第124回「少子化対策の的は外れるばかり」
◆非婚化対策より子育て誘導は簡単か
従来説の「晩婚化」は、現在に至っては「非婚化」とはっきり言った方が当たっている。年齢を経れば、待っていれば、やはり結婚しなければと考える習慣はなくなり、生涯未婚者があまりに多すぎて異例な存在とは感じられなくなっているのだ。連載第122回「合計特殊出生率が東京で衝撃の1.00」で試みた未来予測通りならば、現在の10代は3割もが生涯通して結婚しないままかもしれない。これまでの少子化対策は、この非婚化傾向に為す術がなかったと断じて差し支えなかろう。
「社会保障審議会 第5回人口部会」とその資料に詳しい説明にあるように、新たに問題になった既婚カップル向けの対策ならば手が出せる――そう官僚たちは考えたのかもしれない。
新対策「今後の主な取組」の一番手にあがっている「男性を含めた働き方の見直し、多様な働き方の実現」が多分、新対策の目玉なのだろう。「少子化の背景にある『家庭よりも仕事を優先する』というこれまでの働き方を見直し、男性を含めた全ての人が、仕事時間と生活時間のバランスがとれる多様な働き方を選択できるようにする」との考え方に立っている。
育児休業取得率(男性10% 、女性80% )などの目標設定、地域での支援サービスの推進、果ては「次世代を育む親となるために」「中高生の赤ちゃんとのふれあいの場の拡充」までうたわれている。柔らかムードの、たくさんの項目を自分で確かめられたらよい。
しかし、同じ厚生労働省9月発表の「平成15年3月高校・中学新卒者の求人・求職状況(平成14年7月末現在)について」を一瞥しただけで、冷水を浴びせかけられた気分になる。高校新卒者の「求人数は11万5千人で、前年同期に比べ24.0%減少」「求職者数は23万1千人で、前年同期に比べ6.8%減少」であり、求人倍率は前年同期の「0.61」から、「0.50」にまで落ち込んだのだ。意味するのは、来春の高卒者は半分くらい就職できない現実である。
子どもが欲しいと考える親たちにして、この現実を目の当たりにしたら安易に子どもをつくろうと思えないのが当然ではないか。
第122回「合計特殊出生率が東京で衝撃の1.00」でデータを示して、30代に
比べて20代女性の出生に大きなブレーキがかかっていると述べた。そして、20
代は結婚にも強いためらいを見せている。大学を出てもフリーターで過ごす人
の割合も半端ではなくなった。文部科学省の統計「学校教育総括・就職率」で2000年の大卒者就職率が「55.8%」だったことと、1991年の「81.3%」から急落する動きを確かめて欲しい。就職出来ない、あるいは、しない同世代者を多数抱えている雰囲気の中では、20代のためらう動向は極めて当たり前のことなのかも知れない。
少子化は将来の年金負担の問題などに大きな歪みをもたらす。そう心配するからこその少子化対策なのだが、出口の見えない不況の中では「心配」は親たち、親になるべき若い世代の子どもをつくろうとする気持ちをいっそう萎えさせる。来年、再来年に景気を良くしてくれ、などと安直な希望はしない。この新世紀を日本がどう生きていくのか。大人口を養う、どういう産業構造があり得るのか。流行の言葉で言えばそのビジネスモデルがいつまでも示されない。いや、きちんと議論されているのかすら怪しいから不安が増す。
目一杯間口を広げた大量生産システムに依存して1億2000万人を維持するモデルが無理ならば、少子化こそ逆に望むところではないか。例えばの話、1億人規模の立国モデルに早期に転換して、今から為すべき事を重ね、外国人労働者導入もきちんと視野に入れる。そして50年後には現状より、こじんまりしているものの、人口の面でももっと安定した国になっている――と示すことこそ、ここ数年の政府至上命題だと思うが、違うだろうか。
◆国に続き個人も生き方モデルを見失った
生物は、遺伝子が自分を複製して生き続けるための「生存機械」だ――リチャード・ドーキンス博士が提示した「利己的な遺伝子」説によれば、人間だってこの宿命からは逃れられない。それなのに極端なまでに進みつつある、日本の少子化・非婚化。内実は何なのだろうか。
実は博士は「遺伝子:gene」に加え、ギリシャ語の「模倣」になぞらえた造語「ミーム:meme」という概念を考えた。ヒトに近い高度な動物が持つ文化の伝搬は、これによって行われる。言葉や身振り手振りなどで人の脳から脳へ自分を複製、継承し伝わるのだから、遺伝子の継承と相似している。遺伝子とミームが両方乗った生存機械が人間だとすれば、子どもをつくるのは大変な状況だからと、ミームの方に傾斜した人が現れてもおかしくはない。
ただ、現実に起きていることが、そんなきれい事かと問われたら、私は首を傾げたくなる。
「岐阜を考える」98年秋号「座談会・少子化から見た21世紀の展望」に、問題の当事者である20代を考えるポイントが表現されている。
江原由美子・東京都立大学人文学部助教授 「今の20代の子どもたちの父親
というのは40代、50代ですが、大学生はその父親や母親の行動を非常によく見
ています」「ものの見事に性別分業役割家族を実践している父親、母親が多い
のです。男女平等の理念で育った人たちがそうなんですよ。父親も母親も男と
女には役割があると思っている。言葉としての男女平等ではなく、現実にやっ
てることが問題なんです」
大江守之・慶應義塾大学総合政策学部教授 「でも、母親に面倒をみてもら
ってる男子学生は自分の父親をみていいとは思っていないのでしょう」
江原「そう、思っていない。母親にしてもらうことについてはあまり考えて
いないけれども、父親のような企業に埋没する生き方はしたくないとは思って
いる」
大江「そのことと家庭内での役割分業の話は結びついていかないのですか」
江原「全く結びつかない。しかし、仕事だけという生き方を強いられること
には恐怖感が強い。共働きをすれば家計的には非常にいいとわかっている。そ
れがなぜか家事分担の問題となると、家事を分担するのは面倒としか思えなく
なる。男子にとっては女の人が家事全部やってくれて、共働きするのが一番い
いと思っているのです」
椋野美智子・日本社会事業大学教授 「もし、女の子が納得しているのなら、
男の子にとって最高でしょうね」
江原「そうでしょう。ただ、女子にとっても男の人が家事も育児も半分手伝
ってくれ、働かなくて済むというのがいい。5、6割の女の人はそれがベスト
だと思っている。全部やれとはいわないが、せめて私と同程度に家事や育児を
し、働いてない時は家事、育児を手伝ってほしい。それで、給料は持ってきて
くれて、私は働かなくても、当然その給料を全部もらう。それがいいと思って
いる」
父親も母親も自分の生き方のモデルにしたくない。では新しい生き方を生むのか。男女の間で、ちっとも甘さのない、辛いところの方が多い議論をし、互いに汗を流して、新しい夫婦・家庭像を創造するのか――とても、そんな気はない。若いわがままのぶつかり合いと言えばほほえましいが、「生き方モデルを見失ったのだ」と冷静に指弾すれば、いささか寒気がしてくる事態だと思う。
この事態は、人と人との間の関係を取り結ぶ力が、若い世代で衰退してきたのだ、とも捉えられる。
精神分析家として知られる野田正彰氏の講演「少年犯罪と教育―エピソードを持って生きよう」はコミュニケーションの場を避ける生き様を痛切に描いている。
「欧米でも『一人っ子的二人っ子』は日本より早く到来しましたが、日本と
は対処が違いました。欧米では、子どもたちどうしの社会をつくることを進め
た」「日本では、細切れのスキルを付けさせようとしました。この結果、自閉
型の遊びが増えました。ゲームウオッチ、テレビゲームがそれです」
「その結果か、感情表現が乏しくなりました」「奇妙なことに、『心が傷つ
く』という不可思議な言葉が当り前に多用されるようになりました」
「傷つかなければ人間でないように思い始め、さらに『心が傷つく』と、
『心』を実体化させるようになりました。『心』は実体ではなく、人と人との
関係の中で生まれるものにもかかわらず、『心』を実体化させることによって、
ただ耐えるだけになってしまった」
「『心が傷つく』という、こうした言い方で済ませず、『嫌なことを言われ
た』と返せば、コミュニケート可能な状況が育まれたはずなのですが、そうし
ない、そうできないから、耐えに耐えて『切れる』」
「ここに、私たちの文化が行き詰まっている一面が見えます」
賢明な読者はもう気づかれたと思う。前の座談会で指摘された、男女ともの冗談のような身勝手な結婚観は、男女一人の「心」で勝手に育くんだものに過ぎない。それが絶対であって「妥協は嫌だな」と思って過ごす限りは、あの「新しい荒れ」が問題になった学校時代の精神年齢から一歩も出ていないのである。
夫婦である限りは少なくも二人の関係、共同の関係を作り出さねばならない。その構築は、政府の「少子化対策プラスワン」がいかに男女共同参画社会のスタイルだけ説こうとも補いきれるものではない。