第72回「遺伝子を資源化するクローン技術」

 「クローン」という言葉がSF上の概念でしかないと、つい先日まで思っていたのに、この春には国内でクローン牛肉が過去6年間で66頭分、市場に出回っていたことが明らかになり、「表示すべきだ」と消費者の反感を買う事態が生まれた。このクローン牛肉は、英国で生まれた羊「ドリー」とは違って、普通の人工受精卵が細胞分裂を始めた初期段階で分割、人工的な双子、四つ子…を造り出しただけだ。衝撃的なドリーの一歩手前の技術、成獣の体細胞から生まれたクローンとは違うのだから、畜産農業関係者は風当たりの強さに戸惑っている。しかし、一般の人たちが、この技術に神経質になっている証明だろう。

◆ドリー誕生と国内畜産技術陣の追随

 1997年2月に英国・ロスリン研究所のウィルムット博士・研究グループが発表した「ドリー誕生」のニュースは、科学に関心をもつ人なら「ノーベル賞何個分だ」と思わざるをえないものだった。

 我々の体の細胞にはひとつひとつ核があり、ヒトとしての遺伝子DNAが完全に収められている。それは巨大な蔵書のような存在で、ひもといて行けば、ヒトを造り出すすべてのソースがある。しかし、この全能の情報源がフルに使えるのは受精してしばらくの間であり、様々な機能の細胞に分化した後では「全能性は失われる」と、長く信じられてきた。

 受精卵によるクローン技術が、夢のクローン誕生へ橋渡しになるとは、正直なところ想像もしていなかった。科学技術庁による冊子「クローンって何?」が、よくまとまった情報を提供してくれる。

 ふたつのクローン技術とも、未受精卵から核を除いて準備する。そこに移植される核が、受精後発生初期のものか、成獣の細胞から採られたものかが決定的に違う。移植後に電気刺激を与えると、細胞は融合し、独自の存在として細胞分裂を始める。

 「受精後発生初期の細胞を使った初めてのクローン羊は、1986年にイギリスで報告」「クローン牛は、1987年にアメリカで報告」「1996年8月、アメリカのオレゴン州にある霊長類研究センターで、霊長類で初めてのクローン猿が報告」

 この技術の下地の上でドリーを可能にしたのは、科学が進歩する時によく見られる、ちょっとした「失敗」だった。ウィルムットたちも最初は受精後発生初期の細胞を使って実験していて、かなり細胞分裂が進んだものを移植するようになった。そこで、未受精卵に移植する前の細胞に十分な栄養を与えることを忘れ、一種の飢餓状態にしてしまうミスを犯す。この結果生じた休眠状態こそが、細胞に「全能性」を回復させるカギだった。

 「1996年7月、イギリスのロスリン研究所で、雌羊の体細胞を使ったクローン羊『ドリー』が誕生」「1997年10月、アメリカのハワイ大学の研究チームは、マウスの成体の体細胞を使ってクローンマウスを作る」「1998年7月、近畿大学農学部が石川県畜産総合センターの協力により、牛の成体の体細胞を用いたクローン牛『のと』と『かが』の誕生」

 この国の畜産技術陣が世界で初めて、成体からクローン牛を作り出した。しかも、99年4月の農水省「家畜クローン研究の現状について」によれば「体細胞クローン牛出生頭数57頭」「現在生育している体細胞クローン牛頭数35頭」にも至っていることは驚きだ。この国の潜在的なバイオテクノロジー水準がいかに高いか物語っている。詳細な現在の飼育リストがある。

 しかし、高級和牛がいかに高く売れるからといって、悪のりではあるまいか、と私は思う。

 クローン羊フォーラムのために来日したウィルムット博士のパネルディスカッション発言に、サイエンスの本場・英国らしい常識を見る。

 「クローン技術はコストが高く、『牛が供給過剰な欧州では増産という目的では使えない』。この技術でどんな悪影響がでるのかという問題があり、倫理的に使用していいのかどうかという問題がある。まず、バイオテクノロジーで応用、次に畜産で応用されると思う。イギリス社会では、動物が死んでもそれ以外に薬品が入手できないのならこの技術を応用してもよいという意見が占めている」

◆クローン体にあった「違う点」

 体細胞クローン牛がこれほど多数、飼育されたこともあって、通常の牛に比べて体重が重くなることや、虚弱な傾向が多数、報告されている。未受精卵から核を取り除く作業を十分にしないと、移植した「核」以外の遺伝子が混じって染色体異常が起きるなどしているから、技術上の問題にすぎないとの見方もあった。

 この5月27日、科学雑誌「ネイチャー」に載った論文「クローン技術 - ドリーのテロメア Analysis of telomere length in cloned sheep」が科学的な差異を報告した最初のものだろう。「ドリーやほかの2頭のクローンヒツジは、遺伝子レベルでみると、普通に生まれたヒツジと若干の違いがあるという。クローン作製技術で生まれたヒツジは、平均すると、同齢の普通のヒツジに比べて『テロメア』がやや短いらしい。テロメアは染色体の末端にあるDNA塩基配列で、染色体が端からすり減って短くならないよう保護する『キャップ』の役目をしている」

 「テロメアは一種の安全装置として働き、細胞分裂でDNAが複製されるたびに染色体が端から少しずつ削れていくのを身をもって防いでいると考えられている。この理論によれば、分裂を何度も繰り返したあとテロメラーゼがテロメアをきちんと維持できなくなると、テロメアがすり切れてなくなり、細胞は自殺するという」

 クローン羊はどれも、一生かかってもテロメアが致死的な長さまで短くなることはない、とされている。しかし、ひとつのクローン体を繰り返して、クローンを作り続けると、まずい結果を生みそうである。

 個々の細胞の死と、個体の死とは、かけ離れた概念であり、どう考えたらよいのだろう。「細胞分裂時計としてのテロメアと老化」は、老化した生体で起きる不具合をこんなふうに説く。

 「正常細胞にはテロメア長がある閾値以下に短小化することを防ぐ機構があるに違いない。テロメア長が短小化する理由は細胞分裂にともなうゲノム複製であるから、この機構は、短いテロメア長を検出して細胞分裂を抑制することでテロメア機能が失われるのを未然に防いでいるであろう」

 「増殖刺激がある場合にも細胞が増殖しないことは高齢者で特徴的に認められる。高齢者では創傷の治癒が遅い。また、高齢者では免疫機能が低下し感染症が重症化することが多いが、これは外来異物が侵入したときにそれを認識して免疫反応を惹起するリンパ球がクローン増殖をすべきところがしないために、免疫反応が起こらないためであると考えれば説明がつく」

 重要な場面で機能をもつ各種の細胞が次々に細胞分裂を停止し、機能を果たさなくなっていくこと、それが老化現象の細部なのだという。

◆農作物はクローンだらけ

 クローン体のもつ問題点がテロメアだけに限られるとは、とても思えない。そう思わせてくれたのが、やはり「ネイチャー」の1週間前、5月20日号である。私たちの知らない未知の領域は、想像以上に広いのだ。「植物 - 遺伝子組み換え植物の花粉の有害な影響 Transgenic pollen harms monarch larvae」は、「殺虫性毒素をつくり出す細菌」Btの遺伝子を導入した遺伝子組み換えトウモロコシが、自然界で有毒性を発揮したケースについて報告している。

 「コーネル大学のJ E Loseyたちは、Btトウモロコシの花粉を振りかけたトウワタの葉でオオカバマダラの幼虫を育てると、遺伝子組み換えしていない普通のトウモロコシの花粉を振りかけた葉や、花粉がまったくついていない葉で育てた幼虫に比べて、食べる量が少なくて成長が遅く、死亡率が高くなることを明らかにした」

 遺伝子組み換え種子は既に広範囲に使われるようになっている。米国では大豆とトウモロコシ、カナダでナタネの、植え付け面積でそれぞれ3分の1程度にも広がった。安全性について、いろいろな議論がある段階という程度だった、遺伝子組み換え作物の自然界への影響を明確に示した研究である。

 この連載では第17回「種子・修飾された遺伝子世界」で、植物の遺伝子組み換えを扱っている。今回、動物のクローンを扱った立場で翻って植物の世界を見ると、実は種子として売られている植物はクローンだらけである。それもF1雑種という手法で生み出される。父系も母系も、ある特定の性質を持つ純粋系になるよう栽培を重ね、種子栽培専門農家の手で、特別な資質がある雑種を作りだして売る。

 もちろん、遺伝子としては同じ種子であっても、育て方が違えば商品として売れる物になるか、あるいは高く売れるかは違ってくる。また、F1雑種の作物から種は採れるが、使い物にはならない。例えば完熟でも崩れにくい果肉で有名になった「桃太郎トマト」から種を採ると、メンデルの法則に従って、次の世代には商品にならないトマトが大量に混じってしまう。

 農作物を商業生産している現代の農家は、嫌でも種子を購入してクローン体を作り、売り続けなければ生きていけない仕組みになっている。植物・農作物の世界ではクローンの技術で、ひと足先に遺伝子は資源化されている。

◆何に応用されるのか、そして人は

 ロスリン研究所はドリーに続いて、ポリーと呼ぶクローン羊を造り出している。ポリーは遺伝子組み換え技術で、血友病の治療薬になる血液凝固第9因子のヒト遺伝子が組み込まれていて、成長したら乳の中に分泌して来ることが期待されている。いきさつは「医薬品の『動物工場』」に詳しい。

 ロスリン研究所と共同研究しているベンチャー企業は98年3月「羊の乳から第九因子を大量に抽出することに成功した、と発表した。抽出量は1リットル当たり300ミリグラムで、人間の血液中に含まれる濃度の60倍に相当する。『(ポリーと)同じような羊が50匹いれば、世界中の需要をまかなえる』」という。

 凝固因子をHIVウイルスが混じった血液から採りだしていたために、薬害エイズを生み出したことは、記憶に新しい。

 各種のヒト遺伝子を導入して、いろいろな物質が動物の体内で生産される可能性は早くから考えられていた。しかし、遺伝子組み換えは「下手な鉄砲も数撃てば」式で、めったに狙い通りの動物が出来ない。クローン技術は、その貴重な動物の大量複製を確約してくれた。

 ヒト遺伝子の全解明と応用への研究が現在、世界規模で進行している。かずさDNA研究所所長による「第二世代のバイオテクノロジーと日本の対応」は、こうした局面でクローン技術で高級和牛の生産にうつつを抜かしている、この国の現状へ警鐘を鳴らす。

 「アメリカなどでは国家戦略としてこれらの中の有用遺伝子を特許化し,それの産業上の利用に関して独占しようとする動きがある」「この点の認識と対応について残念ながら我が国は立ち後れた状態にあり,この差を縮めるためにはよほどの努力が必要であろう。そしてこの機会を逸すると日本のバイオテクノロジーの外国への隷属化はもちろん,医薬品の特許料を外国に払うことにより日本における医療費の高騰を招くことさえ危惧される」

 ヒト遺伝子の文献上での成果はもちろん、有償で遺伝子の入手もできる。国内の窓口は「ヒューマンサイエンス研究資源バンク」である。「JCRB DNA部門の活動と課題」には、国内体制整備のいきさつが書かれている。

 さらに「未来医学シンポジウム'98 開催」にある通り、クローン技術が臓器移植問題を解決してくれる可能性もある。豚などヒト以外の動物からの臓器「異種」移植を妨げている急性拒絶反応を防止できるようになるからだ。動物工場の次に来る狙い目だと思う。

 ロマンチックに使うことを考えれば、伝説の名馬のクローンを造って競走させる夢も、不可能とは言えなくなった。しかし、賭事としての興味を維持するために、人工授精すら禁じている競馬の世界は許そうとはすまい。

 人間では、どうだろう。「複製されるヒト」(翔泳社刊)で読んだ架空エピソードに妙にリアルなものがあった。レズビアンのカップルが子供を持ちたいと考えた場合だ。片方の卵巣から未受精卵を取り出して核を除き、相手の細胞の核を入れた上で、卵巣のあった側の子宮に戻す。核を提供しない方も、出産を通じて母親になれ、提供した側にとっては生まれた子供は自分と一卵性双生児である。そして、一組しかいない祖父母こそ、本当の父母である。

 「シカゴの科学者、赤ん坊をクローンする意図を表明」など、クローン人間の実現性はあちこちで言われており、遅かれ早かれ実現することは間違いない。法律で禁止しようと、この国だけで、これほど多数の体細胞クローン牛を簡単に造り出してしまうのだから、ヒトに応用しようと誰かが決めたら、必要な技術も人材も容易に手に入るはずだ。

 自分のクローンを造ったとしても、せいぜい一卵性双生児の兄弟が出来ただけのことだ。では、人類全体の夢を担ってもらえる存在、例えば天才アインシュタインに何世代にもわたって、生きていてもらえたらという願望があるが、現実的だろうか。たとえアインシュタインのクローン人間に成功し、成人まで育ったとして、この欲望と快楽の時代にストイックな物理学の世界に夢中になってもらえる保証はない。クローン人間・アインシュタインの頭脳は、別の才能の発揮に向かうに違いあるまい。