読者共作1「英語教育の深い闇・出口はあるのか」

 2002年の新学習指導要領実施を先取りして、小学校で英語が教えられ始めている。国際理解に英語は必要としつつ、新要領は一方で中学の必須英単語を500語から100語に減らすなど、矛盾に満ちている。何が起き、変わろうとしているのか、読者が応募した「インターネットで読み解く!」作品から、英語教育について論考した2作品を紹介し、共に考えたい。今回の内容は次の通り。

   【1】小学校に英語は必要か?・・・・・有馬次郎
   【2】英語教育が抱える問題・・・・・・猪原教之
   【3】引用のウェブを読んで考える・・・団藤保晴

□■小学校に英語は必要か?・・・有馬次郎

 文部省が98年に改訂した学習指導要領の中で、「2002年度から全面実施する」と明記された「総合的な学習の時間」で、既に東京23区内の半数以上の公立小が、英語学習を主眼にした「国際理解」の授業を前倒しで取り入れている。英語とコンピュータが使えないと社会から取り残されてしまうといった、不安感に駆られた保護者の早期英語教育に対する期待に、学校側が積極的に対応しているという背景もあるようだ。

 「読み解く」シリーズでは、第41回「英語力と受験英語を考える」で英語教育が取り上げられ、第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」などで論じられた学力問題とも密接に関わり、小学校への英語教育導入の現状とその是非を考察することによって「ゆとり教育」と「学力低下問題」に迫ってみたい。

 小渕内閣時代の「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書に以下の文章が見える。

 「世界に生きる日本のために必要な国内的課題、国内インフラは何か。1番目に『情報技術革命への対応』。世界語としての英語とインターネット。国際的に通じる言語能力を持たなければいけない。技術革新の新しい波や近代化の波に背を向けて逃げるのではなくて、それをこなし、学習して浮上しつつ、その中で持ち味を出すというのが、明治以来、西洋文明の挑戦に対して日本が取ってきた実績で、今もう一度それが求められています」

 この方向に沿って、今年2月には「小学校英語活動実践の手引」が作成され「語学指導等を行う外国青年招致事業」(JETプログラム)に基づく「ALT(Assistant Language Teacher)」と呼ばれる外国語指導助手も世界各 国から5,583名が招聘され(含む中高校)、地域間の差異はありつつも既に実践的な取り組みが行われている。「平成13年度『語学指導等を行う外国青年招致事業』(JETプログラム)新規招致者の決定について」で、ALTの出身国を見るとアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの5カ国で9割以上を占めた。

 招致されたALTの経験者の中には、ユニークなホームページで教材を提供し、ショーとセミナーで全国公演をしながら、子供たちにどのように英語を教えるべきか暗中模索している小学校の先生たちを指導する人も出現している。

 大手語学教育企業の中には、「教室に英語とパソコンを」というそのものズバリのタイトルの、小学校の先生や塾の先生向けのメールマガジンを発行しているところもある。小学校への英語教育の導入は着実に進展してい るのである。

 一方、小学校での英語教育導入に対する根強い反対意見もある。「CommonSense: なんで英語やるの?」の論点は、小学校の総合学習をすべて英語につぎ込んでも、430時間にしかならず、この430時間は、週に2,3時間、小学校3年から6年までの4年間にばらまかれており、これでは英語も本当には身に付かないばかりか、国語、算数といった基礎科目の学力低下を招き貧弱な国語力と未熟な思考力のまま、意味も文法も知らずに英語の歌を歌うだけの子供を育てるだけだ、というものだ。

 NHKインターネット・ディベートには144件の賛否両論が寄せられている。

 その中でも意見No.00049[48歳の男性小学校教諭ごるご氏の意見]「『英語教育の視点』からは『早期教育程良い』というのは確かに間違ってはいないのでしょう」「他方で音楽教育も絵画教育も早い程良いはずですし、環境教育でも同じ事が言われています」「情報教育では、来年までに小中のほとんどの教員がパソコンで指導ができるようにならなければならない」「年間で千時間足らずの時数の中で」「やっと2時間程度の余裕を生み出してスタートしているのが現状」「いくらお金をかけたとしても、今いる小学校教員に突然英語を教えさせようというのは、非効率以前に『無理です』としか言いようがありません」は小学校教育の現状を踏まえた現場の生きた意見だ。

 意見No.00125[Richard 氏(イギリス人ALT)の意見]「静岡県でALTをしていますが、小学校からの英語教育には反対です。小学校から英語の勉強を始める事は早くから彼らに『英語で評価される』ということを強い」「小学校から英語教育を始めたほうが英語力が身に付くと考えているのなら、それは誤りです。英語力、中でも会話力をつけるためには現在のカリキュラムを大きく変える必要があります」「会話技術を中学高校で高める訓練をし、現在のように文法知識のみで評価するのではなく、会話力も評価しなければなりません。我が母国イングランドでは、このような状況で外国語を学ぶという事は考えられません」も実務に携わるイギリス人ALTの意見ゆえに傾聴に値する。

 また、「読み解く」第97回「再論・学力低下問題の最深層」で取り上げられたソフトウェア開発を指導しているYさんの「『できるタイプはたとえ経験がなくても短期間で開発作業の勘所をつかみ、質の高い作業を行える』『できないタイプは長年経験をつんでもプログラムは低品質でバグが多く、ビジネス上のニーズを把握することも、それに対応するシステムをどう実現するかも全くアイデアがもてない』そして両者を分かつ強力な要因らしきものは読書量の差ではないか」という指摘は私にとりとても示唆的だった。

 英語学習も同様ではないか。私自身商社に勤務していながらつい最近まで英語学習にそっぽを向いてきた人間だが、どんなにネイティブに近い発音で会話が出来ても英文読解力と文法に則した英作文能力がなければ戦力にはならない。そして、ろくろく英語が喋れなかった人間でも自分自身の専門分野をきちんと学習してきている人間は、必要に迫られれば短期間に英語力を獲得していくのに反し、英会話だけではいつまでたっても外国人と対等に仕事が出来るようにはならない。

 結局、小学校での「総合的な学習の時間」を「国際理解」の授業として導入せざるを得ないのであれば、上述したイギリス人ALTが言うように「小学生には英語を教えることよりもむしろ、外国に関する知識、そして外国の人々がどんな暮らしをしているかを教えるほうがいい」「外国に関する関心も高まり、結果的に英語の必要性を肌で感じることになる」という自然な形での「国際理解」、その場合まったく英語圏である必要はなく、むしろ近隣アジア諸国を含む世界の多様性を理解できるような内容にしていくべきだと思う。

 今まで解らなかったことが解るようになる、今まで知らなかったことを知る、今まで出来なかったことが出来るようになるということは、幾つになっても人間にとって喜びである。ただ、受験のための学習という歪められた教育環境の中では強制された学習は苦痛でしかなく、多くの人が学ぶ意義と喜びに社会に出てから初めて気づくのだ。せめて小学校はそういう喜びを体感できる場であって欲しいと切に願う。私は中−高−大学の受験科目から英語を除外するという英断でも成されない限り、現行の小学校の英語教育導入には反対である。

      有馬次郎
      「アルマジロと読むタイムマガジン」

□■英語教育が抱える問題・・・猪原教之

 ◆不満の多い現状

 日本人は学校であれだけ英語を学ぶのになんでしゃべれないのか、というのは繰り返しいわれることである。「文法偏重」がいけないとか、受験英語がだめだから、とか。英会話ができることこそ大事だと主張する人も多い。

 最近は会話に重点を置くようになったのかと思っていたが、『スーパー・アンカー和英辞典』(学習研究社)の主幹として知られる明海大学・山岸勝榮教授が教えた学生の反応「REVIEW―受講生諸君の声に学ぶ〜慶應義塾大学法学部2年生(英語V受講生)諸君の場合」を見ると否定的にならざるを得ない。受験英語を学ばされてきた嘆きと学校英語教育への不満がつづられている。

 では文部科学省がどう考えているか見てみよう。英語によるコミュニケーション能力を高めることが主眼のようだ。今年1月にまとまった英語指導方法等改善の推進に関する懇談会報告書によれば「21世紀を担う児童、生徒や学生たちが、将来、英語による基礎的・実践的なコミュニケーション能力をしっかりと身に付けることは、国際化、グローバル化が急速に進む今日、極めて重要な課題である」とし、「各学校段階を通じた一貫性のある英語教育」を通じ、「国民全体に求められる英語力と専門分野に必要な英語力や国際的に活躍する人材などに求められる英語力」を身につけさせることを目標としている。

 懇談会の顔ぶれを見ても多彩で壮観であるが、この報告書にも私としては不満がある。遠隔教育を考慮に入れていないこと、発音教育や辞書の使い方を学ばせる視点が欠けていることである。

 私の理解が正しければ、教材作成は個々の教育指導者がいろいろ工夫を凝らしているものの、そして研修等で情報交換をしているものの、基本的にはバラバラでやっている。

 著作権等の問題があって簡単にはいかないことかもしれないが、一部の教材作成者が専従で半製品を作り、広く現場の指導者に公開し現場に即した教材に加工してもらうのもアイデアだと思う。また、英語の発音はこうするんだという教材を国が製作し、生徒や社会人が学びたいときに自主的に学べるというものを用意してもいいのではないか。対面でないと教育できないと考えるのは前提が誤っていると考える。

 ただ発音教育については、民間セクターはなかなか健闘している。例をあげると、「30音でマスターする英会話」「英語・発音・語彙」などがある。

 ◆辞書の価値

 ところが同じく大事な分野であるが見逃されていること、それは「辞書の引き方」を学ぶことである。

 私は6年間イギリス・ロンドンに滞在し、帰国後2年たって久しぶりにTOEICを受験したら935点だった。だが同年、愕然としたことがある。「辞書の使い方を知らなかった!」

 翻訳の手ほどきを最初に受けたのは翻訳者の香取芳和先生だったが、おかげで目がさめた。自分ではよくわかっていると思い込んでいたものが幻想に過ぎないことに気づかされた。実は英語にまじめに取り組もうと思えば思うほど、英和辞典、そしてそれ以上に英英辞典が必要になってくる。そして辞書へのありがたみを感じると同時に不満も募るようになる。用例が少ない国語辞典の欠陥が気になり、日本語で書かれた類義語辞典の貧弱ぶりに頭を抱えたくなる。

 ただ、英語の辞典については明るい兆しもある。先にも紹介した山岸教授がホームページ内に「英語辞書指導」のページ「英語辞書・教育研究室」を開設している。一般の関心が高まればそれだけで英語力は底上げされると確信する。

 ◆学校教育におけるビジネス英語嫌い

 そして表立って語られないで、しかも抜け落ちている観点がある。それは学校ではビジネス英語が嫌われているという現実である。ここでビジネス英語とは商業英語のようなものに限定せず、社会人が公の場で普通に使う英語であり、NHKのラジオ講座『やさしいビジネス英語』に出てくるようなものである。旅行のための英会話は学んでいるかもしれないが、自己表現のための英語、討論するための英語は手つかずではないか。

 先の大学生の感想を見るかぎり「ビジネス英語嫌い」は受験と大いに関係がありそうである。使わない英語とはビジネス英語の対極にある。試験問題の作成がおざなりで基礎学力を正しく見るものでないからこそ教育現場がしわ寄せを受けているという仮説も成り立つだろう。

 そして英語指導者の英語力にも疑問符を示すデータがある。

 英語指導者のTOEIC平均点
   大学・・・・・645点
   中学・・・・・658点
   高校・・・・・718点
   英会話学校・・770点

 このデータは第一回から最近までの平均を取り上げたもので、現時点の能力を必ずしも反映していないので注意を要する。千田潤一さんが「達人セミナーin広島で学んだこと(その1)(2001/2/14)」で語ったものである。紹介者の柳瀬陽介・広島大学教育学部助教授「英語教育の哲学的探究」にも要注目。

 自分のことを考えると、TOEIC900点を取れたとしても世間一般で誤解されるように英語バリバリではないと自信を持っていえる。できないこと、とまどうことはまだまだ多い。上で示される程度の英語力であれば誤ったことを教えてしまう可能性はかなり高い。

 では個人でできる対策はないか。なんといっても大事なのは英語の環境に浸ることである。そして英語はコミュニケーションの道具であると考えることである。英語の裏にある文化に触れることは大事であるが、日本文化を忘れないようにしたい。

 二つばかりホームページを紹介する。英語で何か読みたいと思ったときに活用されたい。自分の好きなものを読むのが肝心。キーワードを元に、関連用語を知るのも楽しい。

「Yahoo! Advanced News Search Options」

「Search The Japan Times Archives」

 前者は過去1カ月の英語ニュースを検索できる。自分の指定した単語が合えばヒットする。用法もチェックできるのが穴である。後者については1999年以降の記事が検索できる。こちらは日本についての記事が多数あり、しかも英語にも信頼を置けるのが魅力。ぜひお試しを。
      猪原教之
      翻訳者。HP「全力投球の英語学習」運営者。
      メルマガ「ホワイトハウスの英語」発行人。
      

□■引用のウェブを読んで考える・・・団藤保晴

 「達人セミナーin広島で学んだこと(その1)(2001/2/14)」に書かれている「You only live once」の音読筆写のくだりは、とても示唆的である。「30秒で何回声に出しながらノートに書けるかに挑戦」という経過があるだけで「なんら覚えようとしていなかったのに、もう心身全体で(『人生は一度しかない』を)覚えてしまっている」不思議。

 海外に出て、場合によっては銃口を突きつけられて英語を使わざるを得ない 実社会と、教室で学び受験で完結するだけの学校英語との差についても、この 「達人」のコメントが読める。

 それに引きかえ、「小学校英語活動実践の手引」は官僚的で、常識的な作文ぶり。あまりに長いので、全部読めない方は一番最後の授業例だけで十分だろう。「単語を覚えさせるのではなく,音の違いに慣れさせることを主眼」にどんどん単語を言っていくという。週に1、2回程度、この授業をして何が残るのか。大方の意見は私と同じと思う。

 小学校導入で大きな期待を掛けられているALT。「手引」の後半「現職ALTからのお願い」には切実な真実がある。「(先生たちも)どきどきしていることでしょう。しかし,ALTもまた,どきどきしていることを忘れないでください。私たちの中には教員免許所持者もいますが,日本の学校で教えたこともなければ,子どもたちを教えることすら初めてという者がほとんどです」

 こういう本音から出発しないで、文部科学省はどうしようというのだろうか。

 ここで韓国と比べていただこう。「公立小学校での英語教育を考える視点」は、小学校3年生以上に英語を正式の教科として導入した韓国が、大学改革の中で小学校教員志望者が非常に手厚く英語を勉強するよう制度化し「数年後には英語教員確保の心配はなくなる」と紹介している。渡邊時夫・信州大学教授は「韓国と比較するまでもなく、わが国の対応は甘いと言わざるを得ない」と述べている。