第289回「『この国は病んでいる』〜回復を疑う愚鈍な日本」

 福島原発事故で「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」とする東京電力の主張を伝えた、朝日新聞の連載記事「プロメテウスの罠『無主物の責任』」が話題になっています。主張の答弁書は除染を求める福島県のゴルフ場の裁判に出されたもので、東京地裁は10月末に東電の主張をそっくりは認めぬものの、ゴルフ場の訴えを退けました。本来ならストレートニュースとして真っ正面から怒るべき東電と裁判所のやり方を、連載企画の素材としてさらりと扱うだけ。この惨憺たる構図に、深く傷ついた日本が本当に回復できるのかと疑わせる典型例を見ます。

 まず裁判所の考え方を見ておきます。「除染の方法や廃棄物の処理の具体的なあり方が確立していない現状で除染を命じると、国等の施策、法の規定、趣旨等に抵触するおそれがある」。原発訴訟で行政の裁量に委ねるとして、ほとんど実質的判断をしなかった司法の過去を今も引きずっているのです。朝日新聞は「待っていれば民間企業は倒産してしまう」と裁判所の手ぬるさに非を鳴らすのですが、驚いたことに東電の主張には何の評論もありません。無主物の理屈が通るなら、水俣病を引き起こした有機水銀もチッソの工場から遠く流れ出た無主物で賠償の必要は無かったのです。東電主張の愚かさはこの例だけで明白であり、もっと言えば重大な反社会性を指摘すべきなのです。

 東日本大震災そのものの本格復興策の遅れには民主党政権の手際の悪さに加え、国会が党利党略に走って急ぐべき審議を怠り、どうでもよい揚げ足取りに奔走している点が効いています。司法、立法、行政の三権がこの体たらくぶり。権力へのチェック機能を期待されるマスメディアは依然として「大本営発表」報道から脱せません。社会システムの機能不全には呆れるばかりです。「説明責任を果たさない政府・東電・メディア」を参照してください。

 「レコード芸術」11月号で音楽評論家吉田秀和さんの『之を楽しむ者に如かず』を読み、文化勲章受章者のこの人にして音楽が聴けなくなるほど社会認識のありようが変わったのかと、深く共感するところがありました。吉田さんには若い頃、『私の文章修業』(朝日選書)で感銘を受けたことがあります。その『之を楽しむ者に如かず』冒頭部を引用します。

 「3.11が起きてから、音楽をじっくりきいているのが、とてもむずかしくなった。心を鞭打ってCDをかけたり、近来とみに弱くなった身体を無理矢理動かした音楽会に出かけたりしないわけではないのだが、たとえそうしていても、気がつくと、いつの間にか心は音楽から逸れて、別のことを考えている。そうなると、もう一度音楽に戻るのがひどくむずかしいのに気づくばかりだ」
「熱心に私に執筆をすすめてくれる編集者、また彼の言うことを信じてよければ、私の書くものを楽しみにしておられる読者の皆さんが待っておられるのだと思うと、一層気が気でなくなるのだが、心は重く、筆は進まない。この国は重く深く大きな傷を抱えている。この国は病んでいる。それは時がたてば治るだろうと、簡単にいえないような性質のものように、私には、思える」

 吉田さんの『この国は病んでいる』認識を私なりに上に書きました。さらに見える形としては、福島第一原発の事故現場がきれいに撤去されるまで吉田さんも私も生きていないでしょう。いや、撤去できず、永遠に管理するべき『汚点』施設として残る可能性が高まっています。優秀な官僚が政府を支えているから政治家がぼんくらでも何とか国家を運営していけるという平時の幻想も、緊急事態の到来で見事にうち砕かれました。そして、最も深刻なのは、社会システムのあちこちのパーツが再建しなければ使えないほど傷んでいるのに、パーツの当事者が再建の必要性を感じないほど愚鈍になっている点です。例えば「原発震災報道でマスメディア側の検証は拙劣」のお粗末さをご覧ください。

 【参照】インターネットで読み解く!「福島原発事故」関連エントリー