第52回「ふさわしい都市景観を持つために」
◆都市開発の実例を拾ってみる
京都新聞の「工事急ピッチ 京都駅ビル」、「パノラマで見るJR京都駅」あるいは「デジタルカメラの写真集」などを見ていただくと、古都の真ん中に出来た「壁」の感じを知っていただけよう。
京都の繁華街の中心は昔から四条通り付近で、京都駅はずっと南に位置している。しかし、大規模な集客施設の出現で人の流れまで変わったと言われる。京都の人たちは市街北部にある京都御所の方を向いて生活しているから、南に巨大建物ができてもさほど気になるまいとの見方も以前にはあったが、とても無視できるものではなくなった。
東京・丸の内地区の再開発は、丸ビルの改築にとどまるものではない。「『マンハッタン計画』以降」に詳しく紹介されている。「丸の内を中心とした一帯に高さ200メートル程度、40〜50階の超高層ビル約60棟を建設」したイメージ写真が掲載されているので、参照してほしい。
このイメージは、私には新宿副都心の高層ビル群を思い起こさせて、好きになれない。あの没個性的な高層建築の集合体を見るたびに、丹下健三デザインの狂い咲きとも言われる新都庁ビルに、わずかな救いを感じて情けなくなる。
都内の再開発例なら「恵比寿ガーデンプレイス」の光景に好ましい印象がある。
好ましさでは、横浜の「みなとみらい21地区」もいい。「ランドマークタワー」のデザインが大きくものをいっている。国内最高層の記録よりも、気の置けない、田舎風とも見える力強さに惹かれる。残念ながら、国内の建築家の手によるものではない。
都市のランドマークになることを掲げて、東京・晴海では「トリプルタワー」の計画が進められている。志は高いのだけれど、私の目には、それほどチャーミングに見えない。大阪OBPのツインビルと、ひとつ違うだけではないか。
◆エレベーターと摩天楼
「建設企業における技術開発の経済」の一節「経済成長と知識」に、こんなことが書かれている。
「今日の成長のエンジンとしての技術の役割の果たす意味を捉えるためには、次のことについてよく考えて見さえすればよい」「電気の発電およぴ音を運ぶラジオなどの発明あるいは改良がなかった場合に、また、鉄を精練する新しい技術のBessemerによる発見がなかったとしたら、そして自動車や飛行機やトランジスターや集積回路やコンピューターなどの製品の開発がなかったとしたら、どのようなものになっていたであろうか」「同様に、1800年代の後半に鋼構造物およぴ効率的なエレベーターの発明がなかったとしたら、どのようになっていたであろうか」「この二つの発明は高層の建築物つまり魔天楼の建設を可能にし」「近代の都市の密度を変容し、我々の都市域における住み方を変えたのである」。
「エレベーター」はこう述べる。「『まったく安全ですよ、みなさん。安全そのものです!』と1853年、万国博覧会の水晶宮でアメリカ人オーチス氏は彼が考案した安全装置付きエレベーターを売り込んでいた。オーチス氏の発明した安全装置により客用のエレベーターが実用化され、それ以後の都会の風景を一変させ、芸術を変え、生活を変えた」。
パリから輸入され、当時5、6階だった「アパートメント」形式に、エレベーターは取り入れられ、経済発展で土地の値段が急騰する世相の中で、建築家の手で巨大摩天楼へ発展したのだ。
現在、世界最高速のエレベーターは、高さ296メートルを誇る、前述の横浜のランドマークタワーで運行されている。「世界最高速エレベーター」によると、「750m/minという速度は、'78年にサンシャイン60に納入したエレベーターの600m/minを15年ぶりに、しかも大幅に更新する快挙であり、ギネスブックにも登録されている」「大きな課題となったのは、速度増加に伴う騒音・振動対策と超高層ビル向けの据付工期の短縮だった」「エレベーターの床に立てた10円玉が倒れないほどの驚異的な低振動走行を実現できた」という。
これほど高速化する中で、技術的に想像以上に高度な管理が必要である点は「エレベーター豆知識」に触れられている。「ビルの建築精度には10センチほどの許容範囲があります。しかし、エレベーターのかごをガイドするレールの垂線に対する許容範囲は、わずか1〜5ミリ」「そのほんの些細な誤差が乗り心地に大きく影響するのです。1ミリたりともズレは許さない。完璧な垂直状態へのこだわりが、エレベーターの快適な乗り心地の源となっているのです」とある。
◆バブル経済が都市をつくる
摩天楼の登場は、新興資本主義国アメリカの都市を大胆に変えていった。ニューヨークの中心マンハッタンでは、高く高く天を目指す競争が際限なく続いた。その「夜景」を見ていただこう。
マンハッタンの景色に出てくるビルは、それぞれに個性的である。新宿副都心とは違う。実は、19世紀後半から20年ほどの周期で繰り返し到来した「バブル経済」がつくり上げたものだ。好景気・不景気の波が繰り返す間に、従来の建築主流派は落ちぶれ、次のバブルが到来するときには新しい建築潮流が出て、新しいデザインの摩天楼を生み出す。やがて2,000戸、6,000戸といった膨大な団地形式にまで進み、セントラルパーク周辺の建物は1929年の大恐慌までに大半が成立してしまう。その歴史の厚さが、あの景観に結実している。
国内で近年、展開している都市開発はどうやら、その「第一波」らしい。この10年ほどを回顧して「バブルとともに都市環境デザインは元気づいた?」は、こうみている。
「バブルになって、都市開発や公共投資が活発になり、また一方でそれまでの思考の型というか枠がはずれてきて、かなり大胆にいろいろなことを自由にやるようになった」「デザインの世界でも少々俗っぽく言えばクライアントも鷹揚になってデザイナーもやりたいようにやれるようになったと言った方がいいかもしれませんが、こうした流れの中で、いろいろな発想なり考えが出てくる。そういうことが全般的にあったわけです」。
続いて「景観行政から都市デザインへという流れの中で失われそうなこと」は、行政側の変貌についても触れる。
「特徴的だったことは、この10年のバブル期の間に、都市景観対策室といった略称から都市デザイン課だとか、都市美デザイン室だとかに看板替えをする市町村がいくつも出てきて、都市デザインとかアーバンデザインという言葉も使われるようになってきたことです」。
「20年くらい前に、都市デザインとは何ぞやということを行政の人を相手に説明をさせられていたことがあるのですが、 反応は『おっかなくてようやらん』ということでした。つまり、デザインというのは非常に主観的なもので、主観的なものを行政で扱うことは馴染まないのではないかというような意見をずいぶん聞かされました」。
「それが90年前後からアーバンデザインとか都市デザインという言葉を平気で使うようになってきました。別に彼らの腕が上がったのでもなんでもなくて、そういう言葉を使っているのが流行だということだと思います」。
こうして、我々の周囲にはいろいろな都市デザインが溢れ始めた。私の住む近くなら、大阪駅周辺でも2つのビルを屋上部で接合して空中回廊を作った梅田スカイビルなど、新しく登場するビルはそれなりの自己主張を持ち始めている。しかし、高層化の代償として設けられたビル敷地内の公開空き地が、ほとんど意味を持たない「空き空間」に陥っていることが端的に示すように、都市デザインが意味をなすのは容易でないらしい。
「『埋立地帝国』日本を西洋から見る」で、海外から見た辛口批評が聞かれる。「いつもまちを見て、『なんてひどい建物、建築家の顔を見たい』というのが私の口癖なんです」「イタリアでは、こういうことを言います。自分の失敗を、主婦はトマトソースで隠します。医者は、土で隠します。建築家は、つたで隠します。いま日本の建築には、自然のつたですらなく、プラスチックのつたです」。
私には、この間の「バブル経済」がこの国の経験する最後のバブルとは思えない。不良債権化した大量の土地の流動化が可能になり、次にバブルが来るときに、玄関口や商業地地区ばかりでなく、住宅地区も含めて都市をどうつくるのか、考えておかねばならない。今回のバブル以前、高度成長時代の入り口に、この国にとって最初のバブルはあったと思われる。そのとき、ただただ四角い建物に膨大なコンクリートを流し込み続けて、現在の凡庸な住宅団地群を造ってしまった。都市のデザインは住み方の問題でもあり、建築や土木の専門家にだけ委ねておける問題ではなくなっている、と思う。