実名記者ブログと素人の踏切事故追究 [ブログ時評17]
[This column in English]
メディアに関わっていると目され、実名でブログを持つ方がここ1、2ヶ月の間に続出している。雑誌が主な舞台らしい方で複数人でブログを持つ例もあり、私が見た名前の数だけで20を超える。公開登録する場所も無いから、実際はもっと多数なのかもしれない。もちろん、この他にも多くの方がジャーナリストであることは明かしながら匿名で開設している。この背景には、ブログ全体が現在の100万件から1年後には200万件にも膨張しようとしている流れがある。
本業との関係では試行錯誤、あるいは暗中模索状態にあると感じる。雑誌がもし編集部公認でブログを出せるなら、アンテナショップを出す感覚で大胆にネット上の反応を見るといった試みがあってもよいが、コンテンツを持ち出すのに迷いがある。新聞社ではさらに、そうした感覚は難しい。神奈川新聞のように本体でブログを持つならそこで何でも書けるが、私の会社なら「楽屋裏」の話を社外で書くことに問題がある。私自身について言えば、社名を用いないことで社外活動の自由を得ているから、会社についての質問に答えること自体が約束違反になるだろう。社名を出さない実名の方たちにも同様の見えない制約があるのではないか。仕事がある以上、ブログ用だけの取材も区別が難しい。実名記者ブログが増えても出来ることの範囲は限られるかも知れない。
これに対して最近、素人側から「マスコミ報道をしのぐ仕事をした」と、意気盛んなのが東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切事故の実態究明だ。踏切保安員が手動で遮断機を上げて死者2人を出し半月を経過した。Googleで検索すれば並んでいるのはブログの記事ばかりである。
事故の翌日に、報道記事以外にブログ発信情報をまとめて書いた「大いなる夢:ヒューマンエラー 竹の塚踏切事故を考える」がコメント欄の含めて一種のセンターの役割を果たしているよう。もちろん、多数の方が色々な観点で書いているし、同じ翌日付で「内容の濃いもの」11編を収集している「ブログにコメントGood! or Bad!竹ノ塚踏切事故」など記録の仕事も効いているはずだ。
ここでは事故3日後に書かれた「【竹ノ塚の踏切事故】踏切のおじさんを信頼して、感謝していた私が思うこと。」を取り上げたい。
「あの踏切の職人芸にいつも助けられていた。そういう竹ノ塚人も、実際多いと思うのね。私もそうだし。電車の通過時間の隙間、たった十数秒を的確に読んだ一瞬の踏切開放」「ずっと高架か地下に交通路を確保するべきだという声があった。でも、地元の商店街の反対や、ちょっと前まで東武鉄道の整備工場&大車庫が近くにあったこともあって、高架も地下化も事実上不可能だった踏切です」「あの人だけでなく、駅長さんまで含めた竹ノ塚駅全体の問題も超えて、大きく駅前再開発とか都市計画まで含めた様々なしがらみのなかで、起こってしまった事故だと考えます」
引用の順序は入れ替えているものの、これだけで何があったのか、ほぼ見えてしまう。現場の日常を知る素人の強さであり、ブログで発信する意味の大きさを誰もが納得しよう。
こうした素人側の可能性は日常を素材にするものに限られるわけではない。自分からルポライターとして取材に乗り出しているブログがある。普通のOLを辞めて始めた「Grip Blog私が見た事実」である。毎週、未知のテーマを設定して毎日、対象に直接、会い、取材データを掲載し、週末にまとめをする驚くほどエネルギッシュな取材。旬のルポデータを素材として提供するという点だけでも発信の意味はあるのだろうが、対象の全体像をどう描くかに悩まれているように見受ける。残念なことに体調を崩して一時休止になっている。
「ネットジャ−ナリズムの行方」をテーマに面会を頼まれたが、新幹線ではるばる来てもらって短時間しか時間が割けないのでは申し訳ないので断ったことがある。取材費用や生活はどうするのか心配ではあるが、自分の足で取材する人がもっと出てこないか、ネットを歩きながら見回しているところだ。
本業との関係では試行錯誤、あるいは暗中模索状態にあると感じる。雑誌がもし編集部公認でブログを出せるなら、アンテナショップを出す感覚で大胆にネット上の反応を見るといった試みがあってもよいが、コンテンツを持ち出すのに迷いがある。新聞社ではさらに、そうした感覚は難しい。神奈川新聞のように本体でブログを持つならそこで何でも書けるが、私の会社なら「楽屋裏」の話を社外で書くことに問題がある。私自身について言えば、社名を用いないことで社外活動の自由を得ているから、会社についての質問に答えること自体が約束違反になるだろう。社名を出さない実名の方たちにも同様の見えない制約があるのではないか。仕事がある以上、ブログ用だけの取材も区別が難しい。実名記者ブログが増えても出来ることの範囲は限られるかも知れない。
これに対して最近、素人側から「マスコミ報道をしのぐ仕事をした」と、意気盛んなのが東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切事故の実態究明だ。踏切保安員が手動で遮断機を上げて死者2人を出し半月を経過した。Googleで検索すれば並んでいるのはブログの記事ばかりである。
事故の翌日に、報道記事以外にブログ発信情報をまとめて書いた「大いなる夢:ヒューマンエラー 竹の塚踏切事故を考える」がコメント欄の含めて一種のセンターの役割を果たしているよう。もちろん、多数の方が色々な観点で書いているし、同じ翌日付で「内容の濃いもの」11編を収集している「ブログにコメントGood! or Bad!竹ノ塚踏切事故」など記録の仕事も効いているはずだ。
ここでは事故3日後に書かれた「【竹ノ塚の踏切事故】踏切のおじさんを信頼して、感謝していた私が思うこと。」を取り上げたい。
「あの踏切の職人芸にいつも助けられていた。そういう竹ノ塚人も、実際多いと思うのね。私もそうだし。電車の通過時間の隙間、たった十数秒を的確に読んだ一瞬の踏切開放」「ずっと高架か地下に交通路を確保するべきだという声があった。でも、地元の商店街の反対や、ちょっと前まで東武鉄道の整備工場&大車庫が近くにあったこともあって、高架も地下化も事実上不可能だった踏切です」「あの人だけでなく、駅長さんまで含めた竹ノ塚駅全体の問題も超えて、大きく駅前再開発とか都市計画まで含めた様々なしがらみのなかで、起こってしまった事故だと考えます」
引用の順序は入れ替えているものの、これだけで何があったのか、ほぼ見えてしまう。現場の日常を知る素人の強さであり、ブログで発信する意味の大きさを誰もが納得しよう。
こうした素人側の可能性は日常を素材にするものに限られるわけではない。自分からルポライターとして取材に乗り出しているブログがある。普通のOLを辞めて始めた「Grip Blog私が見た事実」である。毎週、未知のテーマを設定して毎日、対象に直接、会い、取材データを掲載し、週末にまとめをする驚くほどエネルギッシュな取材。旬のルポデータを素材として提供するという点だけでも発信の意味はあるのだろうが、対象の全体像をどう描くかに悩まれているように見受ける。残念なことに体調を崩して一時休止になっている。
「ネットジャ−ナリズムの行方」をテーマに面会を頼まれたが、新幹線ではるばる来てもらって短時間しか時間が割けないのでは申し訳ないので断ったことがある。取材費用や生活はどうするのか心配ではあるが、自分の足で取材する人がもっと出てこないか、ネットを歩きながら見回しているところだ。