市民記者サイトは高い敷居を持つべし [ブログ時評30]

 市民メディア・インターネット新聞JANJAN、ライブドアPJニュースに続く三番目の市民記者サイト「ツカサネット新聞」が7月20日にオープンした。パイオニアとして苦労した割には宣伝する力が乏しく注目を集めていないJANJAN、集客力がある場所で生まれたのに安上がり指向ゆえの惨状と表現するしかないライブドアPJに対して、今度は主宰する企業がお金も掛けるし適切な編集方針を打ち出すと聞いていたので、それなりの期待感があった。ところが、10日間も経過したのに、ブログの世界ではほとんど評判になっていない。検索に引っかかるのは投稿が採用された人の告知と、編集部による投稿の依頼ばかり。失態続発が話題になったライブドアPJニュース以下の無視状態だ。コメント欄にもほとんど書き込みは無い。

 10日間で既に50本余りの記事が掲載されている。同サイトが記事・写真の著作権を買い取る代わりに払う「¥1,000」「¥2,000」「¥3,000」の赤いバナーばかりが目立つ。並んでいる記事は正直なところあまりチャーミングではない。最高の3000円を獲得している「消費意欲は旺盛!第1回 『景気どうよ?指数』調査から」はブログのコメント欄を利用して151人からアンケートを取ったものだ。冒頭にある「編集部注:この調査はサンプル数が少なく統計学的に有意義とはいいがたいが、手法としては厳密に行われている。ブログを利用した調査方法が斬新であり」を見て、マスメディア経験者も入れて編集部を構成するとの情報は眉唾かなと思ってしまった。私は世論調査には詳しく、その立場から言えばこの手法はいくらサンプルを増やしても社会の中のある特殊なグループを集めているに過ぎない。そのグループの性格付けが出来る属性分析でもした上ならともかく、このままでは意味は無い。

 オープンから二日と開けずに訪問してなるべく読んでみたが、このサイトの運営者も先行者と同様に、市民記者がマスメディアに対して優位に立てる「原理」を理解していないと感じた。私の連載「インタネットで読み解く!」第150回「ネットと既成とジャーナリズム横断」では、こうまとめた。高度成長期に入るまでは、マスメディアがカバーしていた知のレベルは社会全体をほぼ覆っていた。技術革新の進展と裏腹の矛盾、歪みの集積は社会のあちこちに先鋭な問題意識を植え付け、マスメディアがふんわりと覆っていた「知の包括膜」を随所で突き破ってピークが林立するようになった。特定のことについて非常に詳しい市民が多数現れ、メディア報道は物足りない、間違っていると批判がされている。メディア側はそれに対して真正面から応えるよりも、防御に熱心になった。大衆とのギャップはますます広がっている。なぜなら、知のピークはどんどん高くなり、ピークの数も増すばかりだから。

 市民記者が強みを発揮できるのは「特定のことについて非常に詳しい」からであり、私の言う「知のピーク」をなしている場合に限られる。それ以外の事柄を書いてメディアと競えるはずもないし、ましてや日本語能力が疑わしいライブドアPJなど検証するまでもない。例外として、たまたま事故・事件に居合わせて現場写真を撮るような地の利、時の利を得た場合は別だ。ツカサネット新聞が多数のブロガーに記事を依頼していること自体は良いと思う。「特定のことについて非常に詳しい」ブロガーが、そのツボにはまって書いてくれれば読むに耐える市民記者サイトが出来よう。それには現在の茶飲み話級の話題は捨て、ハードルをぐんと上げねばならない。記事が集まりにくくなるが、現在は百人程度の記者を早急に千人クラスに拡大して補うしかない。良い記事は月に一人が1本しか書けないと想定すべきであり、ツボの話題が回ってこないからしばらく書けない人だって多く出る。

 ところで、問題は他にもある。編集部の力量が問われるのだ。「メディア報道は物足りない」と言っている中身が本当に理解できていないと、市民記者をリードしていくことが出来ない。批判すべきマスメディアの記事を読み倒しておかねば見当違いな方向を向いてしまう。マスメディア批判と同じ基準で自らにも対さなければ、多くの読者はつかないだろう。創刊号のトップ記事を匿名のジャーナリストに依頼しておきながら、市民が発信する意味をうたいあげた編集後記(現在は読めない)はいただけなかった。

 韓国では現政権に敵対的な主要3紙に不利な新聞法が28日に施行された。主要3紙の論調の偏りが大きかったために、韓国ではネット新聞「オー・マイ・ニュース」が生まれると大衆の関心を呼び、市民記者が多数集まったと聞く。今回、法律を作ってまでというところに、偏りの大きさが知れる。日本ではそうした僥倖は無く、市民記者サイトは多様な既存メディアに対してなお優位であると自らの記事で証明して、大衆の目を惹きつけていくしかない。ブログで毎日書いているような中身では勝負できないと、まず書き手が理解しなければならない。編集部は「何か書いて欲しい」と注文するのではなく、ブログを観察して「これをこう書いたら一頭地抜ける」と示唆すべきだろう。だれでも市民記者になれると安易に思われている現状を遥かに超えた高いところに、合格ラインの敷居はある。ここに述べた原理的壁を乗り越えねば、日本の市民記者サイトの明日は無い