団藤保晴の
「インターネットで読み解く!」

第97回「再論・学力低下問題の最深層」 (2001/01/25)

 11月末リリースの第95回「学力低下問題の最深層をえぐる」は年が明けてからも毎日、多数の読者に読まれ続けている。MSNジャーナルに転載されたこともあり、とても質の高い、考えさせられる投書をたくさんいただいた。寄せていただいた声の全部を年代別、立場別に整理して「学力低下問題への読者の声」として公開すると同時に、皆さんの問題意識に応えてさらに踏み込んだ再論を試みたい。

◆団塊の世代だけが責められる問題ではない

 Oさんは「学力低下問題への読者の声」<30代の意見>で「問題を学力低下のみに限定している点と、更にその原因を団塊の世代にのみに押し付けている点については疑問をもつ」「問題は団塊の世代だけではなく、日本の社会システムそのものではないかと考える。もちろん現代の社会を築き上げた中心世代が、団塊の世代であることは疑いないが、かと言って他の世代が免罪されるわけではあるまい」と言われる。

 私が第95回で「親がどうして生きているのか、委細、詳細を知らなくても、子どもは本能的なところで知ると主張したい。学力低下問題の最深層にある『根』とは、親たち、あなたの生き様なのだ」と書いた「親たち」とは、もちろん団塊の世代に限定しているのではなく、団塊周辺を含めて全ての親たちを対象に考えた言葉である。

 Oさんはさらに述べている。「複利計算の出来ない銀行員の話があったが、それは、複利計算が出来ることが、銀行において、全く評価されない所に原因がある。更に言えば、そういったことは全く評価されずに、マニュアル通りに従っていれば何とかなってしまうシステムを作り上げてしまったところが問題である」

 この解釈は、私が意図した通りだと申し上げて良い。

 同じ30代のFさんも言われる「では、どうしたら勉強するのか?”勉強すれば得をする”環境になれば良いと思います」という真理。それを根本的に欠いているのが、この国の現状である。

 それは学力低下問題にだけ陰を落としているのではない。

 例えば、萩原さんが「高等教育フォーラム」の「Re: 2052」で書かれている「地方銀行の行員の数学の学力の話なども、まあそんなものだろうと思います。今の日本の金融機関の国際競争力がないのも、結局のところすべてはここに帰着するのでしょう」という指摘は正しいと思う。頭を使わないマニュアル主義で済ませてきたことが、個別企業どころか、業界全体としても国際水準に大きく遅れる状況までつくり出してしまった。

 ここに至らせた背景には、実は歴史的な経緯がある。

 水沢さんは「高等教育フォーラム」の「教育軽量化を主張した方々は今?」で、こんな問題提起をされている。

 「私が団塊の世代であるという意味で責任の一端があるということについては、そのとおりだと思うのですが、同時に、戦後の民主主義運動の中で、詰め込み教育批判があり、受験戦争批判があり、教育内容の厳選が主張され、ゆとり教育が主張され、高校全入運動があり、結果としてこれらが総合的に軽量化を導いてきたように思うのです」「私も積極的では無いにせよ、これを支持をしてきたものとして、反省を込めて『軽量化』はまずかったのでは無いかと考え発言をしております」

 これに対して私は「高等教育フォーラム」で、こう答えている。

 「『軽量化』はそれなりの必然であったでしょう。高校全入運動も否定はしません。間口を極端にまで広げれば軽量化せざるを得ない。しかし、どこかでは『評価』を下して、ふるい落とす必要があります。民主主義の名の下に『評価』を避け、社会の側も最終学歴だけで受け入れて、企業内ですら個人の能力について評価が出来ていない。この国に一番欠けてるのは、きちんとした評価システムの確立です。学問の世界にいらっしゃれば、私の言い分は、お分かりと思いますが、念のために、それについて触れているコラム第74回『大学の混迷は深まるばかり』を挙げておきます」

 一生懸命に勉強して将来、実社会に出て使ったとしても、だれも相応の評価がされないことを、子どもたちは、若い世代は知っている。第95回で言いたかったことはそれであり、寄せていただいた意見には、具体的に示しているものがいくつもあった。

◆本質に切り込み得ないマスコミの構造欠陥

 「高等教育フォーラム」では、マスメディアに対する批判の声が聞かれる。いただいた投書の中にも、受験戦争の深刻さをメディアがあおるといった副作用の面を指摘されるものがある。しかし、この国のメディアが事態の本質に切り込むことを構造的に怠っていることこそが問題なのだ。ここはやはり第25回「インターネット検索とこのコラム」での描写を使いたい。

 「新聞メディアと読者の現状を、当時の私はこんなふうに整理した。高度成長期に入るまでは、新聞がカバーしていた知のレベルは社会全体をほぼ覆っていた。技術革新の進展と裏腹の矛盾、歪みの集積は社会のあちこちに先鋭な問題意識を植え付け、新聞がふんわりと覆っていた知の膜を随所で突き破ってピークが林立するようになった。特定のことについて非常に詳しい読者が多数現れ、新聞報道は物足りない、間違っているとの批判がされている。新聞の側はそれに対して真正面から応えるよりも、防御することに熱心になった。読者とのギャップはますます広がっている。なぜなら、知のピークはどんどん高くなり、ピークの数も増すばかりだから」

 残念なことに、新学習指導要領についても流石と思える分析記事やレポートに巡り会うことはない。たまたま書かれていないだけだろうか、偶然だろうか。そこに構造的な欠陥があると指摘したら言い過ぎだろうか。

 この国のマスコミは在京メディアが中心であり、その在京メディアは中央官庁に情報源を依存している。中央官庁には記者クラブがあり、排他的な情報提供が日常的に行われ、また、官僚の意図も含んだ「リーク」と呼ばれる情報操作が記者の「特ダネ」としてまかり通る。何か事件事故、異変が起きたとき、「○○省はこう言っている」と即座に言えることがステータスになっている。

 原子力発電所で異変があったとき、「科学技術庁も資源エネ庁も大したことではないと言ってます」で在京メディアは済む。私なら、京大、阪大などの知り合いの研究者と事態の科学的な把握を始める。文部省についてもこの図式が通用している。主観的には独立していると思っていようが、独自の取材源を確保していないために相手の掌の上で踊っているのが、中央官庁記者クラブの担当記者なのだ。思いついたように専門家の談話を採って、記事の上では中央官庁側にだけ傾かない形式を整えるが、本質的に切り込むものであり得ようはずがない。

 個別記者の資質のせいと考えないで欲しい。こういう「安全な」情報こそ、メディアが読者から批判されない、あるいは批判されても釈明できるソースとして、本社にいる出稿責任デスクや、どう扱うか価値判断をする整理部門の責任者から歓迎されているのだ。「新聞がふんわりと覆っていた知の膜」を突き破っている「知のピーク」ばかりを相手に情報を収集している私のコラムは、従って、こうした人たちには読んでも理解できない存在になってしまう。

◆「ゆとり教育」には知性のゆとりが必要なはず

 「ゆとり教育」に理解を示す声があった。ソフトウェア開発を指導しているというYさんは「学力低下問題への読者の声」<異論、別論あり>でこう述べている。

 「できるタイプはたとえ経験がなくても短期間で開発作業の勘所をつかみ、質の高い作業を行える」「できないタイプは長年経験をつんでもプログラムは低品質でバグが多く、ビジネス上のニーズを把握することも、それに対応するシステムをどう実現するかも全くアイデアがもてない」

 「最近、両者を分かつ強力な要因らしきものが見つかった。それは本を読むか読まないかだ。読書量の多い人はシステムを作れる、少ない人は作れない」「事前に覚えておけることには限りがある以上、より求められるのは沢山知っていることではなく、必要が生じたときに説明を読んで理解できることだ」

 「基本的に『ゆとり教育』は悪くないと私は考える。やたらに多くのことを覚えさせるより、範囲を絞ってしっかり理解させること、理解する能力を養うことが重要。範囲を絞って丸暗記させるなら無意味だが。80年代以前のフルライン受験への逆戻りは逆効果ではないか」

 これは素晴らしい発見だと思う。そして、「ゆとり教育」が十分ゆとりがある知性の持ち主によって、様々な学習環境や条件の上でも、ゆとりを持って行われるのなら、有効だろう。しかし、現場から聞こえてくるのは、それとは似てもにつかない惨状だ。

 高校英語教師Zさんは「学力低下問題への読者の声」<現場の教師として>で、こう報告する。

 「前任の進学校で大きな変化を感じたことがあります。現在の3年生が入学してきた時でした。『なんだか変だ。幼すぎる』という印象を多くの教員が感じていたはずです。小学1年から現在の学習指導要領で育てられた生徒たちでした。『ゆとり教育』に次いで、『個性重視・多面的な評価』を題目にした『甘やかし』の教育を受けてきた生徒たちです」

 「『勉強がすこしぐらい不得意でも、できるだけその子の長所をみつけて、ほめてあげましょう』。この教育観自体は良いものでしょう。しかし、このお題目が『いくら欠席しても、まったく勉強しなくても進級して卒業できる学校』を作り出しているのは事実です」

 「自治体の教育委員会は校長の業績を評価しますが、その評価基準の中にいくつかの数字があり」「中途退学者数、処分者数(懲罰停学などの)、留年者数などがあります。現行の学習指導要領は、自分の評価を落としたくない校長にとって、これらの良くない数字を押さえるための格好の道具となっていることも見逃せない事実です」

 「学校の内規では絶対に単位取得も進級もできない生徒が職員会議での校長の鶴の一声で進級決定などということは日常茶飯事となっています。こういったことが横行すると、学校全体に『勉強なんかしなくたって卒業できる』という雰囲気が蔓延します」

 Zさんの結論「文部省の初等中等教育における政策指針――学習指導要領の欠陥は子供に対してだけでなく、学校というシステム、ひいては教師の理性や良識にまで悪影響を及ぼすものなのです」には、うならざるを得なかった。




◆◇メールマガジン編集後記から

 日本滞在34年になる元南ドイツ新聞記者ゲプハルト・ヒールシャーさんが、1月1日付け新聞労連機関紙のインタビューでこう述べています。

 「日本のジャーナリストに、どういう仕事をしていますか?と聞くと、朝日の○○、NHKの△×と答えます。会社意識は高いが、職業意識は低い。どこの会社にいるのかの前に、ジャーナリストとしての仕事があるはず。所属ではなく、何をしているのかが問題です。ジャーナリストは会社のためではなく、社会と市民のために仕事をしている。そして、仕事の基本は、社会の弱い部分を改善することだと思います」

 こんな高邁な発言を会社の幹部から聞いたことがありません。今回の本文を読まれた後でならば、よけいに身に染みる言葉だと考えます。

◆◇2002/6/25 第120回「負け組の生きる力・勝ち組の奈落」リリース



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