新聞への誤解、実は変えるべき体質 [ブログ時評22]

 ブログを開設して間もなく半年になる。この間、新聞について誤解した発言をあちこちで見た。今回は最近、出会った二つを取り上げたい。片方は完全な誤解、他方は誤解というよりも世間の了解とすべきではあるが、いずれも新聞側がこのまま放置してはいけない問題である。

 まずこれ。「新聞の読み方」(夢と希望と笑いと涙の英語塾)が先日の一面ニュース「朝鮮人徴用100社調査」がネットに流れなかったのは意図的だと抗議していらっしゃる。「反朝日新聞の立場を取るインターネット・ユーザーにブログ等で引用されたくないという朝日新聞の意図が見え見えではないですか」との裏読みにまで発展している。

 新聞社は特ダネ記事だけは昔からネットに出さない。系列のテレビやラジオにも流さないのは、特ダネ流出を恐れる数十年来の習慣である。その基準なり扱いについて、実はどこにもアナウンスされていない。「紙の新聞なんかなくても、どの新聞もネットで読めるしね」と安易に考えている方に、もう一つ、お教えしておきたい。経済面などの読者にはトップ記事より下段のベタ記事から読む人がいる。それに独特の価値を感じていらっしゃるからだ。ネットにこうした記事まで流していたら際限が無いので、こんな「価値ある」ベタ記事もネットには現れない。

 ベタ記事はともかく特ダネ記事は、新聞が配られる時刻を見込んだ時間差を付けてでも配信しなくては、ネットで読む読者層がここまで拡大している時代に合わなくなった。新聞社サイトに来てもらえれば、主要ニュースは全部読めるのが今の常識だと思う。現状では各社の一番の売り物ニュースはネットで読めない。

 もう一つは「新聞は読んでもよく分からない」と子どもたちから言われている問題である。いや、大学生からもそう言われ始めている。分からせようと書いている小学生や中学生向けの新聞は良いけど、大人の新聞は無理――我が家の下の子もこのタイプである。

 メディア職場を経験して英国に勉強に出ている方の「新聞を読む理由 個人的見解」(小林恭子の英国メディア・ウオッチ)で「必要な情報が入っていないことを、時々感じたが、『日本の新聞は、既に起きたことをいちいち書かない。これまで報道されたことは、《読者が分かっているもの》として、はぶいて書いてあると職場の先輩に説明され、その、『既に報道されたこと』を分かっていない自分の知識のなさを恥じるばかりだった」とあるのを読んで、本末転倒と思った。

 恥じる必要はない。既報分とのダブりを嫌うあまり、毎日読まないと分からない、ある日急に子どもが開いて読んで分からない新聞にしているのは大きな欠陥だ、と私は新聞社内で公言し、同意する幹部もいる。大人の読者だって毎日、全部を見ていられないはずである。しかし、活字が大きくなって減った文字数分に同じ本数の記事を無理して詰め込んでいるから、省略傾向はますます強まっている。はっきり言って読んで分からなくて当然なのだ。

 記事本数を減らしてでも、ダブりをタブー視しないで丁寧な記事を提供するしかない。それには横並び意識を捨て「特落ち」をどんどん容認するしかなかろう。新聞紙面で読者に何を提供しようとするのか――新聞編集の意思決定のあり方を深いところから変えねばならない。無難な網羅主義から早く転換しないと、新聞が読んで分かる読者をどんどん少数派にしてしまう。新聞を購読しなくなった若年無読層問題の原点は、子どもが読んで分からなくなったところにあると考えている。決して販売部門が主体で取り組む問題ではない。