第53回「明治維新(上)志士達の夢と官僚国家」
行財政を預かっていたはずの官僚達は何をしているのだろうか、と首を傾げる不始末が次々に表面化している。高級官僚の接待問題は置くとしても、連載第48回「残したい森林資源どう守る」で扱った国有林野の3兆円を超える累積赤字をはじめ。石油自主開発に絡む債務、年金福祉事業団の累積
赤字と、優に1兆円以上の「大穴」を見慣れてくると、こちらの感覚が鈍ってくるから怖い。優秀とされた官僚制度が自ら崩壊し掛けている。この国の官僚制度の出発点となった明治維新を、政治と技術の両面から見直してみたいと思うようになった。
外国からの圧力に直面して腰の据わらない幕閣ではだめだと、浮上したのが幕府と諸大名の関係を変える構想だった。幕府はもともと開祖家康の手足となって活躍した「譜代」と呼ばれる「小」大名の合議で運営されてきた。外様の「大」大名はもちろん、徳川姓・松平姓の「親藩」ですら口を出すことは遠慮させられていた。国難の時期に至って、外様の雄藩の力も合わせた連合政権に変身させることを考えたのが、薩摩藩主・島津斉彬や御三家のひとつ、水戸藩の徳川斉昭たちだった。慶喜を将軍に推すことで実現を図るが、斉彬の死去、井伊大老の登場などで機運は去る。慶喜の将軍職は別の形で実現する。
西国の雄藩、薩摩がどれほどの力を持っていたか、「幕末は、藩士10人集まれば 1人が薩摩の藩士」(リンク切れ移転先はこちら)が数字で示してくれて興味深い。「明治初年の全国の藩士数は、409,468人になります。そして『薩摩』の藩士数は 48,387人 です」。これには幕府の直参は入っていない。地図に示されている通り、藩士1万人を超す藩は数えるほどしかない。その中で、5万に迫るのは異常な多さである。戦いの基本がマンパワーであった時代に、決定的だ。せいぜい73万石でしかない薩摩がこれほどの武士を養える秘密は、琉球を植民地支配していたことしか考えられない。数を背景に志士を弾圧した寺田屋騒動が示すように、薩摩藩は基本的に「上意」の世界だった。
もうひとつの雄藩、長州藩も万を数えるが、中国地方全体を併せたほどの規模の薩摩にはとても及ばない。その長州が維新への過程で天下を敵に回し、幕府の長州征伐に立ち向かう。とても、かなうはずがない戦い、第二次長州征伐に勝ってしまうことで歴史の歯車は大きく回る。長州の戦力の大きな部分は、正規の藩兵の外に結成された「諸隊」だった。高杉晋作の奇兵隊を皮切りにして、当時の厳しい身分制度の枠を越え、一般から募った軍隊である。いきさつや人となりの解説が「高杉晋作は、何をしたの?」(リンク切れ移転先はこちら)にある。晋作はこの力で藩政を変えてしまう。薩摩との決定的な違いがここに見られる。
第二次長州征伐は、薩長同盟の密約が進行する中で行われ、密約を仲介した土佐の坂本龍馬(リンク切れWayback Machineに原文)も海援隊を率いて参加している。海援隊や、龍馬の盟友で維新前夜、ともに暗殺される中岡慎太郎(リンク切れWayback Machineに原文)の陸援隊は、土佐藩の外に存在した。幕府にあって希有の偉材、軍艦奉行勝海舟(リンク切れ)の門下生として薫陶を受けた龍馬の海援隊に至っては大量のライフル銃を都合したりと、海運・商社機能さえ持つ。その組織は土佐の脱藩藩士だけで構成されていたのでもないが、中心人物である龍馬と慎太郎ともに土佐の「郷士」である点に私は関心を持つ。
土佐藩主、山内家譜代の武士は「上士」であり、土佐にもともと住んでいた土豪が「郷士」である。その区別は観念的なものと思っていたが、郷土史資料の中に山内一豊の高知入城のくだりを見つけ、驚いた。関ヶ原の戦いの後、土佐に移封された一豊はそのまま高知に入らず、武勇の者を募ると称して、浦戸湾で相撲大会を催す。力自慢の者を裸にした上で、伏せていた部隊で取り囲み、全て斬り殺してしまう。
徳川期を通じて、両者間に意識の変化はそれほど無かったのではあるまいか。新天地が開ける時代に至れば、ためらわずに飛び出した龍馬たちの気持ちが理解できる。後藤象二郎、板垣退助ら土佐の上士が行動するのは、戊辰戦争になってからだった。「幕末の群像」(リンク切れ移転先はこちら)に土佐の人物解説がある。
龍馬は、大政奉還と議会制度を示唆する新政府の基本政策を示した『船中八策』を残したまま、1867年末、暗殺され、晋作も同年春、結核で亡くなっている。
この環境の中から江藤新平、大隈重信、副島種臣らが現れた。佐賀藩は長崎警護役であったために早くから外国と接触して、強い危機意識を持っていた。国内で初めて実用になる反射炉を構築、当時の世界で最強の大砲だったアームストロング砲(リンク切れWayback Machineに原文)を国内で唯一製造できた。国内初の蒸気船など、科学技術力は図抜けていた。薩摩の軍事力に加え、佐賀藩の参戦で、倒幕側は決定的な優位に立った。
維新の三傑と呼ばれるのは、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、それに長州の木戸孝允(リンク切れWayback Machineに原文)だが、新政府で新しい国家の在り方を論じることが出来たのは、大久保、木戸、江藤の3人と言われている。版籍奉還は木戸が維新前から持っていた構想で、長州藩政を早くから任された木戸という人物、既に見た長州の軍事組織の状況からすれば飛躍した話ではない。薩長土肥4藩主から建白する形で版籍奉還を実現させ、中央集権国家の体を整えていったのが切れ者3人だった。
大久保も早くから藩主に重用されてきた存在だった。しかし、保守的な薩摩藩にとって、倒幕は自らの利益を引き出す手段だったはずで、倒幕してみたら土地も人民も天皇に返せ、とは何だと思ったに違いない。版籍奉還に次ぐ廃藩置県には、藩主の父、島津久光は猛反対したという。こうした武士の不満を抑えるには、切れ者ではなく、人望のある西郷が必要だった。維新後、鹿児島に戻って悠々の生活を送っていた西郷を、大久保は自ら鹿児島に行って中央政界に引き戻した。
廃刀令、徴兵制など、血を流して天下をとったはずの武士、当時の士族たちには面白かろうはずがない。大久保、木戸らが遣欧使節に出た留守に征韓論が起こり、朝鮮出兵が閣議決定されるが、帰国した大久保らはひっくり返してしまう。「概略」(リンク切れ)がテンポよく紹介している。参議の職から、西郷、江藤、副島、後藤、板垣が辞し、後藤、板垣は民選議院設立建白書を政府に提出する。しかし、江藤は佐賀の乱を起こして、逮捕、さらし首。
佐賀の乱を鎮圧した内務卿大久保の、政府内での専制はますますひどくなり、木戸も批判する。やがて西郷も西南戦争を起こし、木戸はそのさなかに病死、西郷が死んだ翌1878年、大久保も不平士族のうらみをかって暗殺され、巨人たちの時代は終わる。
天皇絶対と称しながら、官僚制度の基盤を造ることに腐心した大久保は、「大久保利通」(リンク切れ移転先はこちら)によると「大久保の暗殺後その遺産を調べたところ、生前参議、大蔵大輔などの要職を歴任していながら、その遺産はほとんどなく、代わりに借金が八千円以上もあったという。当時の政府の財政は逼迫しており、大久保は財源を補うために、自ら金を借りてつぎ込んでいたのである」という。彼の夢は、自分がいなくても揺るぎない国家だったと思われるが、それには薩摩藩ばかりでなく、士族全体を裏切る必要があったのだ。
その後を継いだのは、長州「諸隊」のひとつを組織した実務家、伊藤博文たちだった。伊藤は松下村塾にも学んだが、吉田松陰が残している人物評価は低く、伊藤自身も松陰を師として挙げない。志よりも実務の時代感覚で、憲法制定は進められていく。
官僚国家の構築が進む一方で、後の自由民権運動発展に、龍馬が「船中八策」で残した思想が影響したことも間違いない。例えば、不平等条約改正で活躍した陸奥宗光(リンク切れWayback Machineに原文)らと海援隊で働き、3代目の神奈川県令になった「中島信行」(リンク切れWayback Machineに原文)に、「中島は早い時期から自由民権思想をもち、地方民会議員の公選を唱え、県政を去った後も自由民権と憲政の確立を唱えて国内各地を遊説した」とある。
インターネットには1次資料は少ないが、明治10年代に出版された『近世名誉英雄伝』と『徳川義臣伝』を見つけた。書かれていることとともに、特に『近世名誉英雄伝』では維新の人材から、誰が落とされているか考えると面白い。
次回は、技術史や経済の面から明治維新をながめてみたい。
◆伝説時代の先進組織・晋作と龍馬
まず、明治維新が極めて短期間に進行したことを確認したい。「明治維新史年表」(リンク切れ移転先はこちら)が便利だ。太平の眠りを覚ましたペリー来航は1853年、王政復古を宣言した1868年まで15年である。外国からの圧力に直面して腰の据わらない幕閣ではだめだと、浮上したのが幕府と諸大名の関係を変える構想だった。幕府はもともと開祖家康の手足となって活躍した「譜代」と呼ばれる「小」大名の合議で運営されてきた。外様の「大」大名はもちろん、徳川姓・松平姓の「親藩」ですら口を出すことは遠慮させられていた。国難の時期に至って、外様の雄藩の力も合わせた連合政権に変身させることを考えたのが、薩摩藩主・島津斉彬や御三家のひとつ、水戸藩の徳川斉昭たちだった。慶喜を将軍に推すことで実現を図るが、斉彬の死去、井伊大老の登場などで機運は去る。慶喜の将軍職は別の形で実現する。
西国の雄藩、薩摩がどれほどの力を持っていたか、「幕末は、藩士10人集まれば 1人が薩摩の藩士」(リンク切れ移転先はこちら)が数字で示してくれて興味深い。「明治初年の全国の藩士数は、409,468人になります。そして『薩摩』の藩士数は 48,387人 です」。これには幕府の直参は入っていない。地図に示されている通り、藩士1万人を超す藩は数えるほどしかない。その中で、5万に迫るのは異常な多さである。戦いの基本がマンパワーであった時代に、決定的だ。せいぜい73万石でしかない薩摩がこれほどの武士を養える秘密は、琉球を植民地支配していたことしか考えられない。数を背景に志士を弾圧した寺田屋騒動が示すように、薩摩藩は基本的に「上意」の世界だった。
もうひとつの雄藩、長州藩も万を数えるが、中国地方全体を併せたほどの規模の薩摩にはとても及ばない。その長州が維新への過程で天下を敵に回し、幕府の長州征伐に立ち向かう。とても、かなうはずがない戦い、第二次長州征伐に勝ってしまうことで歴史の歯車は大きく回る。長州の戦力の大きな部分は、正規の藩兵の外に結成された「諸隊」だった。高杉晋作の奇兵隊を皮切りにして、当時の厳しい身分制度の枠を越え、一般から募った軍隊である。いきさつや人となりの解説が「高杉晋作は、何をしたの?」(リンク切れ移転先はこちら)にある。晋作はこの力で藩政を変えてしまう。薩摩との決定的な違いがここに見られる。
第二次長州征伐は、薩長同盟の密約が進行する中で行われ、密約を仲介した土佐の坂本龍馬(リンク切れWayback Machineに原文)も海援隊を率いて参加している。海援隊や、龍馬の盟友で維新前夜、ともに暗殺される中岡慎太郎(リンク切れWayback Machineに原文)の陸援隊は、土佐藩の外に存在した。幕府にあって希有の偉材、軍艦奉行勝海舟(リンク切れ)の門下生として薫陶を受けた龍馬の海援隊に至っては大量のライフル銃を都合したりと、海運・商社機能さえ持つ。その組織は土佐の脱藩藩士だけで構成されていたのでもないが、中心人物である龍馬と慎太郎ともに土佐の「郷士」である点に私は関心を持つ。
土佐藩主、山内家譜代の武士は「上士」であり、土佐にもともと住んでいた土豪が「郷士」である。その区別は観念的なものと思っていたが、郷土史資料の中に山内一豊の高知入城のくだりを見つけ、驚いた。関ヶ原の戦いの後、土佐に移封された一豊はそのまま高知に入らず、武勇の者を募ると称して、浦戸湾で相撲大会を催す。力自慢の者を裸にした上で、伏せていた部隊で取り囲み、全て斬り殺してしまう。
徳川期を通じて、両者間に意識の変化はそれほど無かったのではあるまいか。新天地が開ける時代に至れば、ためらわずに飛び出した龍馬たちの気持ちが理解できる。後藤象二郎、板垣退助ら土佐の上士が行動するのは、戊辰戦争になってからだった。「幕末の群像」(リンク切れ移転先はこちら)に土佐の人物解説がある。
龍馬は、大政奉還と議会制度を示唆する新政府の基本政策を示した『船中八策』を残したまま、1867年末、暗殺され、晋作も同年春、結核で亡くなっている。
◆交錯する三傑の軌跡・大久保の非情
薩長土肥の4藩が維新を支えた主力とされるが、鳥羽伏見の戦いにも加わらなかった佐賀藩は途中参加組だった。「佐賀閥の台頭」(リンク切れ)に、当時のいきさつが詳しい。出遅れた理由として、佐賀藩士はほとんど脱藩者を出していない。藩の学校、弘道館に「6、7歳になると強制的に入学させられ、16歳で一旦卒業。その後再度入学させられ、24歳になるまで再度勉学に励まなければならなかった」「この弘道館では進級、卒業に試験が実施され、落第したものは家禄の8割が没収されるという厳しいものであった。そのため、試験に合格しなければ路頭に迷うことになり、試験勉強以外のことに没頭する余裕がなかった」。幕藩体制下で、これは驚くべき教育制度である。この環境の中から江藤新平、大隈重信、副島種臣らが現れた。佐賀藩は長崎警護役であったために早くから外国と接触して、強い危機意識を持っていた。国内で初めて実用になる反射炉を構築、当時の世界で最強の大砲だったアームストロング砲(リンク切れWayback Machineに原文)を国内で唯一製造できた。国内初の蒸気船など、科学技術力は図抜けていた。薩摩の軍事力に加え、佐賀藩の参戦で、倒幕側は決定的な優位に立った。
維新の三傑と呼ばれるのは、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、それに長州の木戸孝允(リンク切れWayback Machineに原文)だが、新政府で新しい国家の在り方を論じることが出来たのは、大久保、木戸、江藤の3人と言われている。版籍奉還は木戸が維新前から持っていた構想で、長州藩政を早くから任された木戸という人物、既に見た長州の軍事組織の状況からすれば飛躍した話ではない。薩長土肥4藩主から建白する形で版籍奉還を実現させ、中央集権国家の体を整えていったのが切れ者3人だった。
大久保も早くから藩主に重用されてきた存在だった。しかし、保守的な薩摩藩にとって、倒幕は自らの利益を引き出す手段だったはずで、倒幕してみたら土地も人民も天皇に返せ、とは何だと思ったに違いない。版籍奉還に次ぐ廃藩置県には、藩主の父、島津久光は猛反対したという。こうした武士の不満を抑えるには、切れ者ではなく、人望のある西郷が必要だった。維新後、鹿児島に戻って悠々の生活を送っていた西郷を、大久保は自ら鹿児島に行って中央政界に引き戻した。
廃刀令、徴兵制など、血を流して天下をとったはずの武士、当時の士族たちには面白かろうはずがない。大久保、木戸らが遣欧使節に出た留守に征韓論が起こり、朝鮮出兵が閣議決定されるが、帰国した大久保らはひっくり返してしまう。「概略」(リンク切れ)がテンポよく紹介している。参議の職から、西郷、江藤、副島、後藤、板垣が辞し、後藤、板垣は民選議院設立建白書を政府に提出する。しかし、江藤は佐賀の乱を起こして、逮捕、さらし首。
佐賀の乱を鎮圧した内務卿大久保の、政府内での専制はますますひどくなり、木戸も批判する。やがて西郷も西南戦争を起こし、木戸はそのさなかに病死、西郷が死んだ翌1878年、大久保も不平士族のうらみをかって暗殺され、巨人たちの時代は終わる。
天皇絶対と称しながら、官僚制度の基盤を造ることに腐心した大久保は、「大久保利通」(リンク切れ移転先はこちら)によると「大久保の暗殺後その遺産を調べたところ、生前参議、大蔵大輔などの要職を歴任していながら、その遺産はほとんどなく、代わりに借金が八千円以上もあったという。当時の政府の財政は逼迫しており、大久保は財源を補うために、自ら金を借りてつぎ込んでいたのである」という。彼の夢は、自分がいなくても揺るぎない国家だったと思われるが、それには薩摩藩ばかりでなく、士族全体を裏切る必要があったのだ。
その後を継いだのは、長州「諸隊」のひとつを組織した実務家、伊藤博文たちだった。伊藤は松下村塾にも学んだが、吉田松陰が残している人物評価は低く、伊藤自身も松陰を師として挙げない。志よりも実務の時代感覚で、憲法制定は進められていく。
官僚国家の構築が進む一方で、後の自由民権運動発展に、龍馬が「船中八策」で残した思想が影響したことも間違いない。例えば、不平等条約改正で活躍した陸奥宗光(リンク切れWayback Machineに原文)らと海援隊で働き、3代目の神奈川県令になった「中島信行」(リンク切れWayback Machineに原文)に、「中島は早い時期から自由民権思想をもち、地方民会議員の公選を唱え、県政を去った後も自由民権と憲政の確立を唱えて国内各地を遊説した」とある。
インターネットには1次資料は少ないが、明治10年代に出版された『近世名誉英雄伝』と『徳川義臣伝』を見つけた。書かれていることとともに、特に『近世名誉英雄伝』では維新の人材から、誰が落とされているか考えると面白い。
次回は、技術史や経済の面から明治維新をながめてみたい。