第595回「日本科学力をダメにした教員減強要とタコツボ志向」
昨春、英ネイチャー誌特集が「日本の科学力は失速」と打ち出しても無視したメディア各社がいつの間にか犯人探しをしています。拝見してポイント外れの原因は見える範囲で取材している限界と根深い底流への無知です。一時は「国立大が悪いんだ」と言っていた日経新聞が運営交付金継続削減の弊害を認め始め、ますます混沌として来ました。昨4月の第554回「科学技術立国崩壊の共犯に堕したマスメディア」で紹介したネイチャーの論調と、朝日新聞の《日本の研究力低下、悪いのは…国立大と主計局、主張対立》にある両者の意見をまず並べて検討します。
ネイチャー誌特集はこうです。
世界の《全論文数が2005年から2015年にかけて約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えておらず、全論文中で日本からの論文が占める割合も7.4%から4.7%へと減少しています》《他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています。この間に日本の政府は、大学が職員の給与に充てる補助金を削減しました》《各大学は長期雇用の職位数を減らし、研究者を短期契約で雇用する方向へと変化したのです》
国立大学協会会長で京都大総長の山極寿一さんはこう。
《国立大が法人化されて14年になるが、法人化は失敗だった。自由な発想で大学経営のあり方を変える狙いはわかるが、その財源である運営費交付金を削減したのは矛盾している。国は法人化を、お荷物になりかけた国立大を切り離す財政改革としてとらえたが、それは間違いだ。欧州などでは、国が財源を保障して大学を大事に育てている。日本でもそうすべきだった。それがかなわないなら、運営費交付金と競争的資金の比率を、法人化開始の時点に戻すべきだ》《国は運営費交付金の代わりに競争的資金を導入したが、この「選択と集中」の政策は間違っている。研究力が下がったからだ》
財務省主計局次長の神田真人さんはこう。
《日本の外が圧倒的に流動化、開放化して、国もボーダーレスになり、全く新しい研究分野ができる時代になった。日本が変わっていないとすれば、相対的にひどく硬直的、閉鎖的になったことは間違いない。そのため論文の「生産性」が下がったのではないか。新陳代謝にも欠け、非正規のポストが激増する中、微減の正規のポストには定年延長したシニアの教員が張り付き、若手に回らないという批判も耳にする》《競争を止めれば、日本の大学は人類社会から落ちこぼれ、次の世代に廃虚しか引き継げなくなる。運営費交付金もどんどん競争化してメリハリをつけ、競争的資金は普遍化させる》
◆指摘と提案◆
まず財務省主計局の言い分は過去の経緯を知ればあまりに無責任でしょう。2013年に書いた第397回「国立大学改革プラン、文科省の絶望的見当違い」で財務省の本音が出ている文書「総括調査票」を取り上げました。大学設置基準に比べて大学教員は「最大で約4.7倍(常勤・非常勤教員数では約3.7倍)となる分野がみられる。特に、個々の分野の特性を勘案しても、教員数が過大となっている分野では教員数の抑制を図る」とし、教員は多すぎると明確に打ち出しています。
科学技術立国を支える研究者として尊重するのではなく、設置基準に比べ多すぎる教員としか見ていないのが財務省の根本姿勢です。マスメディア各社はこれを見落としています。国立大学法人化はいろいろな政策意図や経緯が言われるものの、交付金を絞り続けた結果として見れば退職教員があっても補充しない現状が示す「人減らし」でした。「教員は多すぎる、まだまだ減らせる」との判断が根底にあるからこそ、交付金削減積み増し措置は撤回されません。
なんのことはない、国家公務員のままでは思うように減らせないから、法人化した大学に人減らしを強要しただけです。雇用の仕組みを考えれば若手にポストが回ろうはずがなく、こうなるように仕掛けておいて他人事のように主計局に嘯かれては困ります。 悲惨な現状を初めて説いた今年の科学技術白書にある図「論文数と国際共著論文の動向の変化」です。論文数で大国から「並の国」に落ちた以上に、2005年と2015年間の国際的な連携拡大から日本は取り残されています。これは日本の研究者の視野の狭さに起因していると指摘せざるを得ません。タコツボ型と称されるように同じ学部学科でもお互いに研究内容を十分に知らなくて当たり前の傾向があり、改善されません。
少し前に日経新聞がドイツに取材に出した記者が「ドイツでは大学が『選択と集中』を実行している」と驚きを記事にしていました。それが可能なのは大学の同僚が評価し合うピアレビューが欧米で普通に行われているからです。ドイツの法律は同じ大学での教授昇任を禁止しているので、教授になりたい人は他の大学でプレゼンテーションをして能力を認めてもらわねばなりません。それを審査する側も無手勝流で済むはずもなく相応の広い見識が要ります。東大をピラミッドの頂点にした学閥が評価の基準であり続け、多数のタコツボ型研究室が並立しているだけの日本が太刀打ちできない世界です。
大学法人化が始まった2004年に第145回「大学改革は最悪のスタートに」 〜急務はピアレビューを可能にする研究者の守備範囲拡大〜で警鐘を鳴らしました。脱タコツボには地道なピアレビューを積むしか道は無いとの思いからです。この記事では学界から広い視野の目利き研究者が減っていた様を、科学記者の経験から書いています。政府が言う「選択と集中」は目利きが多数いてこそ可能ですが、現実の目利き力は落ちています。
しかし、「運営費交付金と競争的資金の比率を、法人化開始の時点に戻す」との国立大学側要求が解決策になるとも考えられません。ここまで日本の科学力を落としてしまってから昔の牧歌的な仕事ぶりに戻して、大きく変わってしまった世界の科学界に伍して行けるはずがありません。
第145回「大学改革は最悪のスタートに」で教官公募制の徹底とともに「その大学の出身者は学外機関での勤務経験を経ていなければ給与を70%しか与えない。この規定は現職の全教官に対しても5年後から適用する」との提案をしました。学閥を支えている学内生え抜き昇格と決別し、タコツボでは生きていけない環境を強制的に作るしかありません。研究者は一度は外に出て公平に能力を認めてもらうシステムに一大転換すべきです。現在のように交付金をねちねち削っても人事の停滞は解決せず、若手はますます研究者の道を選ばず、国全体として待っているのは絶望だけです。
ネイチャー誌特集はこうです。
世界の《全論文数が2005年から2015年にかけて約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えておらず、全論文中で日本からの論文が占める割合も7.4%から4.7%へと減少しています》《他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています。この間に日本の政府は、大学が職員の給与に充てる補助金を削減しました》《各大学は長期雇用の職位数を減らし、研究者を短期契約で雇用する方向へと変化したのです》
国立大学協会会長で京都大総長の山極寿一さんはこう。
《国立大が法人化されて14年になるが、法人化は失敗だった。自由な発想で大学経営のあり方を変える狙いはわかるが、その財源である運営費交付金を削減したのは矛盾している。国は法人化を、お荷物になりかけた国立大を切り離す財政改革としてとらえたが、それは間違いだ。欧州などでは、国が財源を保障して大学を大事に育てている。日本でもそうすべきだった。それがかなわないなら、運営費交付金と競争的資金の比率を、法人化開始の時点に戻すべきだ》《国は運営費交付金の代わりに競争的資金を導入したが、この「選択と集中」の政策は間違っている。研究力が下がったからだ》
財務省主計局次長の神田真人さんはこう。
《日本の外が圧倒的に流動化、開放化して、国もボーダーレスになり、全く新しい研究分野ができる時代になった。日本が変わっていないとすれば、相対的にひどく硬直的、閉鎖的になったことは間違いない。そのため論文の「生産性」が下がったのではないか。新陳代謝にも欠け、非正規のポストが激増する中、微減の正規のポストには定年延長したシニアの教員が張り付き、若手に回らないという批判も耳にする》《競争を止めれば、日本の大学は人類社会から落ちこぼれ、次の世代に廃虚しか引き継げなくなる。運営費交付金もどんどん競争化してメリハリをつけ、競争的資金は普遍化させる》
◆指摘と提案◆
まず財務省主計局の言い分は過去の経緯を知ればあまりに無責任でしょう。2013年に書いた第397回「国立大学改革プラン、文科省の絶望的見当違い」で財務省の本音が出ている文書「総括調査票」を取り上げました。大学設置基準に比べて大学教員は「最大で約4.7倍(常勤・非常勤教員数では約3.7倍)となる分野がみられる。特に、個々の分野の特性を勘案しても、教員数が過大となっている分野では教員数の抑制を図る」とし、教員は多すぎると明確に打ち出しています。
科学技術立国を支える研究者として尊重するのではなく、設置基準に比べ多すぎる教員としか見ていないのが財務省の根本姿勢です。マスメディア各社はこれを見落としています。国立大学法人化はいろいろな政策意図や経緯が言われるものの、交付金を絞り続けた結果として見れば退職教員があっても補充しない現状が示す「人減らし」でした。「教員は多すぎる、まだまだ減らせる」との判断が根底にあるからこそ、交付金削減積み増し措置は撤回されません。
なんのことはない、国家公務員のままでは思うように減らせないから、法人化した大学に人減らしを強要しただけです。雇用の仕組みを考えれば若手にポストが回ろうはずがなく、こうなるように仕掛けておいて他人事のように主計局に嘯かれては困ります。 悲惨な現状を初めて説いた今年の科学技術白書にある図「論文数と国際共著論文の動向の変化」です。論文数で大国から「並の国」に落ちた以上に、2005年と2015年間の国際的な連携拡大から日本は取り残されています。これは日本の研究者の視野の狭さに起因していると指摘せざるを得ません。タコツボ型と称されるように同じ学部学科でもお互いに研究内容を十分に知らなくて当たり前の傾向があり、改善されません。
少し前に日経新聞がドイツに取材に出した記者が「ドイツでは大学が『選択と集中』を実行している」と驚きを記事にしていました。それが可能なのは大学の同僚が評価し合うピアレビューが欧米で普通に行われているからです。ドイツの法律は同じ大学での教授昇任を禁止しているので、教授になりたい人は他の大学でプレゼンテーションをして能力を認めてもらわねばなりません。それを審査する側も無手勝流で済むはずもなく相応の広い見識が要ります。東大をピラミッドの頂点にした学閥が評価の基準であり続け、多数のタコツボ型研究室が並立しているだけの日本が太刀打ちできない世界です。
大学法人化が始まった2004年に第145回「大学改革は最悪のスタートに」 〜急務はピアレビューを可能にする研究者の守備範囲拡大〜で警鐘を鳴らしました。脱タコツボには地道なピアレビューを積むしか道は無いとの思いからです。この記事では学界から広い視野の目利き研究者が減っていた様を、科学記者の経験から書いています。政府が言う「選択と集中」は目利きが多数いてこそ可能ですが、現実の目利き力は落ちています。
しかし、「運営費交付金と競争的資金の比率を、法人化開始の時点に戻す」との国立大学側要求が解決策になるとも考えられません。ここまで日本の科学力を落としてしまってから昔の牧歌的な仕事ぶりに戻して、大きく変わってしまった世界の科学界に伍して行けるはずがありません。
第145回「大学改革は最悪のスタートに」で教官公募制の徹底とともに「その大学の出身者は学外機関での勤務経験を経ていなければ給与を70%しか与えない。この規定は現職の全教官に対しても5年後から適用する」との提案をしました。学閥を支えている学内生え抜き昇格と決別し、タコツボでは生きていけない環境を強制的に作るしかありません。研究者は一度は外に出て公平に能力を認めてもらうシステムに一大転換すべきです。現在のように交付金をねちねち削っても人事の停滞は解決せず、若手はますます研究者の道を選ばず、国全体として待っているのは絶望だけです。