第67回「箸(はし)の国の野村ID野球」

 名バイオリニスト、ユーディ・メニューインが亡くなった。神童と呼ばれた戦前・戦中期の輝きは比類ないものだったそうで、敗戦直後に来日公演した際には社会的な騒ぎになった。その夜のTBS「多事争論」をたまたま見ていると、筑紫哲也さんが面白いエピソードを紹介してくれた。豊かになった、この国を再び訪れたメニューインに「ずいぶんこの国も変わったでしょう」とインタビューしたら、「ビルの林立する外を眺めながら、『確かに姿は変わったけれども、日本人は変わらないと思う。ただし日本人が箸を使い続ける限りは。』ということを言いました」「箸を微妙に使うあの感性が、正確な、デリケートな商品を生み出したり、日本人の感性を作っているんだということを言ったわけです」。こう聞いた瞬間に、春のキャンプインから、阪神タイガース再生を巡ってブームと呼べる状態が続いている野村克也監督、その「ID(Important Data)野球」について、見えてきたことがある。今回は、敬愛する名バイオリニストから得た直観を切り口に、箸の文化と野球の文化の間を読み解きたい。

◆箸文化圏は広いけれど……

 箸が生まれた場所が中国であることは、疑いないところだろう。「匙(さじ)と箸」は「最も早い銅箸は商代に属し、殷墟の一つの墓の中から出土した。商代の箸の発見は非常に少ない」「春秋時代の箸は江南と西南で発見されていて、円形とまた方形のものもある。漢代の箸の発見はやや多い、あるものは銅のものである。南方にはまた多くの竹のものが発見された。長沙馬王堆一号漢墓出土の漆盤に、耳杯と盤、卮(さかずき)などがあり、べつに一双の竹箸があった。長さは17センチであった。漢墓の壁画と画像磚には、箸で食事をしている図像をみることができ、漢代には箸を用いることは相当普遍的であったことがわかる」と詳しく紹介している。2000年前には一般化したのだろう。

 同時に見落とせないのが匙である。「中国の食事に匙を使用する伝統は、史前時代に遡ることができる。考古学家は食事の匙を匕と称している。なぜなら先秦時代にこのように命名されていたからである。中国の新石器時代の多くの遺跡からすべて非金属の匕が出土している」と述べる。つまり石器時代から獣骨製の匙が広く使われ、現在に至るまで中国の食事の大きな部分を支えてきたのだ。

 このスタイルは、中国文化を「正統」に受け継ごうとした朝鮮半島に鮮やかに残っている。外国人による日本語弁論大会から「韓国と日本の文化の違い−食文化を中心に−」を聞こう。「日本は食事の時,茶碗を手にもって,時には食器を口に直接つけて食べますが,韓国ではこのような食べ方は絶対許されません。もし日本のような食べ方で食べたら行儀が悪いといってさんざんしかられます」「韓国の食事は,茶碗を手に持たず,そのままテーブルにおいて匙ですくい取ってたべます」「だから食器が重くてもかまわないので茶碗の材料も木ではなく陶器とか鉄でつくられているし,また箸も家庭で一般的に使っているのは鉄でつくったものです」「また日本は箸だけを使いますが韓国では匙と箸の使い方に区別があって、ご飯とお汁は匙で,おかずは箸で食べなければなりません」

 箸文化圏として、東アジア諸国はどこでも同じだと思われていなかっただろうか。左右の手を使って軽々と食べる日本式スタイルとは、かくも違う。最近、米国の人たちも箸をよく使うようになった。先日、テレビ番組「料理の鉄人」で新旧の和の鉄人が米国に行って、ニューヨーカーの食通たちを相手に腕を振るう場面を見た。肉とか野菜などは箸で良かったが、魚料理になったら、馬脚を現してしまった。調理場に返ってくる皿の上はいずれも惨憺たるありさま。我が家の子供も、あれほどひどい食べ方はしない。

 塗り箸を使っている家庭では、どの箸をだれが使うのか決まっている。「お箸の謎」は、こうして食器を属人的に扱う風習は世界でもこの国にしかないと指摘する。魏志倭人伝は、当時、列島に住む人たちは手づかみで食べていたと記録している。「その後5世紀頃に箸が入ってきたが、藤原京時代の出土は少なく、平安京時代になって多く出土するらしい。平安京の宮廷から官人を通じて一般に広まったものだろうか」「箸が中国から日本に入ってきたとき、日本人はそれをなぜ『はし』と呼んだのだろう。日本語の『はし』は『間』を『はし』と読むように何かと何かの間、またはそれらをつなぐ物という意味を持つ。『橋』がそうだし、『柱』(はしら)、『梯子』(はしご)もそこから来ているとされる。『はし』(箸)は食物と人とを仲立ちする物を意味して名づけられたようだ」

 梅棹忠夫さんが国立民族学博物館長だったころ、立食パーティで「この国の人たちは縄文の昔から、物をつくり出すことに異常な情熱と才能を傾けてきた」とおっしゃったことがある。いま青森・三内丸山の遺跡を見れば納得できる発言だが、箸を使うことが、それにさらに磨きを掛けたことも、また間違いあるまい。しかも、深いところで影響を与えた。目の前の世界は固定されたものではなく、可塑的で造り替えられるものであり、そのための有力ツールとして、我々には器用さがある。箸を使うことは、我々にとって「事物」全体との間の架け橋になっていると言ったら、言い過ぎだろうか。

◆勝負の世界だからこそ弱者にも道が欲しい

 トップクラスの野球選手になると、時速150キロで飛んでくるボールを、やはり時速150キロのヘッドスピードで振り回すバットで打つ。衝突する物同士の相対速度は300キロにも達するのが硬式野球である。地上で最も高速なスポーツであり、ボールもバットも重く、そのまま凶器になりうる。発祥地・米国流に正統なベースボールを実現するには強烈なパワーが要る。この連載第36回「日本人大リーガーへの科学的頌歌」で、そのパワーを身につけて渡米していったメッツ・吉井投手たちを描いた。しかし、国内にいるプロ野球選手にはパワーが足りない。そして、足りない選手たちの間でも、さらに格差がある。野村監督が3度も日本一にしたヤクルト・スワローズは、そんな弱者と言える側の選手、故障や挫折を味わって移籍してきた選手たちの集まりだった。

 「ID野球 〜6年間の成長の結果は」は野球解説者牛島和彦さんの発言を紹介している。「いやあ普通ノーアウト1,2塁でエンドランかけてきませんよ。なぜかけるか?その時のバッターがどうしても引っかけてショートゴロを打ちそうなんでサインを出したんですよ。エンドランかければショートは2塁ベースカバーに入るでしょ。ただのショートゴロがレフト前ヒットになるわけですよ。ここが野村スワローズの強さの秘密です」

 V9を達成した当時の巨人や常勝軍団だったころの西武は、こんな定石から外れた戦術は採らなかった。国内では十分なパワーを備えた選手を揃えていたから、セオリーに忠実であればよかった。両球団の見せたそつのなさは、強者が隙を見せない嫌らしさだった。弱者の集まりであるヤクルトで、野村監督がしたことは、同じ知将とされる森・元西武監督と一見似ているようで別世界の事柄。それがベースボールの王道から遠くても、弱者でも、細やかに手を尽くせば状況は変えられると証明した。

 それを経営の視点から見るとこうなる。「野村ID野球に見るリーダーシップの原点」は言う。「『野球は失敗のスポーツである』『不器用な人間が最後に勝つ』との認識を踏まえながら、基本戦略と統合されたマネジメントの仕組みを確立している点も重要である」「失敗から何を学ぶかによって後の成果が異なってくる。膨大なデータから真に役立つものを選び出し、それをいかにわかりやすく伝えるかを最大のポイントと考え」「単なるデータの分析だけにとどまらず、相手選手の気質や心理まで重ねて読み込む。こうした活動を監督自らもたえず実践し、組織として知識を蓄積している」

 私が夏の甲子園にいっしょに行った球児たちは、あす試合という日の夕食に「敵に勝つ」の語呂合わせで、ビフテキと豚カツを食べた。こんな脂っこい物を、エネルギーをたくさん使う日の前夜に食べさせてどうするのか。今なら栄養学の知識からもっと真っ当な食事管理が出来ているようだが、現役のプロ野球選手たちは、こんな粗暴な栄養知識で育っている。野村監督の選手を相手にした座学は中身の濃さで知られ、食事のことも盛んに取り上げているという。「なにわWEB・野村監督語録」には、こんな言葉もある。「頭がよくなる食べ物は何か、知っている?ほうれん草、納豆、くるみ、カツオ…バイキングなんか、ほうれん草があったら3人前くらい食べるよ」「腕を切って血が流れるだろ。この血は何で出来てると思ってるんや。筋力トレーニングばかりやっても質のいい筋肉はできない。牛でもそうだろ。いいものを食べさせないとダメだろ」

 「野村再生工場」と呼ばれ、挫折した選手達に、もう一働きの場を提供する手腕を裏打ちしているのは、こんな当たり前で、かつ、選手の目からうろこを落とす知識だと思う。ヤクルトの選手達はみんな、びっしり書き込んだ大学ノートを持っていた。

 阪神は12球団中で最も頭を使わない野球をするチームだった。弱いくせに人気球団であるためスポーツ紙にもよく登場し、自分が弱者であるとの自覚すら乏しかった。そんなところに乗り込んで、野村監督が考えていることが選手個人や、組織としてのチームの中に定着することは容易でないようだ。そうと分かっているのに続いている「野村阪神フィーバー」は何なのか。阪神ファンの範囲を楽に超えていると思える。この国の人たちは、サクセスストーリーが見たいのだと気付く。「ダメ虎」の再生に、苦境にある、この国の姿を重ねているのかもしれない。米国流の横綱相撲でなくても、生きていく道はあるのではないか。その証明が見たいのだ。