第38回「脳の研究を睡眠分野から垣間見る」

 米国は'90年代を「脳の10年」と位置づけ、それまで癌の研究に注いでいた力を脳の研究に大きく振り向けた。癌を克服した先にあるのは、長寿化による老人性痴呆の多発でもあるからだ。国内の立ち後れを心配する声は大きくなるばかりだったが、'97年秋に、ようやく理化学研究所に「脳科学総合研究センター」が設置された。脳の研究は、知情意の機構解明から脳型コンピューターまで実に幅が広い。そして、研究はいずれもほんの入り口段階であり、我々は巨大な迷宮に迷い込んだアリに近い。今回は、国内の研究者が国際的に太刀打ちできる仕事をしてきた睡眠の分野から、脳研究の現状をのぞいてみることにしよう。

◆脳科学・その研究戦略

 研究費・研究者数の日米比較について、「脳科学の状況及び問題点」が詳しい。この分野の研究費は、米国が国立衛生研究所(NIH)だけで年間1,200億円あるのに対して、国内は科学技術庁、文部省、厚生省、通産省関係などに各大学の予算を積み上げて年間100億円にすぎない。彼我の物量差は今に始まったことではないが、米国が一歩先に癌の研究からシフトしている点が効いていることは間違いない。

 また「米国では、『脳の10年』推進を契機として、脳神経科学部門や脳研究所が主要大学に設置され、これに伴い研究者も飛躍的に増加し、20年ほど前に数百人規模で発足した神経科学会の会員数は現在では約2万5千人となり、脳科学に関連する研究者の総数は10万人を超えると概算される」。これに対して、「我が国の脳科学に関係する研究者数は、日本神経科学学会の会員約3,000名やそのほかの関係諸学会の会員数からみて、およそ1万人程度と概算される。なお、これに情報科学、工学や心理学等の立場からの脳科学関係の研究者を含めるとかなりの裾野があり、大きな潜在力があると思われる」状況。だから「我が国の研究者数は米国に比して数分の1程度であり、絶対数が不足している。医学、生物学を中心に理工学及び人文・社会科学の研究者を含めれば潜在力はあり、絶対数を増やすことはもちろん広範な領域の研究者を糾合することが望まれている」と説く。

 一方で、「我が国の脳科学研究は、大学の講座や研究所の一部門などの小さな研究単位で行われており、規模が小さい。研究では、規模がある程度を超すと活動度が格段に増大するが、現状は小さな研究者集団が散在しているだけであり、大規模化による活動効率を高めることが望まれている」「最近の脳科学の急速な進展は、最新の理工学技術を駆使した先端的大型機器・設備を必要とするが、これらはいずれも高額で、小さな研究単位で全てを整備することは極めて困難となっている」と指摘する。理研に設けられたセンターは、後者の問題点を取りあえず解決する手段だが、前者が示す研究者パワーの格差を解消するものではない。この連載13回目「大学改革は成功するか」で述べた、工学系へのマンパワー配置が過大である影響はこんなところにも現われており、解消の手は打たれていない。

 「『脳科学の時代』・戦略目標一覧」には、20年後に実現予定の「自己意識、社会意識の解明」「言語と思考、知性との関係の理解」「ヒト脳の老化の制御」「人工神経・筋の開発」「人と共生する個人用脳型コンピュータ」「人の意志を理解し行動するロボット」などに至る、5年単位のスケジュールが示されている。私はちょっと甘すぎる目標設定だと思っているが、これが国の考えていることだ。

 '97年夏には、科学技術の将来を予測する科学技術庁・科学技術政策研究所の「第6回技術予測調査」が公表されている。その終わりに様々な分野の技術予測年表がまとめられており、「ライフサイエンス」分野の調査結果を示す一覧表を見ると、「睡眠と夢見の神経機構が解明される」のは2017年となっている。睡眠分野の研究は、上述の戦略目標スケジュールの項目と比べて、かなり手強いとみられている。

◆睡眠をつかさどる脳内物質

 睡眠を引き起こす物質の探求は長い歴史を持ち、既に40種類以上の睡眠促進物質が生体内から発見されている。国内が研究者数では負けていても、質で誇れる部門の一つである。睡眠の研究には物質を重視する流れと、神経系を主と見る流れがあり、脳内物質だけで全て説明されるとは言えないが、物をつかまえているのは何と言っても強みだ。現在は、増えすぎたとも言える睡眠物質の相互関係にもスポットがあてられている。

 古典的な睡眠促進物質の探索法は、多数のネズミを長時間、断眠させておいて、断頭し脳を集めて化学分析、脳内に増えた物質を割り出す。東京医科歯科大・医用器材研究所の「制御機器部門」は、国内の先駆けとして「自動断眠装置を開発し、断眠動物の脳から『睡眠促進物質 SPS』を抽出し、被実験動物を拘束することなく長期にわたって睡眠物質の作用を解析できる『長時間脳室内連続注入法』を確立し、化学部門と共同でSPSから2種類の有効成分を同定した。さらに行動レベルのみならず分子レベルまでを包括する実験システムを構築し」、国際的に評価されている。

 これとは別の発想からも、強力な睡眠促進物質が見つかっている。血圧の上昇・降下や発熱など、多彩な生理作用が知られていた生理活性物質プロスタグランジン(PG)の仲間「PGD2」だ。しかも、わずかな構造の違いで、逆に覚醒を促す役割をする物質「PGE2」もペアで見つかった。「早石生物情報伝達プロジェクト」には、「研究により、PGD2が自然な眠りを引き起こすこと、また、PGE2が覚醒を促すことを発見し、睡眠の機構解明に糸口を与えました。PGの微量定量法の開発、PGD合成酵素やPG受容体の脳内分布・PGF合成酵素の構造と機能の解明・脳内PGの無侵襲的検索法の確立等を行ないました。一方、うつ病患者中のPGが健康者より多いこと、PGをメチルエステル化すると脳内に移行し易いこと、PGに眼圧低下作用があること等を見い出し」と概括されている。サルの脳内に投与して眠っている写真、PGD2とPGE2が脳内の違う場所に働いていることを示す分析写真などもあり、研究のレベルを実感できよう。PGD2は脳の周辺部や下部でつくられ、目の奥にある前脳基底部に働きかけている。その眠りは睡眠薬と違って極めて自然で、サルの脳内に注入した実験で強力な作用が確かめられている。しかし、生体内では速やかに別の物質に変化してしまう。従来の断眠実験手法で見つからなかったはずだ。

 「早石生物情報伝達プロジェクト終了記念シンポジウム講演要旨集」に、広範囲な機能と問題点について詳細な記述がある。例えば、こんな物質が発見されているなら自然の睡眠薬作りは簡単と思われようが、脳は血液が余分な物質を運んできても、大事な脳内に入れないためのバリアを備えている。非常に目の細かい、こし網のような機構だ。プロスタグランジンを薬にするには、速やかな化学変化の性質とともに悩みの種であり、「血液脳関門とプロスタグランジン」で検討が紹介されている。

 物質を見つけ、それを動物の脳内に注入してみる、といった古典的な手法に加えて、最近では遺伝子工学の応用が盛んだ。「睡眠の遺伝子工学」は、「トランスジェニックマウスやノックアウトマウスを用いることにより、特定の遺伝子産物を大量発現させたり、逆に、特定の遺伝子を欠損させ、それらの動物の睡眠の変化を実験的に調べることができるようになった」「遺伝子操作を脳の特定の部分に限定したり、任意の時点から開始することも可能にしてきている。これらの技術を用いれば、睡眠に関与すると予想される様々な物質や代謝系・情報伝達系の個々の成分について、睡眠への関与を分子レベルで検証することができる」と述べる。これまで予想もしない睡眠異常の性質を持つ動物モデルを作成、その行動を調べたり、必要な物質が欠けていると体内で何が起きるか調べることが可能になった。

◆体内で働いている時計とメラトニン

 睡眠物質の探求だけで睡眠の説明が不十分であることは、なぜ睡眠物質が増えるのか説明できないことを考えれば納得できよう。動物はすべて眠らねばならない。なぜ眠くなるのか。1日のリズムを体内に持つからだ。

 生物がもつ時計の機能について研究しているのが「日本時間生物学会」である。いろいろと論文・資料が読めるのだが、詳し過ぎるかも知れない。ここでは「100億年の旅 One Point」から、'97年の2大トピック「体内時計遺伝子はこれまで菌類とショウジョウバエでしか見つかっていなかったが、5月15日、ノースウェスタン大学のジョセフ=タカハシ教授の研究グループがネズミの体内時計遺伝子を発見したと発表した。哺乳類での発見はこれが初めてということになる」と「ショウジョウバエの体内時計を動かしているのはper遺伝子であったが、東京大学ヒトゲノム解析センターの程肇らは、per産物に非常によく似たペプチドをコードする遺伝子をヒトとマウスで同定した」を引用したい。ショウジョウバエから人間まで、同じ遺伝子の体内時計が働いているのだ。東大と神戸大のグループは、体内時計が存在するとされる脳の視床下部・視交叉上核と呼ばれる部分で、この遺伝子が昼間活発に働き、逆に夜間はほとんど働かず、1日周期で変化していることを突き止めている。

 最近、睡眠についての物質で、もてはやされているのがメラトニンある。メラトニンというホルモンが睡眠誘導ばかりでなく、若返りの薬などとして米国で有名になったのは、'95年のニューズウイーク誌の記事がきっかけだった。メラトニンは脳の中心部にある豆粒ほどの松果体から、夜になると分泌されて眠りに誘う。その活動リズムは、上述の視交叉上核から与えられているようだ。米国では現在は栄養補助食品として売られ、薬として認められているのではないが、「信者」は数百万になるらしい。それを紹介する「医は食にあり『驚異のホルモン』メラトニンとは」と、批判的な立場の「くすりのはなし・人間の体内時計は1日25時間!」、それに日本時間生物学会の「メラトニン受容体に関する最近の研究成果」あたりを情報源に挙げておく。インターネット上で、メラトニン斡旋情報もあちこちで見られる。厚生省は「メラトニン原料と狂牛病について」で「我が国では、薬事法により、業としてメラトニンを製造、輸入、販売することは、認められていません」と釘を差している。

 メラトニンは物質としては古く、'58年に米国で発見されているのに、ここに来てようやく本格的な睡眠研究の対象になってきた観がある。ただし、プロスタグランジンのように、昼間投与して眠らせる力はないらしい。夜になって、2時間程度、入眠時刻を進められるくらいと聞く。海外旅行の時差ボケ対策には確かに有用だろう。

 今回調べたメラトニンについての情報で、一番興味深かったのは「熟睡度に影響する生活環境の光」である。就寝前に浴びている光の色によって、メラトニンの分泌量と体温の低下に差が出るという。「実験の結果、緑や青の光を就寝前に浴びた場合は、赤い色に比べてメラトニンの放出量と体温の低下が共に抑制されることがわかりました。夜間の照明としては、青白い光を放つ蛍光灯より赤みのある白熱灯や電球色の蛍光灯の方が熟睡度が高まり、健康的であると言えそうです」とある。睡眠について、こんなことも含めて、まだまだ知らないことが多すぎる。脳が脳を理解するのは本当に大変だと思う。