団藤保晴の
「インターネットで読み解く!」

第74回「大学の混迷は深まるばかり」 (99/08/26)  [This column in English]

 国立大学の独立行政法人化が、現実味を帯びて語られ始めている。大きな変革になるが、大学が持つ、多すぎるほどの問題点を解決しようとする問題意識から出ているのではなく、行政改革のライン上の動きだ。一方で、今春の大学卒業生で就職した割合は、前年より5ポイントも少ない60%しかいなかった、との学校基本調査速報が公表された。学力低下はひどく、分数の足し算が出来ない大学生が珍しくないという調査結果も最近見た。それなのに少子化の時代を迎えて、多くの大学は入学生確保のために入試の科目数を減らすなど甘口の方向に走り続けている。

◆何も解決しそうにない独立行政法人化

 「大学審議会 組織運営部会(第62回)議事要旨」で、行政改革会議による指摘を、大学人がどう受け止めたのかが読みとれる。

 「学長のリーダーシップを発揮するためには,日常的にこれを支える仕組みが必要。その点では,京都大学には部局長会議があるが,自らの学部教授会への気兼ねと他の学部への口出しへの抑制という現状でなかなか動けない。評議会も多人数で機動性がない。事務局長も一年くらいで変わってしまう。学長がリーダーシップを発揮する制度的裏付けが欠けていた」

 独立行政法人化の動きも、国家公務員のままでいたのでは将来の定数削減を免れないことに加え、従来の学部中心の自治ではだめで、学長が切り回せる環境にしたいとの意図がありありだ。文部大臣が作った私的懇談会には、理工系の学長経験者が目立ち、法人化を評価する声も出たと報じられている。「大学改革情報」に一連の動きが集められている。

 しかし、学長のリーダーシップがそんなに素晴らしいものなのだろうか。何かを変える力を持つだろうか。この連載第13回「大学改革は成功するか」で欧米と対比して指摘したように、教授陣をほとんど同じ大学出身者で固めている現状、澱んだ人事システムでは、結局、何をしても変わっていかないだろう。

 大学院の入試制度を改善して、推薦状や調査書を不要にし、他の大学から受験しやすくする大学審議会答申が8月に出た。ささやかな改善である。現在の国立大修士課程では他の大学出身者は3割にも満たない。身内だけが集まって自分たちだけに通用する自治を営んでいて、新たなリーダーシップもない。

◆評価システムがないところに自律と自立はない

 しかし、例えはドイツのように法律で大学内部からの昇進を禁止したとしたら、実力本位で外部から教授を採用せざるを得なくしたら、この国の大学は途方に暮れてしまうだろう。国際級の理系研究者ならば評価はつくが、文系を含めた研究者を各分野ごとに評価し、格付けするシステムがない。

 それでいて、研究費予算は公正に配分できるのか。文部省の科研費は結局のところ、有名大学、機関にネームバリューによる惰性で配分されているに過ぎない。米国でのように、研究費申請に対して実験計画の妥当性を検討して「ここをこう手直ししたらオーケー」といった具合に検証してくれるシステムは存在しない。いや、評価・検証できる人材を欠いている。

 この国での研究評価の人的不毛について、私の新聞社での経験をお話しすると分かりやすいかもしれない。私の会社は自ら民間最高と称する「☆☆賞」を出している。以前には「☆☆学術奨励金」という制度もあった。

 その審査方法はとても風変わりだった。東京・名古屋・大阪・小倉の4本社にいる記者が申請が出た研究について、専門家の評価を内緒で聞いて回り、何度か集まって討議する。「この仕事の最初のアイデアは、某私大にとばされている講師が出したもので、申請している先生のではない」といった情報を集める。あるいは「この物質の発見は、対象者の多い病気の発見に匹敵する」といった評価をして、膨大な分野の仕事をふるいに掛ける。

 どれを採っても恥ずかしくない仕事だけにしぼってから、予備知識を持たない取締役会を相手にプレゼンテーションし、最終選択をさせる。

 ところが、私が科学部を出る少し前の時期から、申請の研究内容について「勉強」は良くできているが評価ができない記者ばかりになり、普通の密室型の審査方法に移行してしまった。少なくとも私の担当した当時は、学界のボスに功労賞としてあげる賞ではなく、明確なエポックを築いた仕事に与える賞だった。国内の大きな賞が軒並み、功労賞的な賞でしかないのは残念だ。

 問題なのは社内での退歩と、研究者側の退歩が相まって進んでいたことにある。普通に考えると、若い世代ほどドライに評価してくれそうなものなのに、私の経験でも切れ味の良い評価をしてくれる研究者は少なくなっていた。当たり障り無く、口ごもる人が多い中で、国際級の評価がある人達は、自分の研究に軸足を据えて、異分野の仕事についても積極的な発言をしてくれたことを思い出す。

◆大学が本当に必要なのか疑いたくなる

 学校基本調査速報から今春卒業生の進路を拾ってみた。

   合計・・・・・・・・・532,335人
   大学院などへの進学     54,021
   就職                  320,072
   臨床研修医              6,367
   一時的な仕事に就く     16,023
   以上の項以外          105,960
   死亡・不詳             29,892
 不況だからと言っても、悲惨な数字だ。「以上の項以外」には家事手伝いから、専門学校に入り直したりする分も含まれている。90年前後には就職率は20ポイント高く、80%はあったから、この項目の人が非常に少なかったはずだ。卒業時にフリーターに近い選択をする人がこれほど出ているということは、大学自体の存在が問われていることでもある。

 大学から人材供給を受けている民間企業は、実のところ大学をどう見ているのだろう。最近、企業ではやりの「能力主義」「学歴不問」の標榜について、「think or die」という刺激的なタイトルのホームページを開いている20代の筆者は鋭く、その嘘を暴いている。

 「大学生の学力低下はだれのせい?」から引用しよう。

 「大学にとって、学生の学力低下がほんとうに致命傷なら、学力向上のための努力をするだろう。なぜ大学はそれをせずに、頭数の確保に走るのか?」

 「企業が要求しているのは、在学中に自分の専門分野をバリバリ研究してすばらしい卒業論文を仕上げ、その専門知識にプライドをもっている学生なのではなく、成績が悪いのは目をつぶり、むしろ集団にとけこむ協調性があり、妙にプライドが高くない、なによりも会社の指示した仕事を文句も言わずテキパキこなしてくれる、使いやすい素直な学生なのである」

 「大学や学生の学問離れを助長しているのは、ほかならぬ企業の人事制度なのである。現場での実践的な実務能力と、社風にとけこむ協調性を重視するあまり、個人のほんとうの意味での『能力』を軽視してきた企業こそが、現在の大学生の学力低下を招いているのである」

 この国の大学と大学生から世界に通用するベンチャーがなかなか生まれない理由も、自ずと明らかだろう。我々の社会が持つ大学教育の「仕組み」は、酷な言い方をすると、個性的、創造的なものを排除する方向にある。本来、大学は創造的な空間のはずだが、何が創造的なのか、私の体験で述べたように大学人にも分からなくなっているのだから、創造的であり得ようはずがない。

 それでも何かが生まれている。それはランダムに自然発生的に生じている現象と呼びたい。私が「☆☆賞」で直接の担当者になって受賞まで運んだ、ふたつの仕事に共通している点は、最初の間、周囲から「なぜ彼はあんなものに一生懸命なんだ」と冷たく見られたことだ。世界的に研究のはやりすたりは存在するが、その底辺には頑固に独創的なものにこだわる多数の存在がある。はやりすたりにだけ目を向けていては、いつまでも二番煎じで終わってしまう。

 「『国家存亡の危機』,コップの中での再演」は、大学人による現下の動きに対する批判で、途中の論旨はともかくとして、最後の部分だけは正しいと思う。

 「何よりも重要なことは大学として言うべき事を正直に言い続けることだ.この春の物理学会のあるセッションで大学改革が議論されたとき,企業からの出席者が,大学が何を考えているかわからない,大学ははっきりものを言え,という発言があったのを記憶している.世間は大学が何も自己主張をしていないと見ているのである.実際そうなのだから当然だ.これからの転換こそが第一歩である」

 問題は、何を言えるかだ。研究の自由、学問の自由を唱えていればよい時代はとうに終わっている。


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