第114回「大学と小泉改革:担い手不在の不幸」

 小泉改革は底割れしてしまったかに見える。内閣支持率の急落だけ捉えて、したり顔で言うつもりはない。田中真紀子外相の更迭にまで至った外務省改革の挫折は、小泉純一郎首相が一本釣りで選んだ閣僚に能力がなかったばかりか、改革さるべき現場にも改革の担い手が不在という二重の不幸を明らかにした。農水相、厚生労働相、文部科学相……いずれも同じに見える。改革の「抵抗勢力」とは自民党橋本派を中心にした政治家たちと決めつけられがちだが、実は現場も「抵抗勢力」だらけ。連帯して行動する同志を準備せずに改革を始めてしまった首相は、「民間でできることは民間に」など唱えるスローガンは上手に響くものの、個別中身の専門的な吟味は出来ていない。その典型例を独立行政法人化に向けて動いている国立大学改革で考察したい。反対にしか道を見いだせない大学人と、かつては拒んでいた独立行政法人化が今や万能のように言い立てる文部科学省。この二つしか行く道は無いのだろうか。


◆「学問の自由」しか訴えられない大学人

 独立行政法人化を巡っては当初の公務員身分案から、非公務員身分での移行が検討されていて、大学人の間に危機感が募っている。東大など28大学の教職員組合は委員長連名で2月20日、文部科学省調査検討会議あてに「国立大学職員の『非公務員化』に反対する」要請を出した。その中の「公務員身分は『学問の自由』を保障するためにも必要である」には唖然とさせられた。

 私の連載第74回「大学の混迷は深まるばかり」の結びで、大学は世間に対して自己主張しなければならない時期に来ており「問題は、何を言えるかだ。研究の自由、学問の自由を唱えていればよい時代はとうに終わっている」と指摘した。もう3年前のことである。

 大学の皆さんは「文部科学省の意向ばかり報道して、マスメディアは自分たちの意見は取り上げてくれない」と被害妄想に陥っているように拝見する。しかし、「学問の自由」を唱えて世間に訴える記事になると真剣に考えているのなら、考え違いだと申し上げるしかない。「学問の自由」の名の下に、国立大ではさして効率的な研究も教育もされず、自己チェックもなく、国際水準から遠い存在と化してしまったと、世間一般の人たちは感じているのだから。

 この国のホワイトカラーの能力が欧米企業から大きく劣っている現実だけとっても、大学教育に大きな責任があると言うしかない。日本企業がこれまで本物の実力主義で出来ていなかったために、大学は従順な人材さえ送り続ければ良かった点を差し引いても、ひどい。また、研究テーマの選択で世界に例が無い独創を狙うより、流行に流され続けている傾向はずっと改まらない。多数のベンチャー企業群を生み出すような科学技術面の活性度が低い点も、米国と比べたら、あるいはアジアまで含めた諸国と比べても相当な「重症」と、科学技術分野で取材経験が長い私は考えている。

 ここで「学問の自由」だけを唱えるのは、「自分たちは変わりたくない」と言っているのに等しい。「自分たちはこう変わるのだ」と具体的な主張で裏打ちされずにいて、冷たい目を向ける社会の理解が得られようか。

 この要請文では「教特法の規定は事実上の規範としてこれまで私立大学にも及んでいた」と、公務員身分が私立大にまで恩恵を与えていたとの表現になっている。講演「小泉『構造改革』のなかの大学〜独立行政法人化を中心に」で、私学も経験されている浜林正夫氏はさすがに「国立大学の先生方は、民営 化されたら大学はもうオシマイだみたいな言い方をする。で、そんなことを言うと私立大学の人が怒りますよ、それじゃもう私立大学は成り立たないじゃないですか、と」たしなめている。

 しかし、同氏が帯広畜産大の狂牛病研究を引き合いに出し「そういう研究をやっていけるのは大学に自治があるからです。大学に『学問の自由』があるからです。そういうものがあるからこそ地道に、狂牛病というものが話題にならなければその先生の研究は埋もれてしまったかも知れない訳ですけれども、何がどこで役に立つか分からない、そういうことのために一生を捧げている先生方がいっぱいいる訳であります。そういうことを守っていかなければならない」とする論理展開には与(くみ)し得ない。

 他人がしていないことを研究することに価値観を見いだしている欧米研究者の多くに比べて、国内がなんと安易な研究態度なのか。その実情を示すデータを、連載第80回「ヒトゲノム研究での異邦人・日本」で西塚泰美さんの仕事に触れながら具体的に書いた。狂牛病研究ひとつで免責されようか。この安易さから脱却する筋道をつけないで、きれい事だけ並べて賛同できるはずがない。大学人の皆さんは、マスメディアの人間は学問の現場について良く知らないと勝手に思いこまれているようだが……。


◆大学改革の処方箋は2項目で書けるのに

 文部科学省は1月末に「大学(国立大学)の構造改革の方針について」という解説を出した。「1.国立大学の再編・統合を大胆に進める」「2.国立大学に民間的発想の経営手法を導入する」「3.大学に第三者評価による競争原理を導入する」――の3施策は、これまでの経緯をウオッチしていれば分かることだが、実は場当たり的に提示されてきた。この解説で何とか体系的に見せようとする意図が感じられる。

 おまけとして「大学(国立大学)の構造改革の方針に関するQ&A」を設け「国立大学が法人化すると、授業料を各国立大学で決めることになり、結果として授業料が上がるのではないでしょうか」など、予想される批判にあらかじめ回答を用意しておく手回しの良さ。

 しかしながら、書かれている文章は官僚的作文の見本と言うべきだろう。何が核心なのか、読み直しても見えにくい。なら、NHKインターネット・ディベート「“構造改革”で大学はどうなる?〜遠山文部科学大臣に問う〜」の遠山発言を拾う方が話が早い。「再編・統合について」の項にある発言「自主性を尊重するという趣旨でこれまで改革を進めてきている。大学設置基準を大幅に緩和し、自分たちでカリキュラム作成、流動性を促してきた。しかし、それが実際に実行に移されない」に、文部官僚としてキャリアを重ねてきた、この人の本音が見える。

 大学人の自主性に任せては、結局のところどうやっても動かないのだから、今度という今度は首に縄を付けてでも文部科学省が引きずり回すしかない――小泉首相から、どやしつけられて、遠山文部科学相はそう観念した――現在、進行している事態はそう理解して良いだろう。とすれば、「学問の自由」を掲げて何も変えないつもりの大学人の態度は、文部科学省からはサボタージュにしか見えないはずである。

 では、文部科学省はベストを尽くしてきたのか。「解説」にある第三者評価の仕組みが「科学研究費補助金の審査方式に準じて」とあるのを見ただけで、現実を少し知っている人には答えが出せる。科研費審査のいい加減さ、恣意性が日本における科学技術の発展をどれほど阻んできたことか。科研費審査を米国並のレベルに高めるだけで、大学改革は大きな一歩を踏み出せる。それを怠ってきた文部科学省が、遅れている責任を大学だけに押しつけるのは失笑を買う怠慢である。科研費審査の現水準が第三者評価の公平さを担保すると考える官僚たちに、改革すべき本質が見えているとは到底思えない。第74回「大学の混迷は深まるばかり」で述べたように、もともと独立行政法人化は行政機関の合理化要求から発しており、大学改革とは異質なのだ。

 では、どうしたらよいのか。改革の担い手が存在しない以上、現場にいる多数を担い手に変えるしか方法はない。その現場にある、当の大学社会に内在する仕組みを利用するのが一番だ。連載の第13回「大学改革は成功するか」読者共作2「ポスドク1万人計画と科学技術立国」での検討をベースに、私なら2項目の処方箋を書く。

 1.助手や助教授に対する教授の人事権を廃止、教官選考は公開、公募制とし、選考委が学部にどういう専門分野の人材が必要かを検討して選ぶ。

 2.その大学の出身者は学外機関での勤務経験を経ていなければ給与を70%しか与えない。この規定は現職の全教官に対しても5年後から適用する。


 澱んでいる学閥人事を一掃し、若手教官を縛る制約から解き放とう。早期に何らかの成果を得たいなら、多くを期待すべきは彼らしかない。教官を選考するたびに、大学内部で学部の進む方向まで含めて真剣な検討があれば、しかも選考対象に情実が加わりやすい学内持ち上がり者は給与制限で参加していないのだから、社会の要請と大筋でかけ離れるはずがない。

 さらに、給与70%では現職に居座ることは不可能だから5年のうちには大半の教官が、どこか別の大学で選考委審査の洗礼を浴びる。積もり積もった悪弊はこうでもしなければ除去できまい。科研費審査は仕組み自体を変える必要があるが、審査する人間自身が経験を欠いている点が実は致命的なのだ。狭い研究分野に閉じこもりがちな教官に一回り広い学問分野全体のことを考える機会を持たせ、公開で公平な審査を数多く経験させることにしか、本質的な改善に導く方法はないと考える。大学の自治とは本来はこうした営みだろう。

 もう一度言いたい。国立大学はこうして変わるのだ、と大学人自ら立案しアピールせず「学問の自由」を唱え続けて、社会を説得できる可能性は零である。ひょっとして若い教官たちは思っていても、後が怖くて言い出せないのかも知れない。老成した教授陣はそんな目に遭うくらいなら独立行政法人にして、文部科学官僚につつかれながら、自らの殻に籠もる方が良いと考えるかも知れない。果たして、それで大学は「知」を追求する人たちの集まりなのだろうか。大学改革をめぐる在京メディアの知的レベルも確かにひどいが、今の大学人に笑う資格があるとは思わない。



 ※この時期にこれを執筆した思いはメールマガジン版の編集後記で、私の大学での体験と併せご覧いただけます。ここまで読まれて関心を持たれた方は是非どうぞ。