第554回「科学技術立国崩壊の共犯に堕したマスメディア」
英ネイチャー誌3月特集が「日本の科学力は失速」と明確に打ち出したのをマスメディアは理解できなかったと言わざるを得ません。科学技術立国崩壊を食い止めるおそらく最後の機を逃し、失政の共犯者に堕しました。ネイチャーによる日本語プレスリリースはこう述べています。世界の《全論文数が2005年から2015年にかけて約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えておらず、全論文中で日本からの論文が占める割合も7.4%から4.7%へと減少しています》《他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています。この間に日本の政府は、大学が職員の給与に充てる補助金を削減しました》《各大学は長期雇用の職位数を減らし、研究者を短期契約で雇用する方向へと変化したのです》……この国立大学法人運営費交付金の削減と世界での論文数シェア減少の相関ぶりがひと目で理解できるグラフを用意しました。
2015年の科学技術白書に収録されている「全分野での論文数シェア」グラフは2011年までですからネイチャー指摘の2015年まで延長しました。その中に第495回「浅知恵、文科省による研究崩壊へ予算編成開始」(2015年9月)で作った交付金の推移グラフを年次が合うように縮小して取り込みました。両者の因果関係を何年も前から主張し続けてきましたが、大本営発表報道で飼いならされたメディアは政府が認めないので見てみぬ素振りです。これには国立大学協会に提出された豊田長康・鈴鹿医療科学大学長による「運営費交付金削減による国立大学への影響・評価に関する研究」と題した実証的な報告がある点も紹介します。
4月16日付で日経新聞が《社説・科学技術立国の堅持へ大学改革を》を出しました。他のメディアがネイチャーの分析をお座なりに扱ったのに比べたら社説を書くだけマシとしなければならないでしょうか。
《ネイチャーの警告は重く受け止めるべきだ。何が活力を奪っているのか。大学関係者からは、国が支給する運営費交付金の削減をあげる声が多い。交付金は教員数などに応じて配分され、大学運営の基礎となってきた。政府は04年度の国立大学法人化を機に毎年減額し、この10年間で約1割減った。しかし、大学予算全体はそれほど減っていない。政府は交付金を減らす代わりに、公募方式で研究者に資金獲得を競わせる「競争的研究費」を増やしてきた。本質にあるのは研究費不足ではなく、もっと構造的な問題とみるべきだ》
そして、研究者の高齢化・年功序列、若手の研究職がなく高学歴ワーキングプア化、閉塞感の打破などをあげ、「大学の自発的な改革を加速させるときだ」が結論です。しかし、ネイチャー特集に含まれる角南篤・政策研究大学院大学副学長のコメント《多くの大学人は政府主導の改革に懐疑的であり、もはや自ら改革が出来ないほど大学財政は窮迫している》とあるのをお読みになるべきです。
交付金は今後も年に1%ペースの継続削減が決まっており、第535回「文科省主導の大学改革が国立大の首を絞める」で取り上げた「教員1人年間研究教育費が3万円」という、何のために大学教授がいるのか理解不能な悲喜劇ぶりを知るべきです。
大学の現場にいる一級の研究者が極めて悲観的な展望を持つ現状は第542回「ノーベル賞・大隅さんの警鐘は政府に通じまい」で伝えました。大隅さんの憂慮を再録します。《競争的資金の獲得が運営に大きな影響を与えることから運営に必要な経費を得るためには、研究費を獲得している人、将来研究費を獲得しそうな人を採用しようという圧力が生まれた。その結果、はやりで研究費を獲得しやすい分野の研究者を採用する傾向が強まり、大学における研究のあるべき姿が見失われそうになっているように思える》
さりながら昔に戻せば良いとは思いません。2004年の国立大学独立法人化にあたって書いた第145回「大学改革は最悪のスタートに」〜急務はピアレビューを可能にする研究者の守備範囲拡大〜の問題意識は現在でも有効です。大学改革は欧米に比べて大きな欠陥を抱えた研究の仕方を改めるのではなく、むしろ学閥優先に振れてきた十余年の壮大な失政でした。それを認めてやり直さなければならないのに、この国のマスメディアは小手先の改革がまだ通用すると軽薄に思い、政府にちょっと改善を促す程度で実際は追随し続けます。
4月16日付で日経新聞が《社説・科学技術立国の堅持へ大学改革を》を出しました。他のメディアがネイチャーの分析をお座なりに扱ったのに比べたら社説を書くだけマシとしなければならないでしょうか。
《ネイチャーの警告は重く受け止めるべきだ。何が活力を奪っているのか。大学関係者からは、国が支給する運営費交付金の削減をあげる声が多い。交付金は教員数などに応じて配分され、大学運営の基礎となってきた。政府は04年度の国立大学法人化を機に毎年減額し、この10年間で約1割減った。しかし、大学予算全体はそれほど減っていない。政府は交付金を減らす代わりに、公募方式で研究者に資金獲得を競わせる「競争的研究費」を増やしてきた。本質にあるのは研究費不足ではなく、もっと構造的な問題とみるべきだ》
そして、研究者の高齢化・年功序列、若手の研究職がなく高学歴ワーキングプア化、閉塞感の打破などをあげ、「大学の自発的な改革を加速させるときだ」が結論です。しかし、ネイチャー特集に含まれる角南篤・政策研究大学院大学副学長のコメント《多くの大学人は政府主導の改革に懐疑的であり、もはや自ら改革が出来ないほど大学財政は窮迫している》とあるのをお読みになるべきです。
交付金は今後も年に1%ペースの継続削減が決まっており、第535回「文科省主導の大学改革が国立大の首を絞める」で取り上げた「教員1人年間研究教育費が3万円」という、何のために大学教授がいるのか理解不能な悲喜劇ぶりを知るべきです。
大学の現場にいる一級の研究者が極めて悲観的な展望を持つ現状は第542回「ノーベル賞・大隅さんの警鐘は政府に通じまい」で伝えました。大隅さんの憂慮を再録します。《競争的資金の獲得が運営に大きな影響を与えることから運営に必要な経費を得るためには、研究費を獲得している人、将来研究費を獲得しそうな人を採用しようという圧力が生まれた。その結果、はやりで研究費を獲得しやすい分野の研究者を採用する傾向が強まり、大学における研究のあるべき姿が見失われそうになっているように思える》
さりながら昔に戻せば良いとは思いません。2004年の国立大学独立法人化にあたって書いた第145回「大学改革は最悪のスタートに」〜急務はピアレビューを可能にする研究者の守備範囲拡大〜の問題意識は現在でも有効です。大学改革は欧米に比べて大きな欠陥を抱えた研究の仕方を改めるのではなく、むしろ学閥優先に振れてきた十余年の壮大な失政でした。それを認めてやり直さなければならないのに、この国のマスメディアは小手先の改革がまだ通用すると軽薄に思い、政府にちょっと改善を促す程度で実際は追随し続けます。