第3回「ビール戦争・地ビール・自ビール」
◆談義を通り超え、自醸も
ビールはチグリス・ユーフラテス川のデルタ地帯、現在のイラク付近にメソポタミア文明を築いたシュメール人あたりから始まったらしい。泡立つビールの器を象形化した楔形文字がある。今から3000年前の古代都市にはすでに30ものビールブランドが存在したというから、ビールについての喧しい談義は、人間社会で相当な歴史があることになる。当時の製造ロット規模は今はやりの町興しを狙った地ビールよりも、家庭で試みる自醸ビール(自ビール)に近いかもしれない。
インターネット上で自ビール経験を披露している人がいる。酸っぱくしてしまった苦労談は、温度管理や二次発酵などビール造りとは何かを考えさせてくれて面白い。私が昨年末に出席した忘年会に自慢の自ビールを持ち込んだ人がいて、なかなかの味だった。業者から手作りキットを買えば、素人にも簡単に造れる時代になった。
昔のビール造りは小規模に地域色豊かに営まれた。ところが、160年ほど前にチェコスロバキアでピルゼンビールという傑作が生まれ、現代ビールの源流になって世界中に広まり、小規模醸造所を駆逐していった。明治期に日本国内に入ってきたビールは、この完成されたビールだった。だから少し前までの国内ビールは、目隠しテストをしたら銘柄を間違える人が多数という程度の差しかなかった。
その流れを変えてしまったのが、'87年登場のスーパードライだった。あれから実にさまざまな飲み口の銘柄が消費者に提供されるようになった。今年に入って2カ月で内外いろいろ約30種も飲んでみたとレポートしている人がいる。新銘柄には疑問符が多く、売れ続ける銘柄がそんなに簡単に生まれるものではない、と図らずも語っている試飲報告である。
◆新市場獲得には味のからくり
この10年間に起きたビール業界のシェア変動で、キリンが62%から47%に落ち、アサヒが10%から30%に伸びた。これだけ見るとキリンは「夏場に歌って暮らしたキリギリス」のようだが、そうだろうか。キリンが世界各国のビール協会などにアンケートしてまとめた世界のビール生産量に、「国別ビール生産量10年前との比較」があり、'95年時点で日本は10年前比で41%も生産量が伸びている。経済発展のあった中国、ブラジル、韓国あたりが大幅増で、米国、ドイツなど先進工業国は微増微減の範囲にある。それなりに成熟した市場になっていたはずの日本で、何が起きたのか。
計算を見やすくするために、10年前='85年の生産量を指数「100」で表す。このうちキリンは「62」、アサヒは「10」だけシェアを持っていたとする。'96年は'95年比0.8%の微増だったので現在の生産量指数は「142」だ。今のシェアを当てはめると、そのうちキリンは「66.7」、アサヒは「42.7」ということになる。前後の差をとると、キリンは少ないとはいえ「4.7」だけは増え、アサヒは実に「32.6」と、全増加分の8割を独り占めした様子が浮かび上がる。アサヒが獲得したのは既存の市場ではなく、新しい市場だったと判断してよかろう。
インターネット上にもう1つ、この10年間で大きな変動を見せた、ビール産業に関連する指標がある。「アルミ缶の生産量と資源化量の推移」で、これはスチール缶・アルミ缶のリサイクル関係のページに掲載されている。スチール缶の生産も増えてはいるが、アルミ缶の69,000トンが264,000トンへと激増しているのに比べると影が薄い。
ビールは瓶、缶、樽の3形態で出荷される。業界シェア35%分を缶で供給すると、何トンのアルミが必要になるか調べてみよう。'96年の総出荷量は大瓶20本を1ケースとして5億4591万ケース。大瓶1本の容量は633ミリリットルだ。350ミリリットルアルミ缶の重さは、台所の調理用はかりで実測18グラム。これらをもとに計算すると、以下のようになる。
545,910,000×20×0.633×35%÷0.350×18÷1,000,000=124,402トン
ビール瓶のリサイクルシステムを回しながら供給を急に膨らませるのは、物流が大変だ。スーパードライは、このアルミ缶供給激増が示す一方通行型販売の拡大によってのし上がったというのが、私が推測する結論である。缶ビールはかつて簡易・急場しのぎ用として存在したが、スーパードライは本格「缶飲み」ビールであったことが、それを可能にした。
ラガーとスーパードライの冷やした缶を用意しよう。それからガラスのコップも2個。両方とも缶を開けたらそのまま、まず一口飲もう。私の口にはラガーは苦すぎて、あのうま味が感じにくい。スーパードライには適度に刺激的な清涼感がある。今度はグラスに注ごう。たっぷり泡を立てるよう高いところから注ぐ。ラガーからは適度に苦味が抜け、ほろっとした甘さが加わる。比べるとスーパードライは何か抜けたような、物足りなさが残る。
ビールの本体はちょっと甘い液体で、そこに苦味成分のホップが混じっている。苦味成分は泡にくっつく性質があり、泡を立てるほど苦味を抜いて、本体に潜む甘さを引き出すことができる。苦さと甘さの対比を飲み手の好みで意のままにできるのがビールの第1法則で、ラガーはそれに沿ったビールと言える。ところが、スーパードライは私の入手したデータでは苦味を'87年当時のラガー比で60%に落とし、同時にアルコール度数を上げ、甘さも抜いて淡泊にしてしまった。ビールの第2法則「薄味の銘柄ほど冷やし、濃厚な銘柄ほど室温近くで飲む」と併せて、強く冷やした缶のまま飲むのに適した味付けになっているのだ。第2法則は味覚の温度依存性、つまり甘味は低温ほど感じにくくなることで説明できる。
◆地ビールの元祖はキリン
地ビール製造は政府による規制緩和の一環として、ビール製造免許を与える最低規模を年間2,000キロリットルから60キロリットルに下げて可能になった。'80年代に欧米でレストラン併設のミニブルワリーがブームになった影響を受けている。すでに100カ所を超えた。日本地ビール協会のページもあるが、業界事情は「Japan Microbrewers' Network」のほうがつかみやすい。ここには「地ビール元年」の'94年12月から始まった製造免許取得の業者一覧まであり、急増ぶりが手に取るようにわかる。
しかし、国内初の地ビールは、意外にもキリンの京都工場から生まれた。'88年に、それまで大瓶16万本分を一度に造る標準プラントから、敢えて10分の1サイズに落とした生産性の悪い施設を設けて、女性好みの「No.1497」、ドイツ風の「アルト」などを造る。
大瓶16万本分=10万リットルが、巨大で自動化されたビール工場のタンク群の単位になっている。1立方メートルが100個分だから、断面が2メートル四方なら高さ25メートルにもなる。本当のところタンクの内部で何が起きているのか、技術者もつかみかねる規模といえる。いっぽう、多数の工場を統括するビール各社の本社側は、試買部隊を全国に派遣しては化学分析し、許容限度から外れた製品を見つけると工場に警告、品質管理に躍起だ。しかし、化学分析で許す幅に入っても味を保証するものではない。行きつけのビヤホールで樽が替わると味が違った経験がある。
'79年に米国で起きたスリーマイル島原発事故は当初の見方と違って、時間がたつほど炉心内部の深刻な崩壊ぶりが明らかになった。その意味を「巨大化したプラントで運転員が起きていることの本質を見失った点にある。他人事ではない」と感じた当時の技術担当常務が、もの造りの原点を経験し直す設備として構想したのが、この国の地ビール元祖なのだ。その真摯さは記憶されてよい。