福島判決:医療界の安堵と患者側の不信 [BM時評]

 福島県立大野病院・帝王切開死での20日福島地裁判決を巡って、ブログに様々な声が飛び交っています。産科医無罪の判決そのものは論理的に妥当なものでしょう。「ある産婦人科医のひとりごと」の「大野病院事件 産婦人科医 加藤克彦被告に無罪判決 (詳細)」が「もしも、今回の裁判で有罪の判決だった場合は、『癒着胎盤を少しでも疑ったら、何でもかんでも、直ちに子宮摘出を行わねばならない!』という判例となってしまうところで、産科臨床の実際とはとんでもなくかけ離れた判決になるところでした」と指摘している通りです。非常に稀な症例を心配して、数多く子宮摘出してしまう恐ろしいことになる恐れ大でした。もちろん、摘出してしまえば、もう子どもは産めません。

 今回のメディア報道で気になったのは、亡くなった妊婦の父親の不信感の強さです。当初はメディアが強調しすぎかとも思ったのですが、どうも本気のようです。「大野病院でなければ、亡くさずにすんだ命」という言葉が読売にも産経にも出ています。父親は大病院に移されていたならば助かったと信じ、移すよう助言する助産師らがいたのに産科医が耳を貸さなかった点に不審を感じ、裁判にその解明を求めていたようです。

 例によって1面から社会面まで展開されている新聞記事のほんの一部しか、ネットに提供されていません。ネットに出ない中で朝日の朝刊2面「時時刻刻」にある症例記事は注目ものでした。2006年11月、都内の大学病院で癒着胎盤と診断された20代の女性が、大量出血を避けるために帝王切開から、直ちに子宮摘出手術に移ったのに出血死してしまいました。今回の裁判で検察側が求めた通りに処置した例です。この病院は最もレベルが高い総合周産期母子医療センターだったのですから、福島のケースも大学病院に移っていても必ずしも助かっていなかったことを暗示します。それにしても何年も経つのに、病院側が遺族を納得させる説明が出来ていないことが残念でなりません。

 このあたりの問題と背景について「法医学者の悩み事」の「大野病院事件無罪判決」はこう分析しています。「遺族は、かなり辛いだろう。しかし、遺族の心のケアが、刑事裁判でされるものではないというのは、この事件でよくわかる。背景には、刑事手続で得られた情報が、全く非開示となり、裁判でしか出てこないという日本独特のあしき風潮がある」「情報開示がないので、示談もとまってしまう。問題の本質は、そうした日本の刑事手続き上の秘密主義を改善しない限り、改善しないだろう。事故調を作るとしても、それと並行してそうした部分の改革は必要なはずだ」

 今回の判決は検察側完敗の形ではありますが、論理構成まで否定はしていません。むしろ、大枠では検察の考え方を認めています。足りなかったのは、この産科医が取った行動を否定するだけの学問的な裏付け、あるいは専門家による証言です。産婦人科の学会をあげて被告の産科医に肩入れする中で、検察側は適切な証人を見つけるのに苦労する有り様でした。こうなるとは予想外だったと漏らす検察幹部もいるようですが、潰されたメンツにかけて控訴して戦う可能性もかなりあると思えます。

 いずれにせよ、ひとつの判決が大きな解決策になるはずもなく、影響は限定的でしょう。関係者の合意形成で制度を急いで直さなければならないのに、あっちの分野もこっちの分野も進まないのが日本の現状です。