第150回「ネットと既成とジャーナリズム横断」

 偶然なのか必然なのか、第150回という節目で私のネット上の活動が新しいステージに入ると宣言したい。きっかけは岩波書店の月刊誌「世界」新年号(12月8日発売)の座談会「『言論』の場をどこにつくるか〜ネット・ジャーナリズムの可能性」に出席を依頼されたことにある。そこで提案したことであるが、既に推定70万件以上と今年に入って急膨張したブログを、ネットジャーナリズムとして活性化させるべく、私自身が「ブログ時評」を新設して批評活動を始める。それを「インターネットで読み解く!」ルートや個人ニュースサイトなどの協力をあおいで数万、数十万人に情報露出できるようにし、小さく集っているブログの世界を世間に見えるようにして体質改善を促す。さらに紙メディアに載せるにふさわしい質と判断してもらえれば、既成メディア上にも転載されていく「ネットと既成とジャーナリズム横断企画」を進める。まずは基調報告で現状を認識して欲しい。


◆「世界」座談会に用意した基調報告

 マス・コミュニケーションが大量な情報を流す現実を表現しているのに対して、ジャーナリズムは理念を表す言葉だ。ネット上のマスコミ批判には混同が多い。ジャーナリズムの本質は、亡くなられた新井直之さんによると「いま伝えなければならないことを、いま、伝える。いま言わなければならないことを、いま、言う」こととされる。この定義には目的語が省かれているから、私なりに補うと「その事柄を事実として伝えると同時に、当該社会にとっての意味をタイムリーに明らかにする」ことだと考える。さらに進めれば「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」のである。

 新聞、雑誌、テレビといった既成メディアが言論機関としての役割に疑問を持たれつつある。その主因は、商業主義による横並び報道と社会の構造的変化に取り残されて「隠されがちな事実を伝え、見えなかった意味を言う」機能を衰えさせたからだ。

 1988年初めに、私がいた科学部が新聞読者向けのパソコン通信ネットを立ち上げた。大阪から中心メンバーとして加わり、他のマスメディアに先駆けて、そして以後にほとんど例が無い、新聞記者と読者が双方向で交流する場を作り上げた。会議室を設けて議論の司会をしたり、科学面などの記事について討論に応じた。ところが、多くの記者が脱落していき、残ったのは大阪科学部の数人だけになる。

 その脱落過程に関心を持った。端的なケースを挙げると、記事について読者側から批判やクレームがつく。それに対して「自分は新聞記者だから、その道の権威に取材してまとめている。何も知らないのに文句を付けるな」式の対応をすると、議論が次第に進展する過程で、クレームを付けている側が問題の記事のテーマになっている研究者が見えるほど近くに机を置いている人物と判明したりする。手持ちのデータは十分でなくても、驚くほど冴えた問題提起をする素人もいる。その意味を汲み取れないで、中央官庁から収集してきた情報でやりこめようとする記者も司会役は務まらない。

 この80年代の経験から科学部記者ですら、複雑に細分化して発展する科学技術に対して時代遅れであることが判ってきた。90年代にはいると、経済、金融、財政が破綻する中で、中央官庁情報を垂れ流すことで知ったかぶりが出来た専門記者たちの化けの皮がはがされた。80年代から思い起こせば、その分野の本を数冊程度読んだだけで社内の専門家として通っていたのだから無理もない。世界規模の変動要因も絡んで破綻する国家政策にメディア側から目が覚める提言など出ようはずもなかった。

 1997年はインターネットの世界に本格的な検索機能が持ち込まれた年だ。私はたまたま外勤の取材部門から内勤の編集部門に配置転換になり、勤務時間とプライベートな時間が明確に切り分けられるようになった。インターネット検索を使って社内の業務とは切れた時間帯で取材し、当時3万人の読者がいた商業電子メール新聞にコラムを寄稿する仕事を会社に認めさせた。

 新聞が扱うすべての分野、政治経済、科学技術、暮らしや文化、スポーツをたった一人の記者がテーマを取っ替え引っ替えしながら毎週、書き続ける。無謀な試みに見えるが、新聞のヘビー読者としての私から見て、新しい知見や斬新な切り口「見えなかった意味」が毎回詰まっていた。半年経って「いつまででも続けられそうだ」と気付いた時、インターネット検索は社会の知のありようを反映しているのだと思い至った。

 マスメディアと大衆の現状を私はこんなふうに整理した。高度成長期に入るまでは、マスメディアがカバーしていた知のレベルは社会全体をほぼ覆っていた。技術革新の進展と裏腹の矛盾、歪みの集積は社会のあちこちに先鋭な問題意識を植え付け、マスメディアがふんわりと覆っていた「知の包括膜」を随所で突き破ってピークが林立するようになった。特定のことについて非常に詳しい市民が多数現れ、メディア報道は物足りない、間違っていると批判がされている。メディア側はそれに対して真正面から応えるよりも、防御に熱心になった。大衆とのギャップはますます広がっている。なぜなら、知のピークはどんどん高くなり、ピークの数も増すばかりだから。

 インターネット検索を駆使して広大な領域のコラムが十分な水準で書き続けられる秘密は、そうした知のピークを渡り歩いて先鋭な問題意識を拾い集めているのではないか。こうして文明論的な理解に到達した。

 1997年には日本で独自発達した無料メールマガジンも生まれた。翌98年夏、まぐまぐ読者が50万人に達するころ、私も商業電子メール新聞から離れて自分のメールマガジンとウェブで自分の読者を持つスタイルに移行した。メルマガの玉石混淆ぶりは他のインターネットの分野と同様だが、ジャーナリズムと分類できる最大のもので、20万人以上の読者を持ち、部数1万以上も多い。部数数百、数千のメルマガを含めて、私が言う「知のピーク林立」を実証している。

 メールマガジンと並行して成長していった存在に、これも日本独自の個人ニュースサイトがある。ほとんどテキストのシンプルな構成で、新聞社や大小様々なウェブの気になったニュースにリンクを張りコメントを付ける。コメントがなく、項目羅列のケースでも1日に複数回更新で客を呼んでいる。ニュースの目利きが売り物。1日アクセス数が数万のサイトが珍しくなく、数千、数百のところを含めると数知れない。趣味系や軟派ものの面白いニュースを誰かが見つけると連鎖的にリンクの輪が拡大し、最大なら数十万の津波アクセスを引き起こすようになった。私が書くような硬派系のニュースにも一部は反応する。

 一方、日記のようなスタイルで折々の事柄にコメントを書き、それに他の人から簡単に感想や意見が寄せられる「ブログ」は2004年になって目立つ存在になってきた。米国では政治を扱うブログに1日10万件を超すアクセスがあり、日本は比べるべくもないけれど議論の場として確かに機能し始めている。ただ、国内で何十万もあるブログの、どこでどんな意味がある議論が出来ているのか当事者周辺以外には見えていない。ブログには社会的な発言をしていた個人ニュースサイトから転じたものも多く、個人ニュースサイト群との連携が出来れば、メールマガジンも巻き込んでネット・ジャーナリズム総体として「マスメディア」に匹敵できる言論の場になる潜在力を持つと思う。


◆ブログの現状を変えるツールが要る

 上の基調報告の後でどのような話の進展があったか、座談会の詳細な内容は「世界」新年号をお読みいただきたい。

 最近、ブログに巡回時間を掛けている私の見るところ、ブログの多くは例の巨大掲示板「2ちゃんねる」でされている議論のレベルを出ていない。議論を議論として成立させるには言葉の概念を整理しなければならないのに言いっぱなし、すれ違いが多く、議論が噛み合わない場面が続出している。推敲されていないことが歴然の書き込みも多々である。

 それなら放置しておけば良いかもしれない。しかし、既に16年間余りネットジャーナリズムの可能性を追ってきた私には、あまりに惜しい。また、同志社大・浅野健一ゼミの「オーマイニュース オ代表が同志社大学で講演」の締めくくりで「もし日本でオーマイニュースのようなメディアを創りたいのなら、この様な『準備された市民』がまず必要です」と言われ、疑問が投げかけられて、皆さんは寂しくないだろうか。現在の日本のブロガーはまだ「準備された市民」ではないと思う。(ただし、インターネットでの知的蓄積は韓国と違ってウェブ中心に存在し、その厚さのほどは私の連載が証明している。しかし、ネットジャーナリズムとして現実に働きかける力は弱い)

 折しもライブドアが「パブリック・ジャーナリズムの実現へ向けて『パブリック・ジャーナリスト』を全国より募集開始」をうたい始めた。ブログの1%、何千人かは来る、との皮算用らしい。

 ネットにも精通しているプロジャーナリストの目から見て「その計画は無理ですよ」と申し上げるしかないが、それだけで良いだろうか。ツールをもう一つ用意すれば、日本のブログの世界を大化けさせられる可能性がある――これは座談会で北田暁大・東大助教授とも意見が一致した点である。

 世界で日本だけにしかない「メールマガジン」と「個人ニュースサイト」を組み入れたら、連載の第128回「ニュースサイトが生む津波アクセス」で指摘したように最大で数十万のアクセスを引き起こせ、マス・コミュニケーションとして十分な規模になる。これを「てこ」にすればブログの現状を変えられるはずだ。

 現在、ブログの世界は急膨張しすぎて、面白い議論であっても当事者周辺にしか分からない。「ネットと既成とジャーナリズム横断企画」では、まず「第三者が読むに値する議論」をブログから掘り起こして多くの人の目に留める。津波アクセスと言えるほど大きなアクセスが自律的に作り出せ、ネットの世界自らがマスコミになり得ることを知れば、多くの人に読んでもらうために書き手が精進して議論の質が高まる良循環に導けよう。それを立ち上げるためにはどこかに埋もれている良い議論の情報を、読者の皆さんからも是非、いただきたい。「ブログ時評」専用の「議論の推薦掲示板」も開設した。この後、さらに紙媒体メディアとの連結ステップまで進められれば、何か変わった人たちの集まりというネット観が破れ、世間に与えるインパクトは大きい。

 大きなネットジャーナリズムのうねりを生み出す局面を切り開く仕事、それを自覚して出来るピンポイントの位置に私が居合わせたのは、偶然とは思えない気がしている。