第288回「2、3号機救えた:福島原発事故の米報告解読」

 米国の原子力専門家組織が、福島原発事故について初めて時間を追って現場の措置・経過を詳細に記した98ページ報告書を公表しました。事故後8カ月も経過しながら国内に同種の報告が存在せず、どうして原子炉が3つまでも炉心溶融を起こしてしまったのか、統一した理解が出来ませんでした。報告を解読して浮かび上がるのは、どの炉でも炉心を冷やす注水の判断遅れが根底にある点です。津波襲来で全電源を失った今回事故でも自動的に冷却を続けてくれる最後の持ち時間はあり、その間に早く廃炉の覚悟をし海水注入に踏み切れば2号機、3号機は炉心溶融から救えたと読めます。東電の愚図愚図ぶりに苛立ちを覚えます。これだけの大事故の収拾にはナショナルチームであたるべきなのに、一企業の欲得がらみの対処に任せた政府の責任は大きいと考えます。

 報告は東京電力の操作員や幹部からの聞き取りと東電データ閲覧で出来ています。「Special Report on the Nuclear Accident at the Fukushima Daiichi Nuclear Power Station」で、日本国内では「事故対応に追われているから」と本格的な事故経過取材に応じていない東電のダブルスタンダードに、マスメディアは怒らないのでしょうか。

 【1号機】住民避難完了を待ちベント?

 最後の持ち時間は各原子炉に備えられた緊急時対応装置によって決まります。一番短いのが旧式の1号機で非常用復水器は最大8時間しか動きません。3月11日午後4時前には津波による全電源喪失ですから、11日中に代替えの冷却を始めなければ核燃料が溶け始めると覚悟しなければなりません。夕方には消防車による炉心注水を決めますが、消防車は道路が地震で破壊されて到着が遅れ、淡水注入を始めたのは翌12日午前6時前です。午前2時45分には原子炉圧力容器に穴が開いて格納容器と同じ圧力に下がったと観測されていますから、この時点で炉心溶融は起きてしまっていたとみるべきでしょう。既に勝負は着いていました。非常用復水器はなぜか途中で運転が停止され、冷却機能は3分の1しか使われなかったと判明しています。

 1号機では格納容器の高圧破壊を防ぐための大気放出「ベント」が遅れ、被害を大きくしたとの批判があります。当時の菅首相が12日早朝に現地入りした関係で遅れたとの見方がありましたが、この報告は注目すべき東電側釈明を入れています。「6時50分、経済産業省は1号機のベントを命令」「7時11分、首相到着、討議の後、東電は住民の避難が完了したら午前9時にベントすると約束した」。この報告を紹介しているニューヨークタイムズの「Report Gives New Details of Chaos at Stricken Plant」は「この報告が示唆するところ、当初のベント遅れは原発幹部が周辺住民の避難を待つよう求めたからだ」としています。

 しかし、9時すぎ実際にベント操作を始めてみると電源があるとの前提で書かれた手順書と違って、容易に進みません。遠隔操作できないので現場に行ってバルブを操作しようとしても、放射線量が高すぎて帰ってくる作業チームも出ます。電池を持ち込んだり、空気圧縮器を導入したりして午後2時半にようやくベントが成功しました。この直後に防火用水からの淡水源が尽きてしまい、所長から海水注入に切り替える指示が出され、作業員は海辺からの中継ホースの設置に追われました。

 格納容器から外部へ放出があったのですから、穴で繋がった圧力容器から、ジルコニウム水蒸気反応で作られた水素が格納容器に流れ込みました。設計圧力の2倍もの高圧に長く晒された格納容器に隙間が出来ていた恐れは強く、原子炉建屋にも漏れだしたと見られます。正確なガス流出経路は不明ですが、午後3時36分に水素爆発が起きてしまいました。早々に炉心溶融した状態で長時間、ベントを遅らせたのが不利な条件を生んだ点は否定できないでしょう。海水注入は爆発の後で始まりました。

 【3号機】海水注入に切り替えで失敗

 2番目に爆発した3号機の緊急時対応は原子炉隔離時冷却系で20時間後の12日正午過ぎに停止し、代わって高圧注水系が自動的に起動してくれました。しかし、高圧注水系も13日午前2時過ぎには電池切れで停止しました。消火用ディーゼルポンプで注水を始めますが、圧力容器が1号機と違って高圧すぎて水が入りません。逃がし安全弁を開いて圧力を下げるべきなのですが、これも電源無しでは動きません。格納容器のベントは午前8時半ごろに成功、間もなく集めてきた電池で逃がし安全弁も開くことができ、淡水注水が始まりましたが、正午過ぎには淡水源が尽きてしまいました。

 海水注入に切り替えるべく急ぎましたが、余震発生による避難などでもたつき、炉心の水位は大きく下がってしまいました。午後1時の測定では核燃料の上端から2メートルも露出していると判明しました。海水注入が始まっても核燃料の露出はずっと収まりません。原子炉の水位や圧力は一度、変動してしまうと簡単には元に戻せません。最初から海水注入を続けていれば善かったケースでしょう。結局、丸1日、核燃料の冷却は足りず、炉心溶融から水素ガス発生に至ります。消防車の追加や自衛隊給水車の派遣を要請しても遅く、14日午前11時過ぎに原子炉建屋で水素爆発が起きました。爆風は周辺に配置されていた発電機や消防車、給水ホースなどに大きな被害を与えました。

 【2号機】60時間もの余裕を生かせず

 1号機と3号機の爆発で割を食ったのが2号機です。2号機は12日午後3時半には応援に駆けつけた電源車との接続が出来て機能回復に向かっていたのに、わずか6分後に隣の1号機が爆発し、電源車も接続ケーブルも直撃されて回復不能に陥りました。14日の3号機爆発では圧力抑制室のバルブが閉じられなくなり、海水注水用に展開した消防車や中継ホースが痛めつけられ、準備作業に支障を来しました。

 悪いことに爆発から間もない14日午後1時過ぎ、緊急時対応の原子炉隔離時冷却系が止まったと判断され、この時、原子炉水位は核燃料の上端から2.4メートルも上でした。しかし、午後4時半には核燃料の露出が始まりました。海水注入には圧力容器が高圧すぎるので逃がし安全弁を開く準備に掛かりますが、集めた電池のパワー不足で開きません。注水無しで水位は下がり続け、ジルコニウム水蒸気反応で水素ガスが発生していきました。

 午後6時には逃がし安全弁の開放に成功しましたが、圧力はなかなか下がらず、水位はどんどん下がる副作用を生んで核燃料の全面露出にまで至ります。逃がし安全弁開放で水素ガスと放射性希ガスは格納容器に流れ出しました。海水注入が可能になったのは午後7時20分でした。その後も炉心の水位回復は進まず、翌15日午前6時頃、圧力抑制室付近での小爆発による損傷で大量の放射性希ガス外部流出に至ったと考えられます。3つの原子炉で最も長い60時間以上も時間的な余裕があったのですから、原子炉隔離時冷却系が止まる前に海水注入の条件整備をしておけばと悔やまれます。

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 民間レベルで福島事故の調査活動をしている「FUKUSHIMAプロジェクト 」の委員長、山口栄一同志社大教授は「FUKUSHIMAの本質を問う【1】原発事故はなぜ起きた?」で「1号機の場合は毎時25トンの水を入れ続ければ熱暴走を防げますが、貯水タンク内の淡水では到底足りません。豊富にあるのは海水だけ。もはや、海水注入以外の選択肢はなかったのです」と指摘しています。淡水が尽きたら海水に切り替えるのは素人目には当たり前でも、今回の報告にある原子炉の思うようにならない特性を考えると、3号機のように海水注入で将来は廃炉やむなしの判断を先送りして、まず淡水を使ってみる戦術は自殺行為と評すしかありません。

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