もう気付こう、文科省なんか不要だ [ブログ時評08]

 学力低下が言われる中、02年度に導入されたばかりの「総合的な学習」見直しを中山文部科学相が表明したことを受け、2月の中央教育審議会で具体的な検討が始まりそうだ。文科省が十数年掲げてきた「ゆとり教育」志向の看板が音を立てて崩れていく。

 「おぃおぃ・・・今頃になって何をあわててるんだよ! 2002年から今の学習指導要綱に基づいて、せっかくやり始めてまだ2年やん? 研究に研究を重ね、一般庶民の声に逆らって、頑張って決めたことちゃうの?」。「極私的映画論+α」の「『総合学習』の見直し」にある声が最大公約数的な、庶民の反応だろう。結果として見直し賛成でも、まず、こう言いたくなってしまう。

 「タムリンの日記」の「文科省方向転換」は「失敗の責任は誰もとらず、文科大臣を変えることによって、その気まぐれ発言により方向転換を図ろうとする、全く無責任な形で教育改革が進んでいます。あれほど、テストの点だけが学力ではない、学力に対する考え方を変えよと言っていた文科省が、他国とのテストの点での比較で、学力低下をマスコミに批判されただけで・・・。しわ寄せはすべて、現場の教員に来るわけです。こんなシステムではよい教育ができるはずがありません」と怒る。

 確かにこの方向転換は唐突である。拉致問題で首相官邸の対北朝鮮最強硬派だった中山参与の夫君が中山文科相。このご夫婦、思い込んだら梃子でも動かぬ点で似ていらっしゃる。小泉首相が組閣で中山文科相を選んだ時点で、レールは敷かれたのかも知れない。

 昨年末の文科省事務次官人事で文系の官僚ではなく技官出身の結城章夫氏が内定したことも盛り込みながら、それを少し穿(うが)って書いているのが「電脳くおりあ」の「文部科学省が変わる?」である。例の「三位一体改革」によって義務教育国庫負担金制度が廃止寸前まで行き、文科省の存在理由が揺らぎ始めている。ここで過去の束縛がない新文科首脳ラインで学力低下問題を表面化させ、社会的な危機感を煽り、文科省の存在意義を訴える手に出ている可能性がある。「私は、どんな意図があろうと、本当に本気になってかかってくれればそれでいいと思う。危機感のない中央省庁では、なくてもいいことになって当然だからだ。問題は、改革の内実だと思う」「大事なことはこれからだ。文科省が何をしようとしているのか、しっかりと見届ける必要がある」

 文科省を批判をされる方でも、その存在がまず前提になっている。それを突き抜けているブログは見つからなかった。私ならこう言いたい。「もう気付きましょう。文科省なんか要らないんですよ」と。

 今度の見直しで学校現場の混乱はさらに深まろう。総合的な学習に手を焼いていた先生は助かる。しかし、総合的な学習が得意で成果を上げていた先生まで、教科学習重視に引き戻されてしまう。欧米先進国に追いつこうとしていた時代までは、中央統制型の教育行政に意義はあったが、今となっては教育本来の姿、地方分権で現場の実情に合ったやり方に委ねるべきだ。学習指導要領なんかも要らない。教科書も自由に作り、教え方も自由。教科学習に強い先生はそこから入ればよいし、総合的な学習を駆使できる先生は生徒の「目覚まし」をして教科学習の必要性を判らせればよい。

 ただし、こうしたことが可能になるには、その地域社会が自分達の子どもは自分達で育てると覚悟を決める必要がある。お金も人手も掛けねばならない。現在、多くの先生はパソコンを自在には扱えない。今の時代に総合的な学習をするのに大きなハンディキャップになっている。それなら地域社会がボランティアを募ってもパソコン支援役を学校に送り込む。定年退職した方たちにも語り部として、生きた教材として学校に来てもらう。地域社会全体で学校を包み込むのが前提だ。

 昨年書いた「学力・読解力低下で知る危うい国家戦略 [ブログ時評03]」で描いたように学校、特に公立校の疲弊ぶりは甚だしい。きちんとした教科学習を捨てて、甘やかしや思いつきの学校運営に走ってきた。子どもや親たちの信頼も落ちている。成績の良い子は私学に流れた。ここで文科省通達で「教科学習に舵を切れ」と指令して、大きく実質が変わるとは思えない。必要なのは指令ではなく、現場への厚い、そして熱い手助けだと考える。

 こんな意見もある。若手の無党派神戸市議が「教育方針に正解はあるか?」で「戦略的に考えるならば、20年後の日本が必要とする人材ビジョンをきちんと描き、そういう人材を育てるために教育方針を定めるべきなのでしょうが、『20年後にどんな人材が必要とされるか?』など予測できない・・・というのが私の結論です」と述べ、「多様な教育機関が多様な教育を行えば、結果的に多様な特長を持った人材が育ち、時代の変化に合わせて誰かが活躍するはずです」と語っている。

 もう一度繰り返そう。中央統制教育の時代はもう終わったのだ。歴然たる失敗にまた失敗を重ねるのが目に見えている「小手先の方向転換」ではなく、教育の主体を地方の手に取り戻し、自分達の責任で子ども達を育てるしかない。子ども達のモラルの低下や生き方を見失っている問題にも、地域社会全体が取り組むしか解決法は無いのだから。