第607回「イチロー科学讃:野球観一新した安打量産と送球」

 われらがイチローが現役を去りました。大リーグ10年連続200安打、日米通算4367安打にハラハラする緊張感をグラウンドにもたらした「ザ・スロー」と俊足――データを集めて科学的に見つめ直すことにしましょう。近年、大リーグでは「バレルゾーン」と呼ぶ打撃で好成績を生む打球の打ち出し角度と速度が見つけ出され、2015年から公式な記録が取られています。その統計で見るならイチローは好成績ゾーン角度から打ち出した打球はたったの「0.6%」しかなく、打球速度も大リーグ平均の「94%」しかありません。著しく特異な大好打者なのです。

 ◆◇敢えて飛ばし屋になろうとしなかった◇◆  バレルゾーンに詳しいベースボールバイブルの《【新しい打撃指標】バレルとは?》から引用させていただいた模式図です。8度から50度の打ち出し角度がバレルゾーンとなっており、《時速158キロ以上・角度が30度前後の打球は8割を超える確率でヒットになり、その多くがホームランになっているんだとか》だそうです。「壺にはまる」の壺と思えば良いでしょうか。

 バレルゾーンに関する打撃統計が残るのは2015年以降で、イチローの全盛期は過ぎているものの打撃のスタイルは不変でした。《Ichiro Suzuki MLB打撃統計》によると、2015-2019年の849打球の内でバレルに入っているのは5球だけです。打ち出し角度の平均は4.5度で大リーグ平均の10.9度を大きく下回ります。打球速度は時速131.5キロで大リーグ平均139.8キロの94%です。なお、上の図は2017年までの統計なので最新統計とは数字がずれます。

 打撃練習でイチローにホームランが多いのはよく知られています。大リーグ19年間で通算117本塁打しか打っていませんが、もっと低い打率で良いなら毎年本塁打を数十本を打ち続ける能力はあったでしょう。でも、そうしなかった――日経新聞の《イチローが語る「頭を使わなくてもできる野球」とは》にイチローの野球観が鮮やかに語られています。

 《「(打球速度を速くするだけなら)頭を使わないやつもできる」そう言ってから、イチローはこう続ける。「2アウト三塁で、僕なんかはよく使っているテクニックだけれど、速い球をショートの後ろに詰まらせて落とすという技術は確実に存在するわけ。でも今のMLBでは、チームによっては、そこで1点が入るよりも、その球を真芯で捉えてセンターライナーの方が評価が高い。ばかげてる。ありえないよ、そんなこと。野球が頭を使わない競技になりつつあるのは、野球界としては憂えるべきポイントだわね。野球ってばかじゃできないスポーツだから。でも、ばかみたいに見えるときがあるもんね。ほんとに」》  2001年から2018年まで大リーグ3089安打を全て記録した分布図です。常にグラウンドで頭を使い、絶妙のバットコントロールに自分の俊足と合わせれば内野安打を量産できるイチローにしか出来ない安打分布。しかも左打者として右翼ホームランが多い点を除けば、左翼にも何とも均一に打球を打ちまくっています。《美しすぎる…イチローのMLB通算3089安打を振り返る分布図動画が米で話題》にMLB動画が貼ってありますから、一本ずつどう飛んだか、楽しんでください。

 ◆◇レーザービームが球場に緊張感呼ぶ◇◆

 2001年のメジャーデビュー時には200本超10年連続など想像もできない状況ですから、非力な日本人野手に何ほどのことが出来るかと思われていました。2001年4月の拙稿第102回「大リーグとの『垣根』は消滅した」で伝説の「ザ・スロー」について書いています。MSNジャーナルの《マーティ・キーナート氏は「イチロー、メジャー8試合目で伝説となる」で、このプレーの意味を「野球史上10本の指に入る名場面として認められている」名手メイズの背面キャッチ「ザ・キャッチ」と並ぶ「ザ・スロー」と位置づける》と紹介しました。MLB「ザ・スロー」動画から連続キャプチャーしました。動画にはこのプレーの代名詞になった「レーザービーム」と表現する実況中継もばっちり入っています。  野手が身を避けている点からも送球の低さが見えます。続いて見事なストライク。  再び「イチロー、メジャー8試合目で伝説となる」から引用させていただきます。地元紙記者は「60メートルの閃光が地面から1メートル足らずの高さを走り抜け、走者ロングを突き刺した」と表現し、ボールを受けた三塁手は 「彼が強肩だとは知っていたけど、驚いたよ。あんなに低く投げて、あんなに遠くまで伸びる送球には、めったにお目にかかれない。ボールがバウンドするだろうと思っていたら、ノーバウンドで届いた。見事なキャリーだった」と証言しています。

 右へヒットなら一塁走者は楽に三塁に進めるセオリーが非常識になった瞬間でした。以後、イチローのライト守備はホームラン性をフェンスによじ登ってもぎ取る超好捕を含めて見ものになりました。full-count.jpの《イチローのレーザービーム送球はメジャー史上最高の補殺!?》に大リーグが誇る素晴らしい強肩の動画がリンクされていますが、どれも山なりボールであってレーザービーム・スローが異質な存在と改めて確認できます。

 どうしてこんな送球が出来るのか、《イチローのレーザービームを取得するコツは「みぞおち」にあり》が解説しています。要点は捕球後に俊足を生かして助走速度を上げ、投げる際に弓のようにしなる動作が必要です。《弓を限界まで張り、矢を離すと同時に急激にしなります。人体ではこのしなる動きの役割をみぞおちが果たします。胸が大きく張られ、腕を振りながら急激にみぞおちを丸めることで腕の加速を強力に助けるのです》。大リーグに多い筋肉ムキムキマンにならず、特殊なトレーニングで柔軟でスピードが出る筋肉を身に着けたイチローならではです。

 ◆◇評価を定めるにはまだ早いかも◇◆

 国民栄誉賞を辞退している点から見ても、イチローはまだ自分の野球人生を閉じる気持ちはないようです。まだ何かをしてくれるとは思えますが、現役引退にあたりニューヨークタイムズ紙が特筆ものの評価をしています。《イチローはヒットキングではないが、それ以上の存在》Ichiro Suzuki Is Not Baseball’s Hit King. He Is So Much More.(英語)です。そこからグラフを引用します。  大リーグ4256安打のピート・ローズにマイナーリーグでの427安打を加えると「4683」になり、イチローの場合は日米通算で「4367」で4000本クラブ6人の中で2位という訳です。《しかし、イチローがローズに劣っていることにはなりません。大リーグで3割1分1厘、日本で3割5分3厘の打率を残した、おそらく史上最も偉大なスプレーヒッターです》守備や盗塁の分野でもずば抜けており《ローズをヒット数で破ることはなかったかもしれませんが、日米で野球の殿堂に入り、日米2つのリーグでスーパースターであった特別なプレーヤーです》

 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)でのイチローの活躍も忘れられない記憶です。初代王者になった2006年の『日本野球のDNAが堅守キューバ崩した』で触れているイチローの熱さを今でも思い出します。

 【関連記事】野球の科学的なデータ分析を目指した記事としては2000年の第92回「新・日本人大リーガーへの科学的頌歌」、最近では2014年の第427回「マー君の変幻配球、打者ごとに違う攻略法で翻弄」、2018年の第579回「二刀流オータニのメジャー進化を見届けよう」などがあります。