第131回「暴走へ向かう大学改革に歯止めは」
◆超一級研究者がトップの阪大でさえ
京大経研と阪大社研の統合廃止問題について、日本経済学会の正副会長、常任理事5人の有志連名で「京大経研と阪大社研は、独立の研究所として存続すべきである」が1月末に出された。両研究所のこれまでの業績を示す客観データをこう表現している。
「全国の国立大学附置経済系研究所の中で、教官一人当たり論文数(Econlit による)では阪大社研が1位、被引用件数(Social ScienceCitation Index による)では京大経研が1位である。なお2位はそれぞれ、京大経研と阪大社研である」
「京大経研と阪大経研は、いかなる意味においても、『研究活動が国際水準に達しない大学の研究所』を廃止することを目的とした統合廃止の対象になるべき研究所ではない。むしろ少ない人数・予算で最も高い研究水準を維持したこれら2研究所こそ残すべきであろう」
この意見には、過去にいずれも取材した経験がある私も異存はない。
当事者の阪大経研、梶井厚志教授が開設している「『社会経済研究所の存亡について一言』のページ」は、廃止に向かって進む動きの理不尽さを具体的に記している。
1月に表面化した際に、マスメディアに対して文部科学省が漏らした統廃合理由は「レベルの低い研究所は廃止」だった。
ところが、昨年からの実際の交渉経過は違う。
「レベルの低い研究所を廃止するどころか、研究評価による附置研究所の優劣をつけること自体を拒否してきたのは文部科学省であり、逆に社研は研究業績評価で決着をつけようとしてきた」
「業績評価基準を立て、その基準を一般に公開した上で、それにてらして『レベルの低い』研究所を廃止することこそ本筋の議論であるはずだ。しかし、これまでの経緯から私が判断するに、責任をもってそれを実行する能力は文部科学省にも大阪大学にもない」
今後の統廃合の決定は、冒頭に述べた法案内容に則して文部科学省認可から学内での綱引きに移りつつあるようである。しかし、阪大トップ、学長の岸本忠三さんがどんな人か知っている私には、単なるドタバタ劇と言ってすませられない、改革の先行きを心配させる深刻な例に思える。
岸本さんは免疫系で大きな役割をする物質インターロイキン6の発見者であり、「Japan's Citation Laureates, 1981-1998」で、世界的なハイ・インパクト論文を連発して「引用最高栄誉賞受賞者」となった国内30人のひとり。阪大経研側が掲げた研究評価客観指標の、最も優れた体現者なのだ。
統廃合騒ぎの震源地、科学技術・学術審議会「新たな国立大学法人制度における附置研究所及び研究施設の在り方について(中間報告)」には「必要規模としては学問分野やその研究所の目的・使命により異なるものの、学部や研究科の規模や、基本的組織としての位置付け等を考慮すれば、30人程度がその目安となろう」とあるが、その直後に「この目安については、硬直的に適用することは避け、役割・機能の重要性にも配慮して弾力的に運用すべき」と但し書きがある。
お墨付きさえあれば、研究内容の吟味など吹っ飛ばしてリストラに進む官僚的体質が、もう大学に蔓延しているのではないか。人にも恵まれている、あの阪大ですら……。
◆評価を他人任せにするのは自殺行為
本質的なところを置き去りにした改革である点を指摘した連載第114回「大学と小泉改革:担い手不在の不幸」を1年前に書いて以来、改革について大学からの意思表示が世間に現れることが少ないと感じ、出来るだけ大学人が登場するシンポジウムなどに出ている。
先日も同じ阪大の工学系に2001年に出来た、阪大フロンティア研究機構の第3回シンポを聞いた。こちらは企業化まで考えられそうな科学技術の色々な「種」を持っていて、大学改革を積極的に利用したい人たちが集まった。シンポには「社会と大学は連携から『融合』へ」とのタイトルが付く。最も印象的だったのは、法人化法案などについて「我々が思っていたほどの自由が与えられるのではない」との声だ。お仕着せの改革は、改革に積極的な大学人の思いにも合わない。
各種シンポなどで共通して聞かれたのは、大学での研究なり教育なりについて評価システムが出来ていないとの指摘と嘆きである。評価不在は私も書いてきたことなのだが、この期に及んでなお「誰かが正しい評価をしてくれる」と大学人が思っているのには呆(あき)れている。
長い時間を経て形成された格付け機関のような存在が無い以上、大学人全体で適切な評価を共有して、大きく外れないようにするしか採るべき道はないと考える。具体的に言えば、現在のように理系も文系も蛸壺にこもって自分の専門にしか関心がない状態を脱し、各自が目が届く範囲で二まわりも三まわりも遠くの人まで、どんな仕事をしていて、どんな意味があるのか知り、口に出来るようになることだ。
そんなこと、時間の無駄だ――とんでもない。そういうことが当たり前に出来てこそ自分の研究テーマがどうあるべきか、対自的に捉え直せ、意義を鮮明にすることが出来る。そういう大学人が多数になれば、研究の質的平均値も随分上がるに違いない。
改革の中で任期制導入が押し進められている。その任期制を入れた京都大再生医科学研究所で2月下旬、再任を拒否された井上一知教授が京都地裁に地位保全を求め仮処分申請する騒ぎが起きた。外部評価委員会は「全委員が一致して再任を可」としたのに、内部の協議員会で再任が否決されたのは不当としている。
現在の制度では再任しない理由を本人に明らかにする必要はなく、救済する機関も置かれていない。井上教授は日本再生医療学会の立ち上げに参画し、初代会長も務めた人だから業績に乏しいとは考えにくい。ケースは少し違って、教授の横暴による助教授以下への理不尽ならあちこちで聞かれる。自律的な評価が根付かねば、今後、騒ぎはどんどん拡大しよう。
また、私の会社が出している「☆☆賞」の選考で経験したように、かなり有名な研究でも近い分野の研究者から「よく知りません」との答えが続出するなら、新たに学外から経営に加わる人物が切れ者であるほど「どれもこれも切り捨て可能」と考えて当然である。
国立大学法人法をめぐる在京メディアの理解も、予想されたこととは言え、
あまりに文部科学省べったりだった。読売新聞による社説[国立大法人化]「自主運営は結果への責任を伴う」 が好例である。文部科学省が語っていない部分で何が起きるのか、現場を知らず、考える素材すら持たないとしか思えない。
場当たりの法人化で先進国に例がない有名大学純血主義は守られ、現在の学閥はますます固定され、特定大学の特定部門だけが肥大化し、力のない地方大学は急速に寂れよう。評価の名に値しない独善的判断で右往左往が起きるのは、目に見えている。
残念なのは、反対している大学人が今に至ってもなお、実質的には改革の必要など無いとの姿勢を変えず、大学の現状に苛立っている社会から遊離している点だ。不勉強なメディアの責任は否定しないが、文部科学省とは別軸の、メディアが納得して依拠できる「改革」を提起しなかった罪も極めて大きい。
※追補(3/10)今回リリースの直後、北海道大の方から次のメールをいただいた。
「『反対』の現場に居る私の感覚では,まじめな『反対派』の方が,学長クラスや無関心層よりもずっと大学改革の必要性を感じ,『大学の現状に苛立っている』と思いますが,団藤さんがそう感じられないのはなぜでしょうか?とても興味があります」
私の返事は次の通り。「本当に改革の必要性を感じられているのなら、議論を公開して始められたらいかがですか。同じ北大の辻下さんが1年前に『これから大学の現状について問題点を問う声が、全国の大学からわき起こるはず』との趣旨の反論を私の言われましたが、何も起きませんでした。反対を言われるのも結構、それと同時に中身のある大学改革論を唱えられていれば、これほどメディアから無視されることもなかったでしょう」