〜新聞とパソコン通信で語る25社の市場開拓型商品開発〜
《目次》
§0 はじめに
§1 カード型pH計……………堀場製作所
§2 静電気防止繊維……………日本蚕毛染色
§3 37形テレビ………………三菱電機京都
§4 カラー写真直接製版機……大日本スクリーン製造
§5 遠赤外線警報機……………竹中グループ
§6 無補水バッテリー…………日本電池
§7 CD包装機…………………京都製作所
§8 一粒タイプまんじゅう……タカラブネ
§9 硬質レジン歯………………松風
§10 ゲームボーイ………………任天堂
§11 高吸水性樹脂………………三洋化成工業
§12 組み合わせ式計量機………石田衡器製作所
§13 形状記憶ブラジャー………ワコール
§14 完熟用トマト………………タキイ種苗
§15 マイクロ波フィルター……村田製作所
§16 電動フォークリフト………日本輸送機
§17 遺伝子工学試薬……………宝酒造
§18 ファクシミリ………………村田機械
§19 ビデオテープ………………日立マクセル京都
§20 指式血圧計…………………オムロン
§21 インテリア布地……………川島織物
§22 磁気ディスクモーター……日本電産
§23 X線テレビ…………………島津製作所
§24 地域ビール…………………キリンビール京都
§25 電力用太陽電池……………京セラ
§26 京都企業論(工場なしの地場産業・その曲がり角)
《はじめに》
京都にユニークな企業群が存在することは広く知られている。高い技術水準を武器に伸び、全く新機軸の製品を生み出して従来存在しなかった需要と市場そのものを作り出す「市場開拓型」が多い。日本の企業は他社の売れ筋商品によく似た商品を開発しては利益を上げがちで、知的所有権の面で世界中から厳しい批判にさらされている。それと際立って違った営みが、ベンチャー色の強い企業群によって、京都盆地から一部は琵琶湖東岸にかけての狭い地域に集中して展開されてきた。自動車、電気製品を始め民生品技術を中心に米国を上回り始めた日本製造業の技術水準が、物まねに終始して生まれ得たはずがなく、こうした、規模は比較的小さくとも、独創的な企業の輩出に基盤を置いているはずである。京都はそうした企業を、いくつかの理由で全国平均よりも多く生み出したと思われる。その実態はどうなっているのか、朝日新聞大阪本社の科学部で科学技術の領域を主な取材対象にしていたわたしにとって数年来の関心事だった。
たまたま一九八九年春から九〇年秋にかけて京都支局員となり、京都経済記者クラブに在籍、市場開拓型企業群の中で二十五社を選んで商品開発の現場を取材する機会に恵まれた。この世に存在しない商品を生み出す技術者の苦闘と、開発を企画し技術者を触発する経営陣との葛藤などを、朝日新聞第二京都版に大型ルポ「うちのヒット商品」(二十五回)として連載した。これはそれをもとにした、技術とビジネスのサクセス・ストーリーである。
現代の経済社会動向にテクノロジーが与える影響は大きい。わたしは「われわれの社会は何をつくり出し、それゆえにどこへ行くのか」との問題意識で、現代社会の原動力のひとつ、技術の動向を追っている。科学部が通常の取材対象にしている大学や研究機関ではつかめないものを求めて、生の開発現場と接する機会に、日本の技術の今日から明日の姿をほのかにでも見通そうと試みた。そうした意味からも純粋の地場企業だけでなく、京都に独自の開発拠点を置く全国規模の大企業も対象に含めており、取り上げた商品群は大型家電のトレンドを決めた大画面テレビもあれば、形状記憶合金を使ったブラジャー、完熟物に青果市場を変えた桃太郎トマト、紙おむつの隠れた主役・高吸水性樹脂、個人ユースを開拓した低価格ファクシミリなど、驚くほど多彩である。
ここには、もうひとつ実験的な試みが含まれている。連載二十五回分と関連記事に加えて、連載内容についてパソコン通信を通じた読者とのやり取りが追加されている。わたしは最近、一方的な情報の提供に終わりがちな新聞の役割を見直して、新聞紙面と読者の間で双方向性の交流をしたいと願っており、今回の企画でそれを試みた。大手の商業パソコン通信ネット「ニフティー・サーブ」に月額五百円で借りられる自分用の小さな会議室を構え、ネット内にある「ビジネスマン・フォーラム」などの皆さんの協力も得て、呼び掛けに応じた全国の読者百数十人に連載記事を提供し、質問や感想を受け、追加説明をすることになった。
技術の話、経済や経営についてから、ときには日米摩擦、商品がかかわる生活や趣味の話題まで、この交流のおかげで普通なら記事にし切れないエピソードを数多く盛り込め、わたしなりの視点も入っている。商品開発から見た技術史、経済・産業史、あるいは高度成長期以降の生活史の一面も描く膨らみがもてた。なお、パソコン通信の原文をそのまま使うと冗長になるので、読者からの発言は少数を選択して要約、追加説明とともに各回の後半に「パソコン通信でのコメント」としてまとめた。新聞記事が「である・だ調」なのに、パソコン通信は「です・ます調」が普通で、文体の統一を欠くことになったが、パソコン通信のアットホームな雰囲気を感じていただこうと、敢えてそのままとした。
時には企業秘密に触れる部分にまでも、快く取材に応じていただいた二十五社の皆さんとともに、パソコン通信を通じて励まし、取材へのインスピレーションをかき立てていただいた方々にも改めて心から感謝したい。
微量でも、固形物でも測れるカード型pH計/堀場製作所
リトマス紙で測る酸性、アルカリ性は目安程度にしかならない。pH7の中性からpH値が減れば酸性、増えればアルカリ性で、細かな測定は化学技術の大切な基礎だ。pH計の中で精度が高いガラス電極式は戦後、同社の堀場雅夫会長(65)が国内で初めて開発、会社の礎にした。形の大小はあっても、ガラス棒電極を溶液に浸けて生じるわずかな電圧を測る方式は変わっていない。
素肌の酸性度まで測れた
帰国後、河内課長は会長に会って危機感を訴えた。そこで意外な話を聞かされた。開発本部がガラス棒を厚さ一ミリ以下の小さなガラス円板に変え、pH計の心臓部にあたるセンサー部分を安価な平面形にしたのだ。
問題はどんな商品にするか。開発本部から当時の副本部長、小谷晴夫さん(53)=退職=と冨田勝彦課長(45)の開発担当者コンビが加わってプロジェクトチームが出来た。専門家向けの機器ばかり作っている同社では、売れる商品でも年間一千五百台。新pH計は値段の安さから、万の規模で売れると見積もられ、会社がこれまで経験しない商品になると予想された。
しかし、営業サイドから「そんなに売れたら、高価な在来機種がたまらない」と悲鳴が返って来た。販売側が求める商品でないならデザイン優先で作ってみるしかない。世は挙げてカード商品時代だった。体温計型など五十種のデザインを検討した結果、ポケットに入るカード電卓型に決まった。
九月、試作品が出来た。営業畑から選んだ二十歳代前半の女性五人に、一人一台ずつ「二週間、何でも測ってみて」と試作品が渡された。
まとまった量の液体がないと測れぬガラス棒pH計と違い、新製品は液体なら数滴センサー部に垂らせばいい。純水を含ませた小さな布切れで肌をふいてセンサー部に置くだけで肌のpHを測る芸当さえできる。朝昼晩、自分はもちろん家族の肌まで測ったし、化粧品や食品、薬などに手を伸ばした。
「男は女よりも酸性なんですね。化粧品の中には、塩酸に近いほど酸性のものがあって驚きました。肌のpH値に化粧品を合わせた方がいいみたい」と河内課長の下にいる石田揚子さん。雨の降り始めで測定が必要な酸性雨も簡単に調べられた。社員ですら使うのが難しい機器ばかりの商品構成に、初めて風穴が開いた。
「今世紀最後」とライバルが絶賛
小谷さんは会社が出来て間もなく入社、十年間はpH計一筋に送った。小型軽量化は技術者として夢だが、当時は果たせそうになかった。ほかの技術分野に移っても忘れられず、全く発想を変えて半導体技術を使い、高価なものになってよければ実現できるところまで進めていた。
忘れられないのは堀場会長も同じだった。半導体で可能と分かっても、市場で売りやすいガラス電極式をと指示し続けた。焦点のガラス薄板作りに半導体製造技術が応用できると知り、八四年に開発ゴーを決めた。
そのとき、構造上の難関はいくつも残っていた。化学屋の冨田課長は「皆さん、技術者としての青春時代にやり残しがあって、あれも、これもと要求される。それを全部入れてカード型にまとめたんです」と言う。
八七年三月、一年ぶりのピッツバーグでのフェアに、河内課長らはぎりぎりで仕上がった量産試作品二十台を手荷物に詰めて持ち込んだ。展示の飾り付けをしている最中に、早くも競合メーカーがのぞきにやって来た。フェア初日は黒山の人だかり。米国メーカーのトップは、居合わせた堀場会長に「今世紀最後のpH計」と、物まねでない独創性に惜しみない称賛を贈った。
国内ではその九月、一万九千八百円で売り出した。三年間で三万台売れれば生産ラインの新設などが引き合うのに、三万台は一年で達成、最初の二年で五万五千台を売った。
高温・強酸など厳しい条件で使える在来機種の売れ行きには響かなかった。印刷インクの載りが悪い紙は、酸性度を測ってチェックできる――といった新しい使い方で買われたからだ。
これまでの会社は、赤外線を使った独特の分析技術を生かして自動車排気ガス測定機の分野で世界シェア八割を押える業務機メーカーだった。小さなカード型商品は、健康管理で関心が高まっている塩分計などシリーズを生み出し、大衆の生活の中に浸透する気配がある。
《会社》一九五三年設立。八八年度の年間売上百七十九億円は、自動車の排気ガス計測機器四三%、pH計などの科学計測機器二四%、さらに生命科学関係や電子情報機器で構成。本社・京都市南区。資本金二十五億三千万円。従業員八百七十九人。米国と欧州の子会社はそれぞれ約四十億円の売上規模。
《パソコン通信でのコメント》
排ガス測定でのトップ企業
堀場製作所は、pH計をルーツにしてはいますが、現在では自動車排気ガス測定で圧倒的な世界シェアを持つ企業です。その装置は単価が億円のオーダーにもなり、商品構成では一般理科学機器よりこちらが主力です。
排気ガス問題が深刻化した際に、ではどうしてガス成分を測定したらよいかが問題になり、同社が赤外線で二酸化炭素を測る技術を工業用に開発していたのに目が付けられたといいます。規制する側の米国政府が同社のシステムを採用して測定するのですから、自動車メーカー側にしてみたら事前に同じシステムで測定しておきたいのが人情です。そのため、排気ガス規制が世界化すると、自動的に堀場のシステムが世界制覇してしまう結果になりました。
排気ガス規制では早く手を打った日本の自動車各社が触媒などを使う一方で、一酸化炭素や窒素酸化物が出てきにくくさせようと完全燃焼させる技術開発を進め、結果的に燃費の向上を果たしてしまいます。それが石油ショックによるガソリン高騰の時勢にうまく合致して、国産車が米国でも売れたのでした。米国のビッグスリーは排気ガスと燃費への技術開発でまだまだ遅れを引きずり続けているようです。流れが変わることの面白さ、怖さでしょうか。
大衆商品へ模索の道
読者の皆さんから・・・「分析器械で実績がある企業が新製品開発の努力を続けていることに、企業の力を感じました」「開発の過程の、正当な手順または真正直な態度といえるものに感銘を受けました」「堀場製作所は有名ですが、わたしもガラス電極のpH計しか知らず、いままで不便だなと思っていました」
いただいた感想の通り、外部からはうかがい知れぬ努力が企業内でずっと続いたことに取材した当時も驚きました。さらに他社の商品開発例と比べて相当な粘り強さ、こだわりぶりと改めて感じます。それは手順の正当さなんてものだけでなく、結構どろどろした人間的なものも含んでいました。主な取材対象だけで四人になるのに、それぞれの方が「自分こそが開発したんだ」と思っていらっしゃる風に見えました。だから、どういう具合に事実の流れを見るのが一番妥当なのか悩み、ストーリーがいくつも出来そうになって、あわてました。連載第一回だったので、一週間だけ企画スタートを遅らせ、さらに詰めたほどです。結果として、いろいろなテーマが伏線として語られてから、ヤマ場に向かう書き方になったと思います。
堀場の製品販売は現在でもプロ向けルートで、一般消費者を対象にした販売形態になっておらず、このpH計を契機に通信販売を本社で始めたくらい。理科学測定の専門家の方にもあまり知られていないようです。もちろん、一般家庭にもまだまだです。
このほかにも「肌のpH値に化粧品を合わせた方がという話を読んで興味を抱きました。化粧品で肌を痛める原因がpH値だけだとは思えないにしても重要という気がします。酸性雨の測定は個々の測定点の精度の問題のほかに、測定点の量的拡大による統計処理が重要なので、その方面からも期待できると思います。塩分計としての方が家庭用としては本命かもしれませんが」との感想も寄せられましたが、酸性雨問題が注目されてきたことがこの商品の追い風のひとつになっていることも間違いないようです。高血圧が心配な人は、食卓でみそ汁の一滴をカード型塩分計に落とし、塩分量を自分で確かめてから飲むことができるのです。そんなハイテク食卓の好き嫌いはあるでしょうが・・・。
また、経済面の「情報ファイル」欄に書いた通り、このシリーズが発展したイオン計が三種発売されました。メロンの甘さが茎に含まれるカリウムイオン濃度から推定できることを利用して、ハウス農家が施肥量を現場で調整できるとか、ちょっと楽しい使い方をするそうです。土や作物の栄養状態を畑で測って調節する農業なんて、夢物語みたいな感じです。
抗菌防臭効果まで持つ静電気防止繊維/日本蚕毛染色
繊維のままか、糸の状態、つまり織物にする前に染めるのを先染めと呼ぶ。この分野の技術で、日本蚕毛染色は国内で一番と自負する。友禅以来の染めの名人芸を、徹底したデータの集積に置き換えた先駆者であり、戦後、新しい合成繊維が生まれると、大手繊維メーカーは最適な染色法を求めてこの会社に持ち込んだという。
失敗した反応が解読された
一九七七年、石油ショック後の不景気で受注は二、三割以上落ち込んだ。おまけに、染色機で使う液を数分の一に減らせる省エネ技術を開発し、新工場を建てたばかり。長兄の死去で社長に就任して間もない、技術屋の冨部信二さん(54)は、染色試験室の隣にベテラン技術者ばかり八人を集め、新事業の開発室を設けた。大手の下請け専業から脱皮したかった。
ファッション商品、小物といろいろ挙がった。冨部社長が思い付いたアイデアが静電気防止繊維。当時の静電気対策用に、クラレから委託でビニロン繊維にニッケルをメッキしていた。導電性の金属や炭素と繊維を複合すれば静電気を逃がせるので、各社が試みていた。こんな手間をかけないで染色技術で作れないか。
ひとつ手掛かりがあった。六〇年前後、染めにくいアクリル繊維を銅イオンを仲立ちに染色していた。「銅が繊維に付く面白い現象」と文献に記されていたのを覚えていた。この繊維に電気を逃がす作用は無いが、銅さえ付着すれば工夫できそうだ。
半年は失敗の連続だった。どう調合しても、反応温度をぎりぎりに下げても化学反応が急激に起きて、銅が十分にアクリル繊維に付く前に液中に出てしまう。連日午前二時ごろまで、冨部社長や技術者たちの議論が続いた。
「そんなことが社長の仕事ではないぞ」。当時、会長をしていた伯父から、取締役会で叱られたことも一度でなかった。
七八年のある日、冨部社長は開発室のそばにある広さ三平方メートルの専用実験室に入った。一週間ぶりに、いつもの薬品をビーカーに入れた。いつもなら瞬間的に反応し、真黒くなるはずが、そのままだった。じっと十数分見つめると、白い繊維にぽつぽつと黒い斑点が現れた。還元剤が入った瓶のふたを閉め忘れたために、変質していた。開発室長の五味淵礼三さん(59)=現技術部長=が起きた反応を解読、突破口が開けた。
「マジック」と信用されず
分析したら、アクリル繊維は硫化銅を含む極めて薄い膜で染まっていた。試行錯誤の末、安定した導電性繊維の量産は八〇年になって始まった。さて、出来た繊維を何の商品にして、どう売るか。これまでは大手から染色を受注するだけだった社内に、販売の経験者はいない。開発技術陣から南忠男さん(56)が販売部長に起用された。まずスカートの裾のまとわり防止テープを作ったが、繊維製品の展示会に出しても反響は無かった。
この年、南さんは東京で工業紙が主催した静電気講習会に出席した。村崎憲雄・東京農工大教授(66)=現・帝京大教授、日本静電気学会長=は、人体の静電気がいかに逃しにくいものか、自ら実験した。「うちの作った靴下をはいてもらえれば静電気が逃げます」。南さんが差し出した靴下で確かに効果があった。
驚いた村崎教授が講習会後に靴下を取り寄せて再実験すると、効果が出ない。それから半年かけて追究した結果、静電気を逃すには繊維が短く切れて外に突き出していなければならないと分かった。最初の靴下には、たまたま一部ほつれがあったのだ。
染色で静電気防止繊維が出来るのではないかというのは、三十年前の村崎教授のアイデアでもあった。共同研究していた大阪の染色会社が倒産、夢がついえていた。それが実現して「出来っこないと学界で否定された悔しさが晴れました」と喜んだ。
教授の指導で、石油施設の安全製品など製品化が軌道に乗り始めた。大手商社を通じたカーペット混入も進んでいる。コンピューターは静電気による雑音に弱く、設置する部屋のカーペットとして強みを評価された。同じく静電気に弱い集積回路の包装にも欠かせなくなった。除電を目の前で実演して見せても「マジックだ」と相手にしなかった米国から、商談が寄せられ始めた。製品は数十種にのぼる。
銅が持つ殺菌作用は、悪臭になりやすい靴下ばかりか老人用のおむつに使っても、雑菌が生む臭いを消す。寝間着やシーツに混ぜれば寝たきりの病人が起こしやすい床ずれを予防するにも有効だ、と最近分かった。生産量は年間三十トン足らずだが、商品開発に経験が無い町工場が生んだ発明のため、応用面での潜在能力はまだまだ試し尽くされていない。
《会社》一九三八年設立。絹繊維を擬毛加工した蚕毛(さんもう)糸の生産で伸び、合成繊維の染色に重点を移して五六年に現社名に。年間売上高は染色部門を主体に三十三億円。静電気防止繊維「サンダーロン」はその三分の一を占める。本社・京都市伏見区舞台町。資本金八千万円。従業員百八十人。
《パソコン通信でのコメント》
不思議な放電の仕組み
京都では西陣、友禅といった染織関係の伝統技術を現代のハイテクに応用するケースが、かなりあるよう。その中でも、静電気防止繊維化はちょっと変わっています。単純な適用ではなく、独創性があるアイデアです。取材の際に、登場人物の村崎教授と電話でお話していて「日本蚕毛染色は町工場ですから」と再三指摘されたのが印象に残ります。
開発スタッフが製造現場を若手に取られ、中二階に上げられてしまったようなベテランばかり。実質的に指揮をした社長自身が、その仲間の世代というのも、表面的な派手さはありませんが、わたしには興味深かった。
静電気の科学は難しくて説明しきれませんが、この静電気防止繊維サンダーロンは静電気を空気中に逃してしまうのが特徴です。静電気を帯びた物に近付けると、瞬間的に誘導されて周囲の空気に強い電界ができ、空気が電離、コロナ放電してしまいます。火花放電でないために安全とされています。直径五十分の一ミリ以下の細い繊維に、一万分の一ミリ以下の極めて薄い導電膜が化学的に結合しているので先端が非常に尖った避雷針のように効くそうです。村崎教授によると、断面での導電膜の面積が小さいこの繊維の性能は、従来からあるメッキ繊維や炭素などに比べて桁が二つ三つ違うくらい画期的らしい。避雷針は先がとがっているほど高性能なのと、同じ理屈です。
この繊維は、はっきり混入が明示されいていない製品(高級乗用車のシート布地など)にも、相当入っています。ウールマーク表示が許される〇・三%までの混入でもかなりの効果があり、その繊維本来の性質を失わせない唯一の存在と言われています。もちろん、日米欧の特許を押さえています。
技術屋のトップ
読者の皆さんからの反応は「京都近辺には小粒でピリリって会社が多いとか聞いたことがあります。コロンブスの卵ってのは不滅ですね」というのが代表的なものでした。最初の堀場製作所に比べて、一挙にマイナーな町工場に行ってしまったので、イメージが狂った方がいるのでは、と心配してましたが、そんなことはなかったようです。
わたし個人は、床ずれ防止に注目しています。科学部の医学担当をしていたころの取材で、高齢化社会を迎えて寝たきりになった病人に床ずれができる悲惨さを痛切に感じていました。床ずれができると治りにくいし、苦痛が長期に及ぶばかりでなく細菌感染して死に至ることさえあります。防止の原理は銅の殺菌作用と、導電性による電位療法的な血行の改善の相乗効果でしょう。信州大などで研究中です。別の方法ですが、京都には布団に導電性を持たせた健康布団という商品を開発した寝具メーカーがあります。
「技術屋がトップにいるか、トップが技術に理解があることの重要性をまざまざと見せられたように思います。トップが生産現場や研究開発分野の近くにいられる中小企業の方が、小回りが利くのでしょう。大企業も事業部制のような独立採算システムを取り入れ、小集団でのメリットを得ようとしていますが、まだまだ」との感想に、わたしも賛成です。比較的小さい企業で、トップがものにしたいとの意欲を持ったら出来るとの思いを強くしました。
堀場製作所と日本蚕毛染色を取材した印象では、商品開発はかなり奥が深く、何が来るか分からない感じです。どんどん開発の経緯を詰めて行くと、意外にも開発の当事者間でも分かっていないことが飛び出します。インタビューに同席していた当事者が「ああ、あれは、そういう訳だったのか」と言われたりします。その当時は成功した事実に目が行っているので、なぜそういうふうに出来たのかまで考えている余裕が少ないんでしょう。また、開発の皆さんそれぞれに「サムライ」だから他人のことにまでは首を突っ込まない、あるいは突っ込ませないのかもしれません。
超成熟のテレビ市場を一変させた37形テレビ/三菱電機京都
八五年三月開幕の「つくば科学博」は映像の博覧会とも言われた。NHKが四十形ハイビジョン(高品位テレビ)の展示を企画、三菱電機を含む三社が競作して提供した。
科学博の盛況ぶりがニュースに流れたころ、三菱電機の本社と京都製作所の間で百億円を投じるブラウン管生産ライン新設が決まった。横長の四十形を普通のテレビ形状にした三十七形。業界の常識とされた「三十形以上は量産不可能」を無視して、年に十万本生産する。
当時も大型テレビはあったが、小さな画面をスライドのような仕組みで投影、拡大する方式しかなく、鮮明度が違った。「もし売れなかったら、投影方式大型テレビ十万台の米国輸出に振り替えたらいい」。ブラウン管を作る管球工場長の能勢哲也・副所長(58)=現・三田製作所長=は腹を決めた。同業他社には無い、輸出の逃げ道がある。もともと、斜めからは見づらい投影方式の欠点克服が、大型ブラウン管開発の出発点だった。
米社失敗の試作ガラスに日の目
八三年初にハイビジョン管に着手した。売り物でないから何本か作れば済む。しかし、画面の対角線で一メートルと大きく、重い。人間の手仕事で済まない。ロボットが要る。試作ラインは広さ六百平方メートルのミニ工場になり、投資数億円にのぼった。
八四年六月、ハイビジョン管は完成した。能勢さんが「設備を生かし家庭用の大型を作ってみたい」と言い出し、清水義樹・管球工場次長(54)=現・参与=が応じた。「ブラウン管用ガラスさえ用意してもらえたら」と。
ブラウン管は前面の平たい部分とじょうご形の背後部分を、ガラス専門メーカーが別々に作る。電機メーカーは赤、緑、青の蛍光体を塗り、電子銃を取り付け、蛍光体に当たる電子線の流れを色別に整えるシャドウマスクと調整して一体に仕上げる。
本体がガラス製なのに百分の一ミリの組み立て精度が要る。単に大きくしただけなら色ずれで画面は荒れる。真空だから十トン以上の圧力がかかる。米・RCA社がかつて三十五形に挑戦してあきらめた。そのとき滋賀の専門メーカーに特注されたガラスが、倉庫に眠っていた。事情を薄々知っていた能勢さんが持ち掛けると、専門メーカー側は「使ってみて下さい」と積極的だった。
「とにかく画面にして見せろ」と号令が掛かった。白黒テレビにしたら色ずれなどの精度は問題ない。八月、鉄枠に取り付けた裸のブラウン管にテレビ放送が映った。
ハイビジョンは四十形ながら、家庭で使っている普通のVTRの映像と互換性が無いから、工場ではテストパターンしか映していない。白黒でも三十五形の動く映像は、はるかに印象鮮烈だった。浜田孝テレビ技術部マネジャー(49)=現・同部次長=は「アップでない、何気ない場面で等身大の人間が動いて見えるんです。迫力が違いました」と思い起こす。
カラー化が決まった。角が丸い三十五形から四角い三十七形へ。「早くカラーで見てみたい」と、岩崎安男・管球技術部マネジャー(43)=現・開発部=をまとめ役に、三十人の開発陣は深夜まで残業の日々。十一月には、普通の製品に比べ、三倍以上のスピードで試作品が出来た。
予想外の買い手多数
八五年明け、能勢さんらが米・ラスベガスのトレードショーに試作機とともに飛んだ。一般公開せず、ホテルの一室で販売業者だけに見せると「いつ売り出すか」「値段は」。米国側の熱っぽさに手ごたえがあった。
重さ百キロ、百万円近いテレビが国内で売れるか。皿池良治・営業部商品企画課長(48)に市場調査が命じられた。デパート、雑誌社など回り歩く。「高額商品を買う高収入層等で、年に四万五千台程度の需要がありそう」との結論が出た。
七月、試作ラインを生産に使って月産二百本で先行生産がスタート。テレビの宣伝は当分、三十七形に集中すると決まった。当初冷たかった国内の販売部門も、幅七十二センチ、縦五十四センチ、新聞見開き大に近い大画面に魅せられてきた。半年間の生産分を全部売ったより多額の宣伝費が用意された。
十月、七十九万八千円で発売した。画質のきめ細かさは従来と変わらなかった。三十七形を店頭に置き、従来最大の二十八形と比べ二倍近い面積を持つ大画面の迫力を比べてもらおうと作戦を立てた。しかし、思惑と違って、並ぶより先に売れて行った。販売網間の奪い合い調整に手を焼くほど。
展示会に来たお年寄りが「これが欲しい」と現金を渡して引き取った。買い手は事前の市場調査で予想できなかった層に多かった。うれしい誤算である。定年退職後のお年寄りに圧倒的にうけた。若い層には家族全員でより、個人用として飛ぶように売れた。テレビの需要全体を大型に引っ張った。
現在は年間二十万本を生産。十万をブラウン管のまま米国に、五万を自社製テレビに組み、五万を国内他社に売る。
国内で四十形以上のテレビが発売されたことはあるが、生産台数はわずか。欧米勢の三十七形生産は二年後とのうわさがあるだけ。量産された最大テレビとして、独走が続く。次のハイビジョンでも優位を狙う。
《会社》一九六二年、テレビ部品工場として発足。ブラウン管とカラーテレビを生産。投影方式テレビ、家庭用VTR、ビデオカメラへへと拡大。工場出荷額は二千八百億円で、全社売上高の一割を超す。長野市にもつ分工場と合わせて従業員四千人。投下資本二百七十六億円。京都府長岡京市馬場図所。
《パソコン通信でのコメント》
市場調査と商品企画の勘
三菱電機京都製作所は単独の事業部に属していません。本社にある三つの、つまり、商品、デバイス、海外の各事業部の下にあります。要するにテレビやビデオを国内に売るし、ブラウン管などは他社が使うデバイスとして出し、海外への輸出も大きいという訳です。こんな複雑な商売をしているので、所長さんは猛烈に忙しくて、頭がいるそうです。しかし、組織として本社側が引っ張っているでなくて、具体的な開発は製作所主導で出来ます。本社の機能は戦略的な方針決定、投資の配分です。
読者の皆さんからは、事前の市場調査が外れたことについて、いろいろな意見をいただきました。むしろ、一致しないのが、商品開発の面白さかもしれません。皿池課長も冗談のように「数字は必要だから調べさせるけど、ぼくも信じないことにしている」なんて言われてました。勘の方を重視するようでしたね。
そう言えば、ソニーの大ヒット作ウォークマンですらマーケティングではとても製品にならなかったものでしょう。それに、商品が出来る前の調査は、当たり前ですが新商品を大衆に見せていない状態です。わたし流に言えば「第0次予測」です。そして、新商品を公開して第1次予測、ぱっと当たったと知れ渡って消費者の行動が変わって第2次予測・・・と続く感じでしょうか。メーカーにとって本当に欲しいのは、第何次かの予測で出て来る安定した需要でしょう。
37形テレビの場合は、試作ラインによる当初原価からみると百万円を超しそうなのに七十九万円の値を付け、量産に入って五十万円に下げ、現在四十万円で売っています。発売時の日本の家庭のありようからは、やはり高価な商品です。
皿池課長らはこれを買うことが出来る所得層をまず探した訳です。医者とか弁護士とか、あるいは個人で買わなくても、病院、会社や個人企業が「節税」目的などで買うとか、喫茶店などが従業員の定着を良くしようと店に魅力を持たせる目的で買うとかをリストアップして、四十五万台くらいの需要が見込め、十年間で一巡するとして年間四万五千台とはじきました。
あの時点の「第0次予測」は、こうした所得によるものしか考えにくかったのです。ただ、見落としたとしたら、日本人のテレビ生活が最近の歌番組の衰退に象徴されるように、画一的なものから個々人的なものになる兆しがあったようには思えます。あの大きな画面を六畳の個室で見たりするんです。
皿池さんが「勘」と称しているものの中には、そうした文明観、生活感覚の変動があるようでした。
技術の良循環
40形ハイビジョンを手掛けたほかの二社、松下電器と東芝にも三菱と同じチャンスがあったと思います。あのブラウン管なら、同じような試作ラインなしには無理でしょうからチャンスは同等です。それで三菱が踏み切れたのは、輸出への逃げ道が確保されていたからでしょう。
ここで、では米国勢はなぜ失敗したのかと考えてしまいます。「RCA社のマーケット調査でも年間四万台程度の需要が見込まれていた」と、皿池課長から教えてもらいました。製品化しなかったのは、推測ですが技術の難点と投資効果の問題がダブッていたのではないかと考えています。
あれがどれくらい技術的に難しいのか尋ねたら「電子線がシャドウマスクの思った所を通るのが、自分でも不思議なくらい」と技術陣が答えてくれました。シャドウマスクのところで精度〇・一ミリは是非ほしいそうです。いろいろな部品を組んでから、画面部分とじょうご部分の高融点ガラスを融点四百度のガラスでつないでブラウン管にします。六十キロのガラス体を厚さ一センチくらいでつなぎ成型しながら、その精度を保証するノウハウはかなり大変と見ました。窓越しに見た現場はなにげなくやってましたが・・・。
技術の世界には、一度壁を乗り越えてしまうと「良循環」が起きることがあります。三菱の場合にそれです。大画面に小画面用の電子線を送ると密度が下がります。つまり暗くなります。大画面化のためにもっと多量な電子線を取り出す材料開発に成功、結果として充分すぎる電子線を得ます。量が余ると、電子線の束をしぼり込んで、焦点をぴたりと合わせる余裕を生じました。それが高画質という評価を一層高めたのです。つまり、明るく、かつ、くっきりに。堀場の排ガス規制のことを思い出しますね。
日本企業と米国企業
「五年も前に百億円もの投資を決定した、経営者もしくは技術開発管理者の意志決定過程に大変興味を持ちます」と、記事でもの足りない部分にご注文をいただきました。
この部分は、実はオフレコで聞いた話が絡んでいます。それを避けながら説明しますと、37形ブラウン管工場に相当する別の投資計画があったが、そちらの見通しが必ずしも良好でなかった――これもラッキーなんでしょうね。そして、少なくとも京都製作所の上層部は投資決定した段階では、国内でこれほど売れるとは考えてもいなかったとして、良いようです。
日本の企業がかくも果敢な投資が出来るのは、経営者に設備投資についてフリーハンドが与えられているからでしょう。短期的な投資の回収が出来なくても打って出ることができます。米国はかなり難しいよう。最近「日本企業の設備投資はやりすぎだ」と思ってもみないクレームが、日米摩擦関連で米国から出されました。米国では、株主から決算期ごとに厳しく利益確保を要求されます。短期に利益を挙げて行かないと、トップは株主から首を切られます。では「株主は神様」というのもウソでして、非常に多くの株式が投資管理業者に委託されていて、投資管理業者はよそに比べて十分な運用利益を出さないと、すぐに乗り換えられてしまいます。こうした株式は個人が持っているのではなくて、企業年金などの原資として存在していて「ひたすら利益を」というお金の持つ純粋な性質を発揮しているだけなので、何人も手が付けられない−−いやはや。
最近、東芝などがハイビジョン用のブラウン管ライン設置を発表しました。当面は月産数百本で動かすそうです。米国も欧州も日本と違う方式になりそうですが、どの方式でも国内メーカーが生産の主力になるでしょう。普及に至る価格面のブレークスルーも、きっと国内メーカーが達成すると思えます。
連載のきっかけ
ところで、この連載企画が出来るのではないかと思いつくきっかけになっている記事を次に紹介します。八七年末に大阪本社の紙面に「高画質ビデオ」の一ページ特集が載りました。わたしが担当したもので、一部として入れた三菱電機のVTRデッキ開発ルポの取材を通して、商品開発の現場取材という企画が膨らんでいったのです。だから、ここに紹介する記事は習作に当たります。
《他社より半年早く、進んだ機能を》
〜S−VHSとEDベータ登場の年に
「画質だけはよそに負けてはならん」。三菱電機京都製作所の皿池良治・商品企画課長(47)は、ビデオ技術部の三橋康夫マネジャー(44)に念を押した。S−VHSの規格が決まった八七年二月初めのことである。商品の企画から発売まで、普通は一年かかる。だが、S−VHSの一号機は四月末発売と決まった。「短期決戦で、事前に準備をしているS−VHS規格の開発メーカー、ビクターに勝てるかどうか」。その不安をみんなが胸に飲み込んだ。
同社のビデオ部門は十年の歴史しかない。主力になる技術陣はほとんど二十歳代。ふだんも遅くまで残業が続くビデオ技術部は、未明まで試作に明け暮れた。
新方式は情報量を増やした結果、雑音成分もそれだけ増える。それを従来以下まで引き下げねばならない。回路をいじって画像のくっきり感など微妙な味付けをする。いずれも簡単にはいかない。 理由があった。磁気テープもテープメーカー四社が並行して開発していた。どんどん届く試作テープの性能がばらばらなのだ。
一号機は何とか五月に発売、本格生産にこぎつけた。一号機を生産しながら、主力技術陣はなお納得せず、微調整に掛かり切りだった。しかし、秋に発売する新製品の開発に全力を傾ける時期にきていた。三橋さんは非常手段に出た。入社一、二年の新人組に一号機のノウハウを勉強させ、秋の設計を始めさせたのだ。「二号機では、絶対にナンバーワンに」と、皿池さんからの要求はトーンが上がった。
ビデオはいま最も競争が激しい商品の一つだ。春、秋と年に二回新製品が出て、高機能化して行くのに値段が下がる。五〇%の家庭に普及したのに、専門家の予想を超えて売れ行きが伸び続ける。この秋、同社の従来型の最上級機を買った消費者の六割は、この二年以内に別のビデオを買った買い替え、買い足し組だ。趣味商品だからこそ「ああ、欲しい」と思わせる魅力があれば高価でも売れる。
「他社より半年早く、一歩進んだ質、機能を付ければヒットできる」。そう考える皿池さんは技術者にアイデアをため込ませない。先々の新製品にと考えられていた高音質化技術を聞き出し、四十日後発売の新製品にねじ込んだことさえある。
今年は高価な大型テレビも大ブームだった。日本の消費者だけが高画質の世界に突き進んでいるように見える。メーカー側が三年前に始めた高画質化競争が火をつけたかたちだ。人気がある超高画質ビデオは、一台二、三十万円もするのに店頭には姿さえ見せない。いま消費者の熱気にあおられて、メーカーの側が異様に燃え続けている。
カラー印刷の世界を飛躍させた直接製版機/大日本スクリーン製造
印刷物の華やかさを演出するカラー図版製作に、石油ショックが起きた一九七三年、大きな飛躍が生まれた。
従来はカラー写真の原画を色フィルターなどを使って撮影し、赤、青、黄、黒の四色に分解、それぞれフィルムを作った。着色部に色がべったり載ったままでは印刷できないから、非常に細かい網目を掛けて再びカメラで撮影する。出来た各色製版フィルムの像は微細な点の集まりになり、金属板などに焼き付けて印刷版にした。
途中でカメラのレンズを通すと画像が劣化する。カメラ追放が業界の夢で、六〇年代、色分解の段階がまず電子化された。このときは外国メーカーが先行、追随して国産化を果たした。
未知の技術なら新人技術者でも同じ
次は製版フィルム作りからのカメラ追放に関心が向いた。しかし、製版フィルムは非常なきめ細かさが要求され、光への感度が極端に低い。原画を細かく走査、色分解しながら、実用になる速さで点を焼き付けられる強い光源は無かった。
七〇年代に入り、世界で三社が実用化され始めたレーザーの強い光でこの難関に挑んだ。その中で製品化のトップを切ったのが、大日本スクリーン製造の直接製版機「ダイレクトスキャナグラフSG−701」。従来よりカラー印刷物の鮮明度を数段上げ、一台五千万円なのに「前金で払うから納入順を早めてくれ」と催促された逸話を残し、印刷業界から引っ張りだこになった。
レーザーに触ったことさえない段階からの出発だった。上田定男・開発本部員(53)=現・第一開発部長=がプロジェクトチームに集めたのは、大卒入社二、三年目の技術者ばかり。「ベテランはそれぞれ仕事に張り付いているし、全く新しいことだから新人もベテランも同じ」と割り切った布陣が敷かれた。
電子工場技術課の前田潔さん(44)=現・彦根機械工場技術課長=は、「勉強に」とウシオ電機播磨工場に送り出された。
当初、在来の放電管などの光で実現を模索した技術陣に、「レーザーを使うしかない」と指摘してくれた研究室長の広井得輔さん(59)=現・レオ技研会長=がいた。阪大とレーザー核融合を研究しながら、実用商品を考えていた人物。会ってみると阪大の先輩後輩。意気投合、一気に進みかけたが、レーザー光を当てるだけでなく、光の量を自在に調節する至難な技術が必要と分かった。
針のような細い結晶に光を通し、電圧を掛けて通り方を変える。ガラスに超音波を当てて光の屈折率を変える。現在もハイテクで通る技術を飲み下し、わずか二年の開発期間で製品化してしまう。ところが難しいのはレーザーばかりでなかった。
生産中止の淵からよみがえる
二十分の一ミリほどの間隔で点を作って行くから、機械が千分の数ミリでも狂うと写真全体に雨が降ったように乱れる。悪いことに、レーザーからの発熱が狂いを呼ぶ。この悪条件下で精密機械を作る技術が備わっていなかった。
発売しても安定した製品が出来ない。折あしく、石油ショックで会社は初の赤字を計上した。生産を手づくりで維持しながら、山崎威・電子工場生産課長(51)=現・彦根機械工場長=の下で、原因を究明してつぶすプロジェクトが開始された。機械を各部に分割して徹底的に測定した。不具合ぶりを、何とか数字としてつかまえる基本に立ち返った。測定方法を自ら考え出しながらの一年間が、生産中止まで考えた商品をよみがえらせた。以後、内外に五百三十台を出荷、社の業績を立て直した。
八四年には三千七百万円の「SG−608」が登場、現在までに千八百台を超す空前のヒットになった。開発チームが最初の苦労を糧に、性能安定と使いやすさを追求した結果だった。
外国メーカーと並び、さらに一歩前に出て、技術開発の先頭に立つ役割が回って来た。印刷したカラー図版は原画の写真に比べれば百分の一しか表現の幅がなく、操作する側が経験と勘を生かし製版段階の巧妙な色調整で補う。その絵作りの秘密を分析して「めりはり感」「立体感」などを自在に演出できる人工知能を製版機に組み込めないか――上田さんたちの開発は次に向かっている。
《会社》一八八六年(明治初年)に創業の石版美術印刷業がルーツで、三四年に写真製版用ガラススクリーンの国産化に成功、四三年に会社設立。写真印刷業界向け六割、電子工業界向け三割、業務用複写機など一割と製品群は多様。資本金百八十九億円。売上高千百二十六億円。従業員二千六百四十人。本社・京都市上京区。
《パソコン通信でのコメント》
よくぞレーザーを
率直に言って、レーザーを全く知らなくて、よくレーザーを使いこなした製版機を開発したものと思いました。家庭にコンパクトディスク・プレーヤーが当たり前の顔をして座っている現在ではなく、二十年くらい昔のことです。
競争相手のヘル社(西ドイツ)には、大手電機メーカーのシーメンスという後ろ盾があっり、アイデアそのものは進んだものを出してます。大日本スクリーン製造の場合、独立独歩だった中で、ウシオ電機の広井さん(最近までレーザー学会の常務理事をされていました)に出会えたのが幸運だったのでしょう。広井さんが「レーザーしかないよ」と助言した場面は、大日本スクリーンの担当者が「従来の光源高度化でなんとか」と相談に来ていた席に、たまたまぶつかったので、のぞいてみてアドバイスしただけだそうです。ちょうど、広井さん自身が商売っ気よりも、レーザーを世の中の役に立つ商品として、何とか使ってみたい気持ちになっていた時期でした。
開発チームに大卒二、三年目の技術者しか投入できなかったのも、やむなくという感じだったようです。「それでも、当時はむちゃくちゃ馬力があった」と前田さんは回顧していらっしゃいました。生産がうまく行かなくなってから、前田さんたち設計チームも全員が生産現場に投入されて、不具合の究明に向かいました。調整のための測定はもちろん、生産も、顧客への据え付けも全部やってみて、安定した製品にするためにはいずりまわった・・・。
熱くなれる時代だったのでしょう。
直接製版機は電子的な画像処理の要
「開発までに数々の困難を乗り越えて行く、日本の技術力を現場で支える人達の姿を頼もしく感じました」――いただいた感想は、本当にそうだと思います。この連載の取材候補に挙げている企業リストの中には、地味だけれど、そんなところがいくつもあります。はた目には地味だけれど、本人たちは熱狂的に仕事をされています。
直接製版機はコンピューターによる電子的な修正装置の入出力機としても使われます。十余年前、大学を卒業する直前に研究室から凸版印刷の工場に見学に行きました。カレンダーの女優さんの顔から産毛を全部消す、と聞いてびっくりしたものですが、現在の修正は、当時に比べてとてつもなく進んでいます。自動車を「く」の字に曲げたりなんてことも簡単にやります。今年の大日本スクリーンのカレンダーは、そうした合成技術を生かした鮮やかな動物もので、特にクジャクの細部と表情の合成はファンタスティクでした。
肌の印刷発色は国により
話が変わって、少し色の話をしてみます。取材の中で聞いた話ですが、国によって肌の色の好みにはっきり差があるといいます。例えば「プレイボーイ」誌で、明らかに同時に撮影されたネガが元になっている女性モデルの写真が、日米の雑誌でかなり違うそうです。日本人のモデルさんのネガを、そのままほぼ忠実に発色させると「肌が黄色い」と不評を買うので、手を加えるのが常識だそうです。カラーテレビ、ビデオカメラなどでも「肌の色がきれいだ」とされる機種は実はかなりの色作りがあるように思えます。この間の三菱電機の取材で、最高級機が非常に忠実な色を再現をしているのを見せてもらいました。バラの花の赤はすごかった。肌の色ではどうなるのか、見逃したのが残念です。
機械警備の主役になった遠赤外線警報器/竹中グループ
大学卒業後間もなく工業用光検知器を造る竹中電子工業を興した竹中新策・竹中グループ社長(56)は七二年、会社分割を思い立つ。大企業に対抗して新興のベンチャー企業が技術で売って行くには、技術者はいろいろ出来るゼネラリストより、スペシャリストの方が良い。専門会社を作るべきだ。そう考えがまとまると、直ちに四分割した。
ひとつが竹中エンジニアリング工業。工場の生産ラインで流れている製品や部品の有無を検出している赤外線技術を、警備会社が侵入者を検知する技術に転進させたい。その課題が、十人の社員に与えられた。テレビ番組でガードマン物が話題になり「有望な市場になる」と直感があった。
人間とネズミを見分けるには
機械警備の初期はドアや窓に磁石式スイッチを置いて、夜間に侵入者が開けると警報を出す単純な方式だった。侵入手口の巧妙化に合わせて室内にも「目」が欲しくなった。警備会社は超音波や電波を室内に飛ばして、動く物体があれば発見する監視網を張りめぐらすようになる。
発射した赤外線をどこかにおいた検出器で受ければ、遮る物体があると分かる−−この原理はすぐに製品化でき、警備会社との取引に成功した。しかし、赤外線の見えない糸をあちこちに張って置くのでは効率が悪い。採用されても、屋外で警戒ラインを敷くのにしか使われなかった。
七八年、英国の会社が、周囲より体温が高い動物が放出する微弱な遠赤外線を検出する新方式を開発した。既に四十人ほどの会社に成長したころ。直ちに検出素子を輸入、室内侵入者用の遠赤外線警報器「スペース・センサー」国産第一号を生む。
業務用に使う機器はどんな分野でも信頼性が重視され、少々性能が悪くても使い慣れた製品が選ばれる。二百平方メートルの部屋に超音波警報器は七、八個必要で、相互干渉で障害もあった。遠赤外線警報器は小型鏡と組み合わせれば警戒範囲が広く、二個置けばカバーできた。しかし、ネズミのはい回や、微弱な信号を一万倍も増幅したため電気雑音で誤動作する欠点があり、採用されても補助的とされた。
やがて同業他社が追い付いて来た。誤動作は解決できず、八一年ごろ、順調に伸びた社勢が足踏みした。
警戒視野に入った人間と小動物と区別するには、小さい視野を縦、横に四つ目で並べてみたらと、羽根田薫・技術部員(33)=現・新製品開発部課長代理=ら技術陣が思い付いたのが八二年初め。小視野四つの大きさ設定がみそで、人間なら上下四つに引っ掛かるが、ネズミや猫の背丈では下二つだけになるよう設定した。
独創的な防御機構を次々に
電気雑音も四視野分で同時発生はまれだから、雑音を消す信号処理でも有利になる。強力な無線通信などで誘発される外部雑音にも強い構造にしたい。半年かけ、作ってはつぶす繰り返しで初の複合型が完成した。四視野を設定、物体の移動方向をまず上下ごとに調べ、上下一致するかどうかで判断する新方式は国際特許になった。
東京営業所員だった穂積正彦・大阪営業所長(34)は、ネズミなどで誤警報が続発していた都内のスーパーで複合型に取り替えると、ぴたりと止まったのを記憶している。ネズミに見立てたラジコンカーを走らせる実演もした。誤動作は従来より桁違いに少ない。歴然とした差を見て、大手の警備保障会社が初めて超音波警報器に代わる存在と認めてくれた。
翌年にかけて売上高は四割伸びた。警報機市場で一時は推定六〇%のシェアを占め、グループの中核会社に育った。赤外線警報器の性能も向上、遠赤外線と併せて米国の保険会社の賠償規格に、国内から初めて合格。円高で輸出が厳しい現在でも製品の二割を海外へ出す。
各種警報器を年間三十万個作るトップメーカーとして、羽根田さんたちの新製品開発は続く。犯罪者が警報器の死角から機能を止めようと仕掛けて来ても発見してしまう自己防御型、ガラスを割る音を検知する警報器と独創的な製品を次々に生んでいいる。
《会社》一九五九年に竹中電子工業創業、七二年の分社を経てグループは八社に拡大している。いずれも光技術を基礎に工場用、警備業用、レーザー計測、製品検査などに応用。ほとんどの本社は京都市山科区に。八社合計で資本金二億五千七百万円、従業員四百六十人、売上高百二十億円。
《パソコン通信でのコメント》
ベンチャービジネス育成融資第一号
ひとつの国の経済力、技術力をみる指標として、中小企業の活動ぶりは見落とせません。先日、来日した東ドイツの貿易相が、テレビのインタビューで中小企業の活力を付けるのを怠っていたと自己批判していました。それが特別のハイテクでなくともローテクであってもいいのです。今回の商品を見ても本体の焦電素子生産は別のメーカーに依存しながら、警備機器としての活用だけに純化して、それなりの経済的な成功を得ているのです。身軽な起業家のチャレンジに乏しいという点では、欧州が米国よりも弱い感じです。
遠赤外線警報器の竹中エンジニアリング工業は、京都の財界がベンチャービジネス育成のために設けたファンドから、第一号の融資を受けた「由緒ある」ベンチャーということになります。竹中社長はベンチャービジネスの宿命として、商品の差別化を第一に考えている人でした。「技術の課題を潜在意識まで持ち込んで、遊んでいる時だってふと意識にのぞくようにしておかないと大手に勝てるような物は出来ない」と、若い技術者に説いています。
よそにない物を生み出して社会に貢献する、つまり「社会の一隅を照らす」のが行き方です。ビジネスのきっかけとしてテレビ番組の「ザ・ガードマン」から商売になると直感したのですが、地道な積み上げもしています。遠赤外線警報器を生み出した焦電素子の開発情報のキャッチが相当早かったのも、この分野の内外技術文献を網羅して目を通しておくシステムを、自前で確立しておいたからです。当たり前のことが効くんですね。結果として、赤外線応用の警報器分野で国内のトップを切り続けています。警報器は英国のバッキンガム宮殿と京都御所を守り、NASAのスペースシャトルが自社グループ製品のCCDカメラを載せたとか、小さな分野ながら頑張る企業でした。
八九年秋、京都には「京都リサーチパーク」第一期分が完成して、ベンチャー育成のための貸し研究室などが出来ました。設備利用のほかに、いっしょにある研究機関のメンバーとの交流で成果を生もうと計画しています。
分社経営の割り切り
「マイコン時代の世の中ですが、そのCPUに何をやらせるかは、目・耳・口に相当する各種センサーの技術にかかっています。その意味でシーズが英国であろうとも、遠赤外線センサーの実用化に成功したことは、ユニークな商品を探している全国の中小企業にとって、よいお手本」との好感とともに、「開発経過が教科書通りの実践で、ひらめきに欠ける感じ」という指摘もいただきました。二視野方式は存在していたので、さらに分割するのは確かに連続した発想です。わたしの取材方法が良くなかったのかもしれませんが、どうしても「ひらめいた」瞬間のリアリティがつかみ切れませんでした。ここは、竹中社長の「分社してひとつの商品にこだわる」行き方が、決して豊富とは言えない技術陣での開発に成功をもたらしたとみるべきなのでしょう。「一商品日本一」のモットーで分社経営をしている中小企業グループが甲信越地方にありました。
GMの壁に立ち向かった無補水バッテリー/日本電池
七一年、技術部員だった小寺利一さん(49)=現・第一設計課長=らの若手チームが、宿命とされるバッテリー液減を気にしなくて済む蓄電池「GS7」を開発した。電極の鉛合金を変えただけの試みは成功と言えなかったが、思わぬ反響が海の向こうから届いた。米国最大の自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ社(GM)の蓄電池部門が、同じ狙いで動いていた。
町工場との共同開発で
当時のGMは規模の巨大さばかりでなく、技術力でも恐れられた。「本格的に研究を始めねば」と、技術部主管の遠藤寛さん(51)=現・東京支社サービス課長=ら十人余りが、各部門から研究チームに選抜された。
バッテリー液が減る原因は、鉛電極板に混ぜるアンチモンが分離して蓄電池の中で小さな電池を勝手に作り、水を電気分解してしまうからだ。電極板は格子形をした鋳物で、柔らかな鉛を鋳物にするのにアンチモンがどうしても必要だった。アンチモン追放には電極板の作り方から変えねばならない。
ちょうど国際研究機関が、溶かした鉛を板にする簡便な製法を開発、公開した。アンチモンの代わりにカルシウムを使い、電気分解を起こしにくい。問題は格子形にどう加工するか。板から多数の穴を打ち抜く方法を考えたが、柔らか過ぎてうまくいかない。
一年以上過ぎたころ、遠藤さんが山田利雄・生産技術課長(62)=現・大栄製作所機械事業部長=に呼ばれた。「建築材料に鉄板に切り目を入れて押し広げた網がある。あれはどうか」。山田さんはたまたま自宅の新築現場で、モルタル壁に塗り込む網を見て「これだ」と思った。
大阪市内の加工業者に鉛板を持ち込んだ。鉄板なら端から切り目を入れて次々に割り裂く。建材の網はこうして作るが、鉛には粘りがなくちぎれやすい。加工機械そのものを手掛ける、従業員数人の町工場を探し出して、共同開発を申し込んだ。
一年余り、京都から大阪に毎週通ううち、意外な解決策が浮かんだ。数センチの切れ目をまず縦に無数に入れておき、横から引っ張れば鉛は柔らかいからダイヤ形の網目ができた。七夕の飾りにも同じような紙細工がある。
七六年、GMは無補水バッテリーを実用化する。GMの電極板製法はやはり鉛板から網目を作るもので、こちらがあきらめた順次切り裂き式だった。GMは工夫を凝らし、世界中に製法特許の網を張り巡らした。
他社に無い強力電池へ
蓄電池を部品として組む自動車メーカー各社は、品質管理の厳しさで定評がある。わずかでも不良品を出したら取引停止を覚悟するほど。GMに対抗して全く経験がない新方式の電極製造法を採用するか、決断が迫られた。
七九年、四十億円かけて群馬に無補水化の新工場建設が決まる。GM車の影響は大きく、米国市場はほとんど無補水化しかけていた。国内トップメーカーとして座視できなくなった。
寿栄松憲昭・第一技術部長(61)=現・社長=には、なお心配が残った。メキシコでの国際会議に出席すると、カナダの鉛精錬会社レミンコ社が「うちも同じ技術を開発した」と売り込んで来た。懸案だった切れ目を入れる刃物が優れていた。自社技術の発想の良さに一部技術導入で、GM方式の二倍も高生産性の製造ラインに仕立て上げた。
八九年六月、さらに進んだ強力電池「スーパーウイング」が生まれ、五カ月で八万個を売った。ダイヤ形網目の電極とアンチモンをわずかに含んだ鋳物格子の電極両方を、長所を生かし使い分けた。電極板間の分離材を〇・一五ミリと薄くし、液を大幅に増やして無補水化した。エンジンのスタート時に二、三割増の三百四十アンペアも電流が流せる。
開発チームは技術、営業など三部門八人が集まり、昨年末に出来たばかり。積み上げた技術上の優位を集約、他社に無い商品を一気に作り上げた。
「十年もしたら自動車バッテリーは随分変わっているかもしれない」と小寺さんはみる。車の前輪駆動化などでエンジンルームは機器があふれ、すし詰め状態だ。スタート用だけの小さなバッテリーが置かれ、残りは別種の電池になって後部に回る可能性がある。完成されたと見えた自動車バッテリーは、激変期へ準備が始まっている。
《会社》一九一七年設立。商標の「GS」は発明家で創業者の島津源造のイニシアルから取った。八八年度(決算期変更で十カ月分)売上高は七百三億円。鉛蓄電池が六五%と主力で、残りがアルカリ蓄電池、整流器、照明器、各種電池電源。資本金百一億円。従業員二千五百七十三人。本社・京都市南区。
《パソコン通信でのコメント》
今はなかった町工場
これまでの中では、比較的なじみがある商品でしょうか。日ごろ、割になんとなく使っていますが、結構いろいろな苦労といきさつが秘められていました。
GMの無補水バッテリー開発は、おそらく物量戦だったのでしょう。よくあるたとえで言えば、ステーキを食っている相手にに対してお茶漬で対抗している感じがあります。従業員二千五百人の企業研究者が、大阪の数人規模の町工場と共同開発して作り上げる技術で、GMに向かっていくんですから、逆に見るとGMとしては「たまんないよ」と言い出しそうですね。その町工場「新光機械」を捜し出そうとしましたが、残念ながら大阪市内では見付かりませんでした。大阪商工会議所の名簿にもないし、移転したのか、廃業したのか・・・。
でも、最終段階ではカナダから技術導入があります。社長さんがメキシコでの会議で休憩時間に先方から声を掛けられたとのこと。直ぐに飛び付いたのではなくて、半年間おいて訪問しています。結局、そこの技術を導入してものになっている会社はほとんどなく、自分のところの技術に接木して初めて使えたようです。技術陣はあまりコメントしませんが、本当は全部自社技術にしたかったよう、一方、トップ側はリスクを負い切れなかったのです。
技術的にはいろいろと補足したいけど、ひとつだけ。バッテリー液の減りしろが、従来品が六十四ミリリットル、最初のスーパーCXが八十一ミリリットル、最新のスーパーウイングが九十九ミリリットルと大きく取られています。電極板の高さを下げたり、分離材を薄くしたり、容器の形状の工夫とほんとに細かく稼いで、電池としての高性能化と、保証の寿命期間中での無補水化を両立させています。
蓄電池の鉛電極には厄介な性質が
技術的な問題で、指摘をいただきました。「網にする必要はあったのでしょうか。網にすること自体が目的ではなく、表面積を増やすことが目的ではないでしょうか」というのは、お説の通りです。表面積が要るので、新電池では電極板の高さを削って厚さを増やしました。極板間の分離材を薄くするのはここにも効きます。同じ規格の容器なのに、液の最低ラインが下がるので、液が減ってもかまわない量を稼げます。そして、カルシウム合金でも液減りはしますが、お察しの通り減り方がずっと少ないのです。液減り可能分を増やしたうえで、新電池はアンチモンの含有量を極力少なくした鋳物電極も併用、液減りと高性能のバランスを取って、寿命期間内での無補水化を果しました。
「柔らかい鉛を鋳造するのは難しいと有りましたが、どういうことなのでしょうか」。これは、記事の中にある鉛板の新製法との関連で説明しましょう。新製法は冷した大きなロールを溶かした鉛の液体上で回して、高速で板を作るという面白いものです。これを可能にしたのは、鉛のカルシウム合金が非常に狭い温度範囲で凝固する性質です。一方、アンチモン合金はこの凝固範囲が広いので、鋳物にしやすいそうです。いろいろな合金が試されたが、このアンチモン合金に勝るものはなかったようです。鋳型に入れてさっと固まっては傷物になりやすいので、カルシウム合金を鋳物にする場合は鋳物を温めたりなどの手間が大変とのこと。日本電池の特許に触れたくないメーカーには、この方法で電極板を製造しているところもあります。
充電・放電の繰り返しが悪い
「信号待ちでヘッドライトを消灯するのは、バッテリー保護のためになるのでしょうか」という疑問も出ました。わたしもこれまで消灯派で、バッテリーの保護になると信じていました。取材の機会に、何がバッテリーに悪いのかたずねてみました。答えは、放電と充電を繰り返すのがいけないとのことでした。バッテリーがあがるのに加えて、寿命まで落ちます。この繰り返しで、記事の本文で触れたようにアンチモンが分離して来ます。
現在の電気系統はしっかりしていますので、過充電でバッテリーを傷めるようなことはなくなりました。昼間だけ運転している場合はバッテリーは充電も放電もしないのに、例えばタクシー車だと夜間に確実に放電があるので、昼間にもよく走って充電しているのに寿命が短くなるのだそうです。
課題解決から課題提示に進みたい
「成熟産業といわれる自動車部品産業の熾烈な新製品開発競争の激しさを見せ付けた一幕と承知します」
そうですね。自動車産業ほど量的拡大に加え質的にも成長し続けている部門は少ないと思います。例えば、この間まで富士重工は「スバルの車は値段が高くても別格の技術力がある」と思われていたのに、その技術的な優位は同社がのんびりやっているうちに消し飛んでしまい、立て直しに懸命のありさまです。イタリアのアルファスッドにデッドコピーされた名車「スバル1000」の伝説はいずこへ、です。しかも、自動車産業の質的な成長はかなり細かい部品レベルから積み上げられているのです。
「新しいものの開発には資本金、人材、時間が必要だと思うが、人の力がいちばん重要だと思う」「比較的劣悪な開発環境での努力に感銘を受けました」
日本人の特性として解決すべき問題さえ与えられれば、なんとか答えを出してしまう力はあるようです。次の課題は、世界に恥ずかしくない先見性がある問題を見付けて提出することでしょう。自動車電池の分野では、現在の蓄電池方式でない分散型などの提案でしょうか。産業として米国を圧倒しているのだから、今度は国内から決定版のアイデアが出て欲しいものです。
精密包装で世界に広まったCD包装機/京都製作所
八五年十一月、包装機械の専門メーカー京都製作所で山本薫・技術部設計課長代理(38)を中心に六人の設計チームが生まれた。この年、国内生産はLP六千万枚に対して、CD二千万枚。ソニーとフィリップス社(オランダ)が協力して、つい三年前の八二年に生み出さたばかりのCDの伸び方は目覚ましかった。
カセットテープで苦い経験
「人手に頼るCD包装の自動化要請が来るに違いない」と自信があった。工場の生産ラインに合わせた特注機械ばかりの包装機械業界では、使用する側の都合に合わせた一品生産が当たり前なのに、見込み設計を始めた。パソコンやワープロで使うフロッピーディスクを包装する機械を、三百五十台出荷、市場の八割を制した裏付けがあった。
やはりフィリップスが開発、世界に特許を開放したオーディオカセットテープの包装機械に、フロッピーディスク包装機のルーツはさかのぼる。たばこ包装機や段ボールへの箱詰め機械のメーカーだった七四年、大株主の日商岩井から開発を要請された。一台十人分の能力がある包装機を開発、瞬く間にカセットテープ業界を席巻してしまう。七六年、本家フィリップスにも出荷して話題をまいた。
国内でカセット包装機械を独占した実績から「海外でもどんどん売れる」と踏んだ。ところが、フィリップス向けの輸出は一台切りに終わってしまう。
「日本のユーザー各社の細かい注文に応じて性能が良過ぎる機械を造り、結果的に高価になってしまった」と、下村晨蔵・技術部長(45)は振り返る。欧州製のカセットテープ包装機は一台三人分の仕事しか出来なくても、京都製作所製二千八百万円の半値だったために、海外市場を奪われてしまった。
カセットテープ包装機に限らず技術至上主義では立ち行かないとの反省で、七九年からコストを意識し設計を単純化、部品を減らす社内改革が始まった。
アフターケアで評判取る
CDケースは全く「遊び」なし、はめ合い誤差零で設計されている。例えばトレイを入れるとパチンと音がして納まる。人なら具合を確かめながら出来るが、微妙な感覚が無い機械がちょっとずれてはめ込むとケースやCDを割ってしまう。これまでの自動包装に例がない難題に、誤差零に向かって精密に位置決めを狙うのではなく、挿入機構側がはまるように動く「遊び」を持たせる解決策を思い付く。
間もなくソニーをはじめ各社から開発要請が届いた。八六年、LPとCDの世代交代の年はもう来ていた。五月、試作機が完成、関東の会社が人手不足に音をあげて「試作機でいいから」とCD生産現場に導入した。
外国の会社も困っているはずだと見込みをつけて、日比野政雄・東京営業部長(52)は八月、初めて渡米する。機械の動作ぶりをビデオに収め、六社を回って見せた。うち二社には、フィリップスが依頼してイルゼマン社(西ドイツ)が開発した同種機が入ったばかり。能率は一分六十枚で、イ社機の二倍あることを売り込んだ。
帰国二カ月で三社から注文が舞い込んだ。「もう一カ月も遅れたら、イルゼマンに全部さらわれた」。薄氷の商戦だった。
しかし、落とし穴が待っていた。明けて六二年五月に五台を米国に出荷した。一台四千万円。フロッピーディスク包装機で輸出経験があるが、相手はすべて日系企業で純外国企業へ輸出は初めて。慎重を期してサービス要員を巡回させてみると、機械が三十分と連続して動かない。国内のケースと違って樹脂成型の質が悪く、国内向けの設計ではふたが開かなかったり、閉まらなかったりしてしまう。
「ハンマーが飛んで来るか」と思って渡米した山本さんに、米国側は「包装機のせいではないよ」と言ってくれた。開かなければこじ開ける、閉まらなければもう一度押さえ付けるなどの仕掛けを設計、改造した。それが適応力が高いとの評判になって、最初は西ドイツ機を入れた会社から軒並み注文が寄せられることになった。
当初は世界で数台あれば足りるとされたCD包装機を既に五十数台出荷し、さらに同じくらいの需要が見込まれている。フィリップス子会社のフランス工場に納入、西ドイツ工場からも受注できるか、地元イルゼマン社と競っている。
《会社》一九四八年、当時の専売公社が使う機械を製作する会社として設立。マッチ箱自動製造プラントを開発、独占して発展のきっかけをつかみ、各種の包装機械に業務を広げた。大半は一品生産で従業員二百七十人中、百人は設計要員。資本金六億九千八百万円。年間売上高六十八億円。京都市伏見区。
《パソコン通信でのコメント》
人間的な仕掛けの機械
今回は、ちょっと面白い仕事で生きている企業です。皆さんが持っていらっしゃるコンパクトディスクは、まず間違いなく、この京都製作所製の機械で詰めて出荷されたものです。国内では他のメーカーは手を出しかけただけで終わり、百%近い市場占有率と言って良いでしょう。記事の行数を合わせるために削った試作機段階の苦労話に、こんなのもあります。
「現場では思わぬクレームが待っていた。歌詞カードはケースの片面と四本爪のすき間に滑り込ませる仕掛けだったが、最高の三十二ページもあると厚すぎて入らなかったり、無理をするとケースに傷を付けた。試作機を納めた関東の工場に飛んで行った下村さんらは手直しを試みるが、どうにもならない。一カ月半悩み続け、人が手で入れるならどうするかと考えて解決した。ケースと爪のすき間に滑り込ませるのではなく、歌詞カードを軽く丸めて四本爪の内側に引っ掛ければ、カードはすっと納まった」
こんな人間的な入れ方のために、なかなかスマートな機構が作られ、実用新案になっていました。単純で効率的な仕掛を考え出すのは、受注制の一品生産で生きるメーカーにとって重要なことです。
独立採算制がバックボーンに
この会社は、設計、生産、営業など課の単位で実に徹底した独立採算制を敷いています。事業部の独立採算制なら、あまり珍しくありません。大企業ではこうしないと訳が分からなくなると言っても良いでしょう。しかし、三百人にも足りない企業、しかも機械製造業が実質的に「課」の単位で独立採算なのですから、そのユニークさにびっくりしたのも理解してもらえると思います。
京都製作所では、総務、経理、生産管理からなる管理本部以外はお金儲けをする事業部で、売上の一〇%くらいを上納金として管理本部に納めることになっています。コピー代も電話料金も各部門に割り振れるようにメーターが付けてあり、その他の経費もいろいろ工夫して各部門に割ってしまいます。そして年度ごとに、各部門は年間の利益ノルマを課せられます。
こんな仕組みといいます。オールマイティな権限を与えられている生産管理部が、営業からの受注情報を受け取ると、注文の機械についていろいろと解析して設計、製造、部品購買に細かく区分けし、仕事の標準値を指示します。例えば、製造には納期、作業時間、性能、コストなどです。これを全部こなせば各部門は利益が出るように設定されます。もし、こなせないと、もちろん赤字です。また、設計のミスで組み立て段階がうまく行かず、やり直したりすると、設計チームのキャップが「社内小切手」で損害分をその場で製造部門に支払います。通期で赤字になった部門の管理職は賞与がもらえない厳しさ。
技術者たちがいい機械を作ることに熱を上げてコストのことが頭から離れ、会社は忙しいのにほとんど利益が出ない状況になった十年前、断行された制度です。実施当初はパニックで、定着するのに五年かかったそうです。会社側は経理内容の全面公開などガラス張りにしたうえで、生産管理部による交通整理の在り方、毎月末の決算会など、オープンな議論が出来るようにしています。
かなりの気配りもあります。最初は設計部門からの自己申告に近い標準値を採用し、それが達成できると分かってから、年を追って余分なところを締め付ける方法がとられました。もちろん、設計や開発は全部が「当たり」ではありません。設計にかかる時間の標準値には、失敗してやり直す余裕も組み込まれています。
結果として業績が上向き、社員の海外旅行三回を経て、八八年四月には社員と家族全員の五百人をグァム旅行四泊五日に招待したとの自慢話も聞きました。人手不足の解消になる包装機械をほとんど一品受注で作る会社なので、世間が不況になっても合理化ニーズはなお強くなるからますます注文が増える訳です。この強さが背景にあるのでしょう。
なお、一品受注でない機種としてCD包装機についで、ポテトチップスとか形状が不ぞろいなものを箱詰めする万能タイプのロボット包装機が完成し、ランニングテスト中でした。食品などモデルチェンジが激しい業界では、特注の包装機械はすぐに役に立たなくなるので導入しきれなかったところが多く、かなりの反響を呼んでいます。
包装機械の専門メーカーは初耳
「包装機専門メーカの存在を初めて知りました。CDケース側が精密なので挿入機側に遊びを持たせるという発想。トラブルへの対処の良さが受けたという部分が興味深い」「うーむ、包装の世界って機械も職人芸なのね」
精密なものだから機構側も高精度に走るといった常識的な解決でなく、遊びを持たせて対処するという解決法を生んだのでした。職人芸というのも当たっていると思います。そうできた背景には、京都製作所が小さな機械メーカーなのに、実質的に課単位での独立採算制を取るに至る苦闘の過程があったように思えます。経営の在り方と技術の在り方が影響しあっている感じでした。
「我が家ではCDをかなり早い時期から導入してたんですが、当時のCDパッケージのCD装着状態はひどいもので、爪が食い込んでてなかなかCDが取り出せないかと思えば、新品パッケージを開けたなら、中でCDが踊ってた、なんてことが茶飯事だったんです。いつ頃からかそういう不満が無くなってたのに、記事を読んで気がつきました」という、実感のこもったメッセージもいただきました。包装という仕事は、いったんパッケージを開けてしまったら消し飛んでしまうのですから、考えてみると奇妙な商品ですね。
量産まんじゅうを生き返らせた一粒タイプ/タカラブネ
タカラブネは仙台から下関までチェーン千店を展開、シュークリームやケーキで知られるが、もともと京都で和菓子の製造からスタートした。主力工場の館野弘・京都工場長(42)=現・製造本部副本部長=には、古くから量産しているまんじゅうの行方が気がかりでならなかった。近年の売上高が毎年一割ほど減り続けていた。
仕掛けた「しっとり感」
ほかの菓子では和風の良さを見直す動きが現れていたのに、まんじゅうは八五年発売の新製品で失敗した。値上げを伴うモデルチェンジで、包み方でも値打ち感を出そうと新型の包装機を開発した。しかし、厚めのまんじゅうが包めず、製品は客に薄っぺらい感じを与え裏目に出た。 八八年十月に、朝香広・工場次長(41)ら製造現場から「まんじゅうをもう一度売れる商品に」と声が上がった。マーケティング部、製造本部開発センターからも参加して十人余りのプロジェクトチームが動き出した。
まんじゅうは九州と北海道に小規模メーカーが集まり、二大名産地を成している。メンバーは製造が九州へ、マーケティングが北海道へ現地調査の旅に出た。従来とはっきり違う商品にしたい。しかも、全国に流すから大量生産が可能でなければ。
あんを皮で包む自動包あん機に、あんの中にさらに何かの粒を入れられる新製品が出た。オーブンで焼くと、従来、手作りの領域だった一粒タイプのまんじゅうが量産できる。
消費者に人気が高いクリを、一粒そっくり入れる案がまず決まった。イチゴ大福のように風変わりな取り合わせがうける時代だ。「もうひとひねりした果物を入れたい」。ギンナン、ユズなど、調査旅行をもとに討論は年明けまで続いた。
「和風の見直し、懐古調にぴったり」と、最後にキンカンが選ばれた。同種のものが無い魅力がある。果実を入れない従来タイプのまんじゅうも三種用意、詰め合わせの変化を付ける企画ができた。
味をどうするか。担当する開発センターの津嶋純一課長(41)らが、パートの女性ら社内モニター三、四十人を相手に、試作品や世間で評判のまんじゅうと食べ比べる会を繰り返した。 白あんにして余分な味は付けず、糖の種類を加減して甘さを抑えクリそのものの味を。蜜炊きのキンカンからは自然に風味を染み出させる。焼き上げた後、熱いうちに密封包装し、あんの水分を数日間かけて皮に移して全体にしっとり感を出す――など、味の演出が決まった。鮮度を保つのに全部に脱酸素剤を同封することも。
さばき切れず二十四時間操業
五月末、トップから承認が下りた。八千万円で自動包あん機四台を買い、包装機械も一新する。死にかけた商品へぎりぎりの投資が認められた。従来品は一個七十円。手作り市販品に数百円するものがある一粒タイプだが、百二十円に止めた。
「試作品そのままの味を量産で出せることはまずない」と、津嶋さん。量産ラインに載せると、中の果物がつぶれたり、はみ出したり、狙ったような柔らかな皮では包み切れなかったり−−量産試作が繰り返され、毎日何千個か作っては捨てた。
お盆の需要期が済んで工場を改造、九月十五日発売と決まった。館野さんらの期待は「なんとか目減りは食い止めたい」だった。
特に販売攻勢も掛けなかったのに、店頭からうれしい手ごたえが一週間で返って来た。九月上旬まで二千万円前後だったまんじゅうの旬間売上高が、中旬が三千三百万円、以後五千―八千万円と伸び続けた。注文がさばき切れず、二十四時間操業に追い込まれるほど。一息ついた現在でも、前年同期比六割増の生産を続け、下請けまで動員する。
「責任が無い他人の意見を聞くより、身内の動きを見ておくべきでした」と、吉田秀明マーケティング部次長(42)は反省を込めて振り返る。気が付いたら社員までまんじゅうを買わなくなっていたのに、新製品で変わったという。
《会社》一九五二年設立。菓子製造卸売りから製造小売りへ転換、さらにフランチャイズ店方式導入とともに急成長。年間売上高三百億円で、構成はシュークリーム、ケーキなど五八%、まんじゅうなど一五%、冷菓七%など。資本金二十三億三千万円。従業員八百三十五人。本社・京都市中京区。
《パソコン通信でのコメント》
お父さんの職場を描ければ
タカラブネの量産まんじゅうの話、食品を何かやってみたくなって、チャレンジした次第です。先日、社内の上司とこのシリーズについて話をする機会をもちました。「これまで無かったタイプの企画で、現在の新聞では、経済面にも科学面にもはまらないね」と言われました。わたしは「学芸部担当の家庭面に出せるような内容にもしたいと思っていた」と話しました。現実には、技術について説明的な部分が必要なので、家庭面風な人間ぽい要素をこれ以上持ち込むのは、スペース上から無理です。しかし、お父さんの職場が何をしているところなのか、ますます分からなくなって来ている現代の家庭では、こうした形の企画で知らせるのも、無意味でないと考えています。
「飽き」への対策
「食品は耐久消費財と大きく違って、同一消費者に何回も買ってもらえます。つまり、良いと思わせたらまた買ってくれるし、飽きさせてしまったら需要が急速に冷えこみます。この飽きるというポイントを企業はどのように見極めているのか興味があります」
タカラブネのまんじゅうを開発した方に聞くと、本当は満足していないそうです。皮の質など量産に伴う技術的な妥協があって「まだまだこれから。今のまま売れ続けるとは思っていない」とのことでした。試作品はずーーっとおいしいんだそうです。これは食べてみたかった。残念です。
味覚はかなり微妙な世界ですし、お菓子は必需品でもないのでいつ捨てられてもおかしくなく、「飽きる」時期が来るかもしれません。前の製品は「飽きる」以前、魅力が薄かったようです。実は、和菓子には飽きが来にくい仕掛けが昔からあります。それは季節感の演出です。京都の老舗では作り手の感性で四季折々に微妙に変えたものを作って売ります。木の葉の色なら、初夏、盛夏の緑を変え、秋はもちろん紅葉という具合です。量産品であっても飽き対策にそれを考えていて、九〇年春から、キンカンに代えて梅の実一粒を入れた新製品が登場しました。クリは通年で、春夏に梅、秋冬にキンカンという季節の演出ですが、わたし個人はキンカンの方が完成度が高くて好きです。
お菓子屋さんの情報・物流管理
生ものは天候や輸送の問題があり、一定の量産をすることは危険で、大手メーカーは手を出せないものですが、これに挑戦しているのが、タカラブネだと思います。記事でお分かりの通り、同社の主力商品は多品種の洋生菓子で、しかも大衆価格で菓子を提供する路線を守り続けています。
そのためもあって、かなり早くから千店のチェーンと本社を結ぶ販売時点管理システム(POS)を導入しています。品物が欲しい日の前々日の夜中までに注文を出せば、生産、配送して店に届きます。作り置きをしないのは、ケーキよりも日もちするまんじゅうでも同じだそうです。曜日によって売れ方が変動し、月火水木が一なら、金が一・二、土が一・五、日が二になるとのこと。それを満たすように、なおかつ余って捨ててしまわないよう、いろいろなノウハウがチェーン店と本社にあるようです。そうでないと大衆価格維持が難しくなります。
ところで、まんじゅうの場合は焼きたては皮がぱさぱさしていけません。三日は置くほうが、あんから水分が戻ってしっとり感が出ます。それも見込んで店頭在庫が図られます。まんじゅうには、固い乾いた感じのから、水分たっぷりのまであります。しかし、水分の含有率でみると、以外に差は少なくて、一般的なまんじゅうが二四から二七%で、固いのは二割以下、水分たっぷりで三割以上だそう。ちなみに、一粒シリーズでは、キンカン一粒がほぼ上限、クリ一粒が下限辺りだといいます。
「だれがどうして生産計画を立てているのでしょうか。オーダー表を見て、人間がやっているとはとても思えないのですが」との質問をいただきました。
これは製造本部の管理者たちが交替で泊まり込んで処理しているようです。千店もチェーンがあり、店の経営者の中には転職したばかりで菓子の扱いには素人という方もいるので、商品注文以外にもいろいろな問い合わせや相談があって、かなりの責任者が常時応対できないと、うまく回らないのです。
取材時に聞いた話ですが、生クリームを使った洋菓子でも、脂肪の質を変える、つまり動物性脂肪を減らして植物性脂肪に置き換えることで日もちを良くする技術があって、これで現在のような量産と長距離発送が可能になったとのこと。しかし、味については動物性脂肪が多い方がおいしいので、日もちとの兼ね合いを考えながら動物性の割合を増やす努力がされてます。現在は配達が一日一回ですが、将来は一日何回も配達をして、菓子の鮮度保持と需給調整をしやすくすることも検討されていました。
しっとり感余聞
「まんじゅうもできたての湯気がでているやつをはふはふしなが食べるのがいいのよね。でも、そういえば一日おいてさめたまんじゅうもしっとりしておいしいのよね」なんて書かれると、本当にお菓子がお好きなんだなと分かります。
取材をしていて、この水分の戻り現象は和菓子だけでないことに思い至っていました。身近なことですが、あるホテル製のチーズケーキを好んで買っていたことがあります。値段の割においしいからですが、これも冷蔵庫で一日寝かせたら、しっとり感が増してずっと良くなった経験がありました。ケーキの下のほうにある水分が全体に拡散するのでしょう。聞いてみると、洋菓子にもあちこちで起きる現象でした。
戻りとはちょっと違いますが、一粒タイプまんじゅうには、キンカンの風味を引き出すある仕掛がしてあります。蜜炊きしたキンカンの果汁が、出来たまんじゅうの中で自然に回りの白あんに吸われるよう、あん側の糖度が炊いた蜜より高めてあるのです。浸透圧かな。こうしているのでキンカン一粒タイプはしっとり感がいっそう強いのです。ただし、白あんをあまり甘く感じないように使う糖の種類を工夫しています。この辺りも菓子作りのノウハウですね。またまた食べたくなってしまうお話でした。
という訳で、今回の感想は「何気なく食べている菓子にも技術があることを再認識しました」「甘いものとは無縁のわたしです。まんじゅうの製作で苦労があるとは思いもよらなかった」「これはほんと、よだれものでした」と、理屈抜きに楽しんで読まれた方が多かったようです。
入れ歯保険治療の難点を克服した硬質レジン歯/松風
京都で陶器会社を興していた松風家が、歯科医学界から国産陶歯の開発を勧められたのは、米国に陶歯供給を頼っていた大正時代のこと。戦後になるとレジン歯が登場、研究者と協力してやはりその開発で先頭に立った。陶歯からレジン歯に中心が移っても国内市場の半分近くを占有、製品は歯科技工士の国家試験や、現在はなくなった歯科医の実技試験に採用され続けた。
決定版への意気込み
東京歯科大学教授を退いて東京・銀座で開業している河辺清治さん(81)は、入れ歯治療で内外に知られている。学生時代から付き合いがある縁で「新しい人工歯が必要な時期が来ているのでは」と助言したのが八〇年ごろだった。亡くなった大学の恩師が、その準備にと多数の歯を収集して残していた。
陶歯とレジン歯、いずれにも欠点があった。陶歯は自然の歯に比べて硬過ぎ、入れ歯を作ったときに向き合う歯が自然歯なら削り取ってしまうし、陶歯同士なら瀬戸物がぶつかり合うのでカチカチと異音をたてる。レジン歯は逆に軟らか過ぎて減りやすい。どちらも自然の歯に比べて輝きが足りない。
七五年、イボクラール社(リヒテンシュタイン)が常識を破る硬質レジン歯を売り出していた。自然歯に近い硬さと外観をもち、陶歯とレジン歯の欠点を補った。しかし、健康保険で認められているレジン歯は前歯六本組三百円なのに、二千三、四百円もして自由診療でなければ使えない。技工士が扱いにくい欠点もあった。
新しい歯を求める歯科医の声は河辺さんに限らなかったし、社内にも意欲が見えた。「高齢化を迎える時代を先取りして、保険で使える硬質レジン歯を作ろう」と、当時社長だった松風嘉定会長(71)が決断、研究開発部が動き出した。
歯の形を担当したのが林昭三主任研究員(58)のグループ。「決定版を作ろう」の意気込みで、河辺さんらを通じて数千本の歯を集め、大学の先生たちによる研究会を組織、協力してもらうことになった。分類し各タイプの標準形を決め、彫刻を作って意見を求める。結局、前歯だけで四十の形状に分類、九色ずつ計三百六十種に仕上げることになる。
歯の輝き生む微粒子に工夫
材料の開発は形状に比べて遅れがちだった。中村彰二主任研究員(50)のグループは二十年前から開発したいと希望をもっていたが、手をつけてみると実現は容易でない。
最近、歯科医院で虫歯を削った跡に銀色をしたアマルガムを詰めることが少なくなった。代わって自然の歯の色に近い樹脂を充てん、光を当てて反応、固化させる。他社に先行した技術の一つで、出来たプラスチックは普通のレジン歯より硬いから、硬質レジン歯開発はその延長で、と考えた。また、自然歯にはカルシウムとリンの化合物微粒子が多数散在して独特の輝きを生むので、人工歯にも、似た微粒子を入れれば、とも。
輝きを生み出す条件は、微粒子の大きさが、光の波長に当たる千分の一ミリ以下。一方、歯の透明感を生むために、プラスチックと微粒子の屈折率が合わなければならない。硬さとともに粘り強さも求められる。合成技術の限りを尽くすが、行き詰まって頭を一度からっぽにし、方向転換を図ったことが何度もあった。
八六年九月にまず前歯を売り出す。三層構造にし、かみ合い部は従来の六倍も摩耗に強く、根元部は入れ歯の土台と簡単に接着する材質、中間部は衝撃を吸収する役割を担わせた。完全自動の生産ラインで値段は六本組七百二十円に抑えた。
製品を作っただけでは健康保険の適用にならない。従来認められている治療法よりも値段が高いのだからなおさらだ。牧野宏治・大阪営業所販売課長(40)ら全国に八十人いる営業マンが「まず普及を」と歯科医を回り、硬さを実演して歩いた。最初は自由診療ながら評判を得て八八年七月、硬質レジン歯は銘柄を同社に指定する珍しい形で保険適用になった。
現在、月間百二十万本を生産しても需要に追い付けず、近く生産ラインを増やす。河辺さんらは「外国に出しても恥ずかしくない」と評価するが、当分は輸出余力が出来そうにない。
《会社》一九二二年、松風陶歯製造として設立。アマルガムなどで世界レベルの技術を開発、米と西独に販売子会社。売上高九十八億円の構成は人工歯(一六%)のほか歯科用の研削材(二九%)、金属(一五%)、樹脂(六%)、セメント(九%)など。資本金三十六億円。従業員四百人。本社・京都市東山区。
《パソコン通信でのコメント》
こんなタイプの入れ歯も
上の前歯の形状は、上下ひっくりかえすと、その人の顔と相似なのだそうです。そう言われればという感じですが、学界で定説となっているそうです。分類方法はいろいろあります。ちなみに、松風が採用しているのは方型・尖型・卵円型を3基本型に、その混合型と短方型を追加したものです。
従来の人工歯では自然歯と外観に差があったと書きましたが、特殊な修復は別です。松風の製品に、オーダーメイドの歯として使う「ヴィンテージオパール陶材」があります。歯並びが悪い歌手が突然、きれいな歯並びになってテレビに出るといったケースはまずこれだと思って良いそうです。金属の上にセラミックを焼き付けてつくる、ホーロー製品と思って下さい。患者の自然歯をまず削り、そこにはまる金属の土台を作り、セラミックの粉末を水で練って盛り上げ、焼きます。金属台は自然歯の削り跡に歯科セメントで接着します。色、輝きともに自然歯と同じに出来るそうですが、値段が高くて数本で数十万円、一式取り替えたら、数百万円です。
皆さんの感想は「入れ歯のランク、素材の機能にこんな違いがあるなんて」「社会的な貢献に対する当事者の真剣さ、使命感に感銘」などで、大変な開発を地道に成し遂げている点を買われた方が多いと見受けました。安い価格で供給するために生産は完全自動で行われています。わずかな厚さの中に微妙な三層構造を作っているのですから、かなりの自動化技術でしょう。興味を持ちながら、取材する時間が足りずに取り残しました。開発の各セクションの動きを聞き取るだけで相当な時間が要るものですから。
書き落としていた情報をもうひとつ。京都の企業に関心がおありでなくとも、京セラの名前はご存じでしょう。創業者の稲盛会長は、人工歯の松風の親会社に当たっていた松風工業(絶縁体の製造業)に勤めてから、仲間と独立したのです。松風工業の方は競争に敗れて清算会社になってしまいました。
歯磨きの話
「入れ歯になるのは、つまり歯をなくすのは虫歯が原因ではないんですよね」とのご指摘通り、原因は歯槽のうろうなどの歯周病が大半なのです。普通に歯だけを磨いていても、この予防は難しく、磨き方に工夫がいります。以前、若年層にもこの病気が広がっていることが職場での歯科検診から分かったとの記事を書きました。歯科検診は学校だけのものでなくなっているのです。会社は東レの大阪本社でした。企業の健康管理室もいろいろな試みをするものです。
まだ使ったことはありませんが、電動歯ブラシは有効と聞いています。京都のメーカー、オムロンが出した新機種は、二通りの磨き方がワンタッチで選べるのが売り物でした。歯茎の付け根の歯垢まで落とす磨き方をときどきは意識的にやってみますが、微動させるようにやらねばならないので手が疲れます。それから、磨き過ぎにも注意です。特に歯磨き粉を大量に使う方、あれは研磨材の一種ですから、どんどん歯を細らせます。
作り手の遊び心が染み込んでいるゲームボーイ/任天堂
製造本部には四つの開発部隊がある。三千六百万台を世界に送り出したファミコンの開発第二部、ゲームセンター用の機械など幅広い開発第三部、ゲームソフトを作っている情報開発部、そして、ゲームボーイの開発第一部。
山場は液晶画面づくり
八三年にファミコンが生まれる前、わずか画素二百でできた液晶画面の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が、おもちゃ市場を席巻した。生み出したのが岡田智・次長(42)ら開発第一部。しかし、売れると見て三十数社が参入し、ソフト交換ができない専用機だったから類似機が百数十種入り乱れた。買い手はどれが良いか判断しかねる状態になり、市場は衰退した。結局、国内での販売は取りやめられた。
いまも欧州などに年間二百―三百万台を輸出、商品生命は絶えていない。しかし、国内向けでは「うまくいかない時はあるもの」と、ファミコンの快進撃を横目で見て過ごす時期が続いた。ファミコンに習ってソフト交換型へ転進を考え何回か検討したが、多彩なゲームを表現できるきめ細かな液晶画面の見通しがつかなかった。
液晶カラーテレビが普及の兆しを見せた八七年夏、開発第一部は待望の新製品開発に取り掛かかる決心をした。二十八―三十二歳のメンバーを中心に三十二人の部員が総掛かり。まず、市販の液晶テレビを解体、手づくりの回路と結んだ大きな試作品を作る。構成が固まり切らぬ段階なのに、山内溥社長(62)は「これはいける」と太鼓判を押した。
画面づくりがこの機械の命と考えて来た開発チームは、出来合いの液晶画面では満足しなかった。ゲームボーイの画素数は、ゲーム&ウオッチに比べ百倍の二万を超え、かえって鮮明感が出しにくいし、ゲーム用だから液晶が苦手とする速い動きがどうしても欲しい。一時はカラー液晶画面まで検討したが、屋外で見づらいのと電池の持続時間が短くなることもあって白黒画面に戻す。曲折の末の八八年秋、シャープに専用の高速液晶開発を頼み、発売直前にようやく量産を軌道に乗せた。
ソフトへのこだわりで人気獲得
任天堂がファミコンの次に出すのは、記憶容量アップと色彩数六百倍化のスーパーファミコンと、一般に思われていた。その華々しさに比べて、ゲームボーイはわずか縦四・二センチ、横四・六センチの白黒画面だ。そうではあるが「持ち運べて、一人だけの画面が持て、ケーブルで結べば本当の対戦ができる。消費者を説得しやすいのはこちら」と、今西紘史・総務部長(49)は経営陣の判断を明かす。
八九年一月、国内の系列卸問屋の集まりで公開した。「何をいまさら」と首を傾げられた。米国業者からの反応がむしろ上々で「米国七に国内三の出荷で足りるか」と見通せた。予想通り、四月発売時点では、びっくりするほどは売れなかった。
「早く売れ行きを引っ張れるソフトを出したい」。岡田さんらがひそかに狙いをつけていたのがソ連で考案されたゲーム「テトリス」だった。社内でパソコン版で遊び、ゲームボーイに向いているとみた。落ちて来る七種類のブロックを回転、移動させながら平らに積んで行くゲーム。単純だがとっさの判断力発揮に妙味がある。十二月末からプログラムを組み始め一月にほぼ完成したのに、それからの味付けに時間が要った。
パソコンやファミコン版に無い対戦型のアイデアを加え、組み上がってからも、自分たちが面白いと思えるものにしようとこだわり続けたからだ。商品開発のために市場調査はしない。頼りにするのは自分たちの感性だけだ。
出来上がったと思うころ「ブロックを左右に動かす速さをちょっと速めたら、もっと得点が出る」とだれかが言い出す。では何%速めたら面白いか、微妙に変えながらしらみつぶしにする――といった具合だ。発売は予定から大幅に遅れて六月半ばになったが、二週間で四十万本以上出荷した。五月末になって火が付きかかったゲームボーイ人気を爆発的なものにした。
「あんな小さな画面でも単純なゲームでも没入して遊べる。マニアの特別な世界になりかかっているファミコンへの警鐘になった」と今西さん。
提携先の不手際などからゲーム&ウオッチの売り込みで失敗した米国で、六月の家電製品ショーに出品し五百万台の受注が見込めると評価された。九〇年はファミコン並に月産百万台の生産態勢に増強する。
《会社》一八八九年、花札の製造で創業。会社設立は一九四七年。電子ゲームの開発は七五年から。大ヒットしたファミコンで電話回線を通じたネットワークの構築を目指し、家庭から金融機関との取引などに利用開始。資本金百億円。年間売上高二千五百一億円。従業員七百四十人。本社・京都市東山区。
《パソコン通信でのコメント》
意外なヒット商品を生む裏側
任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」は、文句なく、一九八九年に京都が生んだ最大の商品でしょう。
この会社はマーケティング部門を本当に持たないようです。「市場調査は過去のデータ」「ゲーム業界にはナンバー2は存在しない」(つまり、まねをしても仕方がない)「面白いものと、面白くないもの、しかない」・・・広報担当の総務部長さんの発言は、ある意味で刺激的です。
「現場には会わせない方針」というのを口説いて会った開発第一部次長さんも、「おもちゃ売り場に時には行きますが、それはゲーム機以外にどんなおもちゃがはやっているのか見に行く程度」とおっしゃっていました。とにかく「自分が面白いと思う物を作れ」と言うだけなのです。
ゲームボーイは年末年始の入荷即品切れの、どうしようもない品不足でお分かりの通り、ものすごい人気です。新製品は初年度三百万台を出荷して、ソフトが売れる環境を整えるのが、任天堂の基本方針だといいます。わたしもこうまで売れるとは思っていなかった口です。ドラマ式のロールプレイングケームに慣れて、ゲーム本来の楽しさを忘れていたのか。
ひとつ見逃せないのは、ファミコンが家庭のテレビを占拠し続けるのは難しい状況が生まれていることです。何しろ、在来テレビ放送以外に、ビデオ、衛星放送、ケーブルTVと家庭のテレビは「忙しい」のです。そして、もうひとつの特長は本物の対戦型が可能になることです。同一画面を分割してごまかしているのでは、マージャンなど対戦になりませんから。
今回の記事には「いま開発、設計者はいかに消費者と密着吸収できるかに苦心し、例えば直接店頭に立ち、自分の肌で何が求められているか知ろうとしたり、いろいろ苦労しています。しかし、それでは大きなヒットはつくれないのでありませんか。商品開発のための市場調査はしないとの記事を読んで、同感!」「ゲーム&ウオッチのちょっとした改良で対戦型ができるのでは、と思っていたが、さすが、任天堂。中途半端なものは出さない、という姿勢は見事だと思う」との声が寄せられました。
わたしは、ファミコンの開発グループと、ゲーム&ウオッチ・ゲームボーイの開発グループが別だ、と聞いてニュース性ありと感じました。あれだけの大ヒット商品を横目にしている間、はっきりとはおっしゃいませんが、辛抱、辛抱だったようです。
研究開発と労働時間
第1回の堀場製作所は京都でも休日が多い企業として知られています。完全週休二日制プラス毎月一回の三連休があるだけのことながら、リクルート社が京都で調べた大学生の人気企業ベスト20に入り、理由は休みが多いからだと言われています。研究開発部門の人達には日ごろ残業をして頑張る人が多いのですが、仮に三連休が確保されていれば、休みだからと割り切りやすいと思います。
研究開発では往々にしてそうである通り、猛烈になりがちだと思います。しかし、必ずしも全部に当てはまる訳ではなく、任天堂では「残業はするな」と言われます。例外として、プログラムがもう完成寸前で、あとはささいな欠陥の「バグ」取りだけというのなら徹夜してでも残業することはあるそうです。しかし「期限に間に合わせるためだけに徹夜しても、ゲームとしていいものが出来る訳がない」とは、例の次長さんの言葉です。アイデアの勝負をしているのに、体力勝負では駄目なのですね。遅れてもかまわないし、「思い通りにやらせてくれるのが、うちの会社の良いところ」なのだそうです。
あなたの職場の実情はどうでしょうか?
育児に紙おむつを定着させた高吸水性樹脂/三洋化成工業
余剰トウモロコシの処理に困った米国農務省は、でんぷんの使い道を求めてさまざまな研究をしていた。その模索の中で、でんぷんと合成繊維の原料アクリロニトリルをくっつける処理をすると、自重の数百倍の水を吸収する新物質が生まれた。目をつけた米企業が試験的な生産方法を開発、特許申請した、と記事は伝えていた。
物質創造に劣らぬ苦労が待っていた
新事業開発部は「将来に伸びる新技術の芽が欠乏している」とのトップ判断から、一年前に出来た。増田さんは農林用に新しい物質はないかと雑誌二十種をしらみつぶしにしていた。この新物質について、米国から内々で資料を取り寄せ、七五年初めに部長に「やらせて」と切り出した。 意外にも「前に商社から持ち込まれ、検討して放棄したテーマだ」と教えられた。合成過程が複雑過ぎ、途中に有毒物質が使われ製品に残る不安があった。
「いや、安全に作る方法がきっと見付かる」と、強情を張って引き取り、最初は同僚と二人だけの手探りを始めた。昼間は実験、夜になると結果を検討、ノートにまとめる。午前零時前に会社を出ない生活が始まった。
米国での合成法を、まず文献通りに再現した。そこから吸水物質が投網のような構造をしていることが浮かび上がり、水を抱え込んでしまうと推定できた。合成後には安全な物質だけらしい。それなら、最終的に構成している物質だけで作れればいい。
十冊を超す技術ノートを積み、網構造を作る反応の触媒を自力開発、三カ月後、米国とは違う構造で三百倍の水を吸い込める高吸水性樹脂「サンウェット」をものにした。
しかし、実験室で物質を少量だけ合成するのと、大量生産は全く別。液体に溶かして反応させれば簡単なのに、この物質は水を吸い込む性質が災いして水に溶かせば〇・三%の濃度にしかならない。熱の消費、水を乾燥させる必要など考えると、固体に近い粘っこい状態で合成しないと高価になり過ぎる。
課題は名古屋工場製造第一課長だった藤本昭義さん(47)=現・同副工場長=たちのところに持ち込まれた。時に石油ショック下。新規投資を禁じられた悪環境下で、二千万円だけの予算、人員は既存プラントの正規要員を削って生み、プラントは中古機械を買い集め修理して組み合わせた。
考えた合成工程、そこから出て来たつきたてのもち同然のねばねば物質の乾燥工程とも、例が無い。うまく行くと見えて、水を吸う性質が災いして出来た途端に湿気を吸い始め、商品にならない。
一年余り。いつの間にか二億円使い、何度もほうり出しかけては「途中放棄は技術屋の恥」としかられた後で、一日一トンの生産装置が姿を現した。
砂漠の農業も可能に
「こんな性質の化学物質が出来ないか」と需要家から開発を頼まれるのが、それまでの開発パターンだった。機能が面白いからと創造してしまった樹脂の売り込みに、増田さんも動員された。
さらさらした白い粉の樹脂を生理用品メーカーに持ち込む。面白がられても、先方も使い方に見当が付かない。増田さんらが紙の間にサンドイッチする方法を開発、指導して回った。
追いかけるように、花王がでんぷんを使わないで似た構造の吸水樹脂を開発して自社製品に使い始めた。八二年になって生理用品から紙おむつへとメーカー間の競争が広がり、欧米でまだパルプだけだった紙おむつを吸水樹脂入りに転換させた。独自に製法を開発する企業が相次ぎ、国内は吸水樹脂の世界供給基地になった。三洋だけで八度も設備を増強し、現在は年産二万トンに達する。
紙だけで作った時代の使い捨て紙おむつは、国内のお母さんに後ろめたさを持たれ、外出時など臨時用だった。吸水力千倍にも達した樹脂が入ると赤ちゃんを長く寝かせても、かぶれやむれが少なくなり、布おむつだけで育児するお母さんは一割を切るまでに様変わりした。
吸水樹脂は吸い込んだ水を、非常にゆっくり放出する。年々広がっている砂漠地帯や、雨季には水があふれても、乾季にはからからになってしまう熱帯の土壌に水を保たせる研究が進められている。現在は九割まで紙おむつ中心の用途だが、一挙に拡大する可能性を秘める。
《会社》一九四九年、トーメン、東レ両社五〇%ずつの持株で三洋油脂工業として創立。界面活性剤、ウレタン樹脂、水中の汚濁物質を沈澱させる凝集剤、肝機能検査薬など優れた機能物質を開発。売上高五百九十三億円のうち一五%を輸出。資本金百十五億円。従業員千三百人。本社・京都市東山区。
《パソコン通信でのコメント》
先見性に強情さも必要
ようやく化学メーカーの登場です。三洋化成工業は特別な機能を持つ化学物質を生み出す「パフォーマンス・ケミカルズ」を看板にしている会社です。
九回目の松風、十回目の任天堂と、この三洋化成工業とは言わば隣組で、本社工場が東山区の川辺りに並んでいます。強いて共通点を見付けると、もうひとつ、取り上げた商品の種類は随分違っていても、年間で数百万の消費者に届いている点でしょうか。
吸水樹脂を作った増田さんは、この研究で博士号をもらい、社内の研究で博士号を取得した第一号になったという後日談があります。現在の藤本社長は研究所長から新事業開発部の初代部長になり、吸水樹脂が物質開発から工業化に移った時期にはちょうど生産本部長になっていて、サポートを続けたとのこと。「新規開発には先見性の外に、当事者の強情さが必要」と発言されています。石油ショック下で、売れる見込みがない新物質の開発に発揮された会社としての強情さも相当なものです。
開発されてから考えると、この吸水物質は化学の実験室ではよく出来るゲル状の厄介物、つまり出来損ないだったのです。「わたしも作ったことがある。あれがそうだったのか」と残念がる他社の技術者がいたそうです。
三洋化成工業がこんなことをしていると知ったのは、同社広報室が刊行した「パフォーマンス・ケミカルズの開発物語〜この面白くもなんぎな仕事の歴史」(千五百円)という本をいただいたからです。自社出版で大手の書店に直接頼んで置かせてもらっているそうです。いろいろな商品の開発関係者の座談会を録音してから再構成しており、おかげで今回のシリーズ中で唯一、取材開始前からおおよその見通しが立てられました。ただし、お話の構成、素材は大きく違っています。戦後の繊維用油剤から始まってウレタン樹脂関係、界面活性剤、凝集剤などに面白い話がいろいろあります。京都には化学メーカーとしてはもうひとつ、第一工業製薬という「モノゲン」で有名な老舗があり、この本でも繊維用油剤の開発でそこに追い付こうと奮闘する経過が紹介されています。
高吸水性樹脂の販路開拓について
吸水樹脂の開発から販売への動きについて「はしょり過ぎ」とのメールをいただきました。そこで、手持ちの材料で補足します。
七八年に市場開拓を担当したのは、連載に出て来る増田さんと、もともとマーケティング担当をしていた榊原幸一さんでした。研究者の増田さんは当初から農林用も含めて広く売るべきだと主張したのですが、宣伝畑から移った榊原さんは「世界中で使われたことのない商品だから、まずヒット一本打つこと。実績作りを」と説得、生理用品にしぼった売り込みを始めます。連載で指導して回った紹介した件は、樹脂をパルプとパルプの間にはさんでシートにする機械を作り、実演して見せては、その機械を一台ずつ配って歩いたという話です。
しかし、それだけでは売れなかったのです。花王がほぼ同時期に開発して使い始めたことが普及に貢献しました。花王は生理用品に進出する構想をもっていてそのために戦略的に吸水物質を開発していたといいます。花王進出のニュースが流れただけで、既存の生理用品メーカーは三洋の樹脂に飛び付いたのです。そのあとで、紙おむつにも採用されるのですが、ここでも二割程度の育児家庭に普及していたことがバネになり、花王対既存メーカー間の競争拡大といっしょに伸びて行きます。
現在、国内で生産している会社は十社ほどあり、日本触媒化学などは全量輸出です。欧米にも五社ほどあって、世界生産量は十一万トンくらい。国内がその半分です。三洋が八度も設備増強したと書いた通り、どこまで需要が伸びるのか開発者にも見通しがつかなかった新商品です。
吸水樹脂の使途
高吸水性樹脂の使い道は実に多様です。連載記事に書いたのはほんのさわりでした。取材をしていて、いろいろとおもしろい用途を聞かせてもらいましたが、まず、三洋化成が出しているパンフレットなどから抜粋してみます。使っている特性は、吸水して保持する力や膨潤力、ゲル化力、増粘性です。
◎衛生材料・・・・・・生理用品、紙おむつ
◎農薬・園芸・・・・土壌保水、苗シート、農薬肥料の崩壊助剤、キノコ培地
◎食品・流通・・・・鮮度保持剤、食品の脱水、しずくの吸収
◎土木・建築・・・・結露防止建材、種子吹付保水、ヘドロ固化、逸泥防止
◎化粧・トイレ・・ゲル芳香剤、使い捨てカイロ、保冷剤、携帯トイレ
◎医療・・・・・・・・・・創傷保護ドレッシング材、湿布剤、医療用パッド
◎電気・電子・・・・インクジェット記録用紙、通信線止水材、アルカリ電池
◎塗料・接着・・・・水濡れ塗料、水膨潤性塗料、船底防汚塗料
◎その他・・・・・・・・油中水分の除去、ガスケット、消防活動での水損防止
例えば、鮮度保持というのは、魚や肉の余分な水分を取って鮮度やうま味を保つものです。また、冷凍する場合は三、四%の脱水をすると組織の破壊が防止される効果がありますから、この脱水法は有効です。全く知らなかった吸水樹脂の使途に、使い捨てカイロがあります。樹脂を使い始めてから、カイロの熱保持がずっと高性能になったそうです。カイロの構造は鉄粉、活性炭と食塩水を吸った吸収材を密封したもの。開封後に鉄が空気で酸化される反応の熱を利用します。酸化反応の促進に食塩水が要ります。以前はおが屑や木粉などを吸収材にしていましたが、吸収力があまりないから、べたべたして、通気性が悪く、大量に必要なためかさ張る難点があったのです。現在のは、昔に比べて、そういえば小型軽量ですね。
農業用の使い方は、砂漠については鳥取大学などの研究が有名です。砂が多い土壌に〇・一から〇・三%この樹脂を混ぜると、トマトやチンゲンサイの収穫量が二倍にも増えました。この樹脂は水を含んだあと、非常にゆっくりと放して行くから、植物が利用できる水分が増えるとともに、肥料の脱落も防げる訳です。単位面積あたりに撒いた水の量に対する収穫量(かんがい効率というそう)も、同様に二倍程度になると報告されています。
吸水樹脂にはひとつ、欠点があります。紫外線に弱いのです。永久に分解しない合成化合物は困りものですから、分解しないよりましかももしれないませんが、土中で二、三年しかもちません。空気中ならもっと早いようです。
おむつに使うと、赤ちゃんのおむつ離れが遅くなります。布おむつでの子育でも経験したわたしとしては、これには目をつむります。出産後の女性にとって、布おむつ洗濯の労力は大変です。女性の社会進出と紙おむつ化が並行したというのも、この樹脂が商品として持つ社会的意味のひとつでしょう。
§0 はじめに
§1 カード型pH計……………堀場製作所
§2 静電気防止繊維……………日本蚕毛染色
§3 37形テレビ………………三菱電機京都
§4 カラー写真直接製版機……大日本スクリーン製造
§5 遠赤外線警報機……………竹中グループ
§6 無補水バッテリー…………日本電池
§7 CD包装機…………………京都製作所
§8 一粒タイプまんじゅう……タカラブネ
§9 硬質レジン歯………………松風
§10 ゲームボーイ………………任天堂
§11 高吸水性樹脂………………三洋化成工業
§12 組み合わせ式計量機………石田衡器製作所
§13 形状記憶ブラジャー………ワコール
§14 完熟用トマト………………タキイ種苗
§15 マイクロ波フィルター……村田製作所
§16 電動フォークリフト………日本輸送機
§17 遺伝子工学試薬……………宝酒造
§18 ファクシミリ………………村田機械
§19 ビデオテープ………………日立マクセル京都
§20 指式血圧計…………………オムロン
§21 インテリア布地……………川島織物
§22 磁気ディスクモーター……日本電産
§23 X線テレビ…………………島津製作所
§24 地域ビール…………………キリンビール京都
§25 電力用太陽電池……………京セラ
§26 京都企業論(工場なしの地場産業・その曲がり角)
《はじめに》
京都にユニークな企業群が存在することは広く知られている。高い技術水準を武器に伸び、全く新機軸の製品を生み出して従来存在しなかった需要と市場そのものを作り出す「市場開拓型」が多い。日本の企業は他社の売れ筋商品によく似た商品を開発しては利益を上げがちで、知的所有権の面で世界中から厳しい批判にさらされている。それと際立って違った営みが、ベンチャー色の強い企業群によって、京都盆地から一部は琵琶湖東岸にかけての狭い地域に集中して展開されてきた。自動車、電気製品を始め民生品技術を中心に米国を上回り始めた日本製造業の技術水準が、物まねに終始して生まれ得たはずがなく、こうした、規模は比較的小さくとも、独創的な企業の輩出に基盤を置いているはずである。京都はそうした企業を、いくつかの理由で全国平均よりも多く生み出したと思われる。その実態はどうなっているのか、朝日新聞大阪本社の科学部で科学技術の領域を主な取材対象にしていたわたしにとって数年来の関心事だった。
たまたま一九八九年春から九〇年秋にかけて京都支局員となり、京都経済記者クラブに在籍、市場開拓型企業群の中で二十五社を選んで商品開発の現場を取材する機会に恵まれた。この世に存在しない商品を生み出す技術者の苦闘と、開発を企画し技術者を触発する経営陣との葛藤などを、朝日新聞第二京都版に大型ルポ「うちのヒット商品」(二十五回)として連載した。これはそれをもとにした、技術とビジネスのサクセス・ストーリーである。
現代の経済社会動向にテクノロジーが与える影響は大きい。わたしは「われわれの社会は何をつくり出し、それゆえにどこへ行くのか」との問題意識で、現代社会の原動力のひとつ、技術の動向を追っている。科学部が通常の取材対象にしている大学や研究機関ではつかめないものを求めて、生の開発現場と接する機会に、日本の技術の今日から明日の姿をほのかにでも見通そうと試みた。そうした意味からも純粋の地場企業だけでなく、京都に独自の開発拠点を置く全国規模の大企業も対象に含めており、取り上げた商品群は大型家電のトレンドを決めた大画面テレビもあれば、形状記憶合金を使ったブラジャー、完熟物に青果市場を変えた桃太郎トマト、紙おむつの隠れた主役・高吸水性樹脂、個人ユースを開拓した低価格ファクシミリなど、驚くほど多彩である。
ここには、もうひとつ実験的な試みが含まれている。連載二十五回分と関連記事に加えて、連載内容についてパソコン通信を通じた読者とのやり取りが追加されている。わたしは最近、一方的な情報の提供に終わりがちな新聞の役割を見直して、新聞紙面と読者の間で双方向性の交流をしたいと願っており、今回の企画でそれを試みた。大手の商業パソコン通信ネット「ニフティー・サーブ」に月額五百円で借りられる自分用の小さな会議室を構え、ネット内にある「ビジネスマン・フォーラム」などの皆さんの協力も得て、呼び掛けに応じた全国の読者百数十人に連載記事を提供し、質問や感想を受け、追加説明をすることになった。
技術の話、経済や経営についてから、ときには日米摩擦、商品がかかわる生活や趣味の話題まで、この交流のおかげで普通なら記事にし切れないエピソードを数多く盛り込め、わたしなりの視点も入っている。商品開発から見た技術史、経済・産業史、あるいは高度成長期以降の生活史の一面も描く膨らみがもてた。なお、パソコン通信の原文をそのまま使うと冗長になるので、読者からの発言は少数を選択して要約、追加説明とともに各回の後半に「パソコン通信でのコメント」としてまとめた。新聞記事が「である・だ調」なのに、パソコン通信は「です・ます調」が普通で、文体の統一を欠くことになったが、パソコン通信のアットホームな雰囲気を感じていただこうと、敢えてそのままとした。
時には企業秘密に触れる部分にまでも、快く取材に応じていただいた二十五社の皆さんとともに、パソコン通信を通じて励まし、取材へのインスピレーションをかき立てていただいた方々にも改めて心から感謝したい。
微量でも、固形物でも測れるカード型pH計/堀場製作所
《《うちのヒット商品》》第1回・1989.10.20
米・ピッツバーグで毎年、世界最大の分析理化学機器フェアが開かれる。酸・アルカリ度を測るpH(ペーハー)計の国内トップメーカー堀場製作所から一九八六年三月、デザインセンターの河内英司課長(40)が、そこに初めて派遣された。米国メーカーが出品した百ドルのペン型を見た。「うちには数倍も高い製品しかない」。瞬間にトップの自信がぐらついた。リトマス紙で測る酸性、アルカリ性は目安程度にしかならない。pH7の中性からpH値が減れば酸性、増えればアルカリ性で、細かな測定は化学技術の大切な基礎だ。pH計の中で精度が高いガラス電極式は戦後、同社の堀場雅夫会長(65)が国内で初めて開発、会社の礎にした。形の大小はあっても、ガラス棒電極を溶液に浸けて生じるわずかな電圧を測る方式は変わっていない。
素肌の酸性度まで測れた
帰国後、河内課長は会長に会って危機感を訴えた。そこで意外な話を聞かされた。開発本部がガラス棒を厚さ一ミリ以下の小さなガラス円板に変え、pH計の心臓部にあたるセンサー部分を安価な平面形にしたのだ。
問題はどんな商品にするか。開発本部から当時の副本部長、小谷晴夫さん(53)=退職=と冨田勝彦課長(45)の開発担当者コンビが加わってプロジェクトチームが出来た。専門家向けの機器ばかり作っている同社では、売れる商品でも年間一千五百台。新pH計は値段の安さから、万の規模で売れると見積もられ、会社がこれまで経験しない商品になると予想された。
しかし、営業サイドから「そんなに売れたら、高価な在来機種がたまらない」と悲鳴が返って来た。販売側が求める商品でないならデザイン優先で作ってみるしかない。世は挙げてカード商品時代だった。体温計型など五十種のデザインを検討した結果、ポケットに入るカード電卓型に決まった。
九月、試作品が出来た。営業畑から選んだ二十歳代前半の女性五人に、一人一台ずつ「二週間、何でも測ってみて」と試作品が渡された。
まとまった量の液体がないと測れぬガラス棒pH計と違い、新製品は液体なら数滴センサー部に垂らせばいい。純水を含ませた小さな布切れで肌をふいてセンサー部に置くだけで肌のpHを測る芸当さえできる。朝昼晩、自分はもちろん家族の肌まで測ったし、化粧品や食品、薬などに手を伸ばした。
「男は女よりも酸性なんですね。化粧品の中には、塩酸に近いほど酸性のものがあって驚きました。肌のpH値に化粧品を合わせた方がいいみたい」と河内課長の下にいる石田揚子さん。雨の降り始めで測定が必要な酸性雨も簡単に調べられた。社員ですら使うのが難しい機器ばかりの商品構成に、初めて風穴が開いた。
「今世紀最後」とライバルが絶賛
小谷さんは会社が出来て間もなく入社、十年間はpH計一筋に送った。小型軽量化は技術者として夢だが、当時は果たせそうになかった。ほかの技術分野に移っても忘れられず、全く発想を変えて半導体技術を使い、高価なものになってよければ実現できるところまで進めていた。
忘れられないのは堀場会長も同じだった。半導体で可能と分かっても、市場で売りやすいガラス電極式をと指示し続けた。焦点のガラス薄板作りに半導体製造技術が応用できると知り、八四年に開発ゴーを決めた。
そのとき、構造上の難関はいくつも残っていた。化学屋の冨田課長は「皆さん、技術者としての青春時代にやり残しがあって、あれも、これもと要求される。それを全部入れてカード型にまとめたんです」と言う。
八七年三月、一年ぶりのピッツバーグでのフェアに、河内課長らはぎりぎりで仕上がった量産試作品二十台を手荷物に詰めて持ち込んだ。展示の飾り付けをしている最中に、早くも競合メーカーがのぞきにやって来た。フェア初日は黒山の人だかり。米国メーカーのトップは、居合わせた堀場会長に「今世紀最後のpH計」と、物まねでない独創性に惜しみない称賛を贈った。
国内ではその九月、一万九千八百円で売り出した。三年間で三万台売れれば生産ラインの新設などが引き合うのに、三万台は一年で達成、最初の二年で五万五千台を売った。
高温・強酸など厳しい条件で使える在来機種の売れ行きには響かなかった。印刷インクの載りが悪い紙は、酸性度を測ってチェックできる――といった新しい使い方で買われたからだ。
これまでの会社は、赤外線を使った独特の分析技術を生かして自動車排気ガス測定機の分野で世界シェア八割を押える業務機メーカーだった。小さなカード型商品は、健康管理で関心が高まっている塩分計などシリーズを生み出し、大衆の生活の中に浸透する気配がある。
《会社》一九五三年設立。八八年度の年間売上百七十九億円は、自動車の排気ガス計測機器四三%、pH計などの科学計測機器二四%、さらに生命科学関係や電子情報機器で構成。本社・京都市南区。資本金二十五億三千万円。従業員八百七十九人。米国と欧州の子会社はそれぞれ約四十億円の売上規模。
《パソコン通信でのコメント》
排ガス測定でのトップ企業
堀場製作所は、pH計をルーツにしてはいますが、現在では自動車排気ガス測定で圧倒的な世界シェアを持つ企業です。その装置は単価が億円のオーダーにもなり、商品構成では一般理科学機器よりこちらが主力です。
排気ガス問題が深刻化した際に、ではどうしてガス成分を測定したらよいかが問題になり、同社が赤外線で二酸化炭素を測る技術を工業用に開発していたのに目が付けられたといいます。規制する側の米国政府が同社のシステムを採用して測定するのですから、自動車メーカー側にしてみたら事前に同じシステムで測定しておきたいのが人情です。そのため、排気ガス規制が世界化すると、自動的に堀場のシステムが世界制覇してしまう結果になりました。
排気ガス規制では早く手を打った日本の自動車各社が触媒などを使う一方で、一酸化炭素や窒素酸化物が出てきにくくさせようと完全燃焼させる技術開発を進め、結果的に燃費の向上を果たしてしまいます。それが石油ショックによるガソリン高騰の時勢にうまく合致して、国産車が米国でも売れたのでした。米国のビッグスリーは排気ガスと燃費への技術開発でまだまだ遅れを引きずり続けているようです。流れが変わることの面白さ、怖さでしょうか。
大衆商品へ模索の道
読者の皆さんから・・・「分析器械で実績がある企業が新製品開発の努力を続けていることに、企業の力を感じました」「開発の過程の、正当な手順または真正直な態度といえるものに感銘を受けました」「堀場製作所は有名ですが、わたしもガラス電極のpH計しか知らず、いままで不便だなと思っていました」
いただいた感想の通り、外部からはうかがい知れぬ努力が企業内でずっと続いたことに取材した当時も驚きました。さらに他社の商品開発例と比べて相当な粘り強さ、こだわりぶりと改めて感じます。それは手順の正当さなんてものだけでなく、結構どろどろした人間的なものも含んでいました。主な取材対象だけで四人になるのに、それぞれの方が「自分こそが開発したんだ」と思っていらっしゃる風に見えました。だから、どういう具合に事実の流れを見るのが一番妥当なのか悩み、ストーリーがいくつも出来そうになって、あわてました。連載第一回だったので、一週間だけ企画スタートを遅らせ、さらに詰めたほどです。結果として、いろいろなテーマが伏線として語られてから、ヤマ場に向かう書き方になったと思います。
堀場の製品販売は現在でもプロ向けルートで、一般消費者を対象にした販売形態になっておらず、このpH計を契機に通信販売を本社で始めたくらい。理科学測定の専門家の方にもあまり知られていないようです。もちろん、一般家庭にもまだまだです。
このほかにも「肌のpH値に化粧品を合わせた方がという話を読んで興味を抱きました。化粧品で肌を痛める原因がpH値だけだとは思えないにしても重要という気がします。酸性雨の測定は個々の測定点の精度の問題のほかに、測定点の量的拡大による統計処理が重要なので、その方面からも期待できると思います。塩分計としての方が家庭用としては本命かもしれませんが」との感想も寄せられましたが、酸性雨問題が注目されてきたことがこの商品の追い風のひとつになっていることも間違いないようです。高血圧が心配な人は、食卓でみそ汁の一滴をカード型塩分計に落とし、塩分量を自分で確かめてから飲むことができるのです。そんなハイテク食卓の好き嫌いはあるでしょうが・・・。
また、経済面の「情報ファイル」欄に書いた通り、このシリーズが発展したイオン計が三種発売されました。メロンの甘さが茎に含まれるカリウムイオン濃度から推定できることを利用して、ハウス農家が施肥量を現場で調整できるとか、ちょっと楽しい使い方をするそうです。土や作物の栄養状態を畑で測って調節する農業なんて、夢物語みたいな感じです。
抗菌防臭効果まで持つ静電気防止繊維/日本蚕毛染色
《《うちのヒット商品》》第2回・1989.10.27
冬の乾燥期がやって来ると、自動車や建物のドアに手を触れた瞬間、ビリッと走る電気に不愉快な思いをする。体にたまった数千、数万ボルトに達する静電気の仕業だ。このビリッが石油タンクで起きると引火、爆発を引き起こす。この厄介な静電気を鎮める繊維を京都市南部、酒造会社が並ぶ伏見の町工場が作り出した。大手が挑戦しては挫折し続けていた難関は、意外な糸口からほどけた。繊維のままか、糸の状態、つまり織物にする前に染めるのを先染めと呼ぶ。この分野の技術で、日本蚕毛染色は国内で一番と自負する。友禅以来の染めの名人芸を、徹底したデータの集積に置き換えた先駆者であり、戦後、新しい合成繊維が生まれると、大手繊維メーカーは最適な染色法を求めてこの会社に持ち込んだという。
失敗した反応が解読された
一九七七年、石油ショック後の不景気で受注は二、三割以上落ち込んだ。おまけに、染色機で使う液を数分の一に減らせる省エネ技術を開発し、新工場を建てたばかり。長兄の死去で社長に就任して間もない、技術屋の冨部信二さん(54)は、染色試験室の隣にベテラン技術者ばかり八人を集め、新事業の開発室を設けた。大手の下請け専業から脱皮したかった。
ファッション商品、小物といろいろ挙がった。冨部社長が思い付いたアイデアが静電気防止繊維。当時の静電気対策用に、クラレから委託でビニロン繊維にニッケルをメッキしていた。導電性の金属や炭素と繊維を複合すれば静電気を逃がせるので、各社が試みていた。こんな手間をかけないで染色技術で作れないか。
ひとつ手掛かりがあった。六〇年前後、染めにくいアクリル繊維を銅イオンを仲立ちに染色していた。「銅が繊維に付く面白い現象」と文献に記されていたのを覚えていた。この繊維に電気を逃がす作用は無いが、銅さえ付着すれば工夫できそうだ。
半年は失敗の連続だった。どう調合しても、反応温度をぎりぎりに下げても化学反応が急激に起きて、銅が十分にアクリル繊維に付く前に液中に出てしまう。連日午前二時ごろまで、冨部社長や技術者たちの議論が続いた。
「そんなことが社長の仕事ではないぞ」。当時、会長をしていた伯父から、取締役会で叱られたことも一度でなかった。
七八年のある日、冨部社長は開発室のそばにある広さ三平方メートルの専用実験室に入った。一週間ぶりに、いつもの薬品をビーカーに入れた。いつもなら瞬間的に反応し、真黒くなるはずが、そのままだった。じっと十数分見つめると、白い繊維にぽつぽつと黒い斑点が現れた。還元剤が入った瓶のふたを閉め忘れたために、変質していた。開発室長の五味淵礼三さん(59)=現技術部長=が起きた反応を解読、突破口が開けた。
「マジック」と信用されず
分析したら、アクリル繊維は硫化銅を含む極めて薄い膜で染まっていた。試行錯誤の末、安定した導電性繊維の量産は八〇年になって始まった。さて、出来た繊維を何の商品にして、どう売るか。これまでは大手から染色を受注するだけだった社内に、販売の経験者はいない。開発技術陣から南忠男さん(56)が販売部長に起用された。まずスカートの裾のまとわり防止テープを作ったが、繊維製品の展示会に出しても反響は無かった。
この年、南さんは東京で工業紙が主催した静電気講習会に出席した。村崎憲雄・東京農工大教授(66)=現・帝京大教授、日本静電気学会長=は、人体の静電気がいかに逃しにくいものか、自ら実験した。「うちの作った靴下をはいてもらえれば静電気が逃げます」。南さんが差し出した靴下で確かに効果があった。
驚いた村崎教授が講習会後に靴下を取り寄せて再実験すると、効果が出ない。それから半年かけて追究した結果、静電気を逃すには繊維が短く切れて外に突き出していなければならないと分かった。最初の靴下には、たまたま一部ほつれがあったのだ。
染色で静電気防止繊維が出来るのではないかというのは、三十年前の村崎教授のアイデアでもあった。共同研究していた大阪の染色会社が倒産、夢がついえていた。それが実現して「出来っこないと学界で否定された悔しさが晴れました」と喜んだ。
教授の指導で、石油施設の安全製品など製品化が軌道に乗り始めた。大手商社を通じたカーペット混入も進んでいる。コンピューターは静電気による雑音に弱く、設置する部屋のカーペットとして強みを評価された。同じく静電気に弱い集積回路の包装にも欠かせなくなった。除電を目の前で実演して見せても「マジックだ」と相手にしなかった米国から、商談が寄せられ始めた。製品は数十種にのぼる。
銅が持つ殺菌作用は、悪臭になりやすい靴下ばかりか老人用のおむつに使っても、雑菌が生む臭いを消す。寝間着やシーツに混ぜれば寝たきりの病人が起こしやすい床ずれを予防するにも有効だ、と最近分かった。生産量は年間三十トン足らずだが、商品開発に経験が無い町工場が生んだ発明のため、応用面での潜在能力はまだまだ試し尽くされていない。
《会社》一九三八年設立。絹繊維を擬毛加工した蚕毛(さんもう)糸の生産で伸び、合成繊維の染色に重点を移して五六年に現社名に。年間売上高は染色部門を主体に三十三億円。静電気防止繊維「サンダーロン」はその三分の一を占める。本社・京都市伏見区舞台町。資本金八千万円。従業員百八十人。
《パソコン通信でのコメント》
不思議な放電の仕組み
京都では西陣、友禅といった染織関係の伝統技術を現代のハイテクに応用するケースが、かなりあるよう。その中でも、静電気防止繊維化はちょっと変わっています。単純な適用ではなく、独創性があるアイデアです。取材の際に、登場人物の村崎教授と電話でお話していて「日本蚕毛染色は町工場ですから」と再三指摘されたのが印象に残ります。
開発スタッフが製造現場を若手に取られ、中二階に上げられてしまったようなベテランばかり。実質的に指揮をした社長自身が、その仲間の世代というのも、表面的な派手さはありませんが、わたしには興味深かった。
静電気の科学は難しくて説明しきれませんが、この静電気防止繊維サンダーロンは静電気を空気中に逃してしまうのが特徴です。静電気を帯びた物に近付けると、瞬間的に誘導されて周囲の空気に強い電界ができ、空気が電離、コロナ放電してしまいます。火花放電でないために安全とされています。直径五十分の一ミリ以下の細い繊維に、一万分の一ミリ以下の極めて薄い導電膜が化学的に結合しているので先端が非常に尖った避雷針のように効くそうです。村崎教授によると、断面での導電膜の面積が小さいこの繊維の性能は、従来からあるメッキ繊維や炭素などに比べて桁が二つ三つ違うくらい画期的らしい。避雷針は先がとがっているほど高性能なのと、同じ理屈です。
この繊維は、はっきり混入が明示されいていない製品(高級乗用車のシート布地など)にも、相当入っています。ウールマーク表示が許される〇・三%までの混入でもかなりの効果があり、その繊維本来の性質を失わせない唯一の存在と言われています。もちろん、日米欧の特許を押さえています。
技術屋のトップ
読者の皆さんからの反応は「京都近辺には小粒でピリリって会社が多いとか聞いたことがあります。コロンブスの卵ってのは不滅ですね」というのが代表的なものでした。最初の堀場製作所に比べて、一挙にマイナーな町工場に行ってしまったので、イメージが狂った方がいるのでは、と心配してましたが、そんなことはなかったようです。
わたし個人は、床ずれ防止に注目しています。科学部の医学担当をしていたころの取材で、高齢化社会を迎えて寝たきりになった病人に床ずれができる悲惨さを痛切に感じていました。床ずれができると治りにくいし、苦痛が長期に及ぶばかりでなく細菌感染して死に至ることさえあります。防止の原理は銅の殺菌作用と、導電性による電位療法的な血行の改善の相乗効果でしょう。信州大などで研究中です。別の方法ですが、京都には布団に導電性を持たせた健康布団という商品を開発した寝具メーカーがあります。
「技術屋がトップにいるか、トップが技術に理解があることの重要性をまざまざと見せられたように思います。トップが生産現場や研究開発分野の近くにいられる中小企業の方が、小回りが利くのでしょう。大企業も事業部制のような独立採算システムを取り入れ、小集団でのメリットを得ようとしていますが、まだまだ」との感想に、わたしも賛成です。比較的小さい企業で、トップがものにしたいとの意欲を持ったら出来るとの思いを強くしました。
堀場製作所と日本蚕毛染色を取材した印象では、商品開発はかなり奥が深く、何が来るか分からない感じです。どんどん開発の経緯を詰めて行くと、意外にも開発の当事者間でも分かっていないことが飛び出します。インタビューに同席していた当事者が「ああ、あれは、そういう訳だったのか」と言われたりします。その当時は成功した事実に目が行っているので、なぜそういうふうに出来たのかまで考えている余裕が少ないんでしょう。また、開発の皆さんそれぞれに「サムライ」だから他人のことにまでは首を突っ込まない、あるいは突っ込ませないのかもしれません。
超成熟のテレビ市場を一変させた37形テレビ/三菱電機京都
《《うちのヒット商品》》第3回・1989.11.3
テレビは一軒に二台以上普及し、最近まで安価な製品が買い替えの中心になる超成熟商品だった。ところが売れ方が一変、一九八八年の国内市場では、かつては珍しかった二十五形以上が半数に迫った。大型ブームの火付け役は、三十七形ブラウン管を開発した三菱電機京都製作所。現在も生産を独占し世界中のメーカーに一社で供給する。八五年三月開幕の「つくば科学博」は映像の博覧会とも言われた。NHKが四十形ハイビジョン(高品位テレビ)の展示を企画、三菱電機を含む三社が競作して提供した。
科学博の盛況ぶりがニュースに流れたころ、三菱電機の本社と京都製作所の間で百億円を投じるブラウン管生産ライン新設が決まった。横長の四十形を普通のテレビ形状にした三十七形。業界の常識とされた「三十形以上は量産不可能」を無視して、年に十万本生産する。
当時も大型テレビはあったが、小さな画面をスライドのような仕組みで投影、拡大する方式しかなく、鮮明度が違った。「もし売れなかったら、投影方式大型テレビ十万台の米国輸出に振り替えたらいい」。ブラウン管を作る管球工場長の能勢哲也・副所長(58)=現・三田製作所長=は腹を決めた。同業他社には無い、輸出の逃げ道がある。もともと、斜めからは見づらい投影方式の欠点克服が、大型ブラウン管開発の出発点だった。
米社失敗の試作ガラスに日の目
八三年初にハイビジョン管に着手した。売り物でないから何本か作れば済む。しかし、画面の対角線で一メートルと大きく、重い。人間の手仕事で済まない。ロボットが要る。試作ラインは広さ六百平方メートルのミニ工場になり、投資数億円にのぼった。
八四年六月、ハイビジョン管は完成した。能勢さんが「設備を生かし家庭用の大型を作ってみたい」と言い出し、清水義樹・管球工場次長(54)=現・参与=が応じた。「ブラウン管用ガラスさえ用意してもらえたら」と。
ブラウン管は前面の平たい部分とじょうご形の背後部分を、ガラス専門メーカーが別々に作る。電機メーカーは赤、緑、青の蛍光体を塗り、電子銃を取り付け、蛍光体に当たる電子線の流れを色別に整えるシャドウマスクと調整して一体に仕上げる。
本体がガラス製なのに百分の一ミリの組み立て精度が要る。単に大きくしただけなら色ずれで画面は荒れる。真空だから十トン以上の圧力がかかる。米・RCA社がかつて三十五形に挑戦してあきらめた。そのとき滋賀の専門メーカーに特注されたガラスが、倉庫に眠っていた。事情を薄々知っていた能勢さんが持ち掛けると、専門メーカー側は「使ってみて下さい」と積極的だった。
「とにかく画面にして見せろ」と号令が掛かった。白黒テレビにしたら色ずれなどの精度は問題ない。八月、鉄枠に取り付けた裸のブラウン管にテレビ放送が映った。
ハイビジョンは四十形ながら、家庭で使っている普通のVTRの映像と互換性が無いから、工場ではテストパターンしか映していない。白黒でも三十五形の動く映像は、はるかに印象鮮烈だった。浜田孝テレビ技術部マネジャー(49)=現・同部次長=は「アップでない、何気ない場面で等身大の人間が動いて見えるんです。迫力が違いました」と思い起こす。
カラー化が決まった。角が丸い三十五形から四角い三十七形へ。「早くカラーで見てみたい」と、岩崎安男・管球技術部マネジャー(43)=現・開発部=をまとめ役に、三十人の開発陣は深夜まで残業の日々。十一月には、普通の製品に比べ、三倍以上のスピードで試作品が出来た。
予想外の買い手多数
八五年明け、能勢さんらが米・ラスベガスのトレードショーに試作機とともに飛んだ。一般公開せず、ホテルの一室で販売業者だけに見せると「いつ売り出すか」「値段は」。米国側の熱っぽさに手ごたえがあった。
重さ百キロ、百万円近いテレビが国内で売れるか。皿池良治・営業部商品企画課長(48)に市場調査が命じられた。デパート、雑誌社など回り歩く。「高額商品を買う高収入層等で、年に四万五千台程度の需要がありそう」との結論が出た。
七月、試作ラインを生産に使って月産二百本で先行生産がスタート。テレビの宣伝は当分、三十七形に集中すると決まった。当初冷たかった国内の販売部門も、幅七十二センチ、縦五十四センチ、新聞見開き大に近い大画面に魅せられてきた。半年間の生産分を全部売ったより多額の宣伝費が用意された。
十月、七十九万八千円で発売した。画質のきめ細かさは従来と変わらなかった。三十七形を店頭に置き、従来最大の二十八形と比べ二倍近い面積を持つ大画面の迫力を比べてもらおうと作戦を立てた。しかし、思惑と違って、並ぶより先に売れて行った。販売網間の奪い合い調整に手を焼くほど。
展示会に来たお年寄りが「これが欲しい」と現金を渡して引き取った。買い手は事前の市場調査で予想できなかった層に多かった。うれしい誤算である。定年退職後のお年寄りに圧倒的にうけた。若い層には家族全員でより、個人用として飛ぶように売れた。テレビの需要全体を大型に引っ張った。
現在は年間二十万本を生産。十万をブラウン管のまま米国に、五万を自社製テレビに組み、五万を国内他社に売る。
国内で四十形以上のテレビが発売されたことはあるが、生産台数はわずか。欧米勢の三十七形生産は二年後とのうわさがあるだけ。量産された最大テレビとして、独走が続く。次のハイビジョンでも優位を狙う。
《会社》一九六二年、テレビ部品工場として発足。ブラウン管とカラーテレビを生産。投影方式テレビ、家庭用VTR、ビデオカメラへへと拡大。工場出荷額は二千八百億円で、全社売上高の一割を超す。長野市にもつ分工場と合わせて従業員四千人。投下資本二百七十六億円。京都府長岡京市馬場図所。
《パソコン通信でのコメント》
市場調査と商品企画の勘
三菱電機京都製作所は単独の事業部に属していません。本社にある三つの、つまり、商品、デバイス、海外の各事業部の下にあります。要するにテレビやビデオを国内に売るし、ブラウン管などは他社が使うデバイスとして出し、海外への輸出も大きいという訳です。こんな複雑な商売をしているので、所長さんは猛烈に忙しくて、頭がいるそうです。しかし、組織として本社側が引っ張っているでなくて、具体的な開発は製作所主導で出来ます。本社の機能は戦略的な方針決定、投資の配分です。
読者の皆さんからは、事前の市場調査が外れたことについて、いろいろな意見をいただきました。むしろ、一致しないのが、商品開発の面白さかもしれません。皿池課長も冗談のように「数字は必要だから調べさせるけど、ぼくも信じないことにしている」なんて言われてました。勘の方を重視するようでしたね。
そう言えば、ソニーの大ヒット作ウォークマンですらマーケティングではとても製品にならなかったものでしょう。それに、商品が出来る前の調査は、当たり前ですが新商品を大衆に見せていない状態です。わたし流に言えば「第0次予測」です。そして、新商品を公開して第1次予測、ぱっと当たったと知れ渡って消費者の行動が変わって第2次予測・・・と続く感じでしょうか。メーカーにとって本当に欲しいのは、第何次かの予測で出て来る安定した需要でしょう。
37形テレビの場合は、試作ラインによる当初原価からみると百万円を超しそうなのに七十九万円の値を付け、量産に入って五十万円に下げ、現在四十万円で売っています。発売時の日本の家庭のありようからは、やはり高価な商品です。
皿池課長らはこれを買うことが出来る所得層をまず探した訳です。医者とか弁護士とか、あるいは個人で買わなくても、病院、会社や個人企業が「節税」目的などで買うとか、喫茶店などが従業員の定着を良くしようと店に魅力を持たせる目的で買うとかをリストアップして、四十五万台くらいの需要が見込め、十年間で一巡するとして年間四万五千台とはじきました。
あの時点の「第0次予測」は、こうした所得によるものしか考えにくかったのです。ただ、見落としたとしたら、日本人のテレビ生活が最近の歌番組の衰退に象徴されるように、画一的なものから個々人的なものになる兆しがあったようには思えます。あの大きな画面を六畳の個室で見たりするんです。
皿池さんが「勘」と称しているものの中には、そうした文明観、生活感覚の変動があるようでした。
技術の良循環
40形ハイビジョンを手掛けたほかの二社、松下電器と東芝にも三菱と同じチャンスがあったと思います。あのブラウン管なら、同じような試作ラインなしには無理でしょうからチャンスは同等です。それで三菱が踏み切れたのは、輸出への逃げ道が確保されていたからでしょう。
ここで、では米国勢はなぜ失敗したのかと考えてしまいます。「RCA社のマーケット調査でも年間四万台程度の需要が見込まれていた」と、皿池課長から教えてもらいました。製品化しなかったのは、推測ですが技術の難点と投資効果の問題がダブッていたのではないかと考えています。
あれがどれくらい技術的に難しいのか尋ねたら「電子線がシャドウマスクの思った所を通るのが、自分でも不思議なくらい」と技術陣が答えてくれました。シャドウマスクのところで精度〇・一ミリは是非ほしいそうです。いろいろな部品を組んでから、画面部分とじょうご部分の高融点ガラスを融点四百度のガラスでつないでブラウン管にします。六十キロのガラス体を厚さ一センチくらいでつなぎ成型しながら、その精度を保証するノウハウはかなり大変と見ました。窓越しに見た現場はなにげなくやってましたが・・・。
技術の世界には、一度壁を乗り越えてしまうと「良循環」が起きることがあります。三菱の場合にそれです。大画面に小画面用の電子線を送ると密度が下がります。つまり暗くなります。大画面化のためにもっと多量な電子線を取り出す材料開発に成功、結果として充分すぎる電子線を得ます。量が余ると、電子線の束をしぼり込んで、焦点をぴたりと合わせる余裕を生じました。それが高画質という評価を一層高めたのです。つまり、明るく、かつ、くっきりに。堀場の排ガス規制のことを思い出しますね。
日本企業と米国企業
「五年も前に百億円もの投資を決定した、経営者もしくは技術開発管理者の意志決定過程に大変興味を持ちます」と、記事でもの足りない部分にご注文をいただきました。
この部分は、実はオフレコで聞いた話が絡んでいます。それを避けながら説明しますと、37形ブラウン管工場に相当する別の投資計画があったが、そちらの見通しが必ずしも良好でなかった――これもラッキーなんでしょうね。そして、少なくとも京都製作所の上層部は投資決定した段階では、国内でこれほど売れるとは考えてもいなかったとして、良いようです。
日本の企業がかくも果敢な投資が出来るのは、経営者に設備投資についてフリーハンドが与えられているからでしょう。短期的な投資の回収が出来なくても打って出ることができます。米国はかなり難しいよう。最近「日本企業の設備投資はやりすぎだ」と思ってもみないクレームが、日米摩擦関連で米国から出されました。米国では、株主から決算期ごとに厳しく利益確保を要求されます。短期に利益を挙げて行かないと、トップは株主から首を切られます。では「株主は神様」というのもウソでして、非常に多くの株式が投資管理業者に委託されていて、投資管理業者はよそに比べて十分な運用利益を出さないと、すぐに乗り換えられてしまいます。こうした株式は個人が持っているのではなくて、企業年金などの原資として存在していて「ひたすら利益を」というお金の持つ純粋な性質を発揮しているだけなので、何人も手が付けられない−−いやはや。
最近、東芝などがハイビジョン用のブラウン管ライン設置を発表しました。当面は月産数百本で動かすそうです。米国も欧州も日本と違う方式になりそうですが、どの方式でも国内メーカーが生産の主力になるでしょう。普及に至る価格面のブレークスルーも、きっと国内メーカーが達成すると思えます。
連載のきっかけ
ところで、この連載企画が出来るのではないかと思いつくきっかけになっている記事を次に紹介します。八七年末に大阪本社の紙面に「高画質ビデオ」の一ページ特集が載りました。わたしが担当したもので、一部として入れた三菱電機のVTRデッキ開発ルポの取材を通して、商品開発の現場取材という企画が膨らんでいったのです。だから、ここに紹介する記事は習作に当たります。
《他社より半年早く、進んだ機能を》
〜S−VHSとEDベータ登場の年に
「画質だけはよそに負けてはならん」。三菱電機京都製作所の皿池良治・商品企画課長(47)は、ビデオ技術部の三橋康夫マネジャー(44)に念を押した。S−VHSの規格が決まった八七年二月初めのことである。商品の企画から発売まで、普通は一年かかる。だが、S−VHSの一号機は四月末発売と決まった。「短期決戦で、事前に準備をしているS−VHS規格の開発メーカー、ビクターに勝てるかどうか」。その不安をみんなが胸に飲み込んだ。
同社のビデオ部門は十年の歴史しかない。主力になる技術陣はほとんど二十歳代。ふだんも遅くまで残業が続くビデオ技術部は、未明まで試作に明け暮れた。
新方式は情報量を増やした結果、雑音成分もそれだけ増える。それを従来以下まで引き下げねばならない。回路をいじって画像のくっきり感など微妙な味付けをする。いずれも簡単にはいかない。 理由があった。磁気テープもテープメーカー四社が並行して開発していた。どんどん届く試作テープの性能がばらばらなのだ。
一号機は何とか五月に発売、本格生産にこぎつけた。一号機を生産しながら、主力技術陣はなお納得せず、微調整に掛かり切りだった。しかし、秋に発売する新製品の開発に全力を傾ける時期にきていた。三橋さんは非常手段に出た。入社一、二年の新人組に一号機のノウハウを勉強させ、秋の設計を始めさせたのだ。「二号機では、絶対にナンバーワンに」と、皿池さんからの要求はトーンが上がった。
ビデオはいま最も競争が激しい商品の一つだ。春、秋と年に二回新製品が出て、高機能化して行くのに値段が下がる。五〇%の家庭に普及したのに、専門家の予想を超えて売れ行きが伸び続ける。この秋、同社の従来型の最上級機を買った消費者の六割は、この二年以内に別のビデオを買った買い替え、買い足し組だ。趣味商品だからこそ「ああ、欲しい」と思わせる魅力があれば高価でも売れる。
「他社より半年早く、一歩進んだ質、機能を付ければヒットできる」。そう考える皿池さんは技術者にアイデアをため込ませない。先々の新製品にと考えられていた高音質化技術を聞き出し、四十日後発売の新製品にねじ込んだことさえある。
今年は高価な大型テレビも大ブームだった。日本の消費者だけが高画質の世界に突き進んでいるように見える。メーカー側が三年前に始めた高画質化競争が火をつけたかたちだ。人気がある超高画質ビデオは、一台二、三十万円もするのに店頭には姿さえ見せない。いま消費者の熱気にあおられて、メーカーの側が異様に燃え続けている。
カラー印刷の世界を飛躍させた直接製版機/大日本スクリーン製造
《《うちのヒット商品》》第4回・1989.11.10
「国内の印刷物は百%、どこかの工程でうちの会社が作った機器を通ります」と、大日本スクリーン製造の広報マンは言い切る。製品は写真製版機器を中心に生産用の機械が主体。消費者の手元に届く物はカラーテレビのブラウン管に収まって見えないシャドウマスク以外には無いのに、家庭との見えないつながりが意外に深い。印刷物の華やかさを演出するカラー図版製作に、石油ショックが起きた一九七三年、大きな飛躍が生まれた。
従来はカラー写真の原画を色フィルターなどを使って撮影し、赤、青、黄、黒の四色に分解、それぞれフィルムを作った。着色部に色がべったり載ったままでは印刷できないから、非常に細かい網目を掛けて再びカメラで撮影する。出来た各色製版フィルムの像は微細な点の集まりになり、金属板などに焼き付けて印刷版にした。
途中でカメラのレンズを通すと画像が劣化する。カメラ追放が業界の夢で、六〇年代、色分解の段階がまず電子化された。このときは外国メーカーが先行、追随して国産化を果たした。
未知の技術なら新人技術者でも同じ
次は製版フィルム作りからのカメラ追放に関心が向いた。しかし、製版フィルムは非常なきめ細かさが要求され、光への感度が極端に低い。原画を細かく走査、色分解しながら、実用になる速さで点を焼き付けられる強い光源は無かった。
七〇年代に入り、世界で三社が実用化され始めたレーザーの強い光でこの難関に挑んだ。その中で製品化のトップを切ったのが、大日本スクリーン製造の直接製版機「ダイレクトスキャナグラフSG−701」。従来よりカラー印刷物の鮮明度を数段上げ、一台五千万円なのに「前金で払うから納入順を早めてくれ」と催促された逸話を残し、印刷業界から引っ張りだこになった。
レーザーに触ったことさえない段階からの出発だった。上田定男・開発本部員(53)=現・第一開発部長=がプロジェクトチームに集めたのは、大卒入社二、三年目の技術者ばかり。「ベテランはそれぞれ仕事に張り付いているし、全く新しいことだから新人もベテランも同じ」と割り切った布陣が敷かれた。
電子工場技術課の前田潔さん(44)=現・彦根機械工場技術課長=は、「勉強に」とウシオ電機播磨工場に送り出された。
当初、在来の放電管などの光で実現を模索した技術陣に、「レーザーを使うしかない」と指摘してくれた研究室長の広井得輔さん(59)=現・レオ技研会長=がいた。阪大とレーザー核融合を研究しながら、実用商品を考えていた人物。会ってみると阪大の先輩後輩。意気投合、一気に進みかけたが、レーザー光を当てるだけでなく、光の量を自在に調節する至難な技術が必要と分かった。
針のような細い結晶に光を通し、電圧を掛けて通り方を変える。ガラスに超音波を当てて光の屈折率を変える。現在もハイテクで通る技術を飲み下し、わずか二年の開発期間で製品化してしまう。ところが難しいのはレーザーばかりでなかった。
生産中止の淵からよみがえる
二十分の一ミリほどの間隔で点を作って行くから、機械が千分の数ミリでも狂うと写真全体に雨が降ったように乱れる。悪いことに、レーザーからの発熱が狂いを呼ぶ。この悪条件下で精密機械を作る技術が備わっていなかった。
発売しても安定した製品が出来ない。折あしく、石油ショックで会社は初の赤字を計上した。生産を手づくりで維持しながら、山崎威・電子工場生産課長(51)=現・彦根機械工場長=の下で、原因を究明してつぶすプロジェクトが開始された。機械を各部に分割して徹底的に測定した。不具合ぶりを、何とか数字としてつかまえる基本に立ち返った。測定方法を自ら考え出しながらの一年間が、生産中止まで考えた商品をよみがえらせた。以後、内外に五百三十台を出荷、社の業績を立て直した。
八四年には三千七百万円の「SG−608」が登場、現在までに千八百台を超す空前のヒットになった。開発チームが最初の苦労を糧に、性能安定と使いやすさを追求した結果だった。
外国メーカーと並び、さらに一歩前に出て、技術開発の先頭に立つ役割が回って来た。印刷したカラー図版は原画の写真に比べれば百分の一しか表現の幅がなく、操作する側が経験と勘を生かし製版段階の巧妙な色調整で補う。その絵作りの秘密を分析して「めりはり感」「立体感」などを自在に演出できる人工知能を製版機に組み込めないか――上田さんたちの開発は次に向かっている。
《会社》一八八六年(明治初年)に創業の石版美術印刷業がルーツで、三四年に写真製版用ガラススクリーンの国産化に成功、四三年に会社設立。写真印刷業界向け六割、電子工業界向け三割、業務用複写機など一割と製品群は多様。資本金百八十九億円。売上高千百二十六億円。従業員二千六百四十人。本社・京都市上京区。
《パソコン通信でのコメント》
よくぞレーザーを
率直に言って、レーザーを全く知らなくて、よくレーザーを使いこなした製版機を開発したものと思いました。家庭にコンパクトディスク・プレーヤーが当たり前の顔をして座っている現在ではなく、二十年くらい昔のことです。
競争相手のヘル社(西ドイツ)には、大手電機メーカーのシーメンスという後ろ盾があっり、アイデアそのものは進んだものを出してます。大日本スクリーン製造の場合、独立独歩だった中で、ウシオ電機の広井さん(最近までレーザー学会の常務理事をされていました)に出会えたのが幸運だったのでしょう。広井さんが「レーザーしかないよ」と助言した場面は、大日本スクリーンの担当者が「従来の光源高度化でなんとか」と相談に来ていた席に、たまたまぶつかったので、のぞいてみてアドバイスしただけだそうです。ちょうど、広井さん自身が商売っ気よりも、レーザーを世の中の役に立つ商品として、何とか使ってみたい気持ちになっていた時期でした。
開発チームに大卒二、三年目の技術者しか投入できなかったのも、やむなくという感じだったようです。「それでも、当時はむちゃくちゃ馬力があった」と前田さんは回顧していらっしゃいました。生産がうまく行かなくなってから、前田さんたち設計チームも全員が生産現場に投入されて、不具合の究明に向かいました。調整のための測定はもちろん、生産も、顧客への据え付けも全部やってみて、安定した製品にするためにはいずりまわった・・・。
熱くなれる時代だったのでしょう。
直接製版機は電子的な画像処理の要
「開発までに数々の困難を乗り越えて行く、日本の技術力を現場で支える人達の姿を頼もしく感じました」――いただいた感想は、本当にそうだと思います。この連載の取材候補に挙げている企業リストの中には、地味だけれど、そんなところがいくつもあります。はた目には地味だけれど、本人たちは熱狂的に仕事をされています。
直接製版機はコンピューターによる電子的な修正装置の入出力機としても使われます。十余年前、大学を卒業する直前に研究室から凸版印刷の工場に見学に行きました。カレンダーの女優さんの顔から産毛を全部消す、と聞いてびっくりしたものですが、現在の修正は、当時に比べてとてつもなく進んでいます。自動車を「く」の字に曲げたりなんてことも簡単にやります。今年の大日本スクリーンのカレンダーは、そうした合成技術を生かした鮮やかな動物もので、特にクジャクの細部と表情の合成はファンタスティクでした。
肌の印刷発色は国により
話が変わって、少し色の話をしてみます。取材の中で聞いた話ですが、国によって肌の色の好みにはっきり差があるといいます。例えば「プレイボーイ」誌で、明らかに同時に撮影されたネガが元になっている女性モデルの写真が、日米の雑誌でかなり違うそうです。日本人のモデルさんのネガを、そのままほぼ忠実に発色させると「肌が黄色い」と不評を買うので、手を加えるのが常識だそうです。カラーテレビ、ビデオカメラなどでも「肌の色がきれいだ」とされる機種は実はかなりの色作りがあるように思えます。この間の三菱電機の取材で、最高級機が非常に忠実な色を再現をしているのを見せてもらいました。バラの花の赤はすごかった。肌の色ではどうなるのか、見逃したのが残念です。
機械警備の主役になった遠赤外線警報器/竹中グループ
《《うちのヒット商品》》第5回・1989.11.17
会社や倉庫、店舗、学校などから宿直勤務が次々になくなっている。警備員が居なくても、遠隔地から各種の検知器を駆使して侵入者を監視できる機械警備が普及してきた。対象施設数の全国集計は無いが、東京都五万カ所、京都府なら一万カ所にのぼる。その走りは一九七〇年代初め。警備保障会社の急成長もこのころ始まる。大学卒業後間もなく工業用光検知器を造る竹中電子工業を興した竹中新策・竹中グループ社長(56)は七二年、会社分割を思い立つ。大企業に対抗して新興のベンチャー企業が技術で売って行くには、技術者はいろいろ出来るゼネラリストより、スペシャリストの方が良い。専門会社を作るべきだ。そう考えがまとまると、直ちに四分割した。
ひとつが竹中エンジニアリング工業。工場の生産ラインで流れている製品や部品の有無を検出している赤外線技術を、警備会社が侵入者を検知する技術に転進させたい。その課題が、十人の社員に与えられた。テレビ番組でガードマン物が話題になり「有望な市場になる」と直感があった。
人間とネズミを見分けるには
機械警備の初期はドアや窓に磁石式スイッチを置いて、夜間に侵入者が開けると警報を出す単純な方式だった。侵入手口の巧妙化に合わせて室内にも「目」が欲しくなった。警備会社は超音波や電波を室内に飛ばして、動く物体があれば発見する監視網を張りめぐらすようになる。
発射した赤外線をどこかにおいた検出器で受ければ、遮る物体があると分かる−−この原理はすぐに製品化でき、警備会社との取引に成功した。しかし、赤外線の見えない糸をあちこちに張って置くのでは効率が悪い。採用されても、屋外で警戒ラインを敷くのにしか使われなかった。
七八年、英国の会社が、周囲より体温が高い動物が放出する微弱な遠赤外線を検出する新方式を開発した。既に四十人ほどの会社に成長したころ。直ちに検出素子を輸入、室内侵入者用の遠赤外線警報器「スペース・センサー」国産第一号を生む。
業務用に使う機器はどんな分野でも信頼性が重視され、少々性能が悪くても使い慣れた製品が選ばれる。二百平方メートルの部屋に超音波警報器は七、八個必要で、相互干渉で障害もあった。遠赤外線警報器は小型鏡と組み合わせれば警戒範囲が広く、二個置けばカバーできた。しかし、ネズミのはい回や、微弱な信号を一万倍も増幅したため電気雑音で誤動作する欠点があり、採用されても補助的とされた。
やがて同業他社が追い付いて来た。誤動作は解決できず、八一年ごろ、順調に伸びた社勢が足踏みした。
警戒視野に入った人間と小動物と区別するには、小さい視野を縦、横に四つ目で並べてみたらと、羽根田薫・技術部員(33)=現・新製品開発部課長代理=ら技術陣が思い付いたのが八二年初め。小視野四つの大きさ設定がみそで、人間なら上下四つに引っ掛かるが、ネズミや猫の背丈では下二つだけになるよう設定した。
独創的な防御機構を次々に
電気雑音も四視野分で同時発生はまれだから、雑音を消す信号処理でも有利になる。強力な無線通信などで誘発される外部雑音にも強い構造にしたい。半年かけ、作ってはつぶす繰り返しで初の複合型が完成した。四視野を設定、物体の移動方向をまず上下ごとに調べ、上下一致するかどうかで判断する新方式は国際特許になった。
東京営業所員だった穂積正彦・大阪営業所長(34)は、ネズミなどで誤警報が続発していた都内のスーパーで複合型に取り替えると、ぴたりと止まったのを記憶している。ネズミに見立てたラジコンカーを走らせる実演もした。誤動作は従来より桁違いに少ない。歴然とした差を見て、大手の警備保障会社が初めて超音波警報器に代わる存在と認めてくれた。
翌年にかけて売上高は四割伸びた。警報機市場で一時は推定六〇%のシェアを占め、グループの中核会社に育った。赤外線警報器の性能も向上、遠赤外線と併せて米国の保険会社の賠償規格に、国内から初めて合格。円高で輸出が厳しい現在でも製品の二割を海外へ出す。
各種警報器を年間三十万個作るトップメーカーとして、羽根田さんたちの新製品開発は続く。犯罪者が警報器の死角から機能を止めようと仕掛けて来ても発見してしまう自己防御型、ガラスを割る音を検知する警報器と独創的な製品を次々に生んでいいる。
《会社》一九五九年に竹中電子工業創業、七二年の分社を経てグループは八社に拡大している。いずれも光技術を基礎に工場用、警備業用、レーザー計測、製品検査などに応用。ほとんどの本社は京都市山科区に。八社合計で資本金二億五千七百万円、従業員四百六十人、売上高百二十億円。
《パソコン通信でのコメント》
ベンチャービジネス育成融資第一号
ひとつの国の経済力、技術力をみる指標として、中小企業の活動ぶりは見落とせません。先日、来日した東ドイツの貿易相が、テレビのインタビューで中小企業の活力を付けるのを怠っていたと自己批判していました。それが特別のハイテクでなくともローテクであってもいいのです。今回の商品を見ても本体の焦電素子生産は別のメーカーに依存しながら、警備機器としての活用だけに純化して、それなりの経済的な成功を得ているのです。身軽な起業家のチャレンジに乏しいという点では、欧州が米国よりも弱い感じです。
遠赤外線警報器の竹中エンジニアリング工業は、京都の財界がベンチャービジネス育成のために設けたファンドから、第一号の融資を受けた「由緒ある」ベンチャーということになります。竹中社長はベンチャービジネスの宿命として、商品の差別化を第一に考えている人でした。「技術の課題を潜在意識まで持ち込んで、遊んでいる時だってふと意識にのぞくようにしておかないと大手に勝てるような物は出来ない」と、若い技術者に説いています。
よそにない物を生み出して社会に貢献する、つまり「社会の一隅を照らす」のが行き方です。ビジネスのきっかけとしてテレビ番組の「ザ・ガードマン」から商売になると直感したのですが、地道な積み上げもしています。遠赤外線警報器を生み出した焦電素子の開発情報のキャッチが相当早かったのも、この分野の内外技術文献を網羅して目を通しておくシステムを、自前で確立しておいたからです。当たり前のことが効くんですね。結果として、赤外線応用の警報器分野で国内のトップを切り続けています。警報器は英国のバッキンガム宮殿と京都御所を守り、NASAのスペースシャトルが自社グループ製品のCCDカメラを載せたとか、小さな分野ながら頑張る企業でした。
八九年秋、京都には「京都リサーチパーク」第一期分が完成して、ベンチャー育成のための貸し研究室などが出来ました。設備利用のほかに、いっしょにある研究機関のメンバーとの交流で成果を生もうと計画しています。
分社経営の割り切り
「マイコン時代の世の中ですが、そのCPUに何をやらせるかは、目・耳・口に相当する各種センサーの技術にかかっています。その意味でシーズが英国であろうとも、遠赤外線センサーの実用化に成功したことは、ユニークな商品を探している全国の中小企業にとって、よいお手本」との好感とともに、「開発経過が教科書通りの実践で、ひらめきに欠ける感じ」という指摘もいただきました。二視野方式は存在していたので、さらに分割するのは確かに連続した発想です。わたしの取材方法が良くなかったのかもしれませんが、どうしても「ひらめいた」瞬間のリアリティがつかみ切れませんでした。ここは、竹中社長の「分社してひとつの商品にこだわる」行き方が、決して豊富とは言えない技術陣での開発に成功をもたらしたとみるべきなのでしょう。「一商品日本一」のモットーで分社経営をしている中小企業グループが甲信越地方にありました。
GMの壁に立ち向かった無補水バッテリー/日本電池
《《うちのヒット商品》》第6回・1989.12.1
車のエンジンが掛からない。車のボンネットを開けてバッテリーを見たら、液が減って電極が露出していた――といったドライバーの失敗が少なくなってきた。一九八〇年に日本電池が売り出した補水不要の鉛蓄電池「スーパーCX」をきっかけに、電池メーカー各社が無補水化に追随、自動車各社も八四年ごろから一斉に採用した結果だ。七一年、技術部員だった小寺利一さん(49)=現・第一設計課長=らの若手チームが、宿命とされるバッテリー液減を気にしなくて済む蓄電池「GS7」を開発した。電極の鉛合金を変えただけの試みは成功と言えなかったが、思わぬ反響が海の向こうから届いた。米国最大の自動車メーカー、ゼネラル・モーターズ社(GM)の蓄電池部門が、同じ狙いで動いていた。
町工場との共同開発で
当時のGMは規模の巨大さばかりでなく、技術力でも恐れられた。「本格的に研究を始めねば」と、技術部主管の遠藤寛さん(51)=現・東京支社サービス課長=ら十人余りが、各部門から研究チームに選抜された。
バッテリー液が減る原因は、鉛電極板に混ぜるアンチモンが分離して蓄電池の中で小さな電池を勝手に作り、水を電気分解してしまうからだ。電極板は格子形をした鋳物で、柔らかな鉛を鋳物にするのにアンチモンがどうしても必要だった。アンチモン追放には電極板の作り方から変えねばならない。
ちょうど国際研究機関が、溶かした鉛を板にする簡便な製法を開発、公開した。アンチモンの代わりにカルシウムを使い、電気分解を起こしにくい。問題は格子形にどう加工するか。板から多数の穴を打ち抜く方法を考えたが、柔らか過ぎてうまくいかない。
一年以上過ぎたころ、遠藤さんが山田利雄・生産技術課長(62)=現・大栄製作所機械事業部長=に呼ばれた。「建築材料に鉄板に切り目を入れて押し広げた網がある。あれはどうか」。山田さんはたまたま自宅の新築現場で、モルタル壁に塗り込む網を見て「これだ」と思った。
大阪市内の加工業者に鉛板を持ち込んだ。鉄板なら端から切り目を入れて次々に割り裂く。建材の網はこうして作るが、鉛には粘りがなくちぎれやすい。加工機械そのものを手掛ける、従業員数人の町工場を探し出して、共同開発を申し込んだ。
一年余り、京都から大阪に毎週通ううち、意外な解決策が浮かんだ。数センチの切れ目をまず縦に無数に入れておき、横から引っ張れば鉛は柔らかいからダイヤ形の網目ができた。七夕の飾りにも同じような紙細工がある。
七六年、GMは無補水バッテリーを実用化する。GMの電極板製法はやはり鉛板から網目を作るもので、こちらがあきらめた順次切り裂き式だった。GMは工夫を凝らし、世界中に製法特許の網を張り巡らした。
他社に無い強力電池へ
蓄電池を部品として組む自動車メーカー各社は、品質管理の厳しさで定評がある。わずかでも不良品を出したら取引停止を覚悟するほど。GMに対抗して全く経験がない新方式の電極製造法を採用するか、決断が迫られた。
七九年、四十億円かけて群馬に無補水化の新工場建設が決まる。GM車の影響は大きく、米国市場はほとんど無補水化しかけていた。国内トップメーカーとして座視できなくなった。
寿栄松憲昭・第一技術部長(61)=現・社長=には、なお心配が残った。メキシコでの国際会議に出席すると、カナダの鉛精錬会社レミンコ社が「うちも同じ技術を開発した」と売り込んで来た。懸案だった切れ目を入れる刃物が優れていた。自社技術の発想の良さに一部技術導入で、GM方式の二倍も高生産性の製造ラインに仕立て上げた。
八九年六月、さらに進んだ強力電池「スーパーウイング」が生まれ、五カ月で八万個を売った。ダイヤ形網目の電極とアンチモンをわずかに含んだ鋳物格子の電極両方を、長所を生かし使い分けた。電極板間の分離材を〇・一五ミリと薄くし、液を大幅に増やして無補水化した。エンジンのスタート時に二、三割増の三百四十アンペアも電流が流せる。
開発チームは技術、営業など三部門八人が集まり、昨年末に出来たばかり。積み上げた技術上の優位を集約、他社に無い商品を一気に作り上げた。
「十年もしたら自動車バッテリーは随分変わっているかもしれない」と小寺さんはみる。車の前輪駆動化などでエンジンルームは機器があふれ、すし詰め状態だ。スタート用だけの小さなバッテリーが置かれ、残りは別種の電池になって後部に回る可能性がある。完成されたと見えた自動車バッテリーは、激変期へ準備が始まっている。
《会社》一九一七年設立。商標の「GS」は発明家で創業者の島津源造のイニシアルから取った。八八年度(決算期変更で十カ月分)売上高は七百三億円。鉛蓄電池が六五%と主力で、残りがアルカリ蓄電池、整流器、照明器、各種電池電源。資本金百一億円。従業員二千五百七十三人。本社・京都市南区。
《パソコン通信でのコメント》
今はなかった町工場
これまでの中では、比較的なじみがある商品でしょうか。日ごろ、割になんとなく使っていますが、結構いろいろな苦労といきさつが秘められていました。
GMの無補水バッテリー開発は、おそらく物量戦だったのでしょう。よくあるたとえで言えば、ステーキを食っている相手にに対してお茶漬で対抗している感じがあります。従業員二千五百人の企業研究者が、大阪の数人規模の町工場と共同開発して作り上げる技術で、GMに向かっていくんですから、逆に見るとGMとしては「たまんないよ」と言い出しそうですね。その町工場「新光機械」を捜し出そうとしましたが、残念ながら大阪市内では見付かりませんでした。大阪商工会議所の名簿にもないし、移転したのか、廃業したのか・・・。
でも、最終段階ではカナダから技術導入があります。社長さんがメキシコでの会議で休憩時間に先方から声を掛けられたとのこと。直ぐに飛び付いたのではなくて、半年間おいて訪問しています。結局、そこの技術を導入してものになっている会社はほとんどなく、自分のところの技術に接木して初めて使えたようです。技術陣はあまりコメントしませんが、本当は全部自社技術にしたかったよう、一方、トップ側はリスクを負い切れなかったのです。
技術的にはいろいろと補足したいけど、ひとつだけ。バッテリー液の減りしろが、従来品が六十四ミリリットル、最初のスーパーCXが八十一ミリリットル、最新のスーパーウイングが九十九ミリリットルと大きく取られています。電極板の高さを下げたり、分離材を薄くしたり、容器の形状の工夫とほんとに細かく稼いで、電池としての高性能化と、保証の寿命期間中での無補水化を両立させています。
蓄電池の鉛電極には厄介な性質が
技術的な問題で、指摘をいただきました。「網にする必要はあったのでしょうか。網にすること自体が目的ではなく、表面積を増やすことが目的ではないでしょうか」というのは、お説の通りです。表面積が要るので、新電池では電極板の高さを削って厚さを増やしました。極板間の分離材を薄くするのはここにも効きます。同じ規格の容器なのに、液の最低ラインが下がるので、液が減ってもかまわない量を稼げます。そして、カルシウム合金でも液減りはしますが、お察しの通り減り方がずっと少ないのです。液減り可能分を増やしたうえで、新電池はアンチモンの含有量を極力少なくした鋳物電極も併用、液減りと高性能のバランスを取って、寿命期間内での無補水化を果しました。
「柔らかい鉛を鋳造するのは難しいと有りましたが、どういうことなのでしょうか」。これは、記事の中にある鉛板の新製法との関連で説明しましょう。新製法は冷した大きなロールを溶かした鉛の液体上で回して、高速で板を作るという面白いものです。これを可能にしたのは、鉛のカルシウム合金が非常に狭い温度範囲で凝固する性質です。一方、アンチモン合金はこの凝固範囲が広いので、鋳物にしやすいそうです。いろいろな合金が試されたが、このアンチモン合金に勝るものはなかったようです。鋳型に入れてさっと固まっては傷物になりやすいので、カルシウム合金を鋳物にする場合は鋳物を温めたりなどの手間が大変とのこと。日本電池の特許に触れたくないメーカーには、この方法で電極板を製造しているところもあります。
充電・放電の繰り返しが悪い
「信号待ちでヘッドライトを消灯するのは、バッテリー保護のためになるのでしょうか」という疑問も出ました。わたしもこれまで消灯派で、バッテリーの保護になると信じていました。取材の機会に、何がバッテリーに悪いのかたずねてみました。答えは、放電と充電を繰り返すのがいけないとのことでした。バッテリーがあがるのに加えて、寿命まで落ちます。この繰り返しで、記事の本文で触れたようにアンチモンが分離して来ます。
現在の電気系統はしっかりしていますので、過充電でバッテリーを傷めるようなことはなくなりました。昼間だけ運転している場合はバッテリーは充電も放電もしないのに、例えばタクシー車だと夜間に確実に放電があるので、昼間にもよく走って充電しているのに寿命が短くなるのだそうです。
課題解決から課題提示に進みたい
「成熟産業といわれる自動車部品産業の熾烈な新製品開発競争の激しさを見せ付けた一幕と承知します」
そうですね。自動車産業ほど量的拡大に加え質的にも成長し続けている部門は少ないと思います。例えば、この間まで富士重工は「スバルの車は値段が高くても別格の技術力がある」と思われていたのに、その技術的な優位は同社がのんびりやっているうちに消し飛んでしまい、立て直しに懸命のありさまです。イタリアのアルファスッドにデッドコピーされた名車「スバル1000」の伝説はいずこへ、です。しかも、自動車産業の質的な成長はかなり細かい部品レベルから積み上げられているのです。
「新しいものの開発には資本金、人材、時間が必要だと思うが、人の力がいちばん重要だと思う」「比較的劣悪な開発環境での努力に感銘を受けました」
日本人の特性として解決すべき問題さえ与えられれば、なんとか答えを出してしまう力はあるようです。次の課題は、世界に恥ずかしくない先見性がある問題を見付けて提出することでしょう。自動車電池の分野では、現在の蓄電池方式でない分散型などの提案でしょうか。産業として米国を圧倒しているのだから、今度は国内から決定版のアイデアが出て欲しいものです。
精密包装で世界に広まったCD包装機/京都製作所
《《うちのヒット商品》》第7回・1989.12.8
LPレコードからオーディオ界の主役の座を奪ったコンパクトディスク(CD)は、ブームを呼んで生産を増やし、一九八九年は国内で一億九千万枚を売る見込みだ。LPの二十倍に達する勢いが、世界中に広がっている。しかし、CD本体、CDを乗せて固定するトレイ、ケース、表紙、歌詞カードはそれぞれ量産体制ができているのに、まとめてケースに挿入、包装するのは最近まで人の手作業だった。八五年十一月、包装機械の専門メーカー京都製作所で山本薫・技術部設計課長代理(38)を中心に六人の設計チームが生まれた。この年、国内生産はLP六千万枚に対して、CD二千万枚。ソニーとフィリップス社(オランダ)が協力して、つい三年前の八二年に生み出さたばかりのCDの伸び方は目覚ましかった。
カセットテープで苦い経験
「人手に頼るCD包装の自動化要請が来るに違いない」と自信があった。工場の生産ラインに合わせた特注機械ばかりの包装機械業界では、使用する側の都合に合わせた一品生産が当たり前なのに、見込み設計を始めた。パソコンやワープロで使うフロッピーディスクを包装する機械を、三百五十台出荷、市場の八割を制した裏付けがあった。
やはりフィリップスが開発、世界に特許を開放したオーディオカセットテープの包装機械に、フロッピーディスク包装機のルーツはさかのぼる。たばこ包装機や段ボールへの箱詰め機械のメーカーだった七四年、大株主の日商岩井から開発を要請された。一台十人分の能力がある包装機を開発、瞬く間にカセットテープ業界を席巻してしまう。七六年、本家フィリップスにも出荷して話題をまいた。
国内でカセット包装機械を独占した実績から「海外でもどんどん売れる」と踏んだ。ところが、フィリップス向けの輸出は一台切りに終わってしまう。
「日本のユーザー各社の細かい注文に応じて性能が良過ぎる機械を造り、結果的に高価になってしまった」と、下村晨蔵・技術部長(45)は振り返る。欧州製のカセットテープ包装機は一台三人分の仕事しか出来なくても、京都製作所製二千八百万円の半値だったために、海外市場を奪われてしまった。
カセットテープ包装機に限らず技術至上主義では立ち行かないとの反省で、七九年からコストを意識し設計を単純化、部品を減らす社内改革が始まった。
アフターケアで評判取る
CDケースは全く「遊び」なし、はめ合い誤差零で設計されている。例えばトレイを入れるとパチンと音がして納まる。人なら具合を確かめながら出来るが、微妙な感覚が無い機械がちょっとずれてはめ込むとケースやCDを割ってしまう。これまでの自動包装に例がない難題に、誤差零に向かって精密に位置決めを狙うのではなく、挿入機構側がはまるように動く「遊び」を持たせる解決策を思い付く。
間もなくソニーをはじめ各社から開発要請が届いた。八六年、LPとCDの世代交代の年はもう来ていた。五月、試作機が完成、関東の会社が人手不足に音をあげて「試作機でいいから」とCD生産現場に導入した。
外国の会社も困っているはずだと見込みをつけて、日比野政雄・東京営業部長(52)は八月、初めて渡米する。機械の動作ぶりをビデオに収め、六社を回って見せた。うち二社には、フィリップスが依頼してイルゼマン社(西ドイツ)が開発した同種機が入ったばかり。能率は一分六十枚で、イ社機の二倍あることを売り込んだ。
帰国二カ月で三社から注文が舞い込んだ。「もう一カ月も遅れたら、イルゼマンに全部さらわれた」。薄氷の商戦だった。
しかし、落とし穴が待っていた。明けて六二年五月に五台を米国に出荷した。一台四千万円。フロッピーディスク包装機で輸出経験があるが、相手はすべて日系企業で純外国企業へ輸出は初めて。慎重を期してサービス要員を巡回させてみると、機械が三十分と連続して動かない。国内のケースと違って樹脂成型の質が悪く、国内向けの設計ではふたが開かなかったり、閉まらなかったりしてしまう。
「ハンマーが飛んで来るか」と思って渡米した山本さんに、米国側は「包装機のせいではないよ」と言ってくれた。開かなければこじ開ける、閉まらなければもう一度押さえ付けるなどの仕掛けを設計、改造した。それが適応力が高いとの評判になって、最初は西ドイツ機を入れた会社から軒並み注文が寄せられることになった。
当初は世界で数台あれば足りるとされたCD包装機を既に五十数台出荷し、さらに同じくらいの需要が見込まれている。フィリップス子会社のフランス工場に納入、西ドイツ工場からも受注できるか、地元イルゼマン社と競っている。
《会社》一九四八年、当時の専売公社が使う機械を製作する会社として設立。マッチ箱自動製造プラントを開発、独占して発展のきっかけをつかみ、各種の包装機械に業務を広げた。大半は一品生産で従業員二百七十人中、百人は設計要員。資本金六億九千八百万円。年間売上高六十八億円。京都市伏見区。
《パソコン通信でのコメント》
人間的な仕掛けの機械
今回は、ちょっと面白い仕事で生きている企業です。皆さんが持っていらっしゃるコンパクトディスクは、まず間違いなく、この京都製作所製の機械で詰めて出荷されたものです。国内では他のメーカーは手を出しかけただけで終わり、百%近い市場占有率と言って良いでしょう。記事の行数を合わせるために削った試作機段階の苦労話に、こんなのもあります。
「現場では思わぬクレームが待っていた。歌詞カードはケースの片面と四本爪のすき間に滑り込ませる仕掛けだったが、最高の三十二ページもあると厚すぎて入らなかったり、無理をするとケースに傷を付けた。試作機を納めた関東の工場に飛んで行った下村さんらは手直しを試みるが、どうにもならない。一カ月半悩み続け、人が手で入れるならどうするかと考えて解決した。ケースと爪のすき間に滑り込ませるのではなく、歌詞カードを軽く丸めて四本爪の内側に引っ掛ければ、カードはすっと納まった」
こんな人間的な入れ方のために、なかなかスマートな機構が作られ、実用新案になっていました。単純で効率的な仕掛を考え出すのは、受注制の一品生産で生きるメーカーにとって重要なことです。
独立採算制がバックボーンに
この会社は、設計、生産、営業など課の単位で実に徹底した独立採算制を敷いています。事業部の独立採算制なら、あまり珍しくありません。大企業ではこうしないと訳が分からなくなると言っても良いでしょう。しかし、三百人にも足りない企業、しかも機械製造業が実質的に「課」の単位で独立採算なのですから、そのユニークさにびっくりしたのも理解してもらえると思います。
京都製作所では、総務、経理、生産管理からなる管理本部以外はお金儲けをする事業部で、売上の一〇%くらいを上納金として管理本部に納めることになっています。コピー代も電話料金も各部門に割り振れるようにメーターが付けてあり、その他の経費もいろいろ工夫して各部門に割ってしまいます。そして年度ごとに、各部門は年間の利益ノルマを課せられます。
こんな仕組みといいます。オールマイティな権限を与えられている生産管理部が、営業からの受注情報を受け取ると、注文の機械についていろいろと解析して設計、製造、部品購買に細かく区分けし、仕事の標準値を指示します。例えば、製造には納期、作業時間、性能、コストなどです。これを全部こなせば各部門は利益が出るように設定されます。もし、こなせないと、もちろん赤字です。また、設計のミスで組み立て段階がうまく行かず、やり直したりすると、設計チームのキャップが「社内小切手」で損害分をその場で製造部門に支払います。通期で赤字になった部門の管理職は賞与がもらえない厳しさ。
技術者たちがいい機械を作ることに熱を上げてコストのことが頭から離れ、会社は忙しいのにほとんど利益が出ない状況になった十年前、断行された制度です。実施当初はパニックで、定着するのに五年かかったそうです。会社側は経理内容の全面公開などガラス張りにしたうえで、生産管理部による交通整理の在り方、毎月末の決算会など、オープンな議論が出来るようにしています。
かなりの気配りもあります。最初は設計部門からの自己申告に近い標準値を採用し、それが達成できると分かってから、年を追って余分なところを締め付ける方法がとられました。もちろん、設計や開発は全部が「当たり」ではありません。設計にかかる時間の標準値には、失敗してやり直す余裕も組み込まれています。
結果として業績が上向き、社員の海外旅行三回を経て、八八年四月には社員と家族全員の五百人をグァム旅行四泊五日に招待したとの自慢話も聞きました。人手不足の解消になる包装機械をほとんど一品受注で作る会社なので、世間が不況になっても合理化ニーズはなお強くなるからますます注文が増える訳です。この強さが背景にあるのでしょう。
なお、一品受注でない機種としてCD包装機についで、ポテトチップスとか形状が不ぞろいなものを箱詰めする万能タイプのロボット包装機が完成し、ランニングテスト中でした。食品などモデルチェンジが激しい業界では、特注の包装機械はすぐに役に立たなくなるので導入しきれなかったところが多く、かなりの反響を呼んでいます。
包装機械の専門メーカーは初耳
「包装機専門メーカの存在を初めて知りました。CDケース側が精密なので挿入機側に遊びを持たせるという発想。トラブルへの対処の良さが受けたという部分が興味深い」「うーむ、包装の世界って機械も職人芸なのね」
精密なものだから機構側も高精度に走るといった常識的な解決でなく、遊びを持たせて対処するという解決法を生んだのでした。職人芸というのも当たっていると思います。そうできた背景には、京都製作所が小さな機械メーカーなのに、実質的に課単位での独立採算制を取るに至る苦闘の過程があったように思えます。経営の在り方と技術の在り方が影響しあっている感じでした。
「我が家ではCDをかなり早い時期から導入してたんですが、当時のCDパッケージのCD装着状態はひどいもので、爪が食い込んでてなかなかCDが取り出せないかと思えば、新品パッケージを開けたなら、中でCDが踊ってた、なんてことが茶飯事だったんです。いつ頃からかそういう不満が無くなってたのに、記事を読んで気がつきました」という、実感のこもったメッセージもいただきました。包装という仕事は、いったんパッケージを開けてしまったら消し飛んでしまうのですから、考えてみると奇妙な商品ですね。
量産まんじゅうを生き返らせた一粒タイプ/タカラブネ
《《うちのヒット商品》》第8回・1989.12.15
菓子業界は消費者の甘さ離れからしばらく伸び悩んでいた。全日本菓子協会(東京)のまとめでは、一九八三年から売上高が前年比マイナス一〜プラス二%の停滞だった。それが、洋生菓子からトップを奪った和生菓子の好調で、八八年は四・六%増の三兆円を記録した。健康志向から、生クリームやバターより、豆から作るあんを主体にした和風の甘さの方が良いと見る風潮が女性を中心に強い。タカラブネは仙台から下関までチェーン千店を展開、シュークリームやケーキで知られるが、もともと京都で和菓子の製造からスタートした。主力工場の館野弘・京都工場長(42)=現・製造本部副本部長=には、古くから量産しているまんじゅうの行方が気がかりでならなかった。近年の売上高が毎年一割ほど減り続けていた。
仕掛けた「しっとり感」
ほかの菓子では和風の良さを見直す動きが現れていたのに、まんじゅうは八五年発売の新製品で失敗した。値上げを伴うモデルチェンジで、包み方でも値打ち感を出そうと新型の包装機を開発した。しかし、厚めのまんじゅうが包めず、製品は客に薄っぺらい感じを与え裏目に出た。 八八年十月に、朝香広・工場次長(41)ら製造現場から「まんじゅうをもう一度売れる商品に」と声が上がった。マーケティング部、製造本部開発センターからも参加して十人余りのプロジェクトチームが動き出した。
まんじゅうは九州と北海道に小規模メーカーが集まり、二大名産地を成している。メンバーは製造が九州へ、マーケティングが北海道へ現地調査の旅に出た。従来とはっきり違う商品にしたい。しかも、全国に流すから大量生産が可能でなければ。
あんを皮で包む自動包あん機に、あんの中にさらに何かの粒を入れられる新製品が出た。オーブンで焼くと、従来、手作りの領域だった一粒タイプのまんじゅうが量産できる。
消費者に人気が高いクリを、一粒そっくり入れる案がまず決まった。イチゴ大福のように風変わりな取り合わせがうける時代だ。「もうひとひねりした果物を入れたい」。ギンナン、ユズなど、調査旅行をもとに討論は年明けまで続いた。
「和風の見直し、懐古調にぴったり」と、最後にキンカンが選ばれた。同種のものが無い魅力がある。果実を入れない従来タイプのまんじゅうも三種用意、詰め合わせの変化を付ける企画ができた。
味をどうするか。担当する開発センターの津嶋純一課長(41)らが、パートの女性ら社内モニター三、四十人を相手に、試作品や世間で評判のまんじゅうと食べ比べる会を繰り返した。 白あんにして余分な味は付けず、糖の種類を加減して甘さを抑えクリそのものの味を。蜜炊きのキンカンからは自然に風味を染み出させる。焼き上げた後、熱いうちに密封包装し、あんの水分を数日間かけて皮に移して全体にしっとり感を出す――など、味の演出が決まった。鮮度を保つのに全部に脱酸素剤を同封することも。
さばき切れず二十四時間操業
五月末、トップから承認が下りた。八千万円で自動包あん機四台を買い、包装機械も一新する。死にかけた商品へぎりぎりの投資が認められた。従来品は一個七十円。手作り市販品に数百円するものがある一粒タイプだが、百二十円に止めた。
「試作品そのままの味を量産で出せることはまずない」と、津嶋さん。量産ラインに載せると、中の果物がつぶれたり、はみ出したり、狙ったような柔らかな皮では包み切れなかったり−−量産試作が繰り返され、毎日何千個か作っては捨てた。
お盆の需要期が済んで工場を改造、九月十五日発売と決まった。館野さんらの期待は「なんとか目減りは食い止めたい」だった。
特に販売攻勢も掛けなかったのに、店頭からうれしい手ごたえが一週間で返って来た。九月上旬まで二千万円前後だったまんじゅうの旬間売上高が、中旬が三千三百万円、以後五千―八千万円と伸び続けた。注文がさばき切れず、二十四時間操業に追い込まれるほど。一息ついた現在でも、前年同期比六割増の生産を続け、下請けまで動員する。
「責任が無い他人の意見を聞くより、身内の動きを見ておくべきでした」と、吉田秀明マーケティング部次長(42)は反省を込めて振り返る。気が付いたら社員までまんじゅうを買わなくなっていたのに、新製品で変わったという。
《会社》一九五二年設立。菓子製造卸売りから製造小売りへ転換、さらにフランチャイズ店方式導入とともに急成長。年間売上高三百億円で、構成はシュークリーム、ケーキなど五八%、まんじゅうなど一五%、冷菓七%など。資本金二十三億三千万円。従業員八百三十五人。本社・京都市中京区。
《パソコン通信でのコメント》
お父さんの職場を描ければ
タカラブネの量産まんじゅうの話、食品を何かやってみたくなって、チャレンジした次第です。先日、社内の上司とこのシリーズについて話をする機会をもちました。「これまで無かったタイプの企画で、現在の新聞では、経済面にも科学面にもはまらないね」と言われました。わたしは「学芸部担当の家庭面に出せるような内容にもしたいと思っていた」と話しました。現実には、技術について説明的な部分が必要なので、家庭面風な人間ぽい要素をこれ以上持ち込むのは、スペース上から無理です。しかし、お父さんの職場が何をしているところなのか、ますます分からなくなって来ている現代の家庭では、こうした形の企画で知らせるのも、無意味でないと考えています。
「飽き」への対策
「食品は耐久消費財と大きく違って、同一消費者に何回も買ってもらえます。つまり、良いと思わせたらまた買ってくれるし、飽きさせてしまったら需要が急速に冷えこみます。この飽きるというポイントを企業はどのように見極めているのか興味があります」
タカラブネのまんじゅうを開発した方に聞くと、本当は満足していないそうです。皮の質など量産に伴う技術的な妥協があって「まだまだこれから。今のまま売れ続けるとは思っていない」とのことでした。試作品はずーーっとおいしいんだそうです。これは食べてみたかった。残念です。
味覚はかなり微妙な世界ですし、お菓子は必需品でもないのでいつ捨てられてもおかしくなく、「飽きる」時期が来るかもしれません。前の製品は「飽きる」以前、魅力が薄かったようです。実は、和菓子には飽きが来にくい仕掛けが昔からあります。それは季節感の演出です。京都の老舗では作り手の感性で四季折々に微妙に変えたものを作って売ります。木の葉の色なら、初夏、盛夏の緑を変え、秋はもちろん紅葉という具合です。量産品であっても飽き対策にそれを考えていて、九〇年春から、キンカンに代えて梅の実一粒を入れた新製品が登場しました。クリは通年で、春夏に梅、秋冬にキンカンという季節の演出ですが、わたし個人はキンカンの方が完成度が高くて好きです。
お菓子屋さんの情報・物流管理
生ものは天候や輸送の問題があり、一定の量産をすることは危険で、大手メーカーは手を出せないものですが、これに挑戦しているのが、タカラブネだと思います。記事でお分かりの通り、同社の主力商品は多品種の洋生菓子で、しかも大衆価格で菓子を提供する路線を守り続けています。
そのためもあって、かなり早くから千店のチェーンと本社を結ぶ販売時点管理システム(POS)を導入しています。品物が欲しい日の前々日の夜中までに注文を出せば、生産、配送して店に届きます。作り置きをしないのは、ケーキよりも日もちするまんじゅうでも同じだそうです。曜日によって売れ方が変動し、月火水木が一なら、金が一・二、土が一・五、日が二になるとのこと。それを満たすように、なおかつ余って捨ててしまわないよう、いろいろなノウハウがチェーン店と本社にあるようです。そうでないと大衆価格維持が難しくなります。
ところで、まんじゅうの場合は焼きたては皮がぱさぱさしていけません。三日は置くほうが、あんから水分が戻ってしっとり感が出ます。それも見込んで店頭在庫が図られます。まんじゅうには、固い乾いた感じのから、水分たっぷりのまであります。しかし、水分の含有率でみると、以外に差は少なくて、一般的なまんじゅうが二四から二七%で、固いのは二割以下、水分たっぷりで三割以上だそう。ちなみに、一粒シリーズでは、キンカン一粒がほぼ上限、クリ一粒が下限辺りだといいます。
「だれがどうして生産計画を立てているのでしょうか。オーダー表を見て、人間がやっているとはとても思えないのですが」との質問をいただきました。
これは製造本部の管理者たちが交替で泊まり込んで処理しているようです。千店もチェーンがあり、店の経営者の中には転職したばかりで菓子の扱いには素人という方もいるので、商品注文以外にもいろいろな問い合わせや相談があって、かなりの責任者が常時応対できないと、うまく回らないのです。
取材時に聞いた話ですが、生クリームを使った洋菓子でも、脂肪の質を変える、つまり動物性脂肪を減らして植物性脂肪に置き換えることで日もちを良くする技術があって、これで現在のような量産と長距離発送が可能になったとのこと。しかし、味については動物性脂肪が多い方がおいしいので、日もちとの兼ね合いを考えながら動物性の割合を増やす努力がされてます。現在は配達が一日一回ですが、将来は一日何回も配達をして、菓子の鮮度保持と需給調整をしやすくすることも検討されていました。
しっとり感余聞
「まんじゅうもできたての湯気がでているやつをはふはふしなが食べるのがいいのよね。でも、そういえば一日おいてさめたまんじゅうもしっとりしておいしいのよね」なんて書かれると、本当にお菓子がお好きなんだなと分かります。
取材をしていて、この水分の戻り現象は和菓子だけでないことに思い至っていました。身近なことですが、あるホテル製のチーズケーキを好んで買っていたことがあります。値段の割においしいからですが、これも冷蔵庫で一日寝かせたら、しっとり感が増してずっと良くなった経験がありました。ケーキの下のほうにある水分が全体に拡散するのでしょう。聞いてみると、洋菓子にもあちこちで起きる現象でした。
戻りとはちょっと違いますが、一粒タイプまんじゅうには、キンカンの風味を引き出すある仕掛がしてあります。蜜炊きしたキンカンの果汁が、出来たまんじゅうの中で自然に回りの白あんに吸われるよう、あん側の糖度が炊いた蜜より高めてあるのです。浸透圧かな。こうしているのでキンカン一粒タイプはしっとり感がいっそう強いのです。ただし、白あんをあまり甘く感じないように使う糖の種類を工夫しています。この辺りも菓子作りのノウハウですね。またまた食べたくなってしまうお話でした。
という訳で、今回の感想は「何気なく食べている菓子にも技術があることを再認識しました」「甘いものとは無縁のわたしです。まんじゅうの製作で苦労があるとは思いもよらなかった」「これはほんと、よだれものでした」と、理屈抜きに楽しんで読まれた方が多かったようです。
入れ歯保険治療の難点を克服した硬質レジン歯/松風
《《うちのヒット商品》》第9回・1989.12.22
六十五歳以上の高齢者人口が一一%を超え、「その八割は自分の歯を半分以上失っている」と厚生省が発表している。入れ歯を作るために、一九八八年に生産された人工歯は一億一千万本にのぼった。しかし、最近まで健康保険で作られる入れ歯は主にプラスチックのレジン歯で、自然の歯に比べてかなりの差があった。京都で陶器会社を興していた松風家が、歯科医学界から国産陶歯の開発を勧められたのは、米国に陶歯供給を頼っていた大正時代のこと。戦後になるとレジン歯が登場、研究者と協力してやはりその開発で先頭に立った。陶歯からレジン歯に中心が移っても国内市場の半分近くを占有、製品は歯科技工士の国家試験や、現在はなくなった歯科医の実技試験に採用され続けた。
決定版への意気込み
東京歯科大学教授を退いて東京・銀座で開業している河辺清治さん(81)は、入れ歯治療で内外に知られている。学生時代から付き合いがある縁で「新しい人工歯が必要な時期が来ているのでは」と助言したのが八〇年ごろだった。亡くなった大学の恩師が、その準備にと多数の歯を収集して残していた。
陶歯とレジン歯、いずれにも欠点があった。陶歯は自然の歯に比べて硬過ぎ、入れ歯を作ったときに向き合う歯が自然歯なら削り取ってしまうし、陶歯同士なら瀬戸物がぶつかり合うのでカチカチと異音をたてる。レジン歯は逆に軟らか過ぎて減りやすい。どちらも自然の歯に比べて輝きが足りない。
七五年、イボクラール社(リヒテンシュタイン)が常識を破る硬質レジン歯を売り出していた。自然歯に近い硬さと外観をもち、陶歯とレジン歯の欠点を補った。しかし、健康保険で認められているレジン歯は前歯六本組三百円なのに、二千三、四百円もして自由診療でなければ使えない。技工士が扱いにくい欠点もあった。
新しい歯を求める歯科医の声は河辺さんに限らなかったし、社内にも意欲が見えた。「高齢化を迎える時代を先取りして、保険で使える硬質レジン歯を作ろう」と、当時社長だった松風嘉定会長(71)が決断、研究開発部が動き出した。
歯の形を担当したのが林昭三主任研究員(58)のグループ。「決定版を作ろう」の意気込みで、河辺さんらを通じて数千本の歯を集め、大学の先生たちによる研究会を組織、協力してもらうことになった。分類し各タイプの標準形を決め、彫刻を作って意見を求める。結局、前歯だけで四十の形状に分類、九色ずつ計三百六十種に仕上げることになる。
歯の輝き生む微粒子に工夫
材料の開発は形状に比べて遅れがちだった。中村彰二主任研究員(50)のグループは二十年前から開発したいと希望をもっていたが、手をつけてみると実現は容易でない。
最近、歯科医院で虫歯を削った跡に銀色をしたアマルガムを詰めることが少なくなった。代わって自然の歯の色に近い樹脂を充てん、光を当てて反応、固化させる。他社に先行した技術の一つで、出来たプラスチックは普通のレジン歯より硬いから、硬質レジン歯開発はその延長で、と考えた。また、自然歯にはカルシウムとリンの化合物微粒子が多数散在して独特の輝きを生むので、人工歯にも、似た微粒子を入れれば、とも。
輝きを生み出す条件は、微粒子の大きさが、光の波長に当たる千分の一ミリ以下。一方、歯の透明感を生むために、プラスチックと微粒子の屈折率が合わなければならない。硬さとともに粘り強さも求められる。合成技術の限りを尽くすが、行き詰まって頭を一度からっぽにし、方向転換を図ったことが何度もあった。
八六年九月にまず前歯を売り出す。三層構造にし、かみ合い部は従来の六倍も摩耗に強く、根元部は入れ歯の土台と簡単に接着する材質、中間部は衝撃を吸収する役割を担わせた。完全自動の生産ラインで値段は六本組七百二十円に抑えた。
製品を作っただけでは健康保険の適用にならない。従来認められている治療法よりも値段が高いのだからなおさらだ。牧野宏治・大阪営業所販売課長(40)ら全国に八十人いる営業マンが「まず普及を」と歯科医を回り、硬さを実演して歩いた。最初は自由診療ながら評判を得て八八年七月、硬質レジン歯は銘柄を同社に指定する珍しい形で保険適用になった。
現在、月間百二十万本を生産しても需要に追い付けず、近く生産ラインを増やす。河辺さんらは「外国に出しても恥ずかしくない」と評価するが、当分は輸出余力が出来そうにない。
《会社》一九二二年、松風陶歯製造として設立。アマルガムなどで世界レベルの技術を開発、米と西独に販売子会社。売上高九十八億円の構成は人工歯(一六%)のほか歯科用の研削材(二九%)、金属(一五%)、樹脂(六%)、セメント(九%)など。資本金三十六億円。従業員四百人。本社・京都市東山区。
《パソコン通信でのコメント》
こんなタイプの入れ歯も
上の前歯の形状は、上下ひっくりかえすと、その人の顔と相似なのだそうです。そう言われればという感じですが、学界で定説となっているそうです。分類方法はいろいろあります。ちなみに、松風が採用しているのは方型・尖型・卵円型を3基本型に、その混合型と短方型を追加したものです。
従来の人工歯では自然歯と外観に差があったと書きましたが、特殊な修復は別です。松風の製品に、オーダーメイドの歯として使う「ヴィンテージオパール陶材」があります。歯並びが悪い歌手が突然、きれいな歯並びになってテレビに出るといったケースはまずこれだと思って良いそうです。金属の上にセラミックを焼き付けてつくる、ホーロー製品と思って下さい。患者の自然歯をまず削り、そこにはまる金属の土台を作り、セラミックの粉末を水で練って盛り上げ、焼きます。金属台は自然歯の削り跡に歯科セメントで接着します。色、輝きともに自然歯と同じに出来るそうですが、値段が高くて数本で数十万円、一式取り替えたら、数百万円です。
皆さんの感想は「入れ歯のランク、素材の機能にこんな違いがあるなんて」「社会的な貢献に対する当事者の真剣さ、使命感に感銘」などで、大変な開発を地道に成し遂げている点を買われた方が多いと見受けました。安い価格で供給するために生産は完全自動で行われています。わずかな厚さの中に微妙な三層構造を作っているのですから、かなりの自動化技術でしょう。興味を持ちながら、取材する時間が足りずに取り残しました。開発の各セクションの動きを聞き取るだけで相当な時間が要るものですから。
書き落としていた情報をもうひとつ。京都の企業に関心がおありでなくとも、京セラの名前はご存じでしょう。創業者の稲盛会長は、人工歯の松風の親会社に当たっていた松風工業(絶縁体の製造業)に勤めてから、仲間と独立したのです。松風工業の方は競争に敗れて清算会社になってしまいました。
歯磨きの話
「入れ歯になるのは、つまり歯をなくすのは虫歯が原因ではないんですよね」とのご指摘通り、原因は歯槽のうろうなどの歯周病が大半なのです。普通に歯だけを磨いていても、この予防は難しく、磨き方に工夫がいります。以前、若年層にもこの病気が広がっていることが職場での歯科検診から分かったとの記事を書きました。歯科検診は学校だけのものでなくなっているのです。会社は東レの大阪本社でした。企業の健康管理室もいろいろな試みをするものです。
まだ使ったことはありませんが、電動歯ブラシは有効と聞いています。京都のメーカー、オムロンが出した新機種は、二通りの磨き方がワンタッチで選べるのが売り物でした。歯茎の付け根の歯垢まで落とす磨き方をときどきは意識的にやってみますが、微動させるようにやらねばならないので手が疲れます。それから、磨き過ぎにも注意です。特に歯磨き粉を大量に使う方、あれは研磨材の一種ですから、どんどん歯を細らせます。
作り手の遊び心が染み込んでいるゲームボーイ/任天堂
《《うちのヒット商品》》第10回・1990.1.5
米国の有力経済誌「フォーチュン」は一九八九年の年間最優秀商品十一種に、ソフトが交換できる携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を挙げた。任天堂が四月に発売し、年末までに国内と米国で合わて三百万台を売った。ブームを起こした「ファミリーコンピュータ」の携帯版とも見えるが、実は別の作り手たちの遊び心が染み込んだヒット作だ。製造本部には四つの開発部隊がある。三千六百万台を世界に送り出したファミコンの開発第二部、ゲームセンター用の機械など幅広い開発第三部、ゲームソフトを作っている情報開発部、そして、ゲームボーイの開発第一部。
山場は液晶画面づくり
八三年にファミコンが生まれる前、わずか画素二百でできた液晶画面の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が、おもちゃ市場を席巻した。生み出したのが岡田智・次長(42)ら開発第一部。しかし、売れると見て三十数社が参入し、ソフト交換ができない専用機だったから類似機が百数十種入り乱れた。買い手はどれが良いか判断しかねる状態になり、市場は衰退した。結局、国内での販売は取りやめられた。
いまも欧州などに年間二百―三百万台を輸出、商品生命は絶えていない。しかし、国内向けでは「うまくいかない時はあるもの」と、ファミコンの快進撃を横目で見て過ごす時期が続いた。ファミコンに習ってソフト交換型へ転進を考え何回か検討したが、多彩なゲームを表現できるきめ細かな液晶画面の見通しがつかなかった。
液晶カラーテレビが普及の兆しを見せた八七年夏、開発第一部は待望の新製品開発に取り掛かかる決心をした。二十八―三十二歳のメンバーを中心に三十二人の部員が総掛かり。まず、市販の液晶テレビを解体、手づくりの回路と結んだ大きな試作品を作る。構成が固まり切らぬ段階なのに、山内溥社長(62)は「これはいける」と太鼓判を押した。
画面づくりがこの機械の命と考えて来た開発チームは、出来合いの液晶画面では満足しなかった。ゲームボーイの画素数は、ゲーム&ウオッチに比べ百倍の二万を超え、かえって鮮明感が出しにくいし、ゲーム用だから液晶が苦手とする速い動きがどうしても欲しい。一時はカラー液晶画面まで検討したが、屋外で見づらいのと電池の持続時間が短くなることもあって白黒画面に戻す。曲折の末の八八年秋、シャープに専用の高速液晶開発を頼み、発売直前にようやく量産を軌道に乗せた。
ソフトへのこだわりで人気獲得
任天堂がファミコンの次に出すのは、記憶容量アップと色彩数六百倍化のスーパーファミコンと、一般に思われていた。その華々しさに比べて、ゲームボーイはわずか縦四・二センチ、横四・六センチの白黒画面だ。そうではあるが「持ち運べて、一人だけの画面が持て、ケーブルで結べば本当の対戦ができる。消費者を説得しやすいのはこちら」と、今西紘史・総務部長(49)は経営陣の判断を明かす。
八九年一月、国内の系列卸問屋の集まりで公開した。「何をいまさら」と首を傾げられた。米国業者からの反応がむしろ上々で「米国七に国内三の出荷で足りるか」と見通せた。予想通り、四月発売時点では、びっくりするほどは売れなかった。
「早く売れ行きを引っ張れるソフトを出したい」。岡田さんらがひそかに狙いをつけていたのがソ連で考案されたゲーム「テトリス」だった。社内でパソコン版で遊び、ゲームボーイに向いているとみた。落ちて来る七種類のブロックを回転、移動させながら平らに積んで行くゲーム。単純だがとっさの判断力発揮に妙味がある。十二月末からプログラムを組み始め一月にほぼ完成したのに、それからの味付けに時間が要った。
パソコンやファミコン版に無い対戦型のアイデアを加え、組み上がってからも、自分たちが面白いと思えるものにしようとこだわり続けたからだ。商品開発のために市場調査はしない。頼りにするのは自分たちの感性だけだ。
出来上がったと思うころ「ブロックを左右に動かす速さをちょっと速めたら、もっと得点が出る」とだれかが言い出す。では何%速めたら面白いか、微妙に変えながらしらみつぶしにする――といった具合だ。発売は予定から大幅に遅れて六月半ばになったが、二週間で四十万本以上出荷した。五月末になって火が付きかかったゲームボーイ人気を爆発的なものにした。
「あんな小さな画面でも単純なゲームでも没入して遊べる。マニアの特別な世界になりかかっているファミコンへの警鐘になった」と今西さん。
提携先の不手際などからゲーム&ウオッチの売り込みで失敗した米国で、六月の家電製品ショーに出品し五百万台の受注が見込めると評価された。九〇年はファミコン並に月産百万台の生産態勢に増強する。
《会社》一八八九年、花札の製造で創業。会社設立は一九四七年。電子ゲームの開発は七五年から。大ヒットしたファミコンで電話回線を通じたネットワークの構築を目指し、家庭から金融機関との取引などに利用開始。資本金百億円。年間売上高二千五百一億円。従業員七百四十人。本社・京都市東山区。
《パソコン通信でのコメント》
意外なヒット商品を生む裏側
任天堂の携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」は、文句なく、一九八九年に京都が生んだ最大の商品でしょう。
この会社はマーケティング部門を本当に持たないようです。「市場調査は過去のデータ」「ゲーム業界にはナンバー2は存在しない」(つまり、まねをしても仕方がない)「面白いものと、面白くないもの、しかない」・・・広報担当の総務部長さんの発言は、ある意味で刺激的です。
「現場には会わせない方針」というのを口説いて会った開発第一部次長さんも、「おもちゃ売り場に時には行きますが、それはゲーム機以外にどんなおもちゃがはやっているのか見に行く程度」とおっしゃっていました。とにかく「自分が面白いと思う物を作れ」と言うだけなのです。
ゲームボーイは年末年始の入荷即品切れの、どうしようもない品不足でお分かりの通り、ものすごい人気です。新製品は初年度三百万台を出荷して、ソフトが売れる環境を整えるのが、任天堂の基本方針だといいます。わたしもこうまで売れるとは思っていなかった口です。ドラマ式のロールプレイングケームに慣れて、ゲーム本来の楽しさを忘れていたのか。
ひとつ見逃せないのは、ファミコンが家庭のテレビを占拠し続けるのは難しい状況が生まれていることです。何しろ、在来テレビ放送以外に、ビデオ、衛星放送、ケーブルTVと家庭のテレビは「忙しい」のです。そして、もうひとつの特長は本物の対戦型が可能になることです。同一画面を分割してごまかしているのでは、マージャンなど対戦になりませんから。
今回の記事には「いま開発、設計者はいかに消費者と密着吸収できるかに苦心し、例えば直接店頭に立ち、自分の肌で何が求められているか知ろうとしたり、いろいろ苦労しています。しかし、それでは大きなヒットはつくれないのでありませんか。商品開発のための市場調査はしないとの記事を読んで、同感!」「ゲーム&ウオッチのちょっとした改良で対戦型ができるのでは、と思っていたが、さすが、任天堂。中途半端なものは出さない、という姿勢は見事だと思う」との声が寄せられました。
わたしは、ファミコンの開発グループと、ゲーム&ウオッチ・ゲームボーイの開発グループが別だ、と聞いてニュース性ありと感じました。あれだけの大ヒット商品を横目にしている間、はっきりとはおっしゃいませんが、辛抱、辛抱だったようです。
研究開発と労働時間
第1回の堀場製作所は京都でも休日が多い企業として知られています。完全週休二日制プラス毎月一回の三連休があるだけのことながら、リクルート社が京都で調べた大学生の人気企業ベスト20に入り、理由は休みが多いからだと言われています。研究開発部門の人達には日ごろ残業をして頑張る人が多いのですが、仮に三連休が確保されていれば、休みだからと割り切りやすいと思います。
研究開発では往々にしてそうである通り、猛烈になりがちだと思います。しかし、必ずしも全部に当てはまる訳ではなく、任天堂では「残業はするな」と言われます。例外として、プログラムがもう完成寸前で、あとはささいな欠陥の「バグ」取りだけというのなら徹夜してでも残業することはあるそうです。しかし「期限に間に合わせるためだけに徹夜しても、ゲームとしていいものが出来る訳がない」とは、例の次長さんの言葉です。アイデアの勝負をしているのに、体力勝負では駄目なのですね。遅れてもかまわないし、「思い通りにやらせてくれるのが、うちの会社の良いところ」なのだそうです。
あなたの職場の実情はどうでしょうか?
育児に紙おむつを定着させた高吸水性樹脂/三洋化成工業
《《うちのヒット商品》》第11回・1990.1.12
一九七四年の秋深い昼休み、研究図書室で入社五年目、新事業開発部主任だった増田房義さん(43)=現・技術開拓研究部長=は、米国の化学雑誌をめくっていて変わった題名の記事を見付けた。見慣れない単語「スーパースラーパー」の意味を大きな辞書で追うと「水をがぶ飲みする」と出た。現在、年に三十三億枚も使われる紙おむつの中に収まった見えない主役、高吸水性樹脂の開発がそこから始まった。余剰トウモロコシの処理に困った米国農務省は、でんぷんの使い道を求めてさまざまな研究をしていた。その模索の中で、でんぷんと合成繊維の原料アクリロニトリルをくっつける処理をすると、自重の数百倍の水を吸収する新物質が生まれた。目をつけた米企業が試験的な生産方法を開発、特許申請した、と記事は伝えていた。
物質創造に劣らぬ苦労が待っていた
新事業開発部は「将来に伸びる新技術の芽が欠乏している」とのトップ判断から、一年前に出来た。増田さんは農林用に新しい物質はないかと雑誌二十種をしらみつぶしにしていた。この新物質について、米国から内々で資料を取り寄せ、七五年初めに部長に「やらせて」と切り出した。 意外にも「前に商社から持ち込まれ、検討して放棄したテーマだ」と教えられた。合成過程が複雑過ぎ、途中に有毒物質が使われ製品に残る不安があった。
「いや、安全に作る方法がきっと見付かる」と、強情を張って引き取り、最初は同僚と二人だけの手探りを始めた。昼間は実験、夜になると結果を検討、ノートにまとめる。午前零時前に会社を出ない生活が始まった。
米国での合成法を、まず文献通りに再現した。そこから吸水物質が投網のような構造をしていることが浮かび上がり、水を抱え込んでしまうと推定できた。合成後には安全な物質だけらしい。それなら、最終的に構成している物質だけで作れればいい。
十冊を超す技術ノートを積み、網構造を作る反応の触媒を自力開発、三カ月後、米国とは違う構造で三百倍の水を吸い込める高吸水性樹脂「サンウェット」をものにした。
しかし、実験室で物質を少量だけ合成するのと、大量生産は全く別。液体に溶かして反応させれば簡単なのに、この物質は水を吸い込む性質が災いして水に溶かせば〇・三%の濃度にしかならない。熱の消費、水を乾燥させる必要など考えると、固体に近い粘っこい状態で合成しないと高価になり過ぎる。
課題は名古屋工場製造第一課長だった藤本昭義さん(47)=現・同副工場長=たちのところに持ち込まれた。時に石油ショック下。新規投資を禁じられた悪環境下で、二千万円だけの予算、人員は既存プラントの正規要員を削って生み、プラントは中古機械を買い集め修理して組み合わせた。
考えた合成工程、そこから出て来たつきたてのもち同然のねばねば物質の乾燥工程とも、例が無い。うまく行くと見えて、水を吸う性質が災いして出来た途端に湿気を吸い始め、商品にならない。
一年余り。いつの間にか二億円使い、何度もほうり出しかけては「途中放棄は技術屋の恥」としかられた後で、一日一トンの生産装置が姿を現した。
砂漠の農業も可能に
「こんな性質の化学物質が出来ないか」と需要家から開発を頼まれるのが、それまでの開発パターンだった。機能が面白いからと創造してしまった樹脂の売り込みに、増田さんも動員された。
さらさらした白い粉の樹脂を生理用品メーカーに持ち込む。面白がられても、先方も使い方に見当が付かない。増田さんらが紙の間にサンドイッチする方法を開発、指導して回った。
追いかけるように、花王がでんぷんを使わないで似た構造の吸水樹脂を開発して自社製品に使い始めた。八二年になって生理用品から紙おむつへとメーカー間の競争が広がり、欧米でまだパルプだけだった紙おむつを吸水樹脂入りに転換させた。独自に製法を開発する企業が相次ぎ、国内は吸水樹脂の世界供給基地になった。三洋だけで八度も設備を増強し、現在は年産二万トンに達する。
紙だけで作った時代の使い捨て紙おむつは、国内のお母さんに後ろめたさを持たれ、外出時など臨時用だった。吸水力千倍にも達した樹脂が入ると赤ちゃんを長く寝かせても、かぶれやむれが少なくなり、布おむつだけで育児するお母さんは一割を切るまでに様変わりした。
吸水樹脂は吸い込んだ水を、非常にゆっくり放出する。年々広がっている砂漠地帯や、雨季には水があふれても、乾季にはからからになってしまう熱帯の土壌に水を保たせる研究が進められている。現在は九割まで紙おむつ中心の用途だが、一挙に拡大する可能性を秘める。
《会社》一九四九年、トーメン、東レ両社五〇%ずつの持株で三洋油脂工業として創立。界面活性剤、ウレタン樹脂、水中の汚濁物質を沈澱させる凝集剤、肝機能検査薬など優れた機能物質を開発。売上高五百九十三億円のうち一五%を輸出。資本金百十五億円。従業員千三百人。本社・京都市東山区。
《パソコン通信でのコメント》
先見性に強情さも必要
ようやく化学メーカーの登場です。三洋化成工業は特別な機能を持つ化学物質を生み出す「パフォーマンス・ケミカルズ」を看板にしている会社です。
九回目の松風、十回目の任天堂と、この三洋化成工業とは言わば隣組で、本社工場が東山区の川辺りに並んでいます。強いて共通点を見付けると、もうひとつ、取り上げた商品の種類は随分違っていても、年間で数百万の消費者に届いている点でしょうか。
吸水樹脂を作った増田さんは、この研究で博士号をもらい、社内の研究で博士号を取得した第一号になったという後日談があります。現在の藤本社長は研究所長から新事業開発部の初代部長になり、吸水樹脂が物質開発から工業化に移った時期にはちょうど生産本部長になっていて、サポートを続けたとのこと。「新規開発には先見性の外に、当事者の強情さが必要」と発言されています。石油ショック下で、売れる見込みがない新物質の開発に発揮された会社としての強情さも相当なものです。
開発されてから考えると、この吸水物質は化学の実験室ではよく出来るゲル状の厄介物、つまり出来損ないだったのです。「わたしも作ったことがある。あれがそうだったのか」と残念がる他社の技術者がいたそうです。
三洋化成工業がこんなことをしていると知ったのは、同社広報室が刊行した「パフォーマンス・ケミカルズの開発物語〜この面白くもなんぎな仕事の歴史」(千五百円)という本をいただいたからです。自社出版で大手の書店に直接頼んで置かせてもらっているそうです。いろいろな商品の開発関係者の座談会を録音してから再構成しており、おかげで今回のシリーズ中で唯一、取材開始前からおおよその見通しが立てられました。ただし、お話の構成、素材は大きく違っています。戦後の繊維用油剤から始まってウレタン樹脂関係、界面活性剤、凝集剤などに面白い話がいろいろあります。京都には化学メーカーとしてはもうひとつ、第一工業製薬という「モノゲン」で有名な老舗があり、この本でも繊維用油剤の開発でそこに追い付こうと奮闘する経過が紹介されています。
高吸水性樹脂の販路開拓について
吸水樹脂の開発から販売への動きについて「はしょり過ぎ」とのメールをいただきました。そこで、手持ちの材料で補足します。
七八年に市場開拓を担当したのは、連載に出て来る増田さんと、もともとマーケティング担当をしていた榊原幸一さんでした。研究者の増田さんは当初から農林用も含めて広く売るべきだと主張したのですが、宣伝畑から移った榊原さんは「世界中で使われたことのない商品だから、まずヒット一本打つこと。実績作りを」と説得、生理用品にしぼった売り込みを始めます。連載で指導して回った紹介した件は、樹脂をパルプとパルプの間にはさんでシートにする機械を作り、実演して見せては、その機械を一台ずつ配って歩いたという話です。
しかし、それだけでは売れなかったのです。花王がほぼ同時期に開発して使い始めたことが普及に貢献しました。花王は生理用品に進出する構想をもっていてそのために戦略的に吸水物質を開発していたといいます。花王進出のニュースが流れただけで、既存の生理用品メーカーは三洋の樹脂に飛び付いたのです。そのあとで、紙おむつにも採用されるのですが、ここでも二割程度の育児家庭に普及していたことがバネになり、花王対既存メーカー間の競争拡大といっしょに伸びて行きます。
現在、国内で生産している会社は十社ほどあり、日本触媒化学などは全量輸出です。欧米にも五社ほどあって、世界生産量は十一万トンくらい。国内がその半分です。三洋が八度も設備増強したと書いた通り、どこまで需要が伸びるのか開発者にも見通しがつかなかった新商品です。
吸水樹脂の使途
高吸水性樹脂の使い道は実に多様です。連載記事に書いたのはほんのさわりでした。取材をしていて、いろいろとおもしろい用途を聞かせてもらいましたが、まず、三洋化成が出しているパンフレットなどから抜粋してみます。使っている特性は、吸水して保持する力や膨潤力、ゲル化力、増粘性です。
◎衛生材料・・・・・・生理用品、紙おむつ
◎農薬・園芸・・・・土壌保水、苗シート、農薬肥料の崩壊助剤、キノコ培地
◎食品・流通・・・・鮮度保持剤、食品の脱水、しずくの吸収
◎土木・建築・・・・結露防止建材、種子吹付保水、ヘドロ固化、逸泥防止
◎化粧・トイレ・・ゲル芳香剤、使い捨てカイロ、保冷剤、携帯トイレ
◎医療・・・・・・・・・・創傷保護ドレッシング材、湿布剤、医療用パッド
◎電気・電子・・・・インクジェット記録用紙、通信線止水材、アルカリ電池
◎塗料・接着・・・・水濡れ塗料、水膨潤性塗料、船底防汚塗料
◎その他・・・・・・・・油中水分の除去、ガスケット、消防活動での水損防止
例えば、鮮度保持というのは、魚や肉の余分な水分を取って鮮度やうま味を保つものです。また、冷凍する場合は三、四%の脱水をすると組織の破壊が防止される効果がありますから、この脱水法は有効です。全く知らなかった吸水樹脂の使途に、使い捨てカイロがあります。樹脂を使い始めてから、カイロの熱保持がずっと高性能になったそうです。カイロの構造は鉄粉、活性炭と食塩水を吸った吸収材を密封したもの。開封後に鉄が空気で酸化される反応の熱を利用します。酸化反応の促進に食塩水が要ります。以前はおが屑や木粉などを吸収材にしていましたが、吸収力があまりないから、べたべたして、通気性が悪く、大量に必要なためかさ張る難点があったのです。現在のは、昔に比べて、そういえば小型軽量ですね。
農業用の使い方は、砂漠については鳥取大学などの研究が有名です。砂が多い土壌に〇・一から〇・三%この樹脂を混ぜると、トマトやチンゲンサイの収穫量が二倍にも増えました。この樹脂は水を含んだあと、非常にゆっくりと放して行くから、植物が利用できる水分が増えるとともに、肥料の脱落も防げる訳です。単位面積あたりに撒いた水の量に対する収穫量(かんがい効率というそう)も、同様に二倍程度になると報告されています。
吸水樹脂にはひとつ、欠点があります。紫外線に弱いのです。永久に分解しない合成化合物は困りものですから、分解しないよりましかももしれないませんが、土中で二、三年しかもちません。空気中ならもっと早いようです。
おむつに使うと、赤ちゃんのおむつ離れが遅くなります。布おむつでの子育でも経験したわたしとしては、これには目をつむります。出産後の女性にとって、布おむつ洗濯の労力は大変です。女性の社会進出と紙おむつ化が並行したというのも、この樹脂が商品として持つ社会的意味のひとつでしょう。