第128回「ニュースサイトが生む津波アクセス」
◆裾野まで含めた巨大さを再認識
日記サイトなどは、この名前付けを私は好まないが、米国では「ブログ(blog←Weblog)」と呼ばれている。Newsweek「ブログ空間の愉快な生活」が伝えるように「昨年9月11日の同時多発テロ後、市民の間には『何か言いたい』という欲求が高まった。そんな思いを満たすのに、ブログはおあつらえ向きの媒体だった」という。
日本のサイトがそれを引きずる必要はないし、一般的な呼称としても熟していないから、国内で通りがよい「ニュースサイト」の方を優先する。
まずは第127回「音楽産業は自滅の道を転がる」に起きたことを見たい。次に掲げる数字はニュースサイト系リンクからの半月間訪問件数である。
アドレスを挙げている23サイトに各50〜20件の24サイトを加えると、アクセス件数は合計9427。20件未満の200サイト分が3000件程度。そして、私のサイト常連さんとメルマガ「WebCatch」あるいは検索サイト経由分合わせて7000件というのが、半月間に訪れた方たちの分析結果だ。津波現象には、今回だけで数百人の手が関わっている。もちろん、メールマガジンとして配信している2万余部とは別の計算である。
1、3位で合計4000以上あるのが、よく知られたサイト「俺ニュース」。しかし、元サイトのアクセス量は不明。2、7位の「かーずSP」は多くのテキストサイトが参加する「ReadMe! JAPAN」のランキングで、1日1万件ほどのアクセスを持つと知れた。後日の来訪者もかなりあったから、掲載初日に限れば、10%程度が反応してリンクをクリックしたことになる。
5位の「http://ime.nu/…」は例の「2ちゃんねる」で取り上げられた際に生じるリンク。掲示板サイトもかなりあった。実は1日数万のアクセスを持つニュースサイトがまだまだ多くあり、第118回では当方に連日2万人も来られてログ容量がパンクした。みんなが乗ってくるネタなら、現実に10万アクセス以上の巨大な波が出来る。
リンクによる集中アクセスは一度に立ち上がるのではなく、あそこのサイトにあったから自分の所も取り上げようと、カスケードしていく。その様子を横から眺めて主要な「個人ニュースサイト・日記サイトからリンクされているページのランキング」を作るサイトも結構はやっている。「NEWSLinks」とか「せかいのまんなか」とかがそうだ。今回のログを整理している内に気がついた。
このランクを利用して、どんなニュースが好まれているのか、実物を見ていただこう。発信元は新聞社サイトからのニュースもあれば、INTERNET WATCH、CNN、ZDNet、企業、そして、個人発のニュースと様々。内容もハイテクもの、社会面ネタ、食の話、娯楽もの、便利グッズ、有名人の消息……。
運営している側が、こうしたニュース発信元やシンパシーを感じているニュースサイト、日記サイトの動きを、一々見て回っていては時間が足りない。自動巡回の機能を提供する「はてなアンテナ」などを利用、更新ぶりをチェックし、気に入ったものがあれば取り上げる仕組みが広まっている。どこを見て回るのかリストを明示することが、そのサイトの性格表明にもなっている。
◆メディアリテラシー成熟に至るか
ニュースを読み、コメントを付ける。コメントがなく、項目羅列のケースでも1日に複数回更新で客を呼んでいる。ニュースサイトを個人で切り盛りするには労力が要る。なぜ、ニュースサイト、日記サイトを運営するのか。
運営当事者が自ら評論している「破竹と死守と」を見つけた。「考察 インターネット時代の情報」の第五回「台頭する個人ニュースサイト(その2)」はこう主張する。
「我々は長いこと、受動的な情報手段しかもたなかった。人は物事を知ると本質的に他人の教えたくなる性癖を持っている。つまりそれが個人発信の波だと前回で述べた」
「『情報を処理する』とは事の真意を確かめ適切な意見・考察を述べることだ。処理されていない情報は独り歩きするものだし、勝手な推測を生んでしまう。ちなみに、このマスコミがこの作業を怠りすぎたから、個人ニュースサイトの促進を生んだという向きが出来なくもない」
「インターネットによって多様に処理された情報を数的にかなり選ぶことが出来るようになった。考えに同調したり、個々で議論が出来る。マスメディアなんぞの得体の知れぬ集合体が相手じゃない。『なるほど、こういう考えもあったのか』と知ることで閲覧者の知的水準は上がる。受動的になっていて麻痺していた本来持って生まれた情報処理の技術が成長していくはずである」
筆者HN.乾さんは無秩序なネットの世界だからこそ、情報を見分ける能力も鍛えられると考えている。それだけの気負いを持って運営しているところが多数ならば、面白いと申し上げたい。昨年、私は第100回「ネット・ジャーナリズム確立の時」を書いて狼煙を上げたつもりだが、ジャーナリスト側の個人でのネット進出は、残念ながらゆっくりとしか拡大していかない状況にある。
研究者から「日本ウェブログ学会」設立が提唱されている。呼びかける静岡大の赤尾晃一さんは講義資料「ハイパージャーナリズムとしてのウェブログ」を公開していて、「ジャーナリズムの語源」で「Journalistは新聞(雑誌)記者と同時に,日記をつける人の意味」と記している。
「ウェブログの利用・満足」で指摘される「膨大なリソースへのインデックス 」「ジャーナリズムには存在しない情報への期待 」「面白い/笑えるテキスト(娯楽性) 」「他人の生活の“のぞき見”」「納得/共感できる等身大の生活感覚あふれるテキスト(あるある性)」は、現在のメディア報道から抜け落ちている部分である。確かに新聞が日々に届けているデータがいかに多かろうと、一般読者がインターネットを知った以上、はるかに膨大な情報の存在が認識されてしまった。マスメディアを万能ではなく限定的な存在として、検証対象に置こうとする「大衆」が現れて当然である。
社会学の立場からは、一種の予言が数年前に書かれていた。ソキウス「社会学の作法・初級編【改訂版】」(1999年)で、パソコンがワープロや表計算のための孤立した機械である時代が終わり、コミュニケーションの道具として欠かせなくなった状況をもとに、野村一夫さんはこう述べている。
「大学などでおこなわれている『情報リテラシー教育』の目標とすべきことは、ネットワーク・コミュニケーションの能動的な主体となるチャンスの提供であり、市民として公共の場で発言できるコミュニケーション能力を開花させることであろう」「しかし、情けないことだが」「ほんの数年でスクラップ化するような技術の修得が中心になってしまっている。これでは、交通規則をまったく知らないドライバーを大学が量産しているようなものである」
大学でパソコンを使ってきたはずの、メディアの若手記者でも、この指摘に該当する例は多い。
パソコンを使いこなすとはどういうことかと、野村さんは問い、「受け身な態度では、なかなか一歩先の知的創造の局面に踏み出せない」「一歩踏み込んでやってみて、それを反省することで半歩後退し、ふたたび次を展望する」「そのやり方というのは『送り手になること』だ。具体的には、メディアをつくってコンテンツを公開することである」と主張する。
「送り手になる経験は社会学的見地から見ても重要である。というのも、こうした作業は、やや大仰ないい方が許されるならば、ジャーナリズムの系統発生的な歴史を自分たちの経験として個体発生させることになるからだ」「ひとりひとりがメディアをもつことによって、いうべきことがいわれないままになることを防止する。これは健全な市民社会の基本的条件だ」
ニュースサイトの現状が、ここまでの高みに達しているか、議論があろう。しかし、自然発生的であっても、手探りであっても、メディアを持ち読者と相互作用を持続していくうちに洗練度は高まるものだ。中には既に燃え尽き現象を起こしてしまったサイトもあるが、新規参入は増え続けている。
ひとつ、1997年から、こんなテキストを書き続けてきた立場から言わせてもらうと、読解力と目利きの力はまだまだだと思う。私のウェブに口コミ的な力で読者がやって来るなと感じ始めたのが昨年秋くらいから。この間に提供した、若い世代を対象に考えて既存メディアに無い切り口で、最もインパクトがあるニュースは、第124回「少子化対策の的は外れるばかり」だと思っている。非婚化傾向について、「生き方モデルを見失ったのだ」との指弾はあまりに辛口と受け取られるかも知れない。しかし、その辛口こそが見方、切り口の鮮やかさを売り物にしている私の所にしかないものなのだ。忙しいから一口ニュースのようなものしか相手に出来ないようでは、ニュースサイトの将来もたかが知れている。
それとも、いま対象にしている分野以上に視野が広がり、きちんと目利きするニュースサイトが現れ、そこからリンクが増殖するところまで発展していくのだろうか。「既存メディアを脅かす」とまで口走れるとしたら、それが出来てからのことだ。マスメディアに匹敵する「百万規模の津波アクセス」が生まれる可能性が見えてきた今だからこそ、敢えて書いておきたい。
【参照】第129回「再論・津波アクセスの社会的意味」