第282回「原発震災報道でマスメディア側の検証は拙劣」

 東日本大震災と福島原発事故をめぐる国内マスメディアの報道ぶりは一般大衆から強い批判を浴びています。まるで「大本営発表」報道だったり、依拠する専門家が偏り放射線被曝を軽視したり、取材現場を捨てて恥じない報道の有り様に、マスメディア側の自己点検・検証がようやく始まりました。マスコミ倫理懇談会の全国大会や新聞週間の特集などです。しかし、本当に判っているのか疑わしい拙劣さ・愚劣さが見えます。

 下野新聞の《原発震災報道を検証 マスコミ倫理懇》はこう伝えました。「約50人が参加した『原発災害をいかに伝えるか』では、福島県飯舘村の菅野典雄村長、南相馬市の桜井勝延市長のインタビューを上映。原発事故直後、政府の避難指示や屋内退避指示に伴い多くのメディアが原発被災地での取材を控えたことについて、桜井市長は『メディアの役割は現場で起きている事実を正確に伝えること。被災地なのに情報も分からず、取り残された』と指摘した」「これに対し、討論では『取材陣の安全面をどう確保したらいいのか葛藤した』『放射線量を測定する専門家を同行させるなど対応策はあったはず』などの意見が出された」

 この問題で朝日新聞の15日付新聞週間特集が記者管理責任者の発言を収めています。「強い危機感を持ったのは3月12日午後の1号機水素爆発」「夜になり政府は避難指示を原発から半径20キロに拡大したが」「チェルノブイリ事故での避難と同じ半径30キロから外に出て、屋内取材を中心にするよう福島の記者に指示した」

 事故が拡大していく始まりから現場を捨て完全に引いてしまう判断です。さらにフリージャーナリストが現地取材をする例が出ても動きません。「朝日OBからは『突っ込め』という声も寄せられた。社内では『志願者に行かせたらどうか』という意見もあったが、警戒区域内での単独取材には踏み切れなかった」と、知恵がない優柔不断ぶりを長々と書いています。

 記者の低線量被曝をこれだけ怖がっているのに、3月16日朝刊紙面では「100ミリシーベルト以下なら健康上の問題になるレベルではない」との専門家談話を載せているのです。今これを書けば新聞を買ってもらえなくなるかも知れません。ダブルスタンダードと言うよりも、取材力の無さ、幹部判断力の欠如が、報道紙面と取材行動と両方を縛っています。内外多数の専門家の意見を広く集約する取材力があれば、放射線被曝影響を異様に軽視する紙面を作ることもなければ、現地の南相馬市長が呆れるほど腰が引けた電話取材を延々と続けることもなかったはずです。放射線への恐れ方を突き詰めないで記事を書き続けた点こそ問題です。(参照記事

 朝日新聞は14日付でマスコミ倫理懇談会の特集も出しています。「取材の壁・報道の揺れ」分科会で出た事故発生直後へのサイエンスライターの田中三彦さんの批判を紹介しています。「メーカーの技術者やOBに意見を求めず、過酷事故の分析や予測が得意と言えない推進派の学者を起用した。専門知識の欠如やパニックを恐れた踏み込み不足の報道も目についた」

 東電の情報統制は厳しくて、福島第一発電所内の建物配置図さえ公表されていませんでしたから、大阪にいる私などは基礎情報欠乏で苦労しました。それでも3月12日の「福島第一原発は既に大きく壊れている可能性(追補あり)」で最初から炉心溶融必至と指摘したのに、いつしか報道から炉心溶融の言葉が消え、5月半ばに突然1〜3号機とも全面溶融していたとの発表になりました。

 朝日新聞の新聞週間特集を見て納得しました。科学医療エディター(部長)の談話として「原子炉は何時間空だきするとどうなるのかなど詳しいデータを知っていたら、もっと的確に記事を書けた」があります。「知っていたら」ではなく、ニュースソースを見つけて疑問に思うことを知る、データを取ってくるのが取材なのです。部員は記者会見の放送を聞いているばかりだったそうです。新聞社の名刺を出して知らない人に会ってくる基本行動が取れなくなっているのだと知りました。

 福島事故で最初から責任を問わないと標榜している政府の事故調査委に期待が持てない中で、一般寄付を募って進行している「FUKUSHIMAプロジェクト」は事故責任の所在を明らかにしてくれそうです。国会にも国政調査権に基づく事故調査委が出来ます。マスメディア側が再生を期すならば自前の取材力で何があったのか掘り起こして欲しいものです。