第125回「ノーベル賞・土壌外に落ちた種たち」

 今年のノーベル賞国内受賞者二人は対極的な存在だ。小柴昌俊・東大名誉教授の物理学賞は退屈なニュースだったが、田中耕一・島津製作所エンジニアの化学賞は確かに衝撃的だった。記者会見でも予想範囲内発言の前者と違って、後者は何を言い出すか、発言そのものが新鮮に映った。受賞決定を知らせるホームページの作り方も、会見のブロードバンド長尺ムービーまである東大と、並べる素材に窮しているのが明らかな島津製作所とでは……。しばらく途絶えていた科学関係のノーベル賞に過去3年で4人が選ばれた。その中で田中さんと2000年の白川英樹・筑波大名誉教授の二人は、福井謙一さんの受賞以来、ノーベル賞対策に随分な準備、労力を費やすようになった科学ジャーナリズムの裏をかいた。この「土壌外に落ちた種たち」について考えてみたい。


◆育むべき科学の土壌、もしあれば

 島津製作所のページから田中氏の「略歴」を見よう。1983年に東北大工学部卒で島津製作所入社、中央研究所に配属、86年5月に計測事業本部第二科学計測事業部技術部第一技術課に転じる。87年に宝塚市で開いた日中連合質量分析討論会での研究発表が今回の受賞対象なのだから、入社3、4年目の仕事だ。大学院も出ていない、その若さでチームリーダーとして働かせた島津については後半で触れたい。

 田中さんの発明の中身は、高質量のタンパク質分子をレーザー照射と特殊な方法で単体分離させたこと。レーザー脱離イオン化法と言葉は難しいが、一度、浮かばせられれば飛行時間を測るなどの方法で質量を短時間で割り出せる。現在ではタンパク質のデータベースは整備されているので、質量で何かが分かる。1年も2年もかかって分析し、突き止めていた時代からは途方もない進歩だし、研究用に限らず、がん診断治療など臨床医療での応用にも見通しがついた。

 読売新聞の「ノーベル賞・田中さん発案の装置、商品化や販売で壁も」が当時の状況を伝えている。社内での発表会では反応は冷ややかだったものの「中堅幹部の『今までなかった装置。何か用途があるはずだ』との言葉が製品化に道筋を付け、翌年、1号機が世に出た」。しかし、数千万円もする機械。売れない。「論文を評価した米国の研究機関から引き合いがあった。1台売れただけだが、このおかげで研究は生き延びた」という。

 討論会の発表後に反応があったのも海外に限られた。直接、訪問してきた研究者もいれば、討論会の英文要旨集にヒントを得て改良を進めた人もいた。島津は、この件で特許申請は国内にとどめ、国際特許にはしなかった。

 特許で縛らなかったことが逆に質量分析機器の進歩を早めて、今回の受賞につながったとの論調も見られる。しかし、それは違うと思う。当時、斬新とされた阪大細胞工学センターでの仕事を見ていた私には、国内にもっと広いサイエンスの土壌があれば、全く新しい分析手法に巨大な可能性を見つけられたに違いないと思える。ヒトゲノムの解読が終わった今、遺伝子から組み上げる動きと高分子のタンパク質から降りていく動きは激しく交錯している。当時の細胞工学センター周辺での取材でも予感は十分にあった。

 白川さんの場合も仕事の理解者は米国にいた。そのいきさつが「白川英樹博士へのインタビュー」にある。

 ポリアセチレン膜に導電性を与える研究を諦めたころ「あるときに、アメリカから先生が来られてセミナーをする機会があった」「その先生とある日本人の先生とお話をしてる間に、『日本の研究者の中で、光輝くフィルムを作っている研究者がいる』ということを日本の先生がお話ししたら、そのアメリカの先生が『是非会ってみたい』、という事になった」「本当に飛び上がってビックリしていました。日本でこんな仕事をしてる人がいるのかと。もう、是非一緒に仕事したいからアメリカに来てくれ、と言われた」

 そして渡米、有機化学の白川さんと異分野である無機化学、物理の研究者2人が組んだ結果、導電性高分子という新分野が開けることになる。

 田中さん、白川さんの仕事が国内で大樹になれなかったのは、国内には世界で誰もしていない仕事をしようとする研究者が少なすぎただけである。全く測れないものが測れる。存在しなかった物質が出来た。それを、ぞくぞくするような感覚で受け止めるか、既存の存在や基準に当てはめて「使えない」と投げるか。前例依存、権威依存に終わっていてサイエンスが成立しようか。

 苦言を呈するのも、大学の研究者に自分の領域に閉じこもる傾向が顕著だからである。京大理学部の山田耕作教授は「理学部の大学院重点化をめぐって」でこう述べている。

 「昔の先生方に比べて教官の指導力が非常に低下してると思う」「研究一本槍で、非常に視野が狭い」「戦後の僕らの先生にあたるような人たちは、物理なら物理でも非常に広い視野があって、いろんな分野を手がけて、意義とかも慎重に考えられたと思うんですけども、われわれの世代になると、単に手伝いだけをして、先生のいう通り仕上げたという人が指導者になっている事が多い」「リーダーにはなれない人が、リーダーになっていて、学生にまともな研究テーマが与えられない」

 こうはっきり言われると言葉もない。研究者の視野ばかりか、そんな「ローカル土壌」だけ当てにする科学ジャーナリズムも問われている。


◆研究に匂う京都ベンチャースピリット

 田中さんの成功は、失敗から生まれた。科学上の大発見ではよくある。レーザー照射する対象に混ぜる素材として金属微粉とグリセリンを用意した。二つを同時に使うつもりはなかったのだが、失敗して混ざってしまった。捨てればよいものを、「資料がもったいない」と測定したら、そこに解決の糸口が見えていた。なぜこの二つを用意したのか、理屈はあったのだから、全くの偶然とは言えないが……。

 田中さんは大学を出るとき、まずソニーを受験して落ち、教授の推薦で島津に入社した。読売新聞「『ソニー』落ちた田中さん、恩師が『島津』に推薦」に、田中さんが島津の名前を知らなかったこと、1年後に恩師を訪れたとき「ハッピーです」と笑顔を見せたエピソードが語られている。

 京都の経済記者クラブにいた私は、島津を取材した経験が何度もある。研究熱心な会社なのだが、なかなか儲けにならない。京都企業の中でも京セラとか村田製作所、日本電産のような戦後派ベンチャーがまず一芸に秀でて、のし上がっていくのに比べて派手さがない。歴史はあり、間口は広い。発明家だった創業者の時代から不器用にベンチャーを続けてきた観がある。

 それにしても、入社3、4年の大卒者にここまで自由に研究させていたとは知らなかった。敢えてそう言うのは、研究者の意欲を縛って、とんでもない、得るべき大利益を逃した大企業の例を知っているからだ。対照的なケースとして紹介しよう。私の会社が主催している「☆☆賞」(社名匿名)を受けた、最強の永久磁石「ネオジム磁石」発明である。私がその担当者だった。

 発明者の佐川真人さんは富士通の研究所に勤めていた。ある大学教授の講演を聴いて、これまで最高だった希土類磁石の限界を破るアイデアを思いつく。しかし、畑違いの仕事に会社の上司はゴーサインを出さなかった。辞職して磁石メーカーである住友特殊金属に移ることになったが、課長職であるため機密事項の処理があり、3ヶ月間は出社だけして周囲から切り離された生活を送った。その、何もしないのもつまらないからと試みた3ヶ月で「Nd-Fe-B」の基本的なレシピをほぼ完成、転職後4ヶ月で記録を塗り替えてしまった。超伝導磁石でなく、普通の永久磁石で磁気共鳴断層撮影装置(MRI)を造り出すほど衝撃的な磁石となる。

 純粋に学問的でない、こうした仕事が生み出すきらめきは、学問の世界が最高と考えがちな大学人をはるかに凌駕してしまう。しかし、それは企業における、泥臭い面も多い商品開発と連続したスペクトルの一部なのだ。どこからが学問と切り離せない。「研究が面白い」と言いつつ、大学には向いていないとする田中さんの思いも、そこと繋がっているのではないか。京都ベンチャー企業群の商品開発例を集中取材した経験から、特にそう感じている。関心がある皆さんに具体的に感じてもらうために、私のかつての新聞連載26回をまとめた京都商品開発ストーリー「独走商品の現場・京都」を、今回を機に希望の方に読んでいただけるようにした。大卒入社2、3年目の技術者ばかりによるカラー写真直接製版機開発といった実例も含まれている。

 最後に、東大の小柴さんに触れよう。陽子崩壊を観測できるとのふれ込みで大規模な装置「カミオカンデ」を建設しながら失敗し、たまたま備えていた特性を生かすニュートリノ観測に転用して退官直前に成功した。東大から受賞するとすれば、こういうお金をかけたタイプになるのかとも思う。ただ、チャレンジ精神だけで言えば、東大理学部の中からも「あの程度の装置では陽子崩壊観測は無理だ」との声があったことも知っているので、小柴さんは東大らしからぬ「蛮勇」の持ち主だったかもしれない。