第269回「影が薄すぎる朝日の政策転換『原発ゼロ社会』」

 朝日新聞が13日の朝刊1面社説で「提言 原発ゼロ社会―いまこそ 政策の大転換を」と打ち出しました。「高リスク炉から順次、廃炉へ」「核燃料サイクルは撤退」など見開き社説特集の方はネットでは見られません。ネットで見ていて、ソーシャルメディアでの影の薄さはどうしたことかと思えます。事故4カ月ではあまりに遅かったとも言えます。正午まででは、有名どころのブログでの取り上げ無し、はてなブックマークもゼロ。ツイッターは400件ほどありますが、社民党の福島瑞穂党首へのリツイートが多数あり、大した数ではありません。大手新聞の社説がいかに社会的インパクトを持たなくなってきたかを示しています。

 かつての同僚たちが書いた社説特集を一読して、書かれていないことの方が気になりました。1976年の大型連載『核燃料 探査から廃棄物処理まで』で核燃料サイクルを国策とする方向に関与した事実、そして論説幹部を中心にした原子力に対する「イエス、バット」の押しつけです。私自身はどちらにも否定的で結局は科学部を離れましたが、その影響は社内だけでなくマスメディア全体に及びました。ツイッターにも「その責任の曖昧さ反省の中途半端さに、終戦直後の同新聞を思い出した。朝日新聞は戦時報道の総括と反省に60数年もかかっていた」と厳しい発言があります。

 ブログでも《朝日新聞が「脱原発」の社説特集を組んだまでは良かったが...》(kojitakenの日記)が「問題含みなのは15面の下の方にある『推進から抑制へ 原子力社説の変遷』という欄で、それによると、第2次大戦後20年ほど、原子力の民生利用に希望を託す見方が世界の大勢だった頃には推進論だったが、1979年のスリーマイル島原発事故や1986年のチェルノブイリ原発事故を契機に『推進から抑制』へと転換したと主張している」「ここで朝日が『黒歴史』にしようとしているのは、"Yes, but" という標語で、70年代前半に活発になった原発批判論に水をかけ、石油危機を受けては広告料欲しさに東京電力の原発の巨大広告を載せ、1976年には大熊由紀子・朝日新聞科学部記者(当時)の長期連載『核燃料』を掲載した事実だ」と指摘します。

 1面社説に戻ると、「たとえば『20年後にゼロ』という目標を思い切って掲げ、全力で取り組んでいって、数年ごとに計画を見直すことにしたらどうだろうか」「今後は安全第一で原発を選び、需給から見て必要なものしか稼働させなければ、原発はすぐ大幅に減る。ゼロへの道を歩み出すなら、再稼働へ国民の理解も得やすくなるに違いない」とあって「大転換」と主張しているほど明確に現状と決別している訳ではありません。少なくとも「現状での違法性」にも目が向いていません。

 福島原発事故をめぐる朝日新聞の報道ぶりは、大衆の「命」を守ることに一生懸命という商業新聞らしい感覚も、政府・東電の隠蔽体質への怒りも感じられない淡泊なものでした。むしろ随分長く政府や御用学者の言いなりでした。昨12日、社会面に「原発報道『大本営』か 本紙4カ月の取材検証」と題した長い記事が出ました。悪条件のもとでそれなりに頑張った弁明になっていますが、直ぐに気付くのが中央官庁に依拠しないオルタナティブ情報源を持たないゆえの失敗です。チェルノブイリ事故の際は京大原子炉(大阪・熊取)に通って、亡くなられた久米三四郎・阪大講師らの突っ込んだ討論に参加させてもらいました。この際、事故2カ月で書いた第258回「在京メディアの真底堕落と熊取6人組への脚光」をもう一度、掲げさせていただきます。