百六十種に仕上げることになる。

 歯の輝き生む微粒子に工夫

 材料の開発は形状に比べて遅れがちだった。中村彰二主任研究員(50)のグループは二十年前から開発したいと希望をもっていたが、手をつけてみると実現は容易でない。

 最近、歯科医院で虫歯を削った跡に銀色をしたアマルガムを詰めることが少なくなった。代わって自然の歯の色に近い樹脂を充てん、光を当てて反応、固化させる。他社に先行した技術の一つで、出来たプラスチックは普通のレジン歯より硬いから、硬質レジン歯開発はその延長で、と考えた。また、自然歯にはカルシウムとリンの化合物微粒子が多数散在して独特の輝きを生むので、人工歯にも、似た微粒子を入れれば、とも。

 輝きを生み出す条件は、微粒子の大きさが、光の波長に当たる千分の一ミリ以下。一方、歯の透明感を生むために、プラスチックと微粒子の屈折率が合わなければならない。硬さとともに粘り強さも求められる。合成技術の限りを尽くすが、行き詰まって頭を一度からっぽにし、方向転換を図ったことが何度もあった。

 八六年九月にまず前歯を売り出す。三層構造にし、かみ合い部は従来の六倍も摩耗に強く、根元部は入れ歯の土台と簡単に接着する材質、中間部は衝撃を吸収する役割を担わせた。完全自動の生産ラインで値段は六本組七百二十円に抑えた。

 製品を作っただけでは健康保険の適用にならない。従来認められている治療法よりも値段が高いのだからなおさらだ。牧野宏治・大阪営業所販売課長(40)ら全国に八十人いる営業マンが「まず普及を」と歯科医を回り、硬さを実演して歩いた。最初は自由診療ながら評判を得て八八年七月、硬質レジン歯は銘柄を同社に指定する珍しい形で保険適用になった。

 現在、月間百二十万本を生産しても需要に追い付けず、近く生産ラインを増やす。河辺さんらは「外国に出しても恥ずかしくない」と評価するが、当分は輸出余力が出来そうにない。

 《会社》一九二二年、松風陶歯製造として設立。アマルガムなどで世界レベルの技術を開発、米と西独に販売子会社。売上高九十八億円の構成は人工歯(一六%)のほか歯科用の研削材(二九%)、金属(一五%)、樹脂(六%)、セメント(九%)など。資本金三十六億円。従業員四百人。本社・京都市東山区。

 《パソコン通信でのコメント》

 こんなタイプの入れ歯も


 上の前歯の形状は、上下ひっくりかえすと、その人の顔と相似なのだそうです。そう言われればという感じですが、学界で定説となっているそうです。分類方法はいろいろあります。ちなみに、松風が採用しているのは方型・尖型・卵円型を3基本型に、その混合型と短方型を追加したものです。

 従来の人工歯では自然歯と外観に差があったと書きましたが、特殊な修復は別です。松風の製品に、オーダーメイドの歯として使う「ヴィンテージオパール陶材」があります。歯並びが悪い歌手が突然、きれいな歯並びになってテレビに出るといったケースはまずこれだと思って良いそうです。金属の上にセラミックを焼き付けてつくる、ホーロー製品と思って下さい。患者の自然歯をまず削り、そこにはまる金属の土台を作り、セラミックの粉末を水で練って盛り上げ、焼きます。金属台は自然歯の削り跡に歯科セメントで接着します。色、輝きともに自然歯と同じに出来るそうですが、値段が高くて数本で数十万円、一式取り替えたら、数百万円です。

 皆さんの感想は「入れ歯のランク、素材の機能にこんな違いがあるなんて」「社会的な貢献に対する当事者の真剣さ、使命感に感銘」などで、大変な開発を地道に成し遂げている点を買われた方が多いと見受けました。安い価格で供給するために生産は完全自動で行われています。わずかな厚さの中に微妙な三層構造を作っているのですから、かなりの自動化技術でしょう。興味を持ちながら、取材する時間が足りずに取り残しました。開発の各セクションの動きを聞き取るだけで相当な時間が要るものですから。

 書き落としていた情報をもうひとつ。京都の企業に関心がおありでなくとも、京セラの名前はご存じでしょう。創業者の稲盛会長は、人工歯の松風の親会社に当たっていた松風工業(絶縁体の製造業)に勤めてから、仲間と独立したのです。松風工業の方は競争に敗れて清算会社になってしまいました。

 歯磨きの話

 「入れ歯になるのは、つまり歯をなくすのは虫歯が原因ではないんですよね」とのご指摘通り、原因は歯槽のうろうなどの歯周病が大半なのです。普通に歯だけを磨いていても、この予防は難しく、磨き方に工夫がいります。以前、若年層にもこの病気が広がっていることが職場での歯科検診から分かったとの記事を書きました。歯科検診は学校だけのものでなくなっているのです。会社は東レの大阪本社でした。企業の健康管理室もいろいろな試みをするものです。

 まだ使ったことはありませんが、電動歯ブラシは有効と聞いています。京都のメーカー、オムロンが出した新機種は、二通りの磨き方がワンタッチで選べるのが売り物でした。歯茎の付け根の歯垢まで落とす磨き方をときどきは意識的にやってみますが、微動させるようにやらねばならないので手が疲れます。それから、磨き過ぎにも注意です。特に歯磨き粉を大量に使う方、あれは研磨材の一種ですから、どんどん歯を細らせます。

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 作り手の遊び心が染み込んでいるゲームボーイ/任天堂

《《うちのヒット商品》》第10回・1990.1.5

 米国の有力経済誌「フォーチュン」は一九八九年の年間最優秀商品十一種に、ソフトが交換できる携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を挙げた。任天堂が四月に発売し、年末までに国内と米国で合わて三百万台を売った。ブームを起こした「ファミリーコンピュータ」の携帯版とも見えるが、実は別の作り手たちの遊び心が染み込んだヒット作だ。

 製造本部には四つの開発部隊がある。三千六百万台を世界に送り出したファミコンの開発第二部、ゲームセンター用の機械など幅広い開発第三部、ゲームソフトを作っている情報開発部、そして、ゲームボーイの開発第一部。

 山場は液晶画面づくり

 八三年にファミコンが生まれる前、わずか画素二百でできた液晶画面の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が、おもちゃ市場を席巻した。生み出したのが岡田智・次長(42)ら開発第一部。しかし、売れると見て三十数社が参入し、ソフト交換ができない専用機だったから類似機が百数十種入り乱れた。買い手はどれが良いか判断しかねる状態になり、市場は衰退した。結局、国内での販売は取りやめられた。

 いまも欧州などに年間二百―三百万台を輸出、商品生命は絶えていない。しかし、国内向けでは「うまくいかない時はあるもの」と、ファミコンの快進撃を横目で見て過ごす時期が続いた。ファミコンに習ってソフト交換型へ転進を考え何回か検討したが、多彩なゲームを表現できるきめ細かな液晶画面の見通しがつかなかった。

 液晶カラーテレビが普及の兆しを見せた八七年夏、開発第一部は待望の新製品開発に取り掛かかる決心をした。二十八―三十二歳のメンバーを中心に三十二人の部員が総掛かり。まず、市販の液晶テレビを解体、手づくりの回路と結んだ大きな試作品を作る。構成が固まり切らぬ段階なのに、山内溥社長(62)は「これはいける」と太鼓判を押した。

 画面づくりがこの機械の命と考えて来た開発チームは、出来合いの液晶画面では満足しなかった。ゲームボーイの画素数は、ゲーム&ウオッチに比べ百倍の二万を超え、かえって鮮明感が出しにくいし、ゲーム用だから液晶が苦手とする速い動きがどうしても欲しい。一時はカラー液晶画面まで検討したが、屋外で見づらいのと電池の持続時間が短くなることもあって白黒画面に戻す。曲折の末の八八年秋、シャープに専用の高速液晶開発を頼み、発売直前にようやく量産を軌道に乗せた。

 ソフトへのこだわりで人気獲得

 任天堂がファミコンの次に出すのは、記憶容量アップと色彩数六百倍化のスーパーファミコンと、一般に思われていた。その華々しさに比べて、ゲームボーイはわずか縦四・二センチ、横四・六センチの白黒画面だ。そうではあるが「持ち運べて、一人だけの画面が持て、ケーブルで結べば本当の対戦ができる。消費者を説得しやすいのはこちら」と、今西紘史・総務部長(49)は経営陣の判断を明かす。

 八九年一月、国内の系列卸問屋の集まりで公開した。「何をいまさら」と首を傾げられた。米国業者からの反応がむしろ上々で「米国七に国内三の出荷で足りるか」と見通せた。予想通り、四月発売時点では、びっくりするほどは売れなかった。

 「早く売れ行きを引っ張れるソフトを出したい」。岡田さんらがひそかに狙いをつけていたのがソ連で考案されたゲーム「テトリス」だった。社内でパソコン版で遊び、ゲームボーイに向いているとみた。落ちて来る七種類のブロックを回転、移動させながら平らに積んで行くゲーム。単純だがとっさの判断力発揮に妙味がある。十二月末からプログラムを組み始め一月にほぼ完成したのに、それからの味付けに時間が要った。

 パソコンやファミコン版に無い対戦型のアイデアを加え、組み上がってからも、自分たちが面白いと思えるものにしようとこだわり続けたからだ。商品開発のために市場調査はしない。頼りにするのは自分たちの感性だけだ。

 出来上がったと思うころ「ブロックを左右に動かす速さをちょっと速めたら、もっと得点が出る」とだれかが言い出す。では何%速めたら面白いか、微妙に変えながらしらみつぶしにする――といった具合だ。発売は予定から大幅に遅れて六月半ばになったが、二週間で四十万本以上出荷した。五月末になって火が付きかかったゲームボーイ人気を爆発的なものにした。

 「あんな小さな画面でも単純なゲームでも没入して遊べる。マニアの特別な世界になりかかっているファミコンへの警鐘になった」と今西さん。

 提携先の不手際などからゲーム&ウオッチの売り込みで失敗した米国で、六月の家電製品ショーに出品し五百万台の受注が見込めると評価された。九〇年はファミコン並に月産百万台の生産態勢に増強する。

 《会社》一八八九年、花札の製造で創業。会社設立は一九四七年。電子ゲームの開発は七五年から。大ヒットしたファミコンで電話回線を通じたネットワークの構築を目指し、家庭から金融機関との取引などに利用開始。資本金百億円。年間売上高二千五百一億円。従業員七百四十人。本社・京都市東山区。

 《パソコン通信でのコメント》

 意外なヒット商品を生む裏側


 任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」は、文句なく、一九八九年に京都が生んだ最大の商品でしょう。

 この会社はマーケティング部門を本当に持たないようです。「市場調査は過去のデータ」「ゲーム業界にはナンバー2は存在しない」(つまり、まねをしても仕方がない)「面白いものと、面白くないもの、しかない」・・・広報担当の総務部長さんの発言は、ある意味で刺激的です。

 「現場には会わせない方針」というのを口説いて会った開発第一部次長さんも、「おもちゃ売り場に時には行きますが、それはゲーム機以外にどんなおもちゃがはやっているのか見に行く程度」とおっしゃっていました。とにかく「自分が面白いと思う物を作れ」と言うだけなのです。

 ゲームボーイは年末年始の入荷即品切れの、どうしようもない品不足でお分かりの通り、ものすごい人気です。新製品は初年度三百万台を出荷して、ソフトが売れる環境を整えるのが、任天堂の基本方針だといいます。わたしもこうまで売れるとは思っていなかった口です。ドラマ式のロールプレイングケームに慣れて、ゲーム本来の楽しさを忘れていたのか。

 ひとつ見逃せないのは、ファミコンが家庭のテレビを占拠し続けるのは難しい状況が生まれていることです。何しろ、在来テレビ放送以外に、ビデオ、衛星放送、ケーブルTVと家庭のテレビは「忙しい」のです。そして、もうひとつの特長は本物の対戦型が可能になることです。同一画面を分割してごまかしているのでは、マージャンなど対戦になりませんから。

 今回の記事には「いま開発、設計者はいかに消費者と密着吸収できるかに苦心し、例えば直接店頭に立ち、自分の肌で何が求められているか知ろうとしたり、いろいろ苦労しています。しかし、それでは大きなヒットはつくれないのでありませんか。商品開発のための市場調査はしないとの記事を読んで、同感!」「ゲーム&ウオッチのちょっとした改良で対戦型ができるのでは、と思っていたが、さすが、任天堂。中途半端なものは出さない、という姿勢は見事だと思う」との声が寄せられました。

 わたしは、ファミコンの開発グループと、ゲーム&ウオッチ・ゲームボーイの開発グループが別だ、と聞いてニュース性ありと感じました。あれだけの大ヒット商品を横目にしている間、はっきりとはおっしゃいませんが、辛抱、辛抱だったようです。

 研究開発と労働時間

 第1回の堀場製作所は京都でも休日が多い企業として知られています。完全週休二日制プラス毎月一回の三連休があるだけのことながら、リクルート社が京都で調べた大学生の人気企業ベスト20に入り、理由は休みが多いからだと言われています。研究開発部門の人達には日ごろ残業をして頑張る人が多いのですが、仮に三連休が確保されていれば、休みだからと割り切りやすいと思います。

 研究開発では往々にしてそうである通り、猛烈になりがちだと思います。しかし、必ずしも全部に当てはまる訳ではなく、任天堂では「残業はするな」と言われます。例外として、プログラムがもう完成寸前で、あとはささいな欠陥の「バグ」取りだけというのなら徹夜してでも残業することはあるそうです。しかし「期限に間に合わせるためだけに徹夜しても、ゲームとしていいものが出来る訳がない」とは、例の次長さんの言葉です。アイデアの勝負をしているのに、体力勝負では駄目なのですね。遅れてもかまわないし、「思い通りにやらせてくれるのが、うちの会社の良いところ」なのだそうです。

 あなたの職場の実情はどうでしょうか?

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 育児に紙おむつを定着させた高吸水性樹脂/三洋化成工業

《《うちのヒット商品》》第11回・1990.1.12

 一九七四年の秋深い昼休み、研究図書室で入社五年目、新事業開発部主任だった増田房義さん(43)=現・技術開拓研究部長=は、米国の化学雑誌をめくっていて変わった題名の記事を見付けた。見慣れない単語「スーパースラーパー」の意味を大きな辞書で追うと「水をがぶ飲みする」と出た。現在、年に三十三億枚も使われる紙おむつの中に収まった見えない主役、高吸水性樹脂の開発がそこから始まった。

 余剰トウモロコシの処理に困った米国農務省は、でんぷんの使い道を求めてさまざまな研究をしていた。その模索の中で、でんぷんと合成繊維の原料アクリロニトリルをくっつける処理をすると、自重の数百倍の水を吸収する新物質が生まれた。目をつけた米企業が試験的な生産方法を開発、特許申請した、と記事は伝えていた。

 物質創造に劣らぬ苦労が待っていた

 新事業開発部は「将来に伸びる新技術の芽が欠乏している」とのトップ判断から、一年前に出来た。増田さんは農林用に新しい物質はないかと雑誌二十種をしらみつぶしにしていた。この新物質について、米国から内々で資料を取り寄せ、七五年初めに部長に「やらせて」と切り出した。  意外にも「前に商社から持ち込まれ、検討して放棄したテーマだ」と教えられた。合成過程が複雑過ぎ、途中に有毒物質が使われ製品に残る不安があった。

 「いや、安全に作る方法がきっと見付かる」と、強情を張って引き取り、最初は同僚と二人だけの手探りを始めた。昼間は実験、夜になると結果を検討、ノートにまとめる。午前零時前に会社を出ない生活が始まった。

 米国での合成法を、まず文献通りに再現した。そこから吸水物質が投網のような構造をしていることが浮かび上がり、水を抱え込んでしまうと推定できた。合成後には安全な物質だけらしい。それなら、最終的に構成している物質だけで作れればいい。

 十冊を超す技術ノートを積み、網構造を作る反応の触媒を自力開発、三カ月後、米国とは違う構造で三百倍の水を吸い込める高吸水性樹脂「サンウェット」をものにした。

 しかし、実験室で物質を少量だけ合成するのと、大量生産は全く別。液体に溶かして反応させれば簡単なのに、この物質は水を吸い込む性質が災いして水に溶かせば〇・三%の濃度にしかならない。熱の消費、水を乾燥させる必要など考えると、固体に近い粘っこい状態で合成しないと高価になり過ぎる。

 課題は名古屋工場製造第一課長だった藤本昭義さん(47)=現・同副工場長=たちのところに持ち込まれた。時に石油ショック下。新規投資を禁じられた悪環境下で、二千万円だけの予算、人員は既存プラントの正規要員を削って生み、プラントは中古機械を買い集め修理して組み合わせた。

 考えた合成工程、そこから出て来たつきたてのもち同然のねばねば物質の乾燥工程とも、例が無い。うまく行くと見えて、水を吸う性質が災いして出来た途端に湿気を吸い始め、商品にならない。

 一年余り。いつの間にか二億円使い、何度もほうり出しかけては「途中放棄は技術屋の恥」としかられた後で、一日一トンの生産装置が姿を現した。

 砂漠の農業も可能に

 「こんな性質の化学物質が出来ないか」と需要家から開発を頼まれるのが、それまでの開発パターンだった。機能が面白いからと創造してしまった樹脂の売り込みに、増田さんも動員された。

 さらさらした白い粉の樹脂を生理用品メーカーに持ち込む。面白がられても、先方も使い方に見当が付かない。増田さんらが紙の間にサンドイッチする方法を開発、指導して回った。

 追いかけるように、花王がでんぷんを使わないで似た構造の吸水樹脂を開発して自社製品に使い始めた。八二年になって生理用品から紙おむつへとメーカー間の競争が広がり、欧米でまだパルプだけだった紙おむつを吸水樹脂入りに転換させた。独自に製法を開発する企業が相次ぎ、国内は吸水樹脂の世界供給基地になった。三洋だけで八度も設備を増強し、現在は年産二万トンに達する。

 紙だけで作った時代の使い捨て紙おむつは、国内のお母さんに後ろめたさを持たれ、外出時など臨時用だった。吸水力千倍にも達した樹脂が入ると赤ちゃんを長く寝かせても、かぶれやむれが少なくなり、布おむつだけで育児するお母さんは一割を切るまでに様変わりした。

 吸水樹脂は吸い込んだ水を、非常にゆっくり放出する。年々広がっている砂漠地帯や、雨季には水があふれても、乾季にはからからになってしまう熱帯の土壌に水を保たせる研究が進められている。現在は九割まで紙おむつ中心の用途だが、一挙に拡大する可能性を秘める。

 《会社》一九四九年、トーメン、東レ両社五〇%ずつの持株で三洋油脂工業として創立。界面活性剤、ウレタン樹脂、水中の汚濁物質を沈澱させる凝集剤、肝機能検査薬など優れた機能物質を開発。売上高五百九十三億円のうち一五%を輸出。資本金百十五億円。従業員千三百人。本社・京都市東山区。

 《パソコン通信でのコメント》

 先見性に強情さも必要


 ようやく化学メーカーの登場です。三洋化成工業は特別な機能を持つ化学物質を生み出す「パフォーマンス・ケミカルズ」を看板にしている会社です。

 九回目の松風、十回目の任天堂と、この三洋化成工業とは言わば隣組で、本社工場が東山区の川辺りに並んでいます。強いて共通点を見付けると、もうひとつ、取り上げた商品の種類は随分違っていても、年間で数百万の消費者に届いている点でしょうか。

 吸水樹脂を作った増田さんは、この研究で博士号をもらい、社内の研究で博士号を取得した第一号になったという後日談があります。現在の藤本社長は研究所長から新事業開発部の初代部長になり、吸水樹脂が物質開発から工業化に移った時期にはちょうど生産本部長になっていて、サポートを続けたとのこと。「新規開発には先見性の外に、当事者の強情さが必要」と発言されています。石油ショック下で、売れる見込みがない新物質の開発に発揮された会社としての強情さも相当なものです。

 開発されてから考えると、この吸水物質は化学の実験室ではよく出来るゲル状の厄介物、つまり出来損ないだったのです。「わたしも作ったことがある。あれがそうだったのか」と残念がる他社の技術者がいたそうです。

 三洋化成工業がこんなことをしていると知ったのは、同社広報室が刊行した「パフォーマンス・ケミカルズの開発物語〜この面白くもなんぎな仕事の歴史」(千五百円)という本をいただいたからです。自社出版で大手の書店に直接頼んで置かせてもらっているそうです。いろいろな商品の開発関係者の座談会を録音してから再構成しており、おかげで今回のシリーズ中で唯一、取材開始前からおおよその見通しが立てられました。ただし、お話の構成、素材は大きく違っています。戦後の繊維用油剤から始まってウレタン樹脂関係、界面活性剤、凝集剤などに面白い話がいろいろあります。京都には化学メーカーとしてはもうひとつ、第一工業製薬という「モノゲン」で有名な老舗があり、この本でも繊維用油剤の開発でそこに追い付こうと奮闘する経過が紹介されています。

 高吸水性樹脂の販路開拓について

 吸水樹脂の開発から販売への動きについて「はしょり過ぎ」とのメールをいただきました。そこで、手持ちの材料で補足します。

 七八年に市場開拓を担当したのは、連載に出て来る増田さんと、もともとマーケティング担当をしていた榊原幸一さんでした。研究者の増田さんは当初から農林用も含めて広く売るべきだと主張したのですが、宣伝畑から移った榊原さんは「世界中で使われたことのない商品だから、まずヒット一本打つこと。実績作りを」と説得、生理用品にしぼった売り込みを始めます。連載で指導して回った紹介した件は、樹脂をパルプとパルプの間にはさんでシートにする機械を作り、実演して見せては、その機械を一台ずつ配って歩いたという話です。

 しかし、それだけでは売れなかったのです。花王がほぼ同時期に開発して使い始めたことが普及に貢献しました。花王は生理用品に進出する構想をもっていてそのために戦略的に吸水物質を開発していたといいます。花王進出のニュースが流れただけで、既存の生理用品メーカーは三洋の樹脂に飛び付いたのです。そのあとで、紙おむつにも採用されるのですが、ここでも二割程度の育児家庭に普及していたことがバネになり、花王対既存メーカー間の競争拡大といっしょに伸びて行きます。

 現在、国内で生産している会社は十社ほどあり、日本触媒化学などは全量輸出です。欧米にも五社ほどあって、世界生産量は十一万トンくらい。国内がその半分です。三洋が八度も設備増強したと書いた通り、どこまで需要が伸びるのか開発者にも見通しがつかなかった新商品です。

 吸水樹脂の使途

 高吸水性樹脂の使い道は実に多様です。連載記事に書いたのはほんのさわりでした。取材をしていて、いろいろとおもしろい用途を聞かせてもらいましたが、まず、三洋化成が出しているパンフレットなどから抜粋してみます。使っている特性は、吸水して保持する力や膨潤力、ゲル化力、増粘性です。

 ◎衛生材料・・・・・・生理用品、紙おむつ
 ◎農薬・園芸・・・・土壌保水、苗シート、農薬肥料の崩壊助剤、キノコ培地
 ◎食品・流通・・・・鮮度保持剤、食品の脱水、しずくの吸収
 ◎土木・建築・・・・結露防止建材、種子吹付保水、ヘドロ固化、逸泥防止
 ◎化粧・トイレ・・ゲル芳香剤、使い捨てカイロ、保冷剤、携帯トイレ
 ◎医療・・・・・・・・・・創傷保護ドレッシング材、湿布剤、医療用パッド
 ◎電気・電子・・・・インクジェット記録用紙、通信線止水材、アルカリ電池
 ◎塗料・接着・・・・水濡れ塗料、水膨潤性塗料、船底防汚塗料
 ◎その他・・・・・・・・油中水分の除去、ガスケット、消防活動での水損防止

 例えば、鮮度保持というのは、魚や肉の余分な水分を取って鮮度やうま味を保つものです。また、冷凍する場合は三、四%の脱水をすると組織の破壊が防止される効果がありますから、この脱水法は有効です。全く知らなかった吸水樹脂の使途に、使い捨てカイロがあります。樹脂を使い始めてから、カイロの熱保持がずっと高性能になったそうです。カイロの構造は鉄粉、活性炭と食塩水を吸った吸収材を密封したもの。開封後に鉄が空気で酸化される反応の熱を利用します。酸化反応の促進に食塩水が要ります。以前はおが屑や木粉などを吸収材にしていましたが、吸収力があまりないから、べたべたして、通気性が悪く、大量に必要なためかさ張る難点があったのです。現在のは、昔に比べて、そういえば小型軽量ですね。

 農業用の使い方は、砂漠については鳥取大学などの研究が有名です。砂が多い土壌に〇・一から〇・三%この樹脂を混ぜると、トマトやチンゲンサイの収穫量が二倍にも増えました。この樹脂は水を含んだあと、非常にゆっくりと放して行くから、植物が利用できる水分が増えるとともに、肥料の脱落も防げる訳です。単位面積あたりに撒いた水の量に対する収穫量(かんがい効率というそう)も、同様に二倍程度になると報告されています。

 吸水樹脂にはひとつ、欠点があります。紫外線に弱いのです。永久に分解しない合成化合物は困りものですから、分解しないよりましかももしれないませんが、土中で二、三年しかもちません。空気中ならもっと早いようです。

 おむつに使うと、赤ちゃんのおむつ離れが遅くなります。布おむつでの子育でも経験したわたしとしては、これには目をつむります。出産後の女性にとって、布おむつ洗濯の労力は大変です。女性の社会進出と紙おむつ化が並行したというのも、この樹脂が商品として持つ社会的意味のひとつでしょう。


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 大量生産時代の計量を塗り替えた組み合わせ式計量機/石田衡器製作所

《《うちのヒット商品》》第12回・1990.1.19

 四十カ月近い景気の連続拡大で受注を膨らませている企業が多い。注文を処理するだけで人手が足りない現状を見て、はかりのトップメーカー石田衡器製作所の開発本部長、池田哲雄さん(47)は不安になる。「客からの注文をこなすだけで長期的に売れる商品は生まれない。当座は痛くても人手を割いて新規開発に回さねば」と思う。大量生産時代の計量を塗り替えた組み合わせ式計量機「コンピュータースケール」はいまや会社の製品群の中で主柱になっているが、現在では考えにくい経過で世に出た。

 一九七一年、営業と開発の若手グループが自動計量機の売上を伸ばすには、それまでの計量方法で手が着かなかったものに進出すればいいと思い付いた。それまでは重さと体積にばかり目が向いていた。「個数も考える計量の世界があるのではないか」。お蔵入りした見積もり依頼書やクレーム書類の束から、先輩が断念した仕事を探してみた。

 現場を踏んでひらめいた

 産業機械営業部の主任だった荒堀雅佳さん=現・石田ハカリ松山社長=(49)たちが見付けて来たのが、ピーマンとウインナーソーセージの計量だった。

 六八年夏、高知県の農協からピーマンの袋詰め計量を頼まれた。一袋に四から六個程度、規定の百五十グラム詰めて出荷する。人手に頼っているので、忙しいときは、ピーマンの重さがばらつくこともあって、 中身が百十五グラムから二百四十グラムにもなるありさまだった。同社から、小さめなピーマンをあらかじめ選別し、四、五個計った後で足りなければ追加する機械を納入したが、「実用的でない」と、半年で返品されていた。

 仕事の合間をみて、荒堀さんはピーマンの主産地高知、宮崎、広島を歩いた。農協の集荷場に農家の人が集まり、人海戦術で計量していた。繁忙期には夜なべ。袋詰め包装段階が自動化されていただけに、計量の遅れが際立っていた。「自動計量に挑んでみたい」と説いて回った荒堀さんに、高知県安芸郡芸西村の農協専務が「どんな協力でもしよう」と共鳴してくれた。

 グループは新規開発の上申書を出す。「なんでそんな難しいものを。現行商品の販売に精出せ」とはねつけられる。「企画のどこが悪いのか」と役員の間を聞いて回る。一、二ケ月して再びまとめた上申書もだめ。「自分たちで会社を興して商品化しよう」とまで思い詰めたときに「判断しかねる面があるときは、社員の情熱に賭ける」と、社長判断で破格の開発予算が下りた。

 十数人のプロジェクトチームが毎週会議を重ね、途中から電気系の数少ない設計技術者だった池田さんも加わる。容易に進展しない手詰まりを現場の知恵を借りて打開しようと、七二年秋、芸西村集荷場へ池田さんら四人が出向いた。農家の主婦がさっと三、四個まとめて計かり、残り一、二個を慎重に選ぶ作業を見て「あらかじめ一個ずつ重さを計っておき、組み合わせを選べばいいのではないか」と、アイデアがひらめいた。

 航空機で海外に納品

 ミカン箱二つ分のピーマンを持ち帰り、丸一日、模擬実験した。勝手に八個取った中から数個合わせれば、百四十八から百五十二グラムに入る組み合わせが必ずあった。

 豆ちくわ用の計量装置を八個分ぐるりと環状に並べ、米国で開発されたばかりの集積回路化された演算処理装置で制御、妥当な組み合わせ分だけ装置下部に落として集める試作機が、三カ月で完成した。

 七三年一月、芸西村の集荷場に持ち込む。組み立て、調整に二日かけた間、集荷場の機能はストップ、六百平方メートルほどの広場がピーマンで埋まりかけた。損害賠償の胸算用を始めたころ、動き始めた試作機は毎秒一袋以上、猛烈な勢いでに滞貨を一掃、翌日から夜なべの仕事が昼ごろには終わって、毎日が宴会になった。精度は誤差十グラムまでとしていた農協の希望をはるかに上回った。

 次のウインナーでは、定まった個数で組み合わせを選ぶ条件も加わったが、すぐに乗り越えた。農産物のほかに菓子、食肉、冷凍食品、乾めん類、漬物からボルトなどの金属部品まで、大量生産品で過剰に包装、出荷していた分を総量の五%は減らした。

 七九年になってうわさを聞き付けた海外からは、国内以上に熱心な引き合いが寄せられた。ポテトチップスを包むのに一割程度余分に入るのが常態だったから、価格七、八百万円の計量機を、完成する先から百万円の航空運賃をかけて届けさせるほど。

 現在の年間出荷千二百台、出荷累計一万台の半数以上は海外が占める。二年後にはコンピュータースケールの基本特許が切れるが、周辺の特許三百件で固めている。海外から全くのコピー機が出回るほど強さ。次の新分野は物流システムの開発だ。

 《会社》一八九三年、度量衡法の施行時に免許を受け創業。一九四八年に株式会社設立。売上高二百四十億円でコンピュータースケールなどの産業機が六〇%、小売・流通業界向けが三五%、残りが多方向自動仕分けシステムなど新分野。資本金九千九百六十三万円。従業員九百二十人。本社・京都市左京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 生まれて来る時を得た商品


 石田衡器製作所のコンピュータースケールは、かなり昔に開発された商品ですが、堂々たる現役だし、このシリーズとしては是非ほしいところ。それにしても、商品開発とはいったい何なのか、考えさせる話です。

 石田は基本特許は押さえましたが、小メーカーがまねするのを止めることまでは、訴訟の費用が引き合わないのでやりません。むしろ、かなりのメーカーがコンピュータースケール方式の組み合わせ計量機を出すことで、ユーザーにトレンドの変化を認識させることにしました。輸出が遅れたことが幸いして、周辺技術を蓄積、どのメーカーのものと並べて勝負しても、速度や精度、使い勝手で必ず勝つ自信を持つまでになっているのです。

 本文では触れる余裕がありませんでしたが、この開発には、はかりの構造がバネ式から金属の歪みで計るロードセル式に転換したことが貢献しています。初期の製品はバネ式で作られましたが、輸出が始まるころからロードセルになり、高性能、コンパクト化に拍車がかかりました。ロードセルは金属ブロックにひずみ計を張り付け電気的に測るもの。わたしが大学時代に使ったころは精度は低く、はがれやすかったりで使いにくいものでした。七五年末に米国への商談で訪米したメンバーがロードセルのはかりが出たとの情報をつかみ、一年ほどでものにします。各社が争って転換するので接着剤などの技術が一挙に進展、商用に使えるようになりました。バネがなくなって、はかりの本体は極めて小さくなり、製造コストが半減してしまう劇的な変化が起きました。

 取材ノートをめくり返して、この商品開発が画期的な成功に至った要因を当事者たちがどう思っているのか、わたしの印象で整理します。

 米国のポテトチップは日本より大きく、一枚三グラムくらいで、これを三十グラムとかで包装するケースが多いそうです。規定値よりマイナスは絶対だめなので、かつての計量方式では三十グラム詰めなのに、三十三グラムくらいの製品が相当あったようです。誤差は単体一個分くらいはやむを得ないと考えられていたのです。それでも一個の重さが大きなピーマンよりはましだったと言えます。まず第一要因は、ピーマンという小手先の技が効かない、とんでもない相手を選んだことでしょう。池田さんは「六つ方法を考え、最後に一番難しい方法で成功した」とおっしゃってました。

 次いで、記事に書いたとおり開発を主張した営業など若手のしつこさ、農協の手作業計量現場でのひらめきが。社会的には、繁忙期は正常な家庭生活ができなくなるほどの夜なべの連続を何とかしたいと思っていた農協専務さんの思い、技術的には米インテル社が四ビットながら演算処理IC、マイクロプロセッサーを売り出していてくれたことが支えになりました。初期の四ビットではデジタルで組み合わせの計算をすると何秒も時間がかかるので、計算だけアナログ回路でやり、機構部の制御をマイクロプロセッサーに担当させました。もし制御用の論理回路を自分で組むのだったら、全社で電気系の設計技術者が二、三人だった当時では耐え切れない作業で、実現は無理だったでしょう。

 商品には生まれて来る「時」があるんですね。

 オリジナリティの高い仕事

 「重さや大きさがランダムなものを、一定量に、精度高く仕分け包装するのはスゴイ」「地味でどうってことないようで、なかなかの技術です。まずテレビでCMなんか流れないだろうし、こういう機会でもないと、ヘエーッと感心することも出来ません」「なんか、ほのぼのして好きだなあ。ピーマンなどの袋詰めがこんな風にして計られていたなんて、知りませんでした。人間、なんでも考えちゃうもんなんですね!僕には、商品開発の発想がとんでもないほど面白い、と思えた話でした」

 この話は当たり前と見るか、すごいと見るか、読者の意見が分かれたようです。わたしは後者に近い立場で取材しました。そして、どうして測っているのかなと、折に付け抱いていた疑問が解けた思いがしました。あの漬物の小袋もこうして計っているのです。人手ではたまりません。お三人の方の感想と同意見です。日本が創造した電子機械技術商品の中でも、相当高い地位に置いてよいものではないか、と勝手に考えています。そのオリジナリティを高く買いたいのです。

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 着心地への目を開かせた形状記憶ブラジャー/ワコール

《《うちのヒット商品》》第13回・1990.1.26

 中央研究所は作ったけれど目覚ましい成果が上がらない――研究開発のシンボルだった中研の設置ブームに反省の声が聞かれる。衣料メーカーとしては珍しく、研究スタッフ四十人の中研を持つワコール。その中野広・中央研究所長(55)にも「中研は何をしているのか」と、運営経費を分担している各事業部からの不満が届いていた。同社の中研は、もともと開発ではなく、調査研究を業務にして来たのだからなおさらだ。

 一九八二年三月、入社六年目、人間工学を担当する篠崎彰大さん(36)=現・基礎研究チーム係長=が、中野所長に呼ばれた。「現在の仕事を全部外れて、ぶらぶら社員をやらないか」。将来、新しい仕事を会社にもたらす可能性がある先端技術を探せとの課題だ。辞令を出すのではなく、所長の一存である。

 合金メーカーの意表突く

 所長就任後、所員一人ずつから聞き取りをし、世代別、仕事への取り組み方別でグループに分け、中研活性化策を考えた。例えば、若手でも今の仕事に執着している保守的なグループは、集団教育でやり直しを図る。

 柔軟性があり、しかも、職場から離れた孤独にも耐えそうと見えたのが篠崎さん。阪大基礎工学部との女性の体形ライン数値化プロジェクトを任せ、大学での足掛かりも用意した。

 「元の職場に寄るな、下着はやるな」と指示され、篠崎さんはハイテクのショーやセミナーを五十カ所以上回った。若者が集まる盛り場に出掛けたり、世の中がどう動いているのか情報を仕入れに走り回った。

 八三年三月、東京で形状記憶合金のセミナーが開かれた。ニッケルチタン合金は、ぐにゃぐにゃと自由に曲がるのに、合金組成から決まる一定温度以上になると、元の形にぴたりと戻る。「面白い」と思えば、いつもアイデアスケッチをする習慣にしていたので、へこんでも元に戻る自動車ボンネット、姿勢を正しくする器具などを考え出したが、どれももらった資料集に類似品があった。それでも、形状記憶合金ワイヤが折れにくいことに妙に引かれた。

 三カ月後、心の中で気になっていたこととようやく結び付いた。社内向けに年に一回、クレーム品展示会がある。ブラジャーには半円形に支える下部ワイヤの有無で二種類あり、鋼鉄のワイヤ入りは胸の膨らみをよく整えるが、洗濯するとワイヤの形が崩れたり、ぽきぽき折れたりして、たびたび展示されていた。「形状記憶合金のワイヤなら、肌に着ける温度で最初に覚えさせた形に戻すようにでき、しなやかなのだからブラジャーに向いている」

 用途は伏せて古河電工にサンプルを注文した。出来合いのワイヤでは思うに任せない。十月、下着メーカーからの引き合いを不審がる技術者をわざわざ会社に招き、「こう使う」と打ち明ける。相手から「オー」という驚きの声が漏れたくらい、意表を突いた使い方だった。

 デザイナーが知らなかった女性の好み

 試作開始。しかし「ブラジャーの機能から外れる」と、社内のデザイナーから指摘された。形状記憶性能をちょうど良く発揮するものは、柔らかすぎて乳房を支えないという。合金組成を変えて元の形に戻る温度を零度まで下げたら、合格点の硬さになったが、今度はもろくなり、折れるようになってしまった。

 女性はどう思っているのか。あきらめ切れない篠崎さんは人間工学の知識を生かして着心地テストを工夫、実施に踏みきった。二百五十人にブラジャー十種について乳房の安定度、かけ具合など二十項目を五段階評価してもらった。別のブラジャーに着け替える前に一度、自分のブラジャーに戻して違和感を除いた。

 一対一比較を繰り返して、最終的に好みのブラジャーを選ぶ従来のテストとは、違った結果が出た。デザイナーが主張するようなブラジャーの「通」は二、三割の少数派だった。大半はエチケットとしてブラジャーを着用していて、合金ワイヤ入りのブラジャーは「楽で、心地よい」と高い評価を得た。

 前年からソフトな装着感がある商品を開発し始めていた柏谷久美・商品企画課長(45)が飛び付いた。鋼鉄製に比べてワイヤが五倍高価な欠点を補うために、各部門が協力してデザイン、工程に工夫を凝らした。

 八六年の発売で七十五万枚を売り、八九年は百二十万枚と主力商品のなかに定着した。合金ワイヤ断面の工夫から曲がりにくいものが出来て、鋼鉄製との中間に入る着心地も実現した。ワイヤ無しと併せて六種類の装着感を選べるセールスポイントが出来た。ブラジャーで目を開かせられた下着の着心地を、ガードルなどに応用する作業が進行中だ。

 中研のほかのグループからは足の健康に良い靴や、体形を整える水着などさまざまな新製品が生まれ始めている。

 《会社》一九四六年、婦人洋装身具卸売の和江商事として創業。四九年会社設立。年間売上高一千七十九億円で、ファンデーション四〇%、ランジェリー三一%、ナイトウエア一三%のほか、スポーツ着、水着、男性や子供向けの衣料なども。資本金百二十九億円、従業員四千四百人。本社・京都市南区。

 《パソコン通信でのコメント》

 形状記憶合金「離陸」の立役者


 ワコールは、任天堂などと並ぶ京都の「名物企業」です。ワコールの本社を訪ねると、本当に女性が多いのに気が付きます。社員の三分の二は女性です。しかし、今回も主人公は男性です。商品開発はまだまだ男の仕事という企業が多いと感じます。ただし、きっかけになった「ぶらぶら社員」には、篠崎さんのほかに女性も一人チャレンジさせています。しかし、あまり目覚ましい成果が得られなかったそうです。通常の仕事では、もちろん、女性のデザイナーたちが活躍してます。

 商品化の当時、形状記憶合金の使い方として本当に驚異的でしたが、現状でみるとヒットはしたものの爆発的ではありません。実は、朝日新聞の先輩でフリーになられた方が、やはりこのテーマで早い時期にルポを書いていらっしゃいます。今回のはそれとかなり違っていますが、それは、わたしがこの商品の意味を下着メーカーなのに手がつかないでいた「着心地の科学的な検討」に至らせた点に重きを置いているからです。

 このブラジャーの登場で形状記憶合金の用途に飛躍が生まれ、値段が下がりました。現在、需要の半分を占めているのです。八四年にはキロ当たり十万円もしていたのが、ブラジャーのおかげで五、六万円にま下がったのです。それでブラジャー一枚当たり二百五十円程度になり、鋼鉄製の五分の一という計算です。ブラジャー以外の用途では、医療器具、眼鏡のフレーム、コーヒーメーカーなど調理器具のバネに既に使われています。

 着心地の科学

 「確かワコール製品にサイズなどの計測可能な基準と共に、着心地の分類が記載されています。表示と実感が合うものかどうかは知りませんが、あえて非定量的なものを示した点に素晴らしさを感じます」という、指摘の着心地の分類こそ、形状記憶ブラジャーが成し遂げた新展開です。連載の本文では書き切れませんでしたが、三つの着心地とは、ワイヤ入りブラの場合、ハードは鋼鉄ワイヤ入り、ソフトはもともとの円形断面の形状記憶合金ワイヤ入り、マイルドは異形断面にしてちょっと硬くした形状記憶合金ワイヤになっています。それに対応して、ワイヤ無しのブラにもソフト、マイルド、ハードの三種の着心地が設定されて、計六種の着心地が出来ました。篠崎さんが女性がブラジャーに求めているものは何か探るまでは、考えられなかったことです。

 「『楽で、心地よい』ブラジャーが評価されるということは、実用上は特に必要ではないということなるのでしょうね。なるほどと、妙に納得してしまいました」。

 鋼鉄製ワイヤ入りブラは乳房の立体感を出します。これはモアレで測ると歴然とします。しかし、疲れる面もあるようで、これが一番とする女性にも、プラベートタイムは形状記憶ブラの方が好ましい、と答える人がかなりいるようです。消費者のニーズの構造は、作り手が機能から勝手に考えるのと違うことをはっきり示して示唆的です。ハイテクがこんなに人間的な真実を明らかにしたんです。「それまでファジーは嫌いだったけど大好きになって、いろいろ応用してます」とは篠崎さんの言です。

 「最初はデザイナーが反対したけど、実際はユーザーはそういう風に考えてなかった、ということですが、どんな点にデザイナーとユーザーのギャップがあったのか」教えてとのご注文です。

 ワイヤ入りのブラジャーには、U字形のワイヤが2本、W字に縫い込まれいています。従来の鋼鉄製は硬くて曲がらないので乳房の下端をしっかり押え、乳房が盛り上がって見えます。これに対して、形状記憶合金製のワイヤはしなやかなので乳房の圧力で曲がってしまいました。「ブラジャーは乳房の形を整える」のが機能だとデザイナーは考えていたのですから、ぐにゃっと弾性変形してしまうワイヤなど無意味に思えた訳です。篠崎さんは、その常識が本当かどうか検証、多くの女性はそんなに整形性が良くなくても楽な方が良いとする事実を見付けました。一方、後の異形断面の合金ワイヤは曲げに対して強く、最初の合金ワイヤよりは乳房の圧力に抗して形を整える力があります。

 ご存じのように、国内でブラジャーが使われるようになったのは、ワコールが戦後に広めたからです。ワコールは下着について専門知識を持つ販売員を養成し、「セールス・レディ」と称してデパートや専門店に派遣、「コンサルティングセールス」をすることで他社との差別化を図っています。それだけ自信を持つメーカーなのに、消費者の本当の使い方が分かっていなかったのです。女性の多くは適性サイズより小さ目のブラジャーを選ぶ傾向が知られていて、これで硬いワイヤではますます苦しいという事情もありそうです。篠崎さんの検証は適性サイズでのテストですが、形状記憶合金ブラジャーが一般市場で喜ばれる要因になっているかもしれません。

 下着メーカーの基礎研究

 篠崎さんが、ぶらぶら社員時代に大阪大、現在は京都工芸繊維大にいらっしゃる黒川先生と共同研究した内容を、科学部時代に記事にしていましたので、以下にさわりを紹介します。

 〜日本女性のシルエット 百七十三点調べれば 九九%の人が表現可能〜

 複雑な曲線で構成される女性のシルエットを、わずか百七十三の点でとらえることによって電算機で描き出す手法を、黒川隆夫・京都工芸繊維大助教授(人間工学)のグループが開発した。これによって、見掛けの形状や、一部の寸法で分類するといった方法しかとれなかった体形を数値化し、統計学的に分析する道が開かれた。二次元のシルエットで成功した手法を、三次元の人体そのものへ拡張する研究も進んでおり、体に合った衣服の自動生産や、人種民族の差をつかむ人類学への応用も期待される。

 分析の対象にした体の範囲はあごの下から、足首まで。下着メーカーのワコール中央研究所の協力で、五歳から五十四歳までの女性三百四十七人の写真から得られた正面と側面のシルエット(輪郭線)を点に分解してみた。

 点に分解する方法として、首、わきの下、そけい部など、目で区別できる点を両端とする十五の曲線に分けた。それぞれの曲線をいくつかの区間に等分、各区間を直線で結んだ場合と、元の曲線との誤差が五ミリを超す区間はさらに二等分し、全部の誤差が五ミリ以下にしていく。

 こうしてできた点の中から、まれにしか必要としない点を除いて共通の点を拾い出すと、百七十三の点を使えば日本女性の九九%以上の人体曲線が表現できると分かった。各点は分割によって生まれているから、体格の差にあまり関係せず、背中なら背中の線の同じような場所に位置しており、平均をとるなどの計算に意味が出て来る。

 計測データから、世代別に四グループにし無作為に十人ずつ抽出して平均した。四つの平均体形は日本女性の変化をよく表現しており「それぞれの時期の特徴をとらえている」と専門家から評価された。

 解析を進めると、年齢とともにヒップは下降するとと思われていたのに、実際には変化がないことや、出産によって肉がつくのは腹部とウエストで、ヒップラインには変化がないことなども分かった。

 →→黒川さんたちは、二次元の体形に止まらず、三次元の人体を扱えるよう細かな平面の組み合わせで近似する手法もほぼ完成していて、何十人かの女性の顔を「平均」した像を画面に描かせたりしています。これも記事にしてあります。

 中研その後・・・

 「ハイテクと女性用下着の組合せといった意表をつく商品開発に驚きました。ワコールをイメージ・メーカーの側面から見ていた私にとって、再認識させられた記事でしました」「新素材も利用の仕方で生きるか死ぬかが決まるという典型だと思います」

 この開発の火付け役になった同社の中央研究所は、九〇年四月一日付けで発展的に解消されて、「人間科学・商品研究開発センター」と「生活デザイン研究開発センター」に分割されました。前者は人間工学に快適性工学などの要素を加えた科学的アプローチを重視し、後者は生活側面の行動、ファッション動向などを調査して成熟してきた市場に受け入れられる商品開発をしようと意図しています。

 「なんたって、この異業種の組合せの妙味。一八九〇年にコルセットを二つ切りにして、ブラジャーが発明されて以来の壮挙ではありませんか。どのくらい使いごごちがいいのか、試せないのが残念」との疑問には、女性の読者から答えが寄せられています。「こいつには、お世話になっていますから。ワイヤがしなやかで、着け心地よろしいのですのよ。よくぞ開発してくださいました。感謝」

 「ブラブラ社員と形状記憶合金の関係以上に、例のブラジャーが、下着のポストモダンだということがよくわかりました。同時期に科学朝日でワコールの特集がありましたが、そこまでは踏み込んでませんでしたね」

 ニーズをどうつかむか難しいとはよくある話です。しかし、この商品はニーズとは別の地点から「発生」して、現実のニーズをつかんでしまうのでした。わたしにも意外な展開でした。近代合理性とは離れた「ポストモダン」−−確かにそうかもしれません。同社が九〇年に出した、肩ひもなしでもずれ落ちにくい、アモルファス金属繊維とステンレス繊維をより合わせたワイヤ入りブラジャーは、その意味では常識的な発生の仕方をたどったと聞きます。

 「形状記憶合金では、京都リサーチパークに入居しておられる星和電機さんが、ユニークなものを発表されてましたね」

 これはご存じない方が多いと思います。道路凍結の自動警報器です。一定の温度以下になると「凍結注意」の表示が出ます。記憶合金をばねで引っ張って置いて、ある温度以下になると曲げられるので表示板が動く仕掛けだと記憶しています。最近、「STOP」の表示にし輸出を始めました。

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 トマトのイメージを一新した完熟用トマト/タキイ種苗

《《うちのヒット商品》》第14回・1990.2.2

 普通銀行転換で山陽相互銀行から改称したトマト銀行(岡山市)が、一九八九年十一月、東京支店の開設初日で銀行全体が一年間に集めた預金額の二倍を獲得して話題になった。真っ赤に熟れたトマトの健康イメージを、うまく取り込んだのが人気の秘密。しかし、少し前まで国内のトマトはそんなに真っ赤で甘くはなかった。多くは青く酸っぱいまま出荷され、赤いトマトは店頭で古くなったものに多かった。

 滋賀県甲西町にある研究農場で果菜課長を務める住田敦さん(46)がタキイ種苗に入社したのは、農場がまだ京都府長岡京市にあった六六年だった。この時期、トマト産地の集団化が進んで病気の発生が相次ぎ、国内で作れるトマトが無くなる恐れすら生まれた。「強力米寿」など耐病性品種の開発に加わった。

 熟しても固い果肉求め

 七〇年代に入ってようやく病気の危機を脱したら、今度は「トマトがおいしくなくなった」との評判が立った。味にも目を向けないと、と思いつつ、住田さんたちはまず、露地物に雨が掛かり実が裂けるのを防ぐ地味な品種改良から始めた。

 現在、栽培されている野菜の大半は、農家が自分で育てて種を取って植えても使いものにならない。優れた別々の性質をもつ親二種を掛け合わせて、性質を兼ね備えた雑種第一代を種にして販売しているから、その第一代を育て種を取ってまくと、第一代のほかに商品にならない分まで現れる仕掛けだ。品種改良には、計算された二種の親を作らなければならない。

 在来種よりはっきり甘い品種を作りたい――との目標が浮かび上がった。手持ちの材料から思い付いたのはミニトマトの甘さ。重さは普通のトマトの十分の一以下ながら、ずっと糖度の高いものがあった。ミニ品種と普通品種を交配すると、甘いが大きさは中くらいのが出来た。さらに普通品種と交配を繰り返し大きくしていった。交配によって甘さを無くさなかったものだけ慎重に選び分ける。トマトだけで常時一万株の世話をしながら選別作業を続けた。

 しかし、もう一方の親品種の開発が進まなかった。成長力、耐病性の要素は加えられたものの、足踏み状態が続いた。

 七〇年代からトマトを畑で完熟させて出荷する試みが一部で始まり好評を得た。中でも他社が出している、先のとがったハウス栽培用品種は真冬出荷分が完熟向きとされ、評判が良かった。ハウス用の種市場を大きく奪われ、社内から「育種の方向を転換して、先のとがった品種に」との声さえ出た。

 従来タイプのトマトを完熟させることには問題があった。もともと柔らかい実が、熟させると柔らかくなり過ぎた。輸送や、店頭での扱いが大変になる。解決策を模索していた七五年、米国の文献で栽培種ではないが従来になく果肉が硬い品種の存在を知った。

 初年度の種は売り切れ

 「早速、輸入して農場で育てると素晴らしい性質だった」と住田さん。これを生かせば、畑で十分に熟れさせられる。残る片親にようやくめどが付いた。結局、直系の品種だけで七つ、遠い血を引いたものを含め二十品種がかかわる大系図が出来上がっていた。

 両親候補の品種の性質を固定させるために年々栽培を繰り返しながら、雑種も作って微妙な性質の差を見分けて選抜を進めた。当初から十年余り、夏秋出荷タイプのトマトに目鼻が付いた。八一年夏に「242番」と名付けられたトマトが結んだ実を見て、住田さんと担当の研究員加屋隆士さん(35)は、この品種を世に出す決心をする。

 役員らで構成する品種審議会を農場に招いた。消費者からイメージが変わり過ぎと思われないかと懸念もあったが、とろりと厚い果肉、高まった糖度の前に吹き飛んだ。社内で募集した品種名は、明るく元気なイメージから「桃太郎」に決まった。

 発売前の試験栽培を頼んだ農協が一年作っただけでほれ込み、他産地にない特産にしたいと従来品種から全面転換した。しかし、八四年発売時、生産部次長だった伊藤繁治さん(53)=現・開発部次長=らは楽観できなかった。種の生産を頼んだ農家の収穫は大幅に落ち、作りにくい欠点があった。

 農家の栽培が始まり、青果市場に出荷した反響は予想を超える好評だった。従来トマトより何割か高値で取引された。間もなく都市の大市場では「桃太郎でなければ」と言われるほどになり、完熟青果ブームを代表する存在になった。

 栽培方法の工夫が進み、夏秋トマトの八割は桃太郎になった。追い掛けて開発していた冬春用「ハウス桃太郎」は八九年秋に発売して初年度分の種が売り切れてしまい、一気にシェア六割に達したと見られている。

 《会社》一八三五年創業、種のトップメーカー。市場占有率が五割前後の野菜は白菜、大根、カリフラワー、ニンジンなど数多い。子会社にアメリカンタキイを持ち、米国でもキャベツ、ブロッコリーなどが強い。年間売上高三百六十六億円。資本金二億円。従業員七百五十人。本社・京都市下京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 ヒット確率は五十分の一


 タカラブネのまんじゅうに続いて、食べ物関係の第二弾、タキイ種苗の「完熟用トマト」です。社外秘のオフレコが多く予想外に難しい取材で、工業的に作れる菓子のようにはいきませんでしたが、種子ビジネスの現場が何をしているのか、感じはつかんでいただけたでしょう。

 工業製品の開発にも挫折あり、曲折ありで時間がかかりますが、相手が植物だとたったワンステップ進むのに半年なり、一年なり要ります。実験して数時間から数日間で結果を得るのと比べ、あまりに気の長い歩みですね。この「桃太郎」シリーズは異例の大成功を収めました。しかし、同社から年間に出される新品種は十五種くらいで、まあまあのヒットといえる存在は三年間にひとつ、つまり、五十分の一くらいの確率だそうです。消えてしまうものが多い、それぞれの品種にかけた時間と労力の膨大さを考えると、他人事ながら、うなってしまいます。

 なじみにくいのは「F1」と呼ぶ雑種第一代が商品になっていることです。品種改良は目的とする品種そのものを作るのではなくて、掛け合わせる両親の品種を作ります。種の生産を頼む農家には、その両親の種を渡して育ててもらい、開花する二日前に小さなつぼみを開け、母になる花からは雄しべを取り除いて父になる花から取った花粉で授粉します。栽培種は実を取るのが目的で改良していますから花は小さく、授粉の歩留まりは悪いそうです。記事で触れた通り、雑種第一代から種を取っても商品にならない苗が現れ、苗一本から一万円くらいの収入をあげる現代の集約的農業では損害が大きいので、種は必ず買うことになっています。

 こうした種子ビジネスを大きく変えかねない動きがあります。新品種の開発者には種の複製権を与えようという法律案です。タキイ種苗は細胞融合技術を使って有望な新品種を開発したことがあります。この方法では雑種第一代を作る方法が使えず、売るべき品種そのものがいきなり得られてしまいます。だから、発売すると種を買った農家や競争相手がそれから種を取れてしまい、開発者には苦労だけでメリットが残りません。結局、その有望品種は発売を諦めて、社内の従来型品種改良の素材に回しました。

 複製権が認められると、こうしたケースでも発売が可能になります。ただしバイオ技術はいまや種苗会社に限らず多数が手掛けているので、思いもかけない会社から新品種が現れ、種子ビジネスは大乱戦になるかもしれません。それに、自然の時の流れと無関係に実験室内で進む開発サイクルになって、激戦必至でしょう。

 来世紀はバイオの時代だといわれます。そのためには技術だけでなく、素材になる遺伝子資源を豊富に持っていなければなりません。日本は、国のレベルでは遅れていますが、タキイのような民間会社はそれなりに頑張っているとみました。種苗業界は、タキイと関東にあるサカタのタネの二社が過半を抑え、ほかに百社ほどがある寡占業界です。

 スイカ並に甘いトマトも

 食べ物の話だったのに連載の中では味の描写をする余裕がなかったら、「スーパーで売っているトマトは、何というかトマト魂が無いというかそれなりの味でしかありませんでした。桃太郎との出会いは、去年の夏辺りに近所のスーパーでの対面が最初です。食べてみて、いっぺんで気に入ってしまいました。トマト特有の苦みともえぐみとも付かないあの味がするではありませんか」と、コメントをいただきました。

 完熟トマトにしたおかげで、タキイの桃太郎は糖度六から八あります。在来種が四度程度なので、差ははっきりしています。トマトに水分を少ししか与えないで小振りだけど、濃厚な中身に栽培する技術を持った篤農家があり、桃太郎をこの方法で育てるとなんと糖度十二度に達し、これはもうスイカの糖度です。まだ、食べたことがありませんが、どんな味になるんでしょうね。ちなみにメロンは十五度くらいです。

 昨秋発売のハウス用桃太郎が、爆発的に売れていることは連載で触れた通りです。年間を通して桃太郎の普及は非常な勢いで進んでいますから、間もなくどこの売り場でも一般的になると思います。「これからは桃太郎というだけでは売り物にならず、栽培方法での差別化が話題になるでしょう」と、タキイの開発部はみていました。消費者にはうれしい話です。

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 移動体通信を離陸させたマイクロ波フィルター/村田製作所

《《うちのヒット商品》》第15回・1990.2.9

 自動車電話・携帯電話は一九八九年中に国内で三十万台にまで普及、世界で四百五十万台に達した。狭い範囲でなら持ち運んで話せるコードレス電話は家庭に入り込み、九〇年は国内だけで三百万台以上売れそうだ。

 いずれもテレビの電波より高周波のマイクロ波を使う。電電公社(現・NTT)が最初に試作した自動車電話は体積七リットルもあり、うち二リットルは、アンテナから入る電波から望みの部分だけ取り出すフィルターが占めた。当時のフィルターは内部に空洞が必要な構造で小型化の難関になっていた。セラミック製フィルターの登場が体積を千分の一に小さくし、電子回路部分の集積化と併せて移動体通信に現在の姿をもたらす原動力になった。

 素人の焼き物づくり

 七一年、セラミック素材を得意とする電子部品メーカー、村田製作所の検査課に、物質にマイクロ波を当てて状態を調べる物性測定器が米国から購入された。西川敏夫・検査課長(54)=現・技術本部副本部長=が「人工衛星用部品なので、納入先の要望もあってきちんとした測定をしたい」と希望したからだ。

 「いい製品を作るのに測定が重要」との社長方針で、ぽんと買ってもらえた二千万円の買い物なのに、一度使えば済むほどしか仕事はない。間もなく組織替えで技術開発に転じた西川さんと、技術担当の脇野喜久男・常務(64)=現・専務=との間で、「もったいない。マイクロ波を通すセラミックの開発に生かそう」と話がまとまる。少し前に、大学の研究者から「現在のセラミックはマイクロ波を通さない。通るようになれば、広く応用される可能性がある」と教えられていた。  検査課から担当者に選ばれたのが、大学の修士課程を卒業して入社したばかりの石川容平さん(43)=現・第一高周波部品開発部次長。材料開発には全くの素人だったが、物性測定器を使いこなした点を買われた。

 七三年初め、材料開発部へ出向して、出来合いのセラミック材料百種類ほどを片っ端から測定してみた。どれも使いものにならなかった。結局、在来のものと全く別種のセラミック作りを、一から始めなければならないと分かった。先輩の材料研究員にセラミックの調合から焼き上げまで習い、手当り次第に各種原料を調合してみた。夜に炉に入れ、翌朝出社して取り出し、午後に測定の繰り返し。つい夢中になって、高熱が冷めぬままのセラミックを何度も素手でつかんだ。

 全数失敗の報告書を数え切れぬほど書き続けた後、「最初からフィルター性能を高める方向を考えるより、遠回りでも安定性を狙う方向がある」と、材料部門の先輩が助言してくれた。それがきっかけになって、年末に、焼き物にするために混ぜねばならない粘土分を極限まで減らせば、ジルコニウム・スズ・チタンの組み合わせでマイクロ波が通ると発見した。

 シカゴでの実地試験に圧勝

 従来のマイクロ波フィルターは、音が筒の中で共鳴するように、電波を電極の間ではね返らせて共鳴させる空洞をもっていた。空洞の部分にセラミックが入れば空中よりも速度が落ちるので、ずっと小さくて同じ共鳴効果が現れるはずだ。石川さんは翌七四年に、西川さんが室長を務める高周波開発室に移り、中心になって新しいセラミックを使ってフィルター作りに掛かった。

 電極の間の空洞にセラミックを詰める発想では、何度試みてもすき間が出来て失敗した。大転換して円筒状セラミックに銀の粉をまぶして溶けるまで加熱、銀の膜がセラミックに張り付く形の電極作りに成功する。米国での国際会議で脇野さんが七五年に発表、世界の通信機器メーカーが苦労していた高周波フィルターが、一部品メーカーから超小型化されて現れたことに、各国の専門家は信じられない表情だった。

 最初の商品化はテレビ局が中継に使うマイクロ回線用のフィルター。次いで、始まった自動車電話開発へ飛び込んだ。米国電話電信会社が大規模な実地試験をすることになり、国内からは沖電気工業が参加した。沖電気は自社製のフィルターを使う方針だったが、使ってほしいと強引に届けたフィルターが米国側の技術者の目に留まった。

 それまでマイクロ波フィルターには周波数を合わせるために微調整がつきもので、何十も調整つまみがあった。西川さんらは、自動車に載せるのだから振動などの悪環境に耐えるようにと、完全無調整を目指し実現した点が評価された。

 焼き上げれば元の体積から二割は目減りするセラミックは同一寸法で作るのも難しく、完全無調整は非常識と言える目標だが、「素人の強みで不可能とは考えなかった」と石川さん。粘り強い測定で生産工程の欠陥を見付け出して数段高度化、焼けたセラミックを全数測定してフィルター設計の方をセラミックに合わせる方法を開発した。そのために、当初は一台だけ買った高価な物性測定器が、工場に数十台並ぶことになる。

 七八年、シカゴで日米三社が千台ずつの自動車に電話を載せて走らせた実験は、沖電気製だけが満足な性能を発揮した。七九年に国内で始まった自動車電話には村田製のフィルターが百%採用され、衛星放送受信用など用途が拡大した現在も市場の六割を押える。

 《会社》一九四四年創業、五〇年株式会社化。内外の子会社四十社との連結売上高、二千四百三十億円の内訳はコンデンサーが四〇%、抵抗器九%、圧電製品一七%、コイル一三%、回路製品一一%など。資本金三百九十五億円。従業員は単独で三千五百人、生産をまかせる子会社と合わせ一万八千人。本社・長岡京市。

 《パソコン通信でのコメント》

 開発目的が分かる素人


 京都には優秀な電子部品メーカーがそろっています。今回の村田製作所を筆頭にローム、ニチコンなどですが、商品開発ストーリーとしては地味で扱いにくい面があり、なかなか登場させにくかったのです。

 村田のマイクロ波フィルター、商品名なら「ギガフィル」の話、いかがだったでしょうか。思い切って単純化してありますから、技術的な厳密さには妥協があると思ってください。取材対象の皆さんはものすごく難しい物性物理の説明をされたので、科学部時代からの「腕力」で、ばっさりと単純化してしまいました。

 石川さんは大学では素粒子物理から核磁気共鳴の実験物理を専攻して入社、本当にセラミックの分野は素人でした。「商品になるかどうか分からないものに主力部隊はさけなかった」「セラミック材料が分かる人間か、素人でも開発目的が分かる人間にするかの判断だった」そうです。一連の過程を取材すると、材料に強い常識的な技術者だったら、まず成功しなかったと思えます。「素人の思い込みで出来た」と石川さんは振り返っていました。何個かのセラミックを組み合わせてフィルターは構成していますが、ある学者の論文の曲解から思いついた構造を採用し、結局、誤解に基づいたその構造が一番良かったといった不思議なエピソードもあります。

 寄せられた感想では「開発済みの新素材の応用でも、目標とする機能と材料特性の把握は困難です。全く新しい材料からの開発は、未知の世界の探索という到着地が不明の仕事です。『素人の強みで不可能とは考えなかった』との言葉を、重く受けとめました」「技術者の苦労と、常識に囚われない素人の強みの組合せがおもしろい」といった意見が聞かれました。前のコメントは同じ技術者としての思いです。

 特許取得失敗の悔い

 日本の特許庁はこのフィルターに特許を認めませんでした。別の用途に動作原理は全く違いながらも似た構造の部品があったからです。このため、村田は基本特許を得ていません。「米国に出願すれば取得出来た」と、モトローラとの摩擦が起きてから悔やまれています。売上高は月に億円の単位ながら、これを踏み台に、単なる部品メーカーからもっと高度な構成のコンポーネンツ、サブシステムの会社へと伸び始めます。

 これについて「何たることと思いました。もしその技術が日本の特許庁の判断するように『別の用途に動作原理は違いながらも似た構造があった』ものなら、独創性を否定しているのではなく、単にその技術の進歩の度合を軽く判定していたにすぎません。その点を論破すれば良かったのであり、それが出来なければ、米国に出願しても難しいのでは」との指摘が出ました。

 この話は、開発当事者から聞き、「あの時は、こちらも特許の取り方がよく分かっていなかった」という悔しいコメントが付いています。試作段階では各社ばらばらの構造だったのに、本番の製品で完全に他社からコピーされてしまいます。ただ、モトローラ製のフィルターは、使っている共振のモードが違っているそうです。このあたりは固体物理の話で本当に難しいところです。

 特許については、製品化までの曲折でいろいろ話題が多いようです。村田製作所は主要なセラミック材料にしているチタン酸バリウムの開発史をまとめた「驚異のチタバリ」を九〇年三月に丸善から出版しました。この材料は日本を含めて四カ所で独立に見付かったのですが、特許は米国グループが取得しました。この特許は同じ有力な圧電材料PZTも縛りかねなかったので、同社は電子材料としては異例に多額な特許料を支払います。しかし、製品化に本当に成功し、数千億円の市場を開いたのは同社だけだったと、紹介した記事が入っています。

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 使い手に優しくME化したフォークリフト/日本輸送機

《《うちのヒット商品》》第16回・1990.2.23

 コンピューターの中央処理装置を集積回路一個にまとめたマイクロプロセッサーを、頭脳として組み込む製品が増えている。工場や事務所の自動化機器はもちろん、家庭なら炊飯器、自動車、エアコン、テレビなどマイクロエレクトロニクス(ME)化が当たり前になった。

 電動式フォークリフト最大手の日本輸送機で、一九八六年夏、二本の腕が前に伸びて荷物の荷重を支えるリーチ型フォークリフトのモデルチェンジ話が持ち上がった。ME化はフォークリフト業界にも押し寄せ、有力競合メーカーの次期製品には本格的に搭載されそうだった。

 乱暴な機械を電子制御

 全長一・八メートル、幅一メートルの車体で一トンの荷物を持ち上げ、道幅一・五メートルの直角な角を曲がれる主力製品。排ガスがなく、冷凍庫内など食品の荷役に欠かせない。駅の狭いプラットフォーム用に国内で初めて開発し、商品名「プラッター」が普通名詞化しかけた存在なのに、市場占有率は四割へ向け下降し続けていた。「せめて五割は回復したい」と願って、上里允昭・常務(59)ら常務会はゴーサインを出した。

 技術部開発課主務の菅勲さん(45)たちは「コンピューターを載せるなら機能を使い切ろう」と提案した。直前まで別機種のモデルチェンジをリードした菅さんには、苦い反省があった。コストにこだわり過ぎて新味が盛り込めず、出来上がった製品は悪いところが無いかわり、魅力に乏しい存在に終わった。

 フォークリフト以外に物流でもてはやされる無人搬送システムを売り出していたから、ME化は経験がある。しかし、フォークリフトは人が乗って運転、荷物の山が崩れかけると、厚い鉄板製の側面を故意にぶつけて直すといった乱暴な使い方がされる。静かに動き続ける無人システムとは違い過ぎ、開発にかけられる時間も多くなかった。この悪条件に挑んでくれる技術者を菅さんは集めた。そのかわり「したいことは、やりたいだけやらせる」と宣言した。

 「コンピューター部分は任せて」と言い出したのが、家庭での趣味からマイコンマニアになった技術者。業務用としてどこまで使えるかものか、技術部で検討が始まった。続いて八七年夏には全社のプロジェクトチームが発足し、ME化の範囲は広く、走行の完全制御や油圧による荷物の上下に加えて、ブレーキを掛けた時にモーターが受ける力を利用して充電して電力消費を節約したり、機械に故障がないか自己診断させて表示することまで目標になった。

 故障続発からセールスポイント

 最高時速九キロの前進状態でいきなり「後退」にシフト、運転者や荷物にショックなく短距離で方向を反転させられることが走行制御の決め手だ。従来の電気回路には成り行き任せの部分が半分あったが、ME化すると細かい部分まで制御し滑らかに反転できた。しかし、反転距離が三メートルとかかり過ぎた。従来機並のの二メートルまで縮めるため、制動の強さや時期を微妙に詰める模索が発売近くまで続くことになる。

 試作機ができると突然動かなくなる故障が続発し、不思議とすぐに回復した。思わぬ障害に悩んだ制御担当者が、動かなくなった瞬間の状態をコンピューターが記憶する仕組みを、苦し紛れに作り出した。故障退治の経過を聞いた菅さんは「これは売り物になる」と直感した。オランダ駐在員時代にスウェーデンからたびたび故障で呼ばれ、現場に到着すると直っていた「むだ足」の経験があった。結局、診断項目が二十六もある自己診断機能に加えて、故障経歴メモリーとして組み込まれた。これさえあれば、サービス要員が到着したときに直っていても、異常があった部分は一目瞭然だ。

 こんな高度な情報も盛り込むのだから、操作表示装置も一新した。従来の電池切れなど故障表示ランプに代えて、液晶表示画面を奮発した。採用決定後に零下五十度でも使えなければならないことに気付き、液晶画面に不安があったので設計陣自ら酷寒の冷凍倉庫内で耐久テストをして乗り切った。ここまで凝ったのだから「表示は専門家にしか分からないエラーコードでなく、ずばり言葉が欲しい」と、日本語のほか出荷先に応じ英、独、仏、スペイン語を用意した。

 コスト面で見送った項目もあったが、使い手に優しいME化にふさわしく、運転席周辺のクッション材を大幅に強化したりや視野改善も果たした。原価アップは二万円程度に収めた。

 八九年七月の国内発売に先立って、米ヒューストンのホテルに全米の販売業者を集め披露。他社のME化機が登場した後ながら、徹底した使いやすさが受け、上松俊夫フォークリフト営業部長(56)がその場で従来なら半年分に相当する注文を取り付けた。

 国内でも従来機種を使っている現場に持ち込んで、六百人にテストしてもらった。平均点は従来機の評価七十六点から八十八点にアップ、走行性能の良さのほかに自己診断機能などが圧倒的な評価を得た。一トン積み標準品で一台二百六十万円。当初計画より五割増しの月産六百台を生産しながら、注文が一千台以上残る状態が続いている。

 《会社》一九三七年、大阪で設立。三九年に国内初の電動式フォークリフトを独自に開発、翌年京都へ移転。年間売上高三百二十五億円のうちフォークリフトが六一%、自動倉庫など物流システムが二四%、モノレールなども手掛ける。資本金十七億八千万円。従業員七百四十人。本社・京都府長岡京市。

 《パソコン通信でのコメント》

 技術者の夢を問う姿勢


 このシリーズでは初めての輸送機械です。もともと電動機械だけあって徹底的なME化が可能で、電気自動車が町中を走り出すとこんな風になるのか、とも思わせられたりしました。フォークリフトには、取り上げた電動式のほかにさらに三倍程度の大きさのエンジン式の市場があって、併せて自動車生産に比べて百分の一程度の規模です。貿易摩擦を起こしているのは自動車産業と同じで、海外生産に追い込まれる企業が出ています。

 読者から「故障した状況をメモリーする、との発想ができる設計者に感銘。ソフトウエアでこんなことが出来るのに、頑迷に考えるシステムエンジニアが多いと思うので、なおさらです」と共感が寄せられました。そのリーダーの菅さんが、取材のおしまいごろ雑談になって「マーケティングで調べてユーザーの希望を引き出しても正反対の希望があったりする。市場調査から製品を考えてもだめなのではないか。技術者が自分が思うものを作り出して問うのでなければと思うようになった」と話されました。低温に弱い液晶表示を採用したいために、零下六十度の冷凍マグロ倉庫で顔につららが下がる状態で運転し耐久性を実証したりと、技術の夢実現のために体を張って頑張った上での思い。プロジェクトチーム方式は万能でなく、強引さが必要と思われているようでした。

 最近、それと反対の言葉を思わぬ人から聞きました。堀場製作所の創業者堀場会長が「うちは、開発の人間が自分の価値観で開発し、欲しい人だけに買ってもらう唯我独尊で来た。わたし自身が買わない方が悪いと言い、社内に浸透してしまった。数年来の円高、競合相手の登場に苦しんで、完全な市場指向型の企業になろうと決心した。いま静かなペレストロイカが進行中だ」と。

 さて、正解はどのあたりにあるのでしょうか。

 国産初のバッテリーフォークリフト

 マイクロエレクトロニクス化の現場だったのですが、機械が地味なだけにちょっとパンチ不足だったかもしれません。また、技術で生きる型の企業が草創期に持つパワーが、ともすれば薄れて来るのが成熟期での問題点でしょうか。そこで温故知新に、同社が戦前に国産第一号のバッテリーフォークリフトを開発したときの模様を点描します。

 一九三八年(昭和十三年)二月に八幡製鉄所(現在の新日鉄)から、電動運搬車のトップメーカーだった日本輸送機に、一枚の写真を付けてバッテリーフォークリフトの開発依頼が届きました。重量物の薄板コイルの工場積み降ろしを人力に頼っていたのでは、能率が悪く危険ででたまらない、と判断して、まず米国の会社に依頼しました。しかし、戦前の日米関係悪化で断念、国産化先として同社を選んだのです。

 荷物は重量物なので、荷役作業に合わせて機械本体内部でも重心を移動してバランスを取らねばなりません。最初は米国製品の写真に頼って模倣設計するが失敗に終わります。結局、自前の発想でやるしかないと腹をくくって、一から構成し直し、一年十カ月の突貫作業で三九年末に三トン型を二台完成します。見慣れない機械の、文字通りの「強力」ぶりに、当時の九州っ子は度肝を抜かれて見入ったと伝えられています。いわゆるカウンターバランス型です。記事にしたものは、五八年になって開発したコンパクトなリーチ型です。

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 自前技術を育てて開花した遺伝子工学試薬/宝酒造

《《うちのヒット商品》》第17回・1990.3.2

 小型ネズミに、大型ネズミから取った成長ホルモンの遺伝子を組み込んで、体重が二倍もある「スーパーマウス」が誕生した――一九八二年に流れたニュースは、目に見えない不思議な存在に思えた遺伝子工学が確かに実在していることを、一般に印象付けた。成長ホルモンの遺伝子だけを切り出して複製し、受精卵に注入した結果だった。

 その少し前、国内に分子生物学会が生まれた七八年春、しょうちゅう・清酒の大手、宝酒造が多角化を目指したバイオ事業が手詰まり状態に陥っていた。中央研究所を設けたものの医薬品の開発は簡単に進まず、他社向けの医薬原料を生産しても、下請けに終わるだけだった。開発部長だった大宮久・専務(46)らは「小規模でも、自前の技術力や販売力を育てられる仕事を」と大ヒットより遠回りの道に方向転換、使われ始めた遺伝子工学試薬に目を付けた。

 輸入品信仰崩すのに二年

 遺伝子の組み替えは、目に見えない極微の世界で長い紙ひもを継ぎはぎするようなものだから「はさみ」「のり」などの役目をする酵素が要る。当初は研究機関同士でいろいろな酵素を作って融通し合っていたが、やがて米、西独の会社が商品化、試薬として売り出した。

 独自に「はさみ」酵素を発見して内外の研究者に配布していた京大化学研究所の高浪満教授(60)に協力を頼んだ。研究者仲間で国産化が話題に上った時期で快諾してくれた。中央研究所員だった平岡信次バイオプロダクツ開発センター生産技術課長(42)が半年間、高浪研究室に通った。「はさみ」酵素の生産から、遺伝子操作そのもので行う品質検査の仕方まで、酵素化学出身の平岡さんは初体験の遺伝子工学に目を見張った。

 各「はさみ」酵素は、決まった種類の細菌がわずかだけ作る。細菌を二百リットルの培養タンク一杯に一週間で増やし、さらにつぶしてから二週間、五から十段階かけて精製し、一、二ミリリットルの酵素が手に入る。品質検査にはさらに一週間。それで数億円の値が付く商品になる。二、三種分の技術を習得した平岡さんは研究所に戻ると独自の工夫も交え、女性研究員二人と酵素の生産種類をこつこつと広げた。

 家庭の洗濯洗剤に入っている酵素は粉末で安定なのに、「はさみ」酵素は恐ろしく壊れやすい。研究者たちは酵素を魔法瓶に入れて持ち回った。商品には使えない方法だから、不凍液に混ぜ零下二十度を保証できる荷造り、配達方法を実験、工夫した。

 七九年秋、輸入品の六割の安さと航空宅配便で翌日配達の品質保証を武器に、輸入品に対抗して七種類を売り出した。研究所員から開発部員に回っていた中西芳邦・大阪支店バイオインダストリー課長代理(46)が学会名簿を頼りに一人で販売に歩いた。輸入品が一番との信仰を崩すのに二年を要した。当時の輸入品は荷物をほどいて取り出したら、酵素が働かなくなっていることが珍しくなかったのに、安定した製品を供給した。。

 世界へ売り出せる商品に

 最初は月間十五万円ほどの売上高で「社内のベンチャー企業」と冷やかされたが、大宮さんには自前の製品として手ごたえがあったし、中西さんらには遺伝子技術の情報収集は医薬品の開発につながると、励みになった。

 「はさみ」の次は「のり」酵素へと広げ、輸入品を圧倒したころ国内から他社が進出してきた。価格競争だけではだめと判断、たんぱく質の構造を解析する試薬などにも手を広げ、百六十種の商品を展開する。

 遺伝子試薬市場で七割近くを占めた八八年春のこと。中央研究所内に設けたバイオ研究所の所長に滞米十三年の研究生活からスカウトされた加藤郁之進さん(52)が、在米の先輩研究者から「米国で画期的な遺伝子複製システムが出来た」と電話を受けた。細菌の力を借りなければ遺伝子の複製が出来なかったのを、バイオ関係のベンチャー企業が試験管の中で大量に作れるようにしたという。素人には操作が面倒で手が出なかった、遺伝子工学の在り方を一変させると見込めた。

 急いで大宮さんと渡米、極東での販売権を求めて交渉、国内で営々と築いた販売トップの実績を示すと、その場であっけないほど簡単にオーケーが出た。最初の一年に二百三十台のセットを売り、さらに注文が膨らんでいる。機器輸入だけでなく、使用法のアイデアを盛り込んだ試薬の組み合わせ十種を独自に考案して、世界発売を交渉中だ。

 生物体のたんぱく質はしばしば糖分との結合体になっている。最近、その糖の種類を分析できる装置を阪大と共同開発した。遺伝子工学でたんぱく質分だけそっくりに合成しても、糖の部分が違うと本物でないと分かってきたばかりで脚光を浴び、販売権が欲しいとの申し入れが海外から続々寄せられている。

 《会社》一九二五年設立。一時はビールにも進出するが大手に押されて撤退、七〇年に新設の中研でバイオを手掛け始めた。売上高一千三百五十三億円の柱はしょうちゅう、清酒、みりんで、バイオ部門を売上一〇%化するのが当面の目標。資本金百五億円。従業員千九百三十人。本社・京都市伏見区。

 《パソコン通信でのコメント》

 脱しょうちゅうの苦労


 タキイ種苗の回ではバイオ技術に入り切れなかったので、いよいよ本格的にチャレンジしてみましたが、専門用語は出来るだけ避けました。「記事を読んだ」と自分から言われて来たテレビ局の女性記者にも「分かります」と言っていただけました。登場人物たちは自分の仕事を奥さんたちに理解させるのは諦めていらっしるようですが、出来れば、家庭の主婦の方にもどんな仕事なのかイメージが浮かべてもらえるようでありたい、と思います。

 宝酒造の名からはまず「宝焼酎」が浮かびますが、清酒の分野でも「松竹梅」が上位のブランドに成長しています。でも、中央研究所に入った若手が「うちの会社は清酒も作っていたのか」と驚いたことがあるほど、「松竹梅」は結びついていないようです。焼酎は安酒というイメージの時代が長く続いたため、敢えてブランドイメージのために「宝」の名前から遠ざける販売戦略が取られたのです。いまやそんな心配をしなくてもよく、試薬類の浸透で理工系の学生を集めるのにも苦労はなくなりました。

 舞台裏を明かしますと、宝酒造のヒット商品としては「CANチューハイ」の方がいいのではないか、とかなり悩みました。わたしは、アルコール類、特にジンやウオッカをベースにして混ぜて飲むタイプの酒にはちょっとうるさいと自認しているので、トライしてみたかったのです。あの大ブームから下降した後、昨年から前年比で一、二割の伸びに転じています。製品の種類も増やしていますし、大衆商品としてのブレンドや味ぎめの秘密をいつか取材してみたいものです。

 バイオ技術の是非

 「自然に対して人間がどこまで手をくわえてよいのか。野菜の品種改良は大きな効果が得られているし、必要な技術だと思いますが、遺伝子操作には、どうしても抵抗感が残ります。品種改良と遺伝子操作は、同じ人間の技術ですが、異なるような気がします」との声がありました。このほかにも違和感があるという方がいらっしゃいました。

 バイオ技術の発展で、いろいろな技術の境目が付きにくくなっています。例えば、おっしゃっている品種改良に細胞融合を利用することが試みられていることは、タキイ種苗のところで触れました。キャベツと白菜の植物細胞を融合した「ハクラン」がそうで、かつて存在したことのない細胞ができて、それをもとにして発芽させ、新規の植物体を得てしまうのです。遺伝子を継ぎはぎしているのではありませんが、まったく新しい生物が得られ、発売直前まで行っています。遺伝子の一部を導入することといい、自然界に存在しないものがたやすく作られる時代になってしまいました。

 さらにこんな例もあります。今年は雪不足でした。昨冬、降雪を増やすために霜害菌である氷核細菌の死骸を輸入し、スキー場に商業的に散布することが始まったとの記事を科学面に書きました。米国では遺伝子組み換えをしたこの種の細菌を散布していますが、国内ではそれは出来ず、海外の自然には存在している細菌を利用することになったのですが、その土地の自然に存在しない生物である点では差はありません。いささか複雑な話を書いてしまいました。

 ビジネスとしての戦略

 ビジネスとしての方面に強い興味がある方から、質問がいろいろありますから、追加説明します。

 最初は、分子生物学者たちがそれぞれが作った酵素を魔法瓶に入れて、学会出張などの機会に運び合ったものです。外国への出張でも同じようにしました。これではビジネスになりませんから、段ボール箱に二十五センチ四方のドライアイスを敷き、その上に緩衝剤を置いて酵素が入ったケースを固定し、先方へ到着するまで零下二十度を保証出来るようなパッケージングを工夫しました。海外から輸入の場合、温度管理がいい加減で酵素が働かなくなる事故がかなりあり、宝酒造はそこをきっちり押えて信用を獲得しました。当初は三千数百円の輸送料を請求していたのですが、大学の会計上の都合で酵素の値段に合併します。酵素は最低量が千分の七ミリリットルとほんとに目に見えない微量で、数千円から数万円です。

 「他社の参入に価格競争だけではだめと判断」のくだりは、顧客が全国で三千カ所という狭さ、バイオ部門の売上高が五十数億円という規模では、「はさみ」酵素の分野だけで価格競争しても仕方がなく、もっと広い範囲を押えられるようになりたい、と考えた訳です。現在のバイオ部門経営方針は、まずキーテクノロジーとしての「遺伝子工学」、それに工学への応用の可能性が大きい「たんぱく質工学」、そして、合成したホルモンとかの生体機能物質が本物かどうかを決める「糖鎖の分析技術」の三つでトップに立ち続けることです。「いまは地下にマグマがどんどん溜まって行く感じだ。近く大噴火があるのでは」と、大宮専務は手ごたえを口にしていました。

 連載の中で、画期的な遺伝子複製システムとだけ書いた「PCR(ポリメラーゼ・チェーン・リアクション)」についても、少し補足しておきます。

 遺伝子の特定部分を短時間に数十万倍に増やせるので、高感度な検出装置として応用することが考えられます。コレラ菌早期検出についての研究が発表されていますし、エイズウイルスの検出とか、残留した細胞から取ったDNAそのものを使ったその人がだれかの「個人の同定」、性犯罪で犯人の精子を分析したりといった犯罪捜査にも有効と言われます。今後の遺伝子工学の展開でかなり大きな比重を占める雲行きです。機械システムとしての販売は一度きりですが、使うためには遺伝子工学試薬が必要なので、買った冷蔵庫に肉や野菜を入れるように応用分野を広げてやれば膨大な量の試薬が売れる可能性があります。また、そうなるように応用を広げようと、これまで築いた試薬技術を使っていろいろなアイデアを世界に提案する方向で動いているのです。

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 果敢なコスト削減で実現した個人用ファクシミリ/村田機械

《《うちのヒット商品》》第18回・1990.3.9

 一九八九年、米国でホンダのアコードが一車種として米国車を上回るトップ販売台数を記録した。大手ブランド指向が強い国内で考えられない現象が、前年にファクシミリの分野でも起きていた。村田機械の個人向け機「M−1」が米国で大変な評判を呼び、ファクシミリとして史上最多の五十万台が世界で売れた。

 リコーなど国内大手に混じると、全くの後発メーカーと見られがちだ。しかし、電電公社(現NTT)が七三年に公衆電話回線を開放してファクシミリを認可した第一号は、村田の子会社が米国の先発メーカーから提携輸入した機種である。繊維機械専業から多角化の模索を任せられた久津名宏・企画部長(64)=現・専務=が、東京の米国工業品展でそれに出会い、回転ドラムを多用する繊維機械と、当時は送信原稿をドラムに巻いたファクシミリの共通点に注目した。

 双子設計で大幅コストダウン

 製品輸入から始めたが、提携先の米社が市場の動向に即応しない。国内他社に後れを取り出したことに愛想を尽かして、自主開発へ進み、一時は累積赤字が二十六億円まで膨らんだ。打開は容易でなかった。ファクシミリに求められるあらゆる電気的機能を盛り込んだIC(集積回路)を自社設計して半導体メーカーに特注、さらに機械部分の大幅な小型化に成功して米社へ相手先ブランドで輸出を認められ、ファクシミリ部門の採算がとれるまでに十年を要した。

 そして八五年春、久津名専務と村田純一社長(54)、鷲尾道義・情報機器事業部電子設計課長(42)=現・技術第一部長代理=の三人が、今後の開発方向を決めるために集まった。一台五、六十万円もし、大企業が需要先のファクシミリを、個人が使えるようにしようと決めた。「それには十万円を切らねば」との結論になった。

 コスト削減の裏付けに、二十万円級を狙うビジネス機と大半部分が共通な双子設計を考えた。しかし、そんな値段が実現できるのか。「二年後発売を目標に開発してみる。そして、市場動向を確かめて発売の可否を決める」と、三人は胸にたたんだ。

 それまでの努力で小型化されてきたものの、まだ中型コピー機ほどの大きさがある。十人余りの開発チームは、思い切ってA4判大学ノートの大きさに削り取ろうと動き出した。生産段階で調整を一切しなくて済む設計なども考えた。画質、電送速度など基本性能は双子のビジネス機と変えないつもり。別の理由から進んでいた基本部品の開発、量産がそれを支えてくれそうだった。

 ファクシミリは一本の細い線をA4判なら千七百余りの点に分解する。白黒の模様を例えば「白百三十八個、黒三個、白十一個、黒二個・・・」と符号化して送り、受信側で組み立て直して再現する。符号を電話回線に乗せる変復調器が基本部品のひとつで、買い付けていた米社が注文通りに納めてくれないトラブルが続いた。「ファクシミリに最適な変復調器を、自前で安く大量に作ってしまおう」と声があがり、可能どうか社内でも半信半疑の中を若手技術者三人が設計に挑んでいた。

 さらに一万円安くと指示

 八六年に一台四十万円を切った最低価格機の値段は、八七年に入り二十万円を割り始めた。その三月に双子版ビジネス機を十九万八千円で売り出す。他社機に比べて圧倒的な小型多機能で、生産能力を上回る注文が来た。本命の個人向け機で予定通り十万円を切る決心がついた。

 個人向けといっても中級機並の基本性能を備えていた。半年後に国内発売、年明けに米国発売。続いて他社から出た同価格機は送信時間が二倍もかかり、技術の差をはっきりと見せつけた。従来扱ってくれなかった販売店まで店頭に置いてくれるようになり、米国販売台数は十位から二位に躍進した。

 「M−1」国内発売直前に、久津名専務は後継機「M−5」の開発を指示した。一万円安い八万九千八百円に、連続送信など便利な機能をいくつか入れたい。「発売時点で世間をびっくりさせるインパクトがなければ」と常に考える。

 倉本宏・電子設計課主任(36)ら十人足らずのチームは削り込んだ「M−1」から、さらに削ってコストダウンする苦闘を始めた。電算機を活用した回路設計で、五個使っていた特注集積回路を一部回路を共用させるなどして三個に減らす。電子回路が載る基板は三割小さく。ホーム用にふさわしい形と操作ボタン二個だけに。

 原稿読み取り部の照明まで簡略化したため、試作機が動かない事態になった。大原義彦・機械設計課員(32)らが原因究明に一カ月、機構改良に二カ月かけて八八年末に見通しが立った。

 八九年半ば発売、月産一万台を二万台へ増産中。グッドデザイン商品になった国内以上に米国で評価が高く、上級機と併せトップシェア獲得の勢いだ。

 《会社》一九三五年、西陣ジャカード機製作所として設立し六二年から現在の社名に。グループ売上高千七百八十三億円の内訳は、繊維機械四二%、情報機器三二%、無人搬送など物流システム機器一三%、工作機械一一%など。資本金七億二千万円。グループ従業員四千百人。本社・京都市伏見区。

 《パソコン通信でのコメント》

 米社の怠慢がなければ「ムラタ」は無かったかも


 村田機械は、個人用ファクシミリ「M−1」とビジネス機「F−20」の双子機種発売を機会に、ブランドを変えて念願の「ムラタ」を打ち出しました。中身に自信が持てたからです。「オレはムラタだ」と演歌歌手村田英雄を使った国内向けのCMは、ちょっとアクが強い感じですが、大ヒットした米国でのPR作戦は、もっとあか抜けしたもでした。全米すべての航空機に積まれているフライトマガジンのカラーページに、ヒマラヤや南極、北海油田などの素晴らしい風景写真を集中的に載せて、「MURATA」と刷り込んだのです。

 繊維機械メーカーとしても好調なのに多角化したのは「景気変動のサイクルが違う商品が持ちたい」との願いからです。しかし、経過を調べていると、米国側がもっと市場や顧客を大事にしていれば同社がここまで伸びることもなかった、米国が先発した業界の地図がそれほど激変しなかった、と思わせられます。まず、同社の提携先を買収したバローズ社が国内各社の活発な新製品開発について行かず、競争力が落ちた製品を割り当てるように押し付けてきたそうです。だから、ファクシミリがアナログ送信からデジタル送信の規格に進化する時期をとらえて、鷲尾さんを東大生産技術研究所に勉強に行かせ、零からの再出発に賭けたのです。

 安価・高性能の要因である変復調器(モデム)の自社開発も似たような状況です。価格の問題もありますが、欲しいだけの量を欲しい時期に納品してくれないのでは、自分でと考えるのも当然です。日米構造問題の一断面を見せてくれますし、同社の開発戦略について発言した、次の読者の感想でも指摘されています。

 「世界のFAX市場の九割を独占する日本メーカーが次に狙う市場は個人ユースでしょう。それが業界トップでない会社から出たのを面白く感じました。高価格・多機能の商品で市場の拡大を図らず、米国の潜在市場の大きさに依存した価格戦略でシェア・アップを完遂しようとする村田機械が、後続のメーカーを振りきれるかどうか見もの。重要部品のモデムを米国に頼ることを諦め、自社開発、低価格のFAXを商品化したとのくだりは、日米構造協議のニュースがあふれる今日、複雑な気持ちにさせられました」

 果敢な技術開発と販売

 今回の連載は最近華々しく売り出しているムラタのためか、読者の皆さんから反響が多く、村田が成功した要因が話題の焦点になっているので、補足したいと思います。

 同社には技術開発、販売とも、大企業にない小人数を逆手に取った果敢さがあるようです。「相手はどこも売上規模でうちの倍以上だが、身軽さはうちが一番」という精神です。半導体メーカーに頼らず、自社設計して特注する大規模集積回路(LSI)は、万一作ってから作動しない事態になると、開発スケジュールの半年遅れを招き、商品戦略として致命的な失敗につながる危険があります。LSI一個分の回路を抵抗やトランジスタなど単体部品で構成すると何畳分もの広さになりますが、半導体メーカーに注文する前に、時間をかけても自分で組み上げて確認したくなるものでしょう。しかし、村田はそれをしないで、常に設計図だけの一発勝負で成功させ続けてきました。心配な場合があればその部分だけソフトウエア化して、後で書き込んで試します。そうした試行はすべてコンピューター利用の設計支援システム(CAD)のデータベースにためこんで、次の製品からはいきなり回路化して設計の効率を上げます。

 販売会社は独特で、小さな独立の「販社」を多数作りました。技術部門でも電話器などで同じような小さい組織をもちます。販社のトップは村田社員ですが、従業員は各販社の社員です。米国での販売網でも現地に大きく権限委譲して、売りに出た米社の販売網を買う値段の何分の一かで強力な販売網に仕上げました。赤字でも事業を捨てなかった経営陣の多角化にかけた意気込み、それに粘り強さも成功の要因に挙げるべきかと思います。株式を公開していないので、ある時期までは赤字覚悟で突っ走れる強みが出ているのかもしれません。

 ある席で、村田機械社長と「日本的経営は存在するか」という問題意識の会話をしました。わたしは存在しないと思っていますし、彼も理由は違ってもやはり存在しないと考えていました。日本の企業は、政治や経済制度面ではおかしなしがらみに捕えられているのに、生産への「各種資源」投下現場では、困ったことに労働資源をも含めて、純粋な「最適計画」指向が出来る存在ではないかと思います。

 こんなイメージアップ作戦も

 「それほど頑張っていたのだとは全く知りませんでした。それにしても国内でのイメージはいまいちですね。CMのせいかな」

 そうです。あまりにもスマートでなかった国内CMを「補正」するためもあって、同社は三年前から「ムラタ・ヒューマン・トーク」という科学講演会を開催し、一般からの希望者を京都・宝ケ池の京都国際会議場に招いています。最初がノーベル医学生理学賞の利根川進氏、昨年が「コスモス」の著者カール・セーガン氏、そして、今年五月はマサチューセッツ工科大(MIT)メディア・ラボ教授のニコラス・ネグロポンティ氏で、今回は「コンピューター・フューチュー・ストーリー」がテーマです。

 「ムラタ」ブランドの売り込みは印象強烈で、高周波フィルターの村田製作所との間でブランドの問題を起こしてしまいました。両社は近くにあるだけで、全く別の会社です。これまでの村田機械は繊維だけだったので関係なかったのですが、村田製作所の領域に近い電子機器に入って来たので具合が悪いのです。現在、両社で和解するための交渉がもたれています。海外にある子会社では、その国に先に進出した方が「MURATA」なので、双方に相手方向けの商談や注文が舞い込んで、困ると聞きました。

 日米摩擦、三人の発言

 村田機械のファクシミリ躍進との関連で話題になった日米摩擦について、わたしが京都で聞いた三人の発言を、最後に紹介します。最初に米国ナショナル・ジャーナル誌記者B・E・ストークスさんの京都アメリカンセンターでの講演、次いで京都国際会議場で開くのが恒例の関西財界セミナーでのアマコスト米国大使の発言、最後に稲盛京セラ会長とのインタビューからです。米国企業の単なる怠慢とは言えない背景が浮かび上がる内容だ、と思います。

 [B・E・ストークス氏]現在の日米間の軋轢(あつれき)の背景にあるものは、米国人のアイデンティティーの危機だ。豊かで世界一の国だった米国が、そうでなくなってしまった。勤勉に働くこと、家庭をうまくやって行くこと、子供達がよく勉強すること、どれを取ってもアジア人の方が優秀ではないか、と一部の米国人は恐れを感じ始めた。一方、黒人に対しては同じ恐れでも、強盗やレイプに遭わないかといった優越感に立った恐れを感じているだけ。

 だから、貿易赤字がいくらあるとかの数字の心配ではない。心の奥深いところでの価値観の動揺がある。米国から日本への「外圧」が長年にわたって有効な手段だったが、この状況下で逆に試みられている日本から米国への「外圧」は危険をもたらすとも言えなくはない。個人の意見としては、米国人も経済は世界を変えてしまった事実を学ばないといけないと思うが、難しそうだ。

 これからの日米関係を考えるうえで注意してもらいたい事項が二つある。米国は日本が独自行動を取るのを生理的に嫌う。以前とは違うと頭で分かっても、心で理解できない。また、米国はかつて最も豊かで何でも出来たが 今それをする余裕はない。不公正な取引なども見逃せない。

 [アマコスト駐日大使]米国は何をなすべきか。米国は「自助努力」ということを知っている。米国人のもつ底力、適応力に誇りを持っている。それはある意味で関西人と同じといえる。今、本当の挑戦が始まり、財政赤字、貯蓄率の低さの克服、生産性の向上、市場の要求へ応える態勢作り、教育の向上などしなければならないことは分かっている。日米構造協議の場で、こうした指摘を日本から受けたが、我々はこれを歓迎する。ニューヨークタイムズは「説得力ある助言であり、きっちり答えなければならない」と書いた。

 米国が自信を持てるようになったことには裏付けがある。国民の貯蓄を財政赤字で吸い上げていたが、減らして行くめどがついた。貯蓄指向の世代、ベビーブーム世代が増えて来た。日本のかつての「マル優」に似た、世帯当たり年間五千ドルまでの少額利子を非課税にする制度が提案されている。

 研究開発は創造的なのに、その成果を製品にすることでは、ビデオデッキなどしばしば日本に先を越された。我々は政府の研究開発予算を軍事から民間用途向けに移しつつある。重要な研究開発では独占禁止法の適用を解除することを日本から学んだ。教育への投資、輸出努力に真剣に取り組んでいる。対日輸出は二年間に五割増えた。通産省の輸入促進策に対応する、我々の輸出促進策を近く発表するつもりだ。

 [稲盛京セラ会長]日本車が米国で売れているのに、米国車は日本で売れないのは「燃費の改善をしないし、右ハンドルの車をつくろうとしないからだ」と米国側の努力不足を槍玉にあげる人が多い。しかし、国内にはそれだけではない社会的な風土があると思う。米国なら大手の製品を売っている販売店に系列外の製品を持ち込んで「売って欲しい」と頼むことが出来る。店主に個人的に嫌だと言われれば仕方ないが、でなければ引き受けてもらえる。特に独占的な組織をもっているところが、ある社のだけはオーケーで、他社はだめというのでは独占禁止法違反になる。日本なら自動車会社の系列販売店が他社の車を売ろうものなら、出荷停止の騒ぎになるだろう。そういう体質の差がある。

 第二電電を作るときに、旧国鉄も系列の新電電を作り、新幹線に光ファイバーを引かせると聞いて、一本引くのも二本引くのも同じだから「うちも引かせて」と頼みに行ったら「とんでもない」と断られた。列島を縦断する路線をもつ独占機関がこんなことをするのは、米国なら「アンフェア」とされ、独禁法違反になる。大企業は社会の公器なのだから公正さと節度を求められるのに、国内では大手はますます系列を強め、いろいろな事業も系列化しようとする。わたしが第二電電を作れたのは、リスクが多く「いまに火傷するぞ」と皆思っていたからで、有利と分かっていれば大手の取り合いになっていただろう。

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 復活素材で乱売脱出したビデオテープ/日立マクセル京都

《《うちのヒット商品》》第19回・1990.3.16

 家電製品でビデオほど、国内が世界をリードする分野は珍しい。競争の激しさがそれを支える。ビデオデッキは海外で生産される分の主要部品を含め年間三千万台分を供給する一方、国内で売る数百万台は半年サイクルで新製品ラッシュを続ける。世界で年間十二億巻売れるビデオテープの過半を国内メーカーが生産するが、売り込み合戦の末、ビデオテープは量販店が客を呼ぶ目玉商品になり、値崩れのひどさに業界は悩んできた。

 一九八七年秋、日立マクセル京都工場に磁気テープ事業部の開発、設計、マーケティング各部の中心メンバー十人が集まった。テレビの番組編成替えがある秋から年末年始にかけてが、ビデオテープの最需要期。そこに向けられた他社の動きをにらみながら、何年後かに発売する新製品の企画をスタートさせる会議だ。トップを交えて製品開発を決める開発方針会議の下準備でもある。

 メタルテープの表面処理技術がヒント

 「即座に使える技術ではなく難点はあるが、これまでのテープよりメタルテープに近い酸化磁性材が使えるかもしれない」。開発部主任技師の松浦武志さん(41)の話に、工野正樹マーケティング部長代理(42)は「これなら消費者に説得力がある」と直感した。各社競って改良に力を入れたから「テープはどの会社も同じ。安ければいい」との見方が広まっていた。当初は新製品の効き目が三年あったのに、一年余りで改良、投入しても手ごたえに乏しくなった。

 営業側は強く実現を迫った。「遅くとも二年後には売り出すべきだ。それから半年も遅れたら価値がなくなる」。他社の特許出願から、全く新しい技術が投入される可能性が見え始めていた。

 その少し前、技師長の端山文忠さん(64)は、松浦さんらから新素材テープ開発が可能との報告を受けた。

 テープの磁性体には鉄の赤さびが主に使われて来た。鉄にはもうひとつ黒さびがあり、磁気エネルギーが二割も大きい。しかし、黒さびは空気中でさびが進んで赤さびに変化しやすく、テープとして巻いておくと信号が複写されエコーを付けたようになりがち。端山さん自身がオーディオテープの時代に試みて「どうにもならない」と放棄した因縁付きの素材だ。その後、無理をして製品化しながら、引っ込めた会社があったほど難しい。

 八ミリビデオ用新顔テープとして、八五年に登場したメタルテープは「さび」ではなく金属の鉄を使った。さびさせない表面処理技術が出来て誕生した。

 社内の他チームがものにした表面処理技術を見て、黒さびへの応用が技術陣の頭をかすめた。が、当時は雑音を下げるために針状をした磁性体を微粒子化する競争のさなかで、手は付かなかった。高価な高画質テープで長さ〇・一五ミクロン(一ミクロンは千分の一ミリ)、普及型よりひとつ上級のハイグレードテープで〇・二三ミクロンまで進んで微粒子化にも限界が見えた。素材から見直す時期が来た。

 製造現場は新素材に追いつけず

 試作黒さびテープの画質や音質は、従来と違う密度の高さ、透明さをもち、性能面は心配ないと端山さんはみた。「不安定な製品だけは作るな」と念を押し、京都工場で開いた開発方針会議で有望と説いた。大ヒットになる可能性に会議は沸いた。

 数十トン単位で生産するための本格的な検討が始まった。赤さびに変わるのを防ごうと磁性体の表面にコバルト膜を結晶させる、端山さん開発の技術を含め二重三重の処理を施す。「安定化のため一部を赤さび化させてもいい。その分は増えるはずのエネルギーが減るが、能力の半分を引き出すだけでも改善効果は大きい」と、松浦さんは欲張らない決断をした。

 ところが、設計で余裕を持たせても、製造現場は初めての磁性体について行けなかった。実験室のビーカーで可能な磁気性能が、工場の大きな反応タンクでは出ない。どの工程が悪いのか、松浦さんと二十歳代の若手三人のチームは究明に走り回った。原因はタンク内で混ぜる力が足りないと分かるが、補うには設備の大幅手直しになる。コスト増、時間増に耐え切れないから濃度調整に逃げ道を求めた。

 さびの進行防止のために空気に触れさせられぬ工程は、製造ライン数十メートルにわたって窒素ガスをそっくりかぶせた。〇・一九ミクロンの針状磁性体を同一方向にそろえ、厚さ三・五ミクロンでテープに塗って固定する技術に新機軸を入れた。

 八九年八月に、ハイグレードテープ「HGXブラック」として発売。専門誌のテスト成績は抜群、量販店で他社の同級品より一〇%以上高値でも売れた。在来製品の売れ行きも落ちず、上級テープの比率は業界全体では三割なのに、五割にも達した。「いいものを出せば高くても売れると分かり、意を強くした」。他社の営業マンから言われた言葉が工野さんには印象深い。

 《会社》一九六一年、日東電気工業の乾電池・磁気テープ部門が独立。マクセルは「最高性能の乾電池」の英語から。京都工場は六七年に竣工し磁気テープの研究開発、製造を担当。京都工場の年間出荷額は九百億円、従業員九百人。資本金五十一億七千万円。本社・大阪府茨木市。京都工場・乙訓郡大山崎町。

 《パソコン通信でのコメント》

 ビデオテープのつくられ方、使ってみたら・・・


 シリーズ中で京都に本社を持たない企業の登場は、三菱電機京都に続いて、この日立マクセル京都が二度目になります。規模としては三菱京都の方が大きいのですが、マクセルの場合は全社売上高の八割は京都工場が出荷し、研究所も併設された本格的な研究開発・製造拠点です。

 家電製品の世界にミクロン・オーダーの技術を持ち込んだ二分の一インチ家庭用ビデオは、七八年ぐらいから立ち上がりました。商品としての成長史は、誰も想像できなかった驚くべき速さです。デッキは国内勢が世界中を席巻してしまい、テープも過半を生産する上に性能でも抜きん出て優位です。問題はハードウエアが優位でも、映像ソフトの集積が貧しい点にあると指摘すべきでしょうか。

 この性能の高さを保証しているのが、産業の裾野まで含めた総合的な技術の蓄積と顧客ニーズへの対応力です。例えば、テープの裏側に摩擦を制御するための微細な突起「バックコート」を付けます。フィルム素材メーカーは各テープメーカーの要望に合わせて突起の形、分布などすべて作り分けています。各社ともテープの海外生産が盛んになっていますが、原材料は国内から輸出することが多いのには、それなりの理由があるのです。記事に登場した松浦さんの説明では「米国メーカーならテープ用素材フィルムは一種類しかなく、他社と差別化しようにも選びようがない。こちらから特別注文を出しても、取り合ってもらえない」ということになります。

 数十ミクロンの記録幅に厳格に録画再生するために、ヘッドを含めた高精度の機械系を大量生産できるのは日本国内しかなく、安い韓国製などもこうした主要部品を輸入して製造していることはよく知られています。

 マクセルが作り上げた「HGXブラック」を使ってみて、画質以上にハイファイ音質に感心しています。我家のビデオはVHSのほかにベータもありますが、いずれを使ってもクラシック、ジャズなど音楽番組をテレビから録画するたびにがっかりしていました。最近の例では、美空ひばりが亡くなってから何度となく特集を録画しましたが、とても「ハイファイ(高忠実度)」とは言えないのです。周波数特性がどうこうではなく、録画後には音楽のハートが作り変えられてしまう印象で、音楽を楽しめないのです。「ブラック」の音質は在来のテープを五十点とすれば、七十五点くらいの出来だと思います。「ビデオのハイファイ音声には、オーディオテープとは比べものにならないほど強烈なノイズ低減処理が施されているので、二年後のデジタル音声の時代にならないと、音にこだわるマニアに満足してもらうのは難しいのでは」と、松浦さんはおっしゃっていました。

 画質の方は、我家のVHD型ビデオディスクのすけすけな感じのソースから録画テストして、本物以上に高密度に鮮やかな色で埋めてしまうものでした。テレビの方もかなり満足の行く録画が出来ます。ところで、こうした性能を保証する物理的性質と裏付けている製造技術こそが問題なのですが、今回はノウハウに関するオフレコ取材の範囲が非常に大きくて、書く段になるともどかしい思いです。テレビの走査線一本分を記録するために使われる針状磁性体が、在来の「ゴールド」で五億五千万個なのに「ブラック」で八億個ある、といった議論だけですまないものがあります。設計が煮詰まった後で熱処理の温度を少し変えるだけで何種ものテープができ、それを専門家に持ち回って意見を聞くという世界です。

 差別化が大変な訳は

 「競争の厳しい商品で差別化を図ることの難しさを考えさせられた」とのご意見、同感です。よく「AV」といっしょにして言われますが、オーディオとビデオはかなり違った世界です。卑近な例ですみませんが、我家では二歳になった娘がテレビの画質調整ボックスを開いてツマミを勝手に回してしまうため、このところ何度となく調整し直しをさせられます。一応はVTRでテストテープを走らせますが、感覚で決めるためにいろいろな画質になってしまい、どれが正しいのか、決め切れない事態になってしまいました。それなりに面白い画面効果が出て、本物は何か分からないのです。それに比べると、オーディオの多素子イコライザーによる音質の調整は、自分なりの音の標準に自信が持てます。

 このようにビデオの世界では何が「真」か分からない状況下での差別化ですから、大変な訳だと改めて感じました。画面の明るさを変えただけで印象が一変します。ところで、三菱電機の新型VTRは、録画時に明るさをチェックして自動補正してしまうそうです。ある意味でますます、テープの個性が見えにくくなるように思えます。

 磁性体について

 「大学時代、卒業研究で磁性体の微粉末を扱った経験があり、懐かしくなりました。基本的には針状なんですが、太いのや、細いの、ずんぐりしたもの等、それに穴があいているものまでありました。なかなか均一の形状のものが造れなかった思い出があります」

 この穴とか、針状磁性体に付いた枝が問題で、日立マクセルのHGXブラックは穴も枝も無いつるりとした表面の磁性体を作っています。黒さびは放置して置くと赤さびになりやすいので、表面積を小さくすることが大切です。穴も枝もないのが有利です。

 また「磁性体が針状である理由は、磁気には必ずN極とS極とが必要だからです。N極とS極の距離が近いと打ち消し合いやすくなるため、細長い針状の形の両端に両極を配置して安定な記録ができるようにしています」と教えていただきました。マクセルの技術者によると、針状磁性体の直径と長さの比は十倍だそうです。ただ、どうやって、こんな細かい磁性体をきちんと作れるのかまでは聞く時間がありませんでした。

 磁性体は、現在の技術力ならばもっともっと微細なものが作れます。高画質規格のS−VHSでは、現に何割も小さな磁性体を使用しています。作れはしても出来たものをフィルターでこし取る段階で取り残したりで、歩留まりがぐっと悪くコスト高になるそうです。磁性体の細かさは色ノイズを減らし、テレビ画面の赤色べったりなどの部分で見えやすい横じまノイズの軽減に有効です。

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 世界初の困難越えて商品化した指式血圧計/オムロン

《《うちのヒット商品》》第20回・1990.3.23

 既存の企業が手を付けていない分野を開拓して商品を出していく中小から中堅クラスの企業を、冒険をいとわない行動ぶりから「ベンチャー企業」と呼ぶ。戦後、ベンチャーが次々と生まれた京都で自他ともに許す代表格がオムロン(旧社名・立石電機)だ。既に売上高三千億円を超す大手になり、そう呼ぶのがためらわれるが、「事業部単位ではベンチャーであり続けたい」と、経営陣は口にする。

 一九八〇年、三重県にある子会社の経営を立て直した吉田丹治さん(54)が、健康機器、医用機器の研究開発を目的にした子会社「オムロンライフサイエンス研究所」の社長=現・会長=に就任した。健康医用事業は石油ショック後にいくつかの部門とともに整理対象になったが、将来性に確信があった創業者の立石一真社長=故人=が「私財を投げうっても残す」と主張、研究開発だけ別会社として存続した。しかし、分社五年を経ても、年間売上十数億円に過ぎなかった。

 原理は赤血球の動きを検出

 この年、九〇年に五千億円企業達成を目指す計画が打ち出され、健康医用部門は一割の五百億円が目標になった。吉田さんには研究所の大勢が医用電子工学系の高度過ぎる研究に向かっていると見えた。製品を売る本社の事業部も同じ姿勢ではないか。「どの家庭にも使ってもらえる実直な製品作りをしなければ」と、路線手直しを考えた。

 数少ない手持ちの大衆商品だった電子体温計、血圧計が間もなく普及期に入った。その血圧計は、病院と同じに上腕部を裸にして腕帯を巻く煩わしさ、血管の音を拾うマイクを差し込む位置の難しさなど、使い勝手に問題があった。

 手首や指でなら思い立ったその場で測れると考え、内々に検討を始めた。ちょうど、北海道大の応用電気研究所にいる山越憲一・助教授(42)が、指先で血圧を測る世界初の方式を学会発表したことが分かり、社長の技術顧問を頼む形で接触した。同時に保守的な医者の世界で受け入れられるか、二年がかりで打診を始めた。

 八四年、山沢勉・研究員(32)に開発にあたるよう指示を出した。この年、血圧計の市場は従来の血管の音を拾うのではなく、血管の脈動から血圧を計測する方式に大転換が始まった。しかし、北大方式はさらに先を行き、血管内の赤血球が動くのを赤外線の反射光で検出して脈動に直す。山沢さんの上司、渡辺太郎・健康医用機器研究所長(48)さえ「本当に家庭で使える物になるのか」と、当初は疑った。

 まず乳児用の細い腕帯を買って指に巻つけてみたが、月例の商品会議で「せっかく指を使うのに、便利になっていない」と一蹴された。巻くのではなく、さっと突っ込むだけでよい形を要求された。予想される使い方として、ビジネスマンが会議中に気分が悪くなって血圧が高いせいか、と調べるのなら「胸ポケットに入るたばこの箱大でなければ」と、厳しい注文まで付いた。

 狙う血管は人差し指の内側、深さ三ミリのところにある太さ一ミリの動脈。巻くのでなく輪に突っ込むのなら指の太さを知らねばならないが、どれほどの太さの人がどれくらいいるのか、指輪を売る宝石業界にもデータが無い。社内を中心に内外の三百人から太さを測らせてもらった。直径十六から二十二ミリの人を測れるようにすれば、国内なら九五%を満足できると知れた。

 世間の受け入れに細心の配慮

 八六年秋、特殊なゴムで九角形の加圧リングを作り、空気ポンプや弁などの小型化に苦心して、手のひらに乗る二百二十グラムの試作機がなった。しかし、血圧計の開発責任者、尾川洋・第一研究室長(42)には、売り物になると思えなかった。

 血圧の数値は精神的に緊張すれば高くなるから、病院で測ると家庭でゆったりした気分の状態より高くなる。腕帯式の血圧計が売れ始めて、この差が消費者から問題にされた。医師側にもPRしながら、ようやく家庭での使い方が理解されてきた。指式の場合、上腕部から指までの血管がつまり気味の人は低く出るなど別の問題を抱え、混乱を再燃させかねなかった。

 試作品を五十台以上作り、主な病院に配って、血圧の測定をする機会が多い循環器病の関係者にたくさんの測定データを積み上げてもらった。八七年秋にまず米国企業に相手ブランドで納入、発売して反響を見た。半年後に九州地区だけで「血圧の傾向を測る器具」として売り出し、市場で受け入れられると確認。八九年一月になってようやく全国発売に踏み切った。

 販売は初年度で十万台余り、血圧計市場の一〇%に達した。上腕部血圧計を含め市場占有率は六割近くになった。比較的若い世代中心に売れている。

 《会社》一九三三年、レントゲン写真撮影用タイマー開発で創業、四八年に会社設立。社名は本社所在地、京都・御室にちなむ。売上高三千二百三十七億円。産業用システム機器、業務民生用電子機器、電子決済システム、健康医用機器など。資本金三百六十億円。従業員六千五百人。本社・京都市右京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 健康機器を売る難しさ


 京都の看板企業のひとつがオムロンです。自動化、電子化の制御機器大手で、かなりの多彩な製品群があります。自動機器の耐久性を飛躍的に伸ばした無接点スイッチ開発から社業躍進が始まっていて、わたしの最初の取材希望は制御関係機器だったのですが、一般へのなじみにくさ、他社に比べての優位性を考えて、結局、健康機器に落ち着きました。競争が激しい制御機器分野では、断然差をつけるという訳にはいかない現状です。

 日立マクセルの黒さびビデオテープがボトムアップで成立した商品なのに対して、今回の指式血圧計は断然トップダウンで生まれました。吉田会長は自ら「社内の再建屋みたいな存在」とおっしゃり、社長就任時にライフサイエンス研究所の大勢が学究的な方向に向いていて「大半の人がやっていることが売上に結び付いていない」のには危機感が深かったとのこと。ライフサイエンス研究所は独立の子会社ですが、予算の七割は商品を販売する事業部から製品開発の委託研究費としてもらい、残り三割はオムロン全体の中央研究所費用から与えられるシステムになっています。この三割が独自の開発に使え、指式血圧計の場合も試作が概ねできるまでは社長判断で独自わくで開発されました。その後、事業部の委託研究費に回りました。

 製品が出来てからの長い助走期間は、家庭用血圧計当初の混乱を考えれば、当然のこととされています。健康機器のアフターサービスには気をつかい、八四年から、看護婦さんが詰める健康相談室を東京、大阪、名古屋に置いて、月間千五百件の問い合わせを受けることまでしています。読者の次のような意見が、世間一般のものかもしれませんから、こうした手当をし、発売にあたって周到な根回しをすることは当然なのでしょう。

 「オムロンてこんなこともやってるという感じ。最近の便利な健康測定器の測定値の信頼性は低いですね。残念ながらオムロンの測定器は知らなかったし、指とは素晴らしいと思う。わたしのランニング時計には脈拍が付いていますが、ほとんどまともに測定できない。だから、指で血圧を測れたら尊敬するが、多分、精度は低いだろう」

 果たしてベンチャー企業なのか

 オムロンに勤めていらっしゃる読者から「果たして現在のオムロンがベンチャー企業であるかどうかは疑問です。かつては、無接点リレー、自動販売機、自動改札機、紙幣判定機、ATMなど、発表当時、よそではどこを捜しても見つからないものが出されていましたが、現在はどうでしょうか。今の本田技研が面白くなくなったように、オムロンも面白く無くなったと思っているのは私だけでしょうか」と指摘されると、困ったような「やっぱりそうでしたか」と思えるような立場です。

 この連載では、本当に文句なしの「ベンチャー」が登場しています。それに比べると、ベンチャーでなくなっているというのは事実でしょう。京都経済記者クラブに籍を置いてから、世評や創業者・立石一真さんの著書で受けるベンチャー精神の印象と、実際の商品展開との間にずれを感じていました。今回の取材で、指式血圧計を開発した皆さん以外の方とも接触することができ、そのずれについて私なりの説明がついた思いがしています。一真さんが造語したという「大企業病」、その克服のために相談役に退く直前まで、会長職でありながら、ある事業本部長に復帰したりといった事実だけ見ても分かる気がします。ただし、ベンチャーなら無条件に良いとは思いません。この一世紀、日本全体がベンチャーだった訳で、そのがむしゃらな潜在力を制御して使う時期にそろそろ来ているのでしょう。課長昇格六年目の人に三カ月の大型休暇を与える同社の試みも、そんな転機の現れと理解可能です。

 さらにいろいろな健康機器が出そう

 「指式血圧計を展示販売していたので試してみたことがあり、その時これはすごいと思ったのもです。ただ、あの指を入れる部分が出っ張っているのは、やはりきちんと格納されてしまうべきです。確かTOTOとかと組んでトイレに設置したりしてますが、継続的に血圧が計れたりするのなら面白いですね」

 話題に出たトイレに設置する装置は最近開発されたもので、座って指式による血圧測定をするばかりでなく、尿検査も自動的にこなしてしまうアイデアになっています。試薬を含ませた紙片を尿がたまったところにもって行き、回収して読み取ります。制御機器のオムロンらしいと思いました。もちろん、尿検査のキットも同社の製品です。

 登場する北海道大学の先生は、オムロンとは別の会社と、連続して血圧を測定出来る製品を開発されました。現在の方式はある瞬間での測定なので、たとえ上腕部と指と同時に測ったつもりでも全く同時にはなりません。だから連続測定が出来れば便利だし、血圧そのものについての知識が増え、統計学的にも見直されるでしょう。

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 日伊合作が欧州で評価されたインテリア布地/川島織物

《《うちのヒット商品》》第21回・1990.3.30

 一九八九年に国内で生産された自動車は千三百万台にのぼり、十年連続で世界一になった。多数の部品を組み立てて作る自動車は各産業に巨大な裾野を広げる。繊維業界からは車のシートなどの内装に数百億円の布地が供給されるが、半分以上を帯や美術織物が看板の京都・西陣のしにせ、川島織物が生産することは一般に知られていない。

 八六年、企業の海外進出ばやりの中、同社で一味違った二つの国際戦略が結実した。  米国で車シート地市場の過半を占めるミリケン社と業務提携を結び、米国で自動車生産を始めた日本メーカーに国内と同じ布地を供給してもらうようにした。繊維製品での米国進出は無理と見た技術供与だ。

 届いた新刊書が織部

 もうひとつ、イタリア子会社が現地で創作したインテリア布地が、日欧でデビューを果たした。  「車のシートには、冷たいビニールレザーより温かい感触の布地を」と、岡部正社長(73)自ら市場開拓したが、自動車業界の急成長もあって自動車用布地に依存し過ぎる体質に陥った。本来の主力だったカーテン、カーペットなどインテリア部門が伸び悩むのは、パリで邦人デザイナーが活躍するファッション業界に比べて、インテリア業界の地位が低いからだ。そのテコ入れには海外での成功をと考えた。

 インテリアデザインの中心、イタリア・ミラノ。工場進出の相談を受けて、現地に二十年間住み、京都の商社などの衣料買い付けを担当する家具デザイナー金沢利光さん(51)は「危険があり過ぎる」と首を横に振った。それに、イタリアでは量産メーカー以外にデザインだけ考案し下請けに製造させる企画会社が盛んで、成功した会社は量産品メーカーが及ばぬ格を得ている。

 「その方法しかない」と決まった八五年三月、村田博三・デザイン研究所長(70)がミラノに渡った。金沢さんと現地のインテリア業界関係者を回るが、「日本人の色彩感覚では割り込む余地はないよ」と冷たかった。結局、得られた収穫は「どうしても進出するなら、本物の日本と言える意匠を持ち込んで、イタリア人の手で料理してみたら」との示唆だけ。

 欧州に拠点を持ちたい願いに加えて、文化交流で受信役ばかりの日本文化を発信する必要性を考えて来た岡部社長には、我が意を得た思いだった。「適当な素材を探せ」と指示した。

 しかし、浮世絵を始め、戦前から日本の意匠は様々な形で海外に持ち出されてきた。いま欧米に送り出して新鮮に映る未紹介のものは少ない。何とか、日本伝統のしま柄などを思い付いたころ、一冊の新刊書がたまたま村田所長の机に届けられた。桃山から江戸期にかけての武将で茶人、千利休の高弟だった古田織部が残した茶碗などが収録されていた。

 騒がれた「洗練された素朴さ」

 織部の時代は日欧の最初の交流期。その影響も思わせる斬新で単純化された茶碗の図柄を見て、村田所長は「これだ」と直感した。再度、イタリアへ渡る日が迫っていた。しま柄などと合わせ写真やコピーを集められるだけ持ち込み、現地のデザイン事務所に「図案化は任せる」と素材だけ手渡した。

 七月、図案から布地全体へデザインを展開する段階になり、三度目のイタリア。布地として仕上げてくれるデザイナーを求めていた金沢さんが、電話帳広告のユニークさからダビデ・コリーナさんを見付けて来た。村田所長とデザイン事務所から回収した図案を持ち込むが、どれを見せても触手が動かない。

 しかし、元は同じ古田織部の図柄ながら、村田所長が筆の勢いに任せ、墨のにじみをかまわずに模写した毛筆図案を見ると反応が変わった。「これなら、自分にやらせてくれ」と話がまとまる。  十一月に再び訪れた時には「千鳥」「野草」「稜線(りょうせん)」などの図案が、控えめな色使いの中にもイタリアらしい透明な青などアクセントが入ったプリント地として仕上がっていた。真珠光沢の薄布から、千鳥の模様だけ化学処理で薄く抜いて透かせたカーテンは、村田所長が息をのむ見事さ。

 八六年五月、ミラノでの展示会デビューは専門紙から「洗練された素朴さ」と騒がれた。続いて、村田所長が古田織部からヒントを得て作り出す図案をもとに織物にも展開し「オリベ・シリーズ」として欧州各国に輸出を始めた。八九年夏には、高級ブランドの企画会社しか入れない国際内装協会の三十一番目の会員として認められた。

 国内への輸入は八八年から。岡部正宏・企画部長(38)らが消費者へ浸透する作戦を練り、特約店態勢を一新した。窓ひとつ分のカーテンで二、三万円する高級品だからこそ、気に入った柄がイタリアから入荷するまで待ってもらうほどの人気になっている。

 《会社》一八四三年、京都・室町で呉服業創業。一九三八年に法人組織に。車の内装、室内装飾ともトップメーカー。西独ベンツ車の内装布地にも採用。売上高六百八十九億円のうち、車が五割、室内が四割、帯、どんちょうなど伝統織物が一割。資本金六十一億円。従業員千百人。本社・京都市上京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 伝統メーカーの新感覚事業


 これまでとぐっと違う業界に飛びました。カーテンやいす張りなどに使うインテリア布地のトップメーカー、西陣に本社をもつ川島織物の話です。単にイタリアとの文化交流的な合作による成功だけでなく、意外にも現代産業の花形・自動車のシート地でもトップメーカーでもあって、体質改善のために日本を飛び出した、というのがポイントです。伝統的という意味なら、最も京都らしいメーカーといえるかもしれません。

 ファッション業界で有名なパリコレクションにしても、イタリアのデザイン、布地が下支えしていることはよく知られています。避暑地コモあたりに展開している染色、織物業者たちが、もの作りの実働部隊です。登場した「オリベ・シリーズ」もコモで作られます。村田所長によると、その職人気質の素晴らしさは、現在の日本の職人が忘れかけているものだと言います。とにかく、自分達の感覚で良いと感じたものを作ろうとこだわるそう。手の込んだ高級品さえ作ればいいという風に流れがちな日本とは違います。「オリベ」は北欧のホテル内装などで特に好評だそうです。そう言えば、「オリベ」には独特の冷涼感があります。在来のどの社の布地とも異質で、ぶつからなかったのが、欧州で歓迎された要因でしょう。

 欧州向けに、実は日本からもうひとつの「リップル・シリーズ」が輸出され、やはりカワシマ・イタリアが売っています。こちらは縮みの技法を使ったボリューム感ある織物です。それなりに面白いのですが、オリベの織物とは色彩感覚が随分違います。やっぱりイタリア製はイタリア製(!)です。

 ところで、京都・西陣には「じゅらく」という和装メーカーがあるのをご存じですか。帯などで有名な会社です。そこが、ボストン美術館所蔵のモネなど印象派絵画をそっくり風呂敷に仕立て、大ヒット商品にしました。強い「より」をかけて縮ませた布の感じが、まるで油絵具を盛り上げたボリューム感を演出し、信じられないくらいリアルです。額に入れると、印刷では出せない味があって、はっとさせられます。世界の博物館などから積極的に意匠使用の契約を取り、この間は大英博物館の「ロゼッタストーン」の楔形文字を入れたネクタイを売り出しました。

 古くて新しい西陣のプロデュース手法

 「オリベ・シリーズと名付けてしまう図々しさは、やはり企業かなという思いも多分にあるのですが、デザインが救国したということになっている奇跡の復興国イタリアに参入していく過程は、やはり商習慣ではなくて商品本意・デザイン本意なのかな、と読めました」

 川島織物がイタリアに出て布地をつくった手法は、考えてみると西陣では伝統的なものなんです。西陣には実際に織物をする機屋、染色家、図案家など実務家以外に、腕に何の技能もない「情報屋」の織屋さんという存在がいます。彼はいわばプロデューサーで、情報を集めに飛び回っていろいろな職人をつなぎ合わせ、自分が狙った作品を作り上げるのです。そして、例えば「あそこの帯の白は、よそと一味違う」と、目の利く消費者、小売をうならせることに生きがいを感じます。現在でも、こういう織屋さんは多数いらっしゃって、この生きがいの感じ方も、ある方を直接取材して聞き出したものです。川島織物は現在では株式市場一部上場の大きな会社ですが、その行動は先祖返りだったと言えなくもない、と気付きました。

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 至難に挑んで世界制覇した磁気ディスク用モーター/日本電産

《《うちのヒット商品》》第22回・1990.4.6

 パソコン、ワープロのデータ記憶装置として全盛のフロッピーディスクは、ぺらぺらのフイルム状磁気円盤を使っている。それに対して、厚さが一ミリ以上あるアルミ円盤製で、何十、何百倍も記憶量が多いハードディスクがあり、間もなくフロッピーディスクから主座を奪うと予測されている。密封構造で信頼性が高い上に、普及品は数万円と急速に安くなっているからだ。

 そのハードディスクを動かす特殊な高精度直流モーターを年間で三千万台出荷、世界市場の九六%を制する日本電産が創業したのは、石油ショックによる経済激変期の一九七三年だった。

 直接駆動の第一号は国内で誕生

 技術力はあるものの、従業員四人だけの生まれ立てを相手にする企業は国内に少なかった。永守重信社長(47)が単身渡米して、大企業が手を付けない変わり種や少量生産のモーターをまめに受注して回った。性能、納期がどんなに難しい注文でも受けるのを信条にし、経営のトップがセールスに立つ伝統が出来た。

 七六年、電子部長だった鈴木道博・監査役(57)も「何でもいいから注文を取れ」と米国に送り出された。情報機器会社が軍用ヘリコプターに載せる機器に、従来になく高度な直流モーターを欲しがっていた。魚群探知機などにしか使われなかった小型直流モーターが、高精度化へ歩む第一歩が記された。

 米国駐在の営業マンから七八年秋に「風変わりな注文で、訳が分からない」と電話が入り、鈴木さんが再び出向いた。話を詰めると、コンピューターの磁気ディスク駆動に新方式を導入するのだという。そのころ出回り始めた最新LPレコードプレーヤーに習って、従来のようにモーターから回転軸までベルトを掛けて回すのでなく、軸そのものにモーターを組み付け直接駆動するアイデアだ。

 確かに、外にモーターがある在来型より小型にできる。しかし、レコードの溝より磁気ディスクの読み取り幅は十倍以上細かく、ベルトで振動を吸収できないので桁違いの精度が求められる。回転が百倍も速いから、モーターの各部品に働く遠心力が強く引き千切られせる。それに耐えられるモーターは存在しなかったからこそ、極東の小さな会社に声が掛かった。

 翌年二月にかけて、軍用ヘリ登載機器のモーター技術を元にして開発をスタート。回転部に磁石を張り付ける接着剤から選定し直して、手作りでサンプル品をものにした。

 アルミ円盤の磁気ディスクは三十五センチ径の大型から二十センチ径の中型に移り始め小型化の要請が高まっていた。「海外で必要なら国内でも要るに違いない」と、営業にいた服部誠一・東京支店次長(36)がサンプル品を国内の大手コンピューターメーカーに持ち込んだ。会社創立以来、何度頼んでも相手にしてもらえなかったのに、数日後には出入りが認められ製品化へ動き出した。結局、大手が蓄えたディスク軸の高精度ノウハウと結びつくことで、内蔵モーターが直接、回転軸を駆動する磁気ディスク装置第一号は米国より早く国内で誕生した。

 猛烈開発で競争相手置き去る

 小型化に向かった流れは一気に加速、卓上型パソコンに内蔵できるディスク径十三センチの時代がやって来る。

 八二年秋、セールスに渡米した永守社長から「モーターの外側に必要だったブレーキと回転検出器、アースを内蔵すると取引先の米社に約束した。一週間で作れ」と、国際電話が入った。

 これだけ内蔵すればディスク装置メーカーは機構部に手を触れることなく、得意な電子回路だけ用意すれば済む。ムシがいい注文だが、社長が受注した以上やるしかない。直流モーターの責任者になっていた竹上清好・開発第一部次長(35)ら五人は、工場に寝袋を持ち込んで開発作業を始めた。

 もう余裕など無いと思われた直径七センチ、厚さ二・三センチの駆動部を三分の二に薄くし、ブレーキなど要求部分を加えて元の厚さに納めるアイデアをひねり出すのに三日間。磁石と電磁石部をやすりで細かく削る試行錯誤や、髪の毛より細い銅線の巻き方を工夫するのも十回以上。一週間は無理だったが、二週間目の朝、サンプルが完成した。それまで数千台規模の受注だったのに、この製品は一挙に十万台の成約になり、会社の主力製品が誕生した。

 二年後、モーターの厚さを半分にとの要請も三カ月で実現し、ハードディスク装置を携帯型パソコンへ組み込める薄さにした。猛烈なスピードの開発ぶりに競争会社は遠く置き去られ、まず海外から消えた。国内で一社だけあった相手も経営不振に陥って、八九年春に買収した。

 このモーターは五千分の一ミリの振れしか許されず、たばこの煙粒子大のゴミも嫌う。製造には大規模なクリーンルームとロボットラインが必要で、いまさら他社の新規参入は不可能とされる。

 《会社》一九七三年、映写機や磁気テープなどの交流モーターの製造開始。亀岡、峰山、滋賀県・愛知川に次々と工場を増設。八八年、創業十五年で株式上場。モーター以外に送風ファンや電源装置も。売上高三百三十三億円。資本金百三十三億円。従業員はグループ全体で二千人。本社・京都市中京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 こうして採用した人材が、こう動く


 日本電産は、猛烈なエピソードに事欠かない会社です。記事の本文でも雰囲気は感じてもらえると思いますが、ちょっと本当と思えないほどです。

 会社創立三年目、何とか資金繰りをつけて注文が取れ始めたら、マンパワー不足で生産に困り、新入社員を取ろうとしたが誰も応募が無い。翌年は世間が不景気になって応募者があったものの、普通の試験で成績順に採用して、いい人材を選べる企業ではないと自覚ができていました。将来伸ばせると見込める人材はどうしたら選別できる考えて、奇想天外なやり方が次々に登場します。その年は、永守社長のサラリーマン六年間(ティアック、山科精器)の体験から割り出して、声が大きい受験者から採ってしまいます。翌年は、食べにくいスルメや干し魚がいっぱいの弁当を早く食べた者から、翌々年は素手で便所掃除をさせてきちんとやり抜く者を・・・という具合です。

 トップセールスの中身は「とにかく注文は受けてしまう」に尽きるようです。どんな難しいことを言われても、相手に「イエス」と言った時点ではウソではありません。「出来なければウソになる。わしに、ウソをつかせるのか」というのが社長さんの殺し文句で、部下としては、やるっきゃないことになります。永守社長は優れたモーター技術者ですから技術的な困難さをまるで無視しているとは思いませんが、取材で聞く限りでは、納期の短さを思うと至難な気がします。納期の短さは異常に近くて、例えばこんな自慢話があります。ある新規参入会社と同時に電算機メーカーからサンプル注文を受け、相手がようやくサンプル品を提出した時には、日本電産側は何度もサンプルを出し直して全く別物の量産品に仕上げており、既に生産ラインに流していたそうです。

 皆さんの読後感は「できる極限を見極めることと極限まで発揮させる力を持った会社、社長氏に敬服しました。一歩先を見極め、その一歩が大きければ他社を大きく引き離す結果は当然でしょう」という賛意、「猛烈ですね。ネガティブな意味での日本的生産形態、ひいては日本的企業像の好例ではないか、と読んでしまいました。しかし、ちゃんと商品を作り出してしまうとは、猛烈ゆえの必然なのか、はたまた独自の基盤がしっかりしていたのか。自分の会社をどのように見つめているのか、一度うかがってみたい気がします」という疑問に分かれました。

 この会社の馬力には、そして、取材で会った人たちの苦しかったはずなのに楽天的な印象には恐れ入りました。ただし、帰り際には念を押されました。「現在ではあんなことはありませんからね」と。過去の猛烈と現在は違うとのことです。あのままでは、この人手不足時代に学生を集められないでしょう。

 指摘された方もいらっしゃいますが、小型ハードディスクにとって半導体メモリーの値下りと普及が脅威です。その一方、大容量では開発テンポが遅い光ディスクを食ってしまっています。「猛烈」色を薄めつつ、厳しい時代に入って行くこれからの日本電産の姿は特別なようにも見えて、実は日本の企業全体の問題で、ちょっと極端にしただけではないでしょうか。

 磁気ディスク用モーターに選ばれた訳

 記事では技術に関することは大幅に省きした。ハードディスクが十四インチ(三十五センチ)時代のモーターは、ベルトドライブの一馬力もあるような交流モーターでよかったのです。これなら電機メーカーの大手なら標準品としてカタログに持っています。次に八インチ(二十センチ)と小さくなるだでなく、小型化と熱放出の減少をねらった効率向上、電子回路と共通な直流電源だけで済ませたい、などの理由から直流モーターが選ばれました。しかも、普通の直流モーターに付き物の整流ブラシがあっては火花による雑音発生でコンピューターがたまりませんから、ブラシレスのホール素子方式という特殊な形にしぼられ、そこにたまたま日本電産のモーターがあったという筋道でした。同社も最初から直流モーターの技術をもっていたのではなく、創立後間もなく、ある事情で取引先だった小さな会社の技術陣を社内へ吸収してしまったのです。

 現在のモーターの重さを列記すると、五インチ型が三百五十グラム、三・五インチ型が七十グラム、二・五インチ型が三十グラムです。五インチ型は三十ワットもありますが、二・五インチ型なら一ワットまで小さくなっています。

 ハードディスクの記憶容量が大きくなっているのには驚きました。五インチディスク、八枚重ねの装置は両手でつかみとれる体積の二倍くらいですが、なんと一・二ギガバイトでした。一メガのフロッピーディスクの千二百倍です。光ディスクと比べても同じ体積なら二倍の記憶容量といいます。光ディスクの離陸が遅れている間に、ここまで来ていたんですね。記録の安定性からみてもこちらの方が優位でしょう。もっとも、同社としては将来、光ディスクの時代が来てもモーターの技術は流用可能です。

 ところで、関連でこんなコメントをいただきました。

 「大型機の大容量記憶装置としてIBMが開発したハードディスクを、パソコン用に使う発想には応答性のよい直流モータが不可欠です。IBMが自国のゼネラル・エレクトリック社を押し退けて、早くから日立製作所のモーターを採用していることからも、スペックに合った直流モーター開発が、いかに困難であるか分かります。無名の日本電産がかってのソニーと同じマーケティング手法を用いて対米輸出の成約を得、今日の成功につながったことが、記事でわかりました。品質の均一性、量産、コストの面で米国企業の要求をクリアした同社の経営に敬服の念を禁じ得ません」

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 開業医に大病院の診断力与えたX線テレビ/島津製作所

《《うちのヒット商品》》第23回・1990.4.13

 一九八〇年代に入って死因順位のトップは、がんになった。中でも胃がんで、がん死亡者の四分の一に当たる年間五万人が亡くなる。しかし、他のがんに比べて早期発見による治療効果が大きく、五ミリより小さな早期がんなら九〇から百%が外科手術などで治る。日本人に多いがんであることも手伝って、X線写真による集団検診が海外に例を見ない規模に発達した。

 大量のX線写真を撮らねばならず、医師側の被ばくが心配された胃がん集団検診を支えたのが、X線テレビのシステムだった。島津製作所が大阪府立成人病センターの要請で六一年に開発した。弱いX線を浴び続けながら撮影台の透視画面に付きっきりだった医師は別室に移り、患者の胃の中でバリウムの造影剤が広がるのを操作台のテレビで見ながら、精密診断用にシャッターを切るチャンスがうかがえるようになった。

 売れ残り処分がきっかけ

 現在の値段にすれば当初数億円するシステムだったのに、近年は安いものなら五、六百万円になり開業医にまで普及する。圧倒的に占有していた市場を東芝、日立製作所と三社で分け合い、高い技術力を売り物にしていても、技術主導で作られて来た島津製品は割高感が言われるようになる。

 八七年夏、六年間売り続けた開業医向けX線テレビのモデルチェンジが、医用機器事業部で持ち上がった。新製品検討会を主催した業務推進部は、その春に生まれたばかり。蔦嶋徳治郎・副主任(48)から、開発を担当する第一技術部に「製造原価のアップ無しで性能改善を」と要求が突き付けられた。販売現場からの要望を背にした声だ。値下げではなく、もっと充実させて他社に対抗する戦略だった。

 生え抜き組以外から医用事業本部長に就任、この直前に転出した小林一雄・島津エス・ディ社長(65)が残した組織改革が業務推進部。カタログ作りなどだけ担当していた業務部を、技術、製造、販売の間に立って商品企画をする使命を持つよう改めた。事業部内の調整役、プロダクトマネジャーになった中西猛・放射線機器専門部長(55)といっしょに新製品作りの前面に出た。

 大病院向けの高級機から製造しているから、普及機作りは高級機の技術をコストをにらみながらどう移植するかの工夫になる。福西勝司・第一技術部課長(45)ら技術陣から、他社と違って三種類のサイズのフイルムが自動交換でき、胃がんばかりでなく胸部全体や腹部、手足用としても撮影に使える構成が提案された。普通のカメラなら逆光撮影にあたるような、X線技師のノウハウを盛り込んだ撮影条件の内蔵も決まった。コストアップをしない帳尻合わせに、撮影台部分での合理化などに工夫が施された。

 製品の企画が大詰めになったころ、思わぬ問題が持ち上がった。高級機は構成部品を注文に合わせて組み合わせる。在来高級機用の操作台だけが新機種移行の結果、売れ残ってしまった。工場から業務推進部に届いた情報に頭を痛め、普及機の撮影台と組み合わせるアイデアをひねり出した。高級機の使用感を持たせながら大幅に値下げした二十台が飛ぶように売れ、思わぬ好評に二十台を追加生産した。

 一ミリの初期がんも

 販売子会社、島津メディカル京都支店の大前孝男・副支店長(55)は、大病院向けの二千万円機がぼつぼつと熱心な開業医に売れていると気付いていた。「経営上から安い機種を求める先生が多い一方で、患者からの評判を重視する先生も増えた」。人口十万人当たりの医師数が八三年には百五十人を超えて欧米並の二百人がもう間近。医師が患者から選別される時代を感じ取っていたのだ。

 窮余の在庫処分から、普及機と高級機の間に、今まで見えなかった質の高い需要が存在していると知らされた。

 「それなら操作感ばかりでなく、撮影の解像力も高級機並にしよう」。業務推進チームは新しいタイプの高機能機種を開発すると決めた。撮影台は計画中の普及タイプを組み合わせた。X線管の力を強めて短時間に撮影、胃の動きによる像のぶれが無く、一ミリの初期がんもとらえれる。「これまでのように精密検査は大病院でと、患者を送らなくても済みます」と売り込める製品になった。

 八八年十月の発売で新機種は在来タイプからは五割高、千二百万円に設定した。それでも値ごろ感があって最も注目され、普及型以上の引き合いが寄せられた。

 この春から、西独の子会社に七人の技術者が常駐して現地向け医用機器を設計し、図面を本社に送る態勢になった。輸出でも市場に合わせた新製品の開発へ脱皮が始まった。

 《会社》一八七五年、理化学器械製造で創業。九六年にX線写真を撮影、一九〇九年には国内初の医療用X線装置を病院に納入。売上高千四百九十五億円のうち科学計測機器が半分を占め、医用機器と航空機器が四分の一ずつ。二割近くを輸出。資本金百六十六億円。従業員四千百人。本社・京都市中京区。

 《パソコン通信でのコメント》

 技術本位企業の苦闘


 島津製作所は京都の技術にとって大きな源流です。これまでに連載で紹介したメーカーの中で、日本電池と日本輸送機は島津から派生した会社ですし、科学機器、科学模型、マネキンなどの業界で京都が強いのは、島津の創業者島津源蔵(初代と二代)が優れた発明家だったことが要因になっています。

 ただ、現在の島津の本体でみると、クリヤーなヒット商品が数えにくいのです。取材対象がX線テレビになる前は、医用機器のひとつで、がんの診断などに使う「核磁気共鳴による画像診断装置(MRI)」という難しい機械を考えていたのですが、一時の優位から、現在は競争激化でかなり苦しい立場に至っている印象です。ただ、主力の中の主力、ガスクロマトグラフィなどの分析機器は優秀で競争力がありますから、好景気で企業の設備投資が盛んな間は好調な企業体質です。最近の売上高をみても、一九八六年に十一年ぶりの減収を記録してから後は好景気で急カーブに業績が回復し、伸び続けています。新技術では、話題になったDNA自動合成装置などバイオ部門も盛んですが、まだ商売になっていません。

 連載の話はそういった状況の中で、医用機器事業部による苦闘ぶりとして読んでいただくのがよいでしょう。現在は、商品企画をようやくシステムに乗せようという段階です。このシステム化と前後して販売部隊を子会社化します。販売高と販売員が正比例している医用機器市場の現状をつかんで、販売員を大きく増やすには島津本体に所属させていては不可能とみた経営判断です。X線断層撮影装置のほかに電子顕微鏡など、国産初の開発例にこと欠かない技術力のある企業だけに、商売の面で今後どういう進路を進むのか、注目したいものです。

 身近に使うハイテク医用機器

 「健康が重大な関心事となっている年令ですので、身近なところで、大病院並の診察が手軽にできるようにしてもらったことは、とてもありがたいことです」と、感想をいただきました。専門家向けの医用機器に、本当はこうした消費者向けの要素がもっともっと早く盛り込まれるべきだったのだと思います。そうなっていないのは、日本の医療制度に問題があるからでしょう。

 患者のためにハイテク技術を使う動きとして、MRIによる「脳の人間ドック」が各地で開かれ、大きな反響を呼ぶようになりました。その先駆者のひとつが京都の病院で、わたしの取材した社会面の記事から次に紹介してみます。MRI撮影だけで二万六千円といいますから、医師らの面談もあるドックで費用三万円のこの例は、儲けを度外視した病院の自己主張の観があり、病院もひとつのベンチャー企業になっている感じがしますし、医師過剰、病院過剰時代へのリスクヘッジとも見えます。京都はこんな新しいことが結構好きです。国や自治体がすることよりも、民間のすることの方が立派であることが多い土地柄です。

 [脳の人間ドックオープン]働き盛り世代を突然襲って死に至らせる脳底部のクモ膜下出血や脳こうそくなどの早期発見を可能にする「脳の人間ドック」が、京都市伏見区の蘇生会総合病院(津田天与理事長)で始められる。米ゼネラルエレクトリック社から最新の磁気共鳴診断装置(七億円)を国内で初導入、従来の脳の血管に造影剤を注射する検査法と違い苦痛を与えず短時間に脳血管像を写し出せる。脳外科医のほか過労死問題を扱う専門家からも、実用的と注目されている。

 クモ膜下出血の三分の二は脳動脈の弱い部分が膨らむなどしてコブができ、強いストレスを受けた際などに破裂する。年間五千人ほどが死亡しているが、こぶを事前に発見して金属製のクリップで根元からつまんでおけば破裂しないですむ。津田永明・院長(脳外科)は生き延びても後遺症に苦しむ患者が多数いるのを見て「出血前に手が打てないか」と模索、米国で五ミリ程度のこぶが容易に発見できる装置が開発されたとのニュースに飛び付いた。

 従来の磁気共鳴診断装置でも研究用に時間をかけて脳血管像を撮ってきたが、最新装置は問題になる脳底部だけなら五分で撮影、十五分で解析が済む。これに眼底、平衡感覚、血液などの検査を組み合わせて二時間、三万円のドックを考案した。血管に造影剤を注入し相当な苦痛を伴う検査が一部の病院で実施されているが、費用は数倍かかっている。事情に通じている脳外科医仲間から、早くもドック入りの予約が寄せられている。

 田尻俊一郎・大阪過労死問題連絡会長の話 過労死はクモ膜下出血死のことと誤解されるくらい若い世代から増えた。この検査は体に害がなくて費用も手頃そうなので、ストレスが強い職業などリスクが高い人は利用してよいと思うが、心配の芽を摘んだからといって猛烈社員のままでよいというのは困る。

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 多様化時代に先駆け原点回帰の地域ビール/キリンビール京都

《《うちのヒット商品》》第24回・1990.4.20

 ビール業界はこの数年で激しい地殻変動を経験した。動きようがないと思われた大手四社の均衡状態が、ドライビールブームで崩れ去った。各社は多様化で勝負する戦略に移って、何十種類もの新製品洪水になった。

 最大手キリンビールの京都工場に、業界初の小醸造所が一九八八年七月生まれた。多様化の先端を走って出荷先を限定し多品種少量生産に徹するが、「ドライ」対策とは全く別のいきさつを持つ先駆けだった。

 単一商品だけでは時代遅れ

 七九年に起きた米国スリーマイル島原発事故は世界に衝撃を与えた。事故から半年、一年を経て真相が明かされ、原子炉という人の目で直接確かめられない巨大システム内部で起きる現象がいかに操作員に分からないか印象付けた。その時期に本社製造部長から常務になった片岡純一郎さん(65)=現・顧問=は、技術の責任者として他人事と思えなかった。巨大化、自動化したビール工場に働く人達にもプラントの内部で起きていることが見えない。物づくりの皮膚感覚が忘れられていないか。

 昔のビールづくりは、世界各地で小規模に地域色豊かに営まれた。百五十年前にチェコスロバキアで現代ビールの源流になる傑作ピルゼンビールが生まれて世界中に広まり、小規模な醸造所は姿を消して行く。国内各社は完成されたビールを明治に導入し、ビールを試飲しての銘柄当てはプロでも難しいと定評を取るほど互いに似た味になった。

 もう一度、ビールの原点に立ち返れる試験的な醸造設備が欲しい。八六年に用地に余裕があった京都工場に白羽の矢が立ち、設置する予算が認められた。普通のプラントは一度に大びん十六万本分をつくる生産規模がある。それを十分の一に減らし、古いタイプの酵母も使えるようにする。

 当時、京都工場長だった橋本直樹・名古屋工場長(56)は、総合研究所で二十五年間、味とにおいに取り組んで来た存在。本社マーケティング部から赴任した藤田信三・京滋支社長(57)と「単一商品だけつくるのは時代遅れ」と意見が合った。社内向けの試験設備から、小規模ながら商品を造る醸造所にと話が膨らむ。

 八〇年代に入り欧米でレストランに小ビール醸造所を併設するブームが起きた。大手に無い味を生んで値段は高めでも商売になった。お手本にして工場にレストラン風の試飲スペースを設け、京都にふさわしい地域ビールを出荷する「ミニブルワリー」構想がまとまる。二十五億円を投じる計画になった。

 カナダ市販ビールの酵母もぎ取って

 どんなビールをつくるべきか、八八年初めから検討した。横浜テクニカルセンターの試作品から数種が選ばれ、京都工場と京滋支社の従業員が試飲してみた。結局、全部の女性から歓迎されたのが決め手になって、古典的なタイプの酵母で新しい軽い味を出した開発番号「No.1497」を選び、そのまま商品名に採用した。

 京都市の新設ビアレストランだけに出荷、販売すると、客の過半を占める女性から圧倒的な支持を受けた。「評判を聞いて仙台から来た」と名刺を置いて行く人まで現れた。

 ビールは麦芽から造る麦汁の糖化度や濃度をあらかじめ調整、苦味のあるホップを加えて酵母で発酵しそのまま熟成、出荷する。新開発ビールには従来に比べてホップを四割しか入れず、果物を思わせる芳香を生む酵母を使った。ホップが減ると泡立ちが悪くなるので、泡もちを良くするたんぱく質分を豊かにして補った。軽さと滑らかさに香りの演出が当たった。

 オープン間もなく、京都工場に着任した松沢幸一・製造部長(41)にはミニブルリーを発展させる仕事が待っていた。

 八九年九月、透明なビールつくりで米国ビール醸造者会長賞を受けることになり渡米した。授賞式後、提携先のカナダ最大手の副社長と、新開発したビールの手本のひとつになったカナダ産ビールの話をするうち意気投合し「酵母を譲ってやろう」と言わせた。翌朝「もう航空機を手配したから」と強引に交渉、相手の冗談を本物にし、異例中の異例ながら、市販ビールの酵母をもらい受ける。

 帰国後、新酵母に代えて醸造すると、これまでになく華やかな香りのビールが出来た。さらに手を加えて、近畿、北陸六十の飲食店で年末だけ売ることになる「クリスマス・エール」が誕生した。橋本さんが唱えた「一杯飲むだけで満足できる未来派ビール」が完成に近付いた。

 九〇年春、花の万博向け、東京・六本木の新レストラン向けと次々に様々なタイプの限定ビールを開発して好評。中でも「No.1497」の出荷先は京都で十店に広がり、全国発売しているある品種以上の量を売るほどに成長した。

 《会社》宝酒造が一九六七年にビール事業から撤退した際に、キリンビールが九番目の工場として取得。敷地面積二十二万平方メートル。ビールは百キロリットルを毎日十六回仕込める本工場と、十キロリットルのミニブルワリー。大びんにして年間四億本を近畿圏に出荷。清涼飲料水も生産。従業員六百人。京都市南区。

 《パソコン通信でのコメント》

 酵母・泡・苦み・女性客


 今回のキリンビール京都、意外に思われた方が多いと思いますが、書き上げてみると、シリーズにぴたりはまっている感じがしています。何と言っても、一度はお酒の話を書きたかったし・・・。

 ミニブルワリー製造の商品は京都に来ないと味わえない訳ではありません。「No.1497」は無理ですが、花博向けのライトビール(暑い時期に爽快に飲んでもらおうと軽くしたそう)はもちろん花博会場にありましたし、東京・六本木のレストラン「シラノ」で出すシラノビールもここの製造で、月替わりで京都ミニブルワリーの各種ビールも味わえるそうです。シラノの開店早々にお祝い感覚で、記事に出た「クリスマス・エール」に近いビールを出したら、直ぐに売り切れてしまいました。取材時に試飲してみた中では、濃い褐色をもつアルツビールも、デュッセルドルフの小醸造所を訪れた体験を思い起こさせ、なかなかでした。

 酵母などの技術については、読みにくくなるので記事中ではあまりしか触れませんでした。そこで少し補足します。大麦を発芽させ根を取り除いた麦芽が、ビールの主な原料です。芽といっても殻にはさまれたままなので外目には白い芽は見えず、殻だけです。これを加熱し糖化のさせ方を調整してから、酵母による発酵です。ホップを大幅に減らした「No.1497」だと、泡立ちを補うたんぱく質を多くするようにいろいろな工夫があります。ホップとたんぱく質の複合体が表面張力を小さくして泡を豊かかつ細かにするから、丹念に泡だけ除いていくと、ビールは苦みが消え単に甘いだけの液体に変わります。

 ビールに苦みは必須だと思われていたのに、女性には苦みを嫌う人が多いようなのです。アサヒのスーパードライが成功した秘密に、ホップを減らしたことがあるといいます。どのくらい減らしたのか・・・キリンのラガーを百とすると、スーパードライが六十、「No.1497」に至っては四十になります。スーパードライでは、発酵を進ませ糖分を減らしてアルコール分を増やした「すっきり感」が付加されているのに対して、「No.1497」は古典的な酵母によって華やかなフルーツの香りがあるのです。

 糖化した麦汁に酵母を加えると一週間ほどかけて発酵が進み、最盛期には対流現象が起きて上下がどんどん入れ替わります。その終わりごろ、酵母の種類によって違った状態になります。ラガーもスーパードライも使っている酵母はタンクの底に沈みます。一方、古典的なタイプの酵母は液の上面にある泡にくっ着いて浮き上がります。だから、前者を下面発酵酵母、後者を上面発酵酵母と区別します。酵母は自分の分身を自ら複製して増殖します。下面派はばらばらでいるのが普通なのに、上面派はときとして何個も連結してしまうので泡に付着しやすいから浮くのだとみられています。このほか、発酵の温度が下面派は十度以下なのに上面派は十五から二十度、酵母の寿命も下面派は短いのに上面派は永久にでも使える、とかの差があります。

 酵母の形は〇・〇一ミリの長円形です。こうした微生物の営みの差から、ごくごく飲み干すとうまいタイプのビールと、ワインを思わせる芳香のビール「クリスマス・エール」が別れるのだから不思議です。

 ミニブルワリーが商売にならない訳

 ビール好きの方は、どんな味か飲ませもしないでこんなに書かれても、と思ってしまわれるかもしれません。そこで、あまり適切でないかもしれませんが、連想のねたにキリンが出している「マインブロイ」を思い起こして下さい。遠いけれど、なんとなく共通点があります。実は、ミニブルワリーを企画した橋本工場長や藤田支社長は「マインブロイ」の誕生にも参画していたのです。キリンの味の多角化は「スタウト」あたりからです。

 商売としてミニブルワリーをみると、欧米で流行のレストラン併設「マイクロブルワリー」と違い、これはとてもペイする存在ではありません。日本に欧米型が存在できないのは、年間二千キロリットル以上販売しないと免許を与えない酒税法が存在しているからです。こんな大規模では、現在の大手以外には無理です。ミニブルワリーはブームになりかかっていて、先行したキリンを追ってサントリーとサッポロが武蔵野、静岡、京都・桂につくっています。

 橋本さんによると、二十四時間操業している大型工場なら一リットルのビールが五十円か六十円でつくれるのに、ミニブルワリーは仕込みは昼間だけですし、いろいろと美観に気を使い設備投資しているので、償却など全部合わせると、何と一リットル一万円くらいにつくそうです。宝酒造が残した回遊式の日本庭園を眺めながら、こんな高価なビールを試飲して楽しむ人が年間二万人くらいいらっしゃいます。グループで予約すれば見学できます。

 地域限定が生む価値感

 「一部の飲食店での限定発売としているのは、市場戦略のひとつでしょうか。それとも技術的な理由で、発売したくてもできないのでしょうか」との質問がありました。

 消費者に余裕ができ、物があれば買う時代が去った現在の市場では「あなただけに」とか言ったスペシャル情報が喜ばれる傾向があります。地域ビールも「そこだけで飲める」という価値感が生きる商品だと言えます。こうした商品はますます増えるでしょう。加えて、技術的な裏付けとして現在の大規模量産工場は「No.1497」のような上面発酵タイプの酵母が使えない設計なので、いまのところ京都のミニブルワリーでしかつくれないのです。強い味がする「スタウト」は本来、上面発酵タイプの古いビールなのに、以前は無理をして下面発酵の工場でつくっていました。現在、本来の上面発酵に戻したので京都ミニブルワリーでしかつくれないビールです。これは全国発売しているのに「No.1497」に販売量で追い越されてしまいました。特徴がある商品にして、「限定」の情報で味付けするほうが良いという証しになるかもしれません。

 前工場長の橋本さんは「地域ビール、季節限定ビールなどの限定情報商品が全国商品になるのは本質的に難しかろう」とおっしゃっています。ただ、現在の開発スタッフには全国商品になるようなものを探りたいとのニュアンスもあります。どちらにしても、ラガー、スーパードライのような巨大な商品にはならないでしょう。食べ物、飲み物はそれぞれに個性的であるのが正常で、みんなが同じ味に親しんでいたのがおかしかった訳です。現在の二大銘柄ラガー、スーパードライの量は大きすぎると言えるかもしれません。

 シェア・トップが常識を覆した

 「日本酒に代表される酒類はすべて地元の消費者をユーザーにして事業が展開されてきましたから、地域ビールそのものに目新しさはありませんが、ビールのシェア・トップのキリンが市場に送り出した点に異色を感じます。背景にはドライ攻勢に対抗する意味合いも込められているのでしょうが、重厚な経営で知られる三菱系のキリンがよくぞここまで、と思います」

 「味を基本に考えて作られたことは、ビールの好きな者には嬉しいことです。新商品によってどのビールも同じという今までの常識を覆した点は、この連載に登場するものの多くに共通することで、開発を担当した人達にとっても満足感が大きいでしょう」

 ビールの新製品競合はますます激しくなって、キリンの「一番搾り」とかが予想以上の勢いで売れているようです。ただ、キリンの地域ビールはまともに設備費などを積み上げると、一リットル一万円にもつく「超高級ビール」です。これから、その壁を破って商売になるものが出てくるのか、あるいは象徴的な存在に終始するのか、各社のミニブルワリーも含めて注目したいと思います。

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 実用化へ粘り抜きトップ走る電力用太陽電池/京セラ

《《うちのヒット商品》》第25回・1990.4.27

 京セラの稲盛和夫会長(58)は一九八四年に二十五社合弁で第二電電をつくって、苦い経験をしたことがある。当時の国鉄に「国鉄系の新電電といっしょに新幹線に光ファイバーを架設させてほしい」と頼んで、けんもほろろに断られた。第二電電は新電電三社の中で後ろ盾が無い、最も弱い立場にあった。苦い経験をバネにし、第二電電を世間に認めさせる策を率先して打ち出し続けた。今や新電電の中で一番の業績を挙げ、過去の赤字を一掃する勢いだ。

 京セラはこのほかにも他社が手を出しかねる不利な事業を、稲盛さんを中心にして次々に成功させ、大企業にのし上がった。その中に第二電電よりはるかに長期間粘り抜いた電力用太陽電池がある。

 応用商品に盗難が続出

 石油ショック直後の七五年、稲盛さんは新エネルギーの必要性を痛感し、セラミックからの事業拡大の一つとして、電力用太陽電池の開発を思い立った。特殊な半導体基板を造るために米国から薄板製造法を導入していた。それを手掛かりにして日米五社から資金と人を集め、新会社を発足させた。

 太陽電池はシリコンの薄板を半導体に加工して造る。当たった光のエネルギーで内部の原子が揺さぶられて電気が発生、薄板の表裏に付けた電極から取り出す仕組みだ。

 シリコン薄板を完璧な結晶構造をした単結晶で造ると高性能になっても高価につく。値段の高さが電力用太陽電池の実用化を阻んで来た。一方、ガラスのような非晶質タイプは電卓に普及しているが、電気の発生が少なく屋外では耐久性に乏しい。両者の中間に微細な結晶が寄せ集まった多結晶タイプがあり、性能、価格もまずまずで、導入した製造法に向いていたから新規参入に踏み切った。

 単結晶タイプで先行するシャープから、木村謙次郎さん(60)=現・京セラ常務=が新会社の技術担当役員になり、技術陣を連れ来た。短期出向のつもりが「今すぐにビジネスに直結しなくても、資源の無い国で新エネルギーに血道をあげる民間企業があっていい」と熱っぽく説かれ、「失敗したら帰る会社がある者には引っ張れない」と骨を埋める覚悟に変わる。

 しかし、見込みと違い製品の生産性は良くならず、石油ショックが遠のくにしたがい大した需要が望めなくなる。八一年に渡辺博之・企画部責任者(55)は、西独企業が四角い鋳型でシリコンを固めて刃物で薄板を切り出す簡便な製造法を開発したのに目を付けた。ここに至っての方向転換に、他社は見限って撤退した。残った人たちは再び低コスト・高性能化に挑み始めた。

 食いつなぐために手塚博文・SE第三製造課副責任者(40)らは応用商品の開発を手掛けた。昼間に太陽電池で蓄えた電気で夜間に点滅する道路標識を、鹿児島県などに売り込んだ。ところが、あちこちで数百本の標識が一晩で盗まれる。「こんなに盗まれる物は要らない」と言われ、調べると、イノシシ除けに農家が引き抜いて畑に差し込んでいたこともあった。マイクロ回線網の電源、街路灯、記念碑とこまめに開拓し、十年で五百種類以上の商品を作った。

 地球環境問題が追い風に

 伏見事業所から滋賀・八日市工場に生産ラインを拡充、曲がりなりに軌道に乗り始めた。しかし、今度は八五年から八七年にかけて円高が襲い掛かった。円の対ドルレートが二百四十円から百二十円にも跳ね上がった。

 マウラ・ネアーズ海外営業課主事(40)はバングラデシュから京大大学院に留学、途上国の電源として普及させる計画に共鳴して入社した。海外に売り歩き、手ごたえを得たが、円高には悲鳴をあげた。半分近くの人員を整理せざるを得なくなる。

 太陽電池は発電能力一ワット当たりの値段で売られるから、太陽光から電気へ変換する効率を上げると製造コストが同じでも商品の値段が下がる。白沢勝彦・太陽電池研究課責任者(37)ら技術陣は、他社が手掛けない改良方法を見付けていた。

 少しでも光が電池に入り込みやすくと、表面に光の反射防止膜を付けた。窒化ケイ素の防止膜を付ける途中で生まれる反応力に富んだ水素がシリコンの中に入り込み、多結晶の境目にある傷をふさいで単結晶に近づけた。変換効率は三割アップ、八八年には実用商品で一四・二%に達し、競争相手の米社に水を開けた。

 いま、石油の需給は緩んだままながら太陽電池には別の追い風が吹き始めた。地球の温暖化をもたらす二酸化炭素や酸性雨の原因になる汚染物質を削減しようと、化石燃料の消費減らしが内外で真剣に考えられ始めた。

 実用化へトップを走るから注文が八九年から急増、生産が追いつかない。年内に生産能力を倍増し年間六千キロワットに拡大する。現在は輸出中心だが、国内でも発電設備としての使用規制が緩和されたのを機会に、本格的に使われる気配がある。

 《会社》一九五九年、ファインセラミック専門メーカーとして設立。次々に事業拡大し年間売上高二千九百九十二億円の内訳は半導体部品二八%、電子部品二二%、電子機器二一%、光学精密機器八%など。太陽電池部門は三年前に本社に吸収。資本金九百五十億円、従業員一万三千人。本社・京都市山科区。

 《パソコン通信でのコメント》

 創業者の姿勢


 京セラでは、創業からの主力セラミックから製品の幅を広げる時期に登場した電力用太陽電池を取り上げました。一九七五年頃にセラミックの応用として人工サファイアのクレサンベール、切削工具、人工歯根と合わせて四種の新商品を手掛け始めたのです。以後、各種事業に新規参入の連続になる、京セラ拡大史の初期ステップに当たります。

 八人の若者で町工場から創業した稲盛会長はもちろん技術者です。しかし、技術至上主義ではないように見受けます。技術があったからだけでも、時流に乗ったからだけでもない、企業経営には別の要素が強いと思われているようです。今回の記事はそれが主題ではありませんが、隠れた味付けにはしているつもりです。

 現在は京セラから系列の組織に出向している方に「十年くらい前の京セラは、お風呂ならとんでもないほどの熱々で、普通の人が入ると火傷して飛び上がる世界だった」と、うかがいました。稲盛さん自身がちょっと前までは軽四自動車で走り回っていたそう。それをベンツに代えた稲盛さんが、もう一度、自分の経営理念を体現してみる場所として第二電電を選んだと聞いています。大企業になった京セラの社員に、もう一度ベンチャーを試みている自分の後ろ姿を見せることも目的だったのです。わたしの記事は、それを踏まえて第二電電を太陽電池開発とダブらせて書き始めてみました。

 電力用太陽電池の実用化には多くの人為的な障壁がありました。例えば、国内では三十ボルト以上の設備になると電気技術者がいなければならないことになっていました。一・五ボルトの乾電池を二十個直列にしても三十ボルトですから、随分と不可解な制約に泣かされてきたものです。最近の電気事業法改正でこの制約がなくなり、百キロワットまでなら無許可設置でき、五百キロワットまでなら届け出だけでよくなりました。

 規制されていない米国では現在、五十ワット前後の太陽電池パネルを何枚か買ってキャンピングカーに乗せる例が多く、別荘になら二、三キロワットがよく設置されるそうです。最近になって、太陽電池だけで全部の家庭電力をまかなうために、京セラ製六・五キロワット分を屋根に組み込んだ建て売り住宅がフロリダでつくられました。スイスも国策として太陽電池で発電するつもりらしく、百キロワット分を高速道路の防音壁に設置、商用電源に直結して発電された電気を流し込む試験を始めました。

 太陽電池による発電が欧米で受け入れやすいのは、米国なら自家消費しきれなかった分は、発電分を商用電源に見合う交流に直して電力会社に売ってしまえるからです。夜間用に蓄電する必要がなくシステムが簡便です。もちろん、日本では電力会社に買い取る義務もなければ、買うつもりもありません。日本で風力などの新エネルギーが離陸しにくい背景になっています。

 効率に加え、エネルギーコストも問題

 安いコストでつくる金銭上の収支計算のほかに、太陽電池には製造にかかるエネルギーに対して、寿命期間内に発電できるエネルギー量がどれくらい大きいか、つまり、エネルギーコストの問題があります。新エネルギーにはこの点で懐疑的なものが含まれています。多結晶タイプは現在のところ、五年で製造エネルギーを取り返し、寿命は二十年以上あると見られますから、製造に掛けた分の四倍以上のエネルギーを生み出します。電卓で使っているアモルファス太陽電池だと太陽光線の下では年に一〇%くらい性能が落ちますから、まず、製造エネルギー分を取り戻すことはないでしょう。単結晶は高純度のシリコンが必要なので、その工程あたりからかなりのエネルギーが要ります。その点で、多結晶タイプは有望と言えます。

 京セラによる効率アップへの技術的貢献の一番は、反射防止膜をつける際の副作用を発見したことです。シランガスとアンモニアをプラズマにして薄くコートする際に「反応しやすくなった特別な水素が生まれて多結晶の中にもぐりこんでしまう」と学会に報告しても、最初は信じてもらえなかったそうです。いろいろやってみると、処理中のシリコン薄板を四百度くらいに温めるとさらに効果的だと分かり、水素イオンを強制的に注入するようなこともやっています。

 熱っぽくも辛いストーリー

 「小学生のころからこの太陽電池には期待してました。太陽の恵をダイレクトに受けているようでなんだか嬉しいのです。はやいとこ、屋根一杯に設置したいもんです」という声、「新商品開発の成功のためには、担当者の信念と努力とともに、開発に対する経営者の態度の重要さを改めて感じました。経営者の強い意志を伝えたり、担当者の思い入れに任せたりする幹部の姿勢が、大切であるはずです。京セラの場合、第二電電も太陽電池も、幹部の思い入れが重要な役割を果たしていたわけですね」と、熱っぽい感想がいただけました。また、京セラの広報の方から「京セラの太陽電池開発の全体像を、これほど簡潔明瞭に描いていただいたのは初めて」と手紙が来ました。

 ただ、これを書き上げるころは何故かとても疲れていて頭が回転せず、相当に苦労したものです。皆さんの支持が厚いのですが、苦労話ばかりで痛快なエピソードが少なく、書くのになかなか辛いストーリーでした。九〇年初の話題になっている、同社開発中の電気自動車が量産される日が早く来ることを期待しましょう。

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 《《京都企業論・・・二つの企画記事から》》

 京都企業の商品開発ストーリーを扱うなかで、こんな側面もあると指摘しておいた方がよいと気付いて二つの企画を試みた。地元に工場を持たない、あるいは京セラに至っては研究開発部門すら置いていない不思議さを描いた記事と、財界人の中で理論的指導者として知られ、ファンが多い堀場製作所会長とのインタビューである。

◆工場が無い地元大企業群……1990.3.8

 京セラ、任天堂、オムロン、村田製作所、村田機械、京都銀行、ワコール、島津製作所、宝酒造、グンゼ――京都府内法人企業の一九八八年度申告所得上位十社だ。いずれも百億円以上。このうち、京セラ、村田製作所、村田機械、ワコールの四社は府内に生産拠点を持たない。

 その村田製作所が八九年九月、岡山県・邑久町に国内二十番目の生産子会社を設けると発表した。県土地開発公社による工業団地の第一期分十三万七千平方メートルをそっくり購入する。陸上競技場、野球場、球技場など合わせ持つ京都市の西京極運動公園に迫る広さで、従業員二千人規模の大拠点となる。 前年の七月、工場の新規立地が必要と長岡京市にある村田製作所本社で決まった。当時の総務部長らが候補地として検討したのは、府内二カ所、兵庫二カ所、岡山二カ所だった。

 府内では亀岡市以北の中北部で二十五カ所、京都市以南の南部で十九カ所が工場適地として指定済みだが、候補地はそのどれでもなかった。南部は地価が高く実際の土地買収が困難で、中北部の分は最大で十万平方メートルまでしかない。

 府企業立地推進本部(事務局・府工業課)から丹後、丹波一カ所ずつを紹介されて調査した同社は、府政財界から進出要請を受けながら結局は断念する。岡山側では同社単独の現地踏査四回、立ち会い調査四回、岡山県知事の本社訪問など十回以上の接触を経て、六月に進出内定してしまう。  セラミック製造に多量の水が欠かせなかったこと以外に、問題点は二つあった。ひとつは景気変動に合わせて敏速に工場を展開したいとの希望。府が売り物にしている「オーダーメイド方式」は進出希望を知ってから市町村と折衝、企業の望む面積、形状の土地に仕上げる。府工業課は「三年くらいみてほしい。一年くらいで着工したい企業には合わない」と説明する。

 もうひとつ「千人以上の従業員を集められるか」心配があった。中北部の人口は広い面積に五十万人しかなく、百四十七万の京都からは職場を中北部に見付けてまで通勤しようとする人は少ないという。府自身が、従業員千人を急いで集めたいと希望した家電メーカーの進出を断ったことがあるほど。

 府に企業誘致推進本部が生まれたのが八二年。年間数百社を訪問して「京都は企業誘致などしない」との全国的な評判をようやく覆えし、好景気にも助けられて小規模な工場立地は八九年で七十五件と好調になっている。内陸型工業団地として造成した長田野、綾部とも完売した。

 しかし、人口一人当たりの製造品出荷額は八七年で百九十八万円と、府内からも盛んに工場誘致して全国トップクラスになった滋賀県(三百六十八万円)に二倍近い差をつけられた。京セラの稲盛和夫会長は「京都には大企業を排斥する不幸な歴史があった。われわれは本社だけでもと踏み止どまってきた」と語る。地元企業群の工場が帰って来る日が果たしてあるのかどうか。


◆インタビュー「市場開拓型企業に曲り角」……1990.3.25

 高い技術水準を武器に伸びて来た京都の企業群は、新しい製品を生み出すことで従来存在しなかった需要を作り出す「市場開拓型」が際立って多い。戦後、分析機器メーカー堀場製作所を創業して自動車排ガス測定機で世界市場の八割を占める企業にした堀場雅夫会長(65)は、ベンチャー企業育成を目的に昨年オープンした京都高度技術研究所の理事長でもある。市場開拓型の企業経営を代表する存在として知られていたが、最近になって「客のニーズにこたえる市場指向型の企業に転身させる」と宣言した。競争が激しくなった現代に京都の企業が生きるべき進路を聞いた。

 ――なぜ市場開拓型に?

 最初の製品pH計は、最高性能のコンデンサーを製造するために生産管理用にpH計が必要だったから社内用に作った。朝鮮戦争が起きてコンデンサー工場を作る資金が得られなくなり、売るものが無くなって考えたらpH計があった。これは液体を測るものだから、次は気体を測れる機器を作ってみたら公害問題などが起きて利用できた。さらに固体を測るものを手掛けようとエックス線分析装置を世に出すと、新素材や半導体の開発に結び付いた。

 結果としてはそういう技術が商品に結び付いたと言えるが、発想の原点は市場から出たのではなくて、われわれの技術的興味から出た。これが伝統となり企業のバックボーンになった。ある技術が面白いから開発し、原価がいくら要ったから利潤を上乗せして価格を決めた。高くて買わないお客がいれば、素晴らしい技術を買わない方が悪いとなった。

 ――どうして転身を決意?

 少なくとも二十五年間はそれで過ぎて来た。戦後は何か良い機械があるということ自体が大変なことで、価格は自分が付けるものだった。世の中の移り変わりが激しくなり競争相手もたくさんになって、われわれよりも安くて良いものが出て来ればお客はそれを買う。これまでの行き方では会社が潰れるぞ、と思い出したのが十年くらい前。

 今まで工場サイドの価値観で物を作っていたのを改め、性能から価格、サービス、流通機構まで含めて、お客さんの望んでいる商品にわれわれの持つ技術をマッチさせることにした。しかし、唯我独尊の姿勢はわたし自身が説いて来たもので、社内に長年かけて染み付いていた。だから、役員会や現場などことあるごとに注意しても納得させるのに時間がかかり、ようやく浸透し始めた。

 ――京都の企業は昔ほどの勢いが無いとも言われます。

 潜在的な需要を引き出して来るほど強烈な商品は出にくくなっている。「お客さん。欲しかったのはこんなものではありませんか」と形にして見せ「そう、それが欲しかった」と言わせるのが最高の商品だと思う。現在ほど物が豊かでない時代には、技術がたまたまニーズに合致する面があった。

 ――なおベンチャー企業育成が言われますが、在り方は変わっていきますか?

 わたしは戦後二カ月余りで会社を始めたのだから、戦後ベンチャーの草分けと言える。金と物は無かったが、夢を持って職を探す人材が豊富だった。現在は金があって人が無い。どちらがベンチャーにとって幸福か分からない。能力以上に金が入るので、失敗したら傷が大きくなって、再起不能になってしまう。環境は良くなっているが、一皮むけば甘くない。

 ――これからベンチャー企業が大きくなるのは難しい?

 人間社会ではベンチャーの発生は永久に続くと思う。いい意味のベンチャーが発生して、大きくなる基盤整備をしてあげられるかが問題。十年余り前に京都産業情報センターを作ったとき、国の政策は補助金とか金のことばかりだった。大企業との一番の格差は情報の量と質で、ベンチャービジネスが苦労してやっと完成したら数年前に他社の特許や商品になっていたとか、往々にしてある。知的所有権などの検索を公共の立場で支えてあげられるようにした。

 ――京都リサーチパークにできた京都高度技術研究所の役割はさらに進んでますね。

 製品開発にコンピューターが避けて通れなくなった。機械は買って来られるが、ソフトの開発は首都圏に偏っている。京都にあってもソフトとの関連で困って駆け込んだら何とかしてもらえるようメッカを作らないと、ベンチャーは育たないし、育ちかけても東京に行ってしまうと考えて高度技研を設けた。

 京都でベンチャーが育つ好条件に京大など大学の学術的な財産を利用できることがある。しかし、中小企業のおやじさんには大学のどこへ行って、何を頼んだらよいのか分からない。高度技研は大学との仲立ちをする役割を果たすようにするつもりだ。関西文化学術研究都市との間でも、通信回線で結んで情報を仲介しようと計画している。


 《パソコン通信でのコメント》

 過去の遺産と「都」のノウハウ


 戦後の京都で多くの企業が興った点について「町の古さ、江戸時代という安定期を通じて形成された技術資源があり、二次大戦の際にも空襲されることなく、過去からの遺産が残りました。たったこれだけで全てを説明することはできませんし、企業の創業者が京都の特殊性の何に目を付けたのかは不明で、意識していたかどうか怪しいものですが、こうした過去の貯金を使って今の京都を作ってきたといえます」と、京都の企業に勤める読者が論じられました。

 わたしが聞いた話でも、戦後に数々のベンチャー企業を育てる資金供給ができたのは、京都が戦災に遭わなかったことが大きいとされていました。そのベンチャーの代表、京セラとオムロンはいずれも九州出身の創業者です。他の企業創業者も京都外からの人が多いようです。五代くらい住んでも京都の地元民とは認めてもらえない土地なのに、そうした新入りには寛容なんです。

 もうひとつ、一業種一企業の形で「すみわけ」て、あまり京都内部で競争しない形がとられています。多少の例外はありますが、各業界で世界に通用する「KYOTO」ブランドを冠した企業は不思議とひとつしかないのです。商品開発の現場で京都企業同士が連絡し合っているとは思えませんが、経営者レベルでは、家電三社が競い合う大阪にはない、つながりぶりです。具体的に聞いた話では、計量器の石田衡器製作所と、包装機械の京都製作所は、紳士協定で互いの領分は侵さないようにしているそうです。このあたりは独特で気になります。

 堀場会長は京セラ、オムロンなどの創業者と違って、珍しく京都出身です。インタビューのおしまいごろに、京都がほかの土地に比べてベンチャー育成に優位な点をたずねてみたら、まず京大などの学術的蓄積の利用を挙げた後で、「京都はよく排他的と言われるが、そんなことはなくて、よその地方からやって来た人を居着かせるノウハウがある」とおっしゃいました。千年以上、都をやって来たノウハウでしょう。天下を取るために数限りない人達が全国から上って来た土地なのですから。

 そう言われると、先日の稲盛京セラ会長のインタビューで、面白いことを言われたのが思い出されます。京都財界の仕掛け人に河野卓夫ムーンバット会長がいます。「いろいろな財界の席で河野さんに『稲盛ちゃんを大事にしないといけないよ。もともとよそから来たんだから、ほっとくと本社を移してしまうから』と言い回られ、本社用地として伏見の繊維団地の一角までわざわざ譲ってもらって」と、稲盛会長は笑いながら、京都から本社を動かさない理由を説明していました。外国では大企業になっても本社を発祥地にもち続けるの当たり前で、例えばオランダの電器メーカー、フィリップスの本社はずいぶんな田舎にあるそうです。