第58回「超長寿時代に介護保険は効くか」

 厚生省が8月に発表した「日本人の平均余命 平成9年簡易生命表」による、「男の平均寿命は77.19年、女の平均寿命は83.82年」で史上最高をまた更新した。男女とも現在、得られている情報では世界最高になるようだ。平均寿命とは今年の新生児が平均で何年、生きられるかを示す数字。一方で、超長寿、超高齢化社会の到来に向けて、介護を必要とするお年寄りの社会的ケアを可能にする「介護保険制度」の2000年4月導入が決まった。長寿をめぐる問題を洗い出してみたい。

◆寿命について多方面から考える

 長寿に入る前に、世界的には短い平均寿命しか持たない国がまだまだ多いことを確認しておきたい。「情報解析入門:富める国、貧しい国」で世界銀行によるデータ表を見つけた。世界185の国・地域の国民総生産、人口、平均寿命などが一覧できる表計算ファイルである。1990年時点で長寿の順に並べ替えてみると、67位までが70年を超し、128位までが60年を超す。そして、157位までが50年以上であり、残る30カ国ほどが人生50年以下の段階にある。カンボジア、ザンビア、エチオピアなどが中でも上位グループ、最後尾に42年のアフガニスタン、シエラレオネ、38年のギニアビサウがいる。

 長寿国側の比較は、データが新しい「平均寿命の国際比較」を使いたい。下位の国から眺めると、人口大国インドが男女とも58年前後である点、ロシアの男がやはり58年であることが目を引く。同じ酷寒の北欧諸国が日本に迫る長寿国なのだから、ロシアの衛生状態、暴飲など社会生活のありようは想像した以上に悪いと思わせる。もうひとつの人口大国、中国は女が70年に達したところ。女の80年は珍しくはなくなり、欧米諸国は軒並み到達しつつある。

 平均寿命は確かに延びているのだが、それは今の赤ちゃんの話。大人になっている我々には寿命が延びていると言われても今ひとつ、ぴんと来ない。それを実感させる表を以下に掲げる。「特定年齢の生存数と寿命中位数」に載っている「寿命中位数」である。ある年に生まれた人のちょうど半数が死に、半数が生き残っていると予測される年齢をこう呼ぶ。  男性についてみれば、現在51歳の人なら、60歳の定年になる前に半数は死亡し、40代は70歳を迎える前に半数が亡くなる。それに対して現在の乳児たちは、半数が80歳まで生きるのだ。女性の側ははるかに進んでいて、半数80歳は現在の20代に当たる。驚くべき老後の長さだ。お年寄りが増えたなと感じる瞬間が最近たびたびあるが、若い代が高齢化する来世紀半ばは、想像もできないお年寄りだらけの社会になる。65歳以上の高齢化率が2000年に17%と表現するより、何かを感じてもらえたのではあるまいか。

 もちろん、お年寄りが増えても子供達がどんどん生まれれば、高齢化はそう進まない。子供が生まれなくなっている少子化事情は、この連載第1回「空前の生涯独身時代」に詳しい。生涯未婚率の上昇、平たく言って、結婚しない、あるいは出来ない男女の急増が根底にある。

 人間以外の「生物寿命表」も紹介したい。大学の生物学教科書から拾ったと言い、「ゾウ=150〜200年、トラ=60年、ウシ=20年、カメは万年ならぬ200〜300年」「カエル=15〜30年、コイ=150年、ウナギ=90年、タカ=70〜150年、ハト=50年、カラス=100年!」とある。「野生」の人間の寿命は何年だったのだろう。食物連鎖の頂点にいる種がこれだけ寿命を変えたら、生態系が激変しない方が不思議だ。

◆介護保険は国の都合で作られた印象が強いが・・・

 寿命が長くなることは、病気で寝かせきりや痴呆のお年寄りが増えることを意味する。「健康長寿 信州」は、必ずしもそれが必然ではないと指摘する。「長野県は健康県ではあるが、その割に100才老人は少なく、つまり長く生きるが、死ぬまで元気で、死ぬ年齢はそれほど長くないと言うことも分かった。これをppk(ピン・ピン・コロり)といって、一種、理想とも言える状態」であり「長野県の老人医療費は、一人平均で北海道の半分、全国平均より約20万円も安いことがわかった。全国の各県の老人医療費が長野県並になれば、2兆円以上の節約になる」という。「長野県の老人医療費の安い理由は、他県に比べて医師が少ない、空きベットがあっても病院が在宅介護をすすめる、第二の人生として長野県民の多くが農作業をしていて生き甲斐がある」そうだ。

 介護保険制度を中心とした高齢化対策とは、本来はこうした状態の実現のための強力なツールでなければならないと思う。

 実施される介護保険制度は40歳以上の人に加入を義務づけて毎月2500円程度を集め、利用者からは利用料の10%を徴収し、国庫補助を上乗せしてサービスの費用に充てる。「介護保険を住民自らが選択し、創造する福祉への第一歩に」の試算によると、「介護保険の財源でまかなうのは介護サービスの給付だけあり、施設の建設費などは含まれませんから、高齢者1000人当たり、約2億円分の介護サービスが確保され」「この財源で年収500万円のヘルパーや保健婦、看護婦などの介護スタッフを雇用したとすると、40人分の人件費がまかなえる」。

 厚生省の「介護保険創設のねらい」は、こう切り出す。「65歳以上の死亡者の2人に1人が死亡6か月前から寝たきりまたは虚弱となっています」「寝たきりの方の2人に1人が3年以上寝たきりとなっています」。そして、平成6年1800万人だった高齢者人口は、平成37年には3200万人にもなり、要介護者数は2・5倍の520万人に増加するという。

 介護する側にも問題がある。現在、家庭内で主な介護担い手になっている主婦は負担が大変だと言われるし、配偶者や子供を持たない人が急速に増えるのだから、介護者が見あたらない場合が増える。そんな人がどんどん病院に入ったのでは、医療費の抑制に躍起になっている国はたまらない。この連載第15回「医療費をめぐる攻防が本格化した」で紹介した通り、医療費抑制は厚生省には至上命題になっている。「介護保険の3つの疑問に答えます」は、介護を理由とする高齢者の長期入院「社会的入院」の医療費は、平成7年度で5000億円程度としているが、お年寄りに何らかの病名を付けるのは簡単だから、実態は数倍と見込まれる。介護保険制度が本当に働けば、それを解消させる魔法になりうる。厚生省の狙いはそこだろう。

 ところで、一般の反応はかなり辛口だ。生命保険会社の「公的介護保険に関する意識調査結果」は「期待度は『期待している』が43%と『期待していない』の31%を上回った。性別では男性の半数近くが『期待している』と回答しているのに対し、女性の3人に1人は『期待していない』と回答している」と述べ、不安・不信感解消が急務とする。また、この調査では「保険料負担は夫婦2人で年間約6万円(介護サービス受給時には1割の自己負担あり)と想定されているが、それについて『負担が重い』と回答した者は63%」と、高い割合である。

  現実にサービスを実施する市町村関係者の不安も高い。「医療保険福祉審議会 老人保健福祉部会傍聴記」に「我々保険者が大変な役目を負わされるというのが率直な意見です。介護保険というのは、国と都道府県と市町村がお互いに持ち合うものであるということを国の機関がもう一度再検討をして欲しいと思います。保険者である市町村だけにしわ寄せされていく形になれば大変なことになる。3年先には、介護保険がパンクするのではないかと危惧をしております」と声があがっている。

 95年にスタートしたドイツは、国の補助がない純粋の保険の性格だ。「ドイツの公的介護保険」がレポートしている。その特色は「家族介護の有償化」である。施設給付と在宅給付の2パターンがあり、在宅給付でもヘルパーによるか、家族によるかを選べる。「現物サービスを利用するか、現金を受け取る介護手当をもらうかを選べるようになっています(1マルク=約70円、ただし、実勢価格では約100円)」。例えば「1日3回介護を要する場合は、1800マルク相当の介護サービスが、800マルク相当の介護手当」。「家族介護に社会保険が適用されます。介護をして腰痛になれば労災が適用され、介護期間は年金保険の対象にもなります。年間4週間の長期休暇が認められ、その間は代理のヘルパーが派遣されます。つまり、『家族介護(者)=有償の労働(者)』、『家庭=職場』ととらえられている」。

 20年間の議論を経てスタートした、こうしたドイツの仕組みをみると、我が国の制度は著しく付け焼き刃だと思う。実際のところ、本当にサービスされる内容も市町村の取り組み方によって大きな格差がつくと予想されている。こうなったのは特別養護老人ホームの入所待機者が急増するなど、現実の動きに引きずられたからでもある。

 「分権と介護保険−介護保険制度下の自治体の役割−」はこう指摘する。各国の制度を混合した「制度ミックスを採用した背景には、介護ニーズの急増に給付行政が大きく立ち遅れたため、緊急に新制度を創設しなければならない事態に追い込まれたという事情がある。新制度設計のために十分に検討する時間がなく、それ故に既存の制度や財源を引き継ぎつつ、つぎはぎ的に制度を膨らまさざるを得なかったともいえるだろう。したがって、従来の租税負担を引き継ぎ、これに介護保険料を加えるという手法がとられたのである」。

 「ただし、介護保険制度創設の理由は、保険料の方が目的財源であるから市民の合意が得られやすいということだけではなく」「介護サービスを措置制度の桎梏から解き放つという狙いである」とみる。恩恵的な措置制度から、権利を伴う保険に変わるため「介護保険創設以降、市町村は利用者からのサービス給付請求という途方もない重圧を受ける」「地域ごとの介護サービスの質・量の格差は明らかとなり、いやおうなく市民の目にさらされ」「貧しいサービスの市町村の住民がいつまでも寛容であるはずがない」。「権利性を明示して、市民の当事者主義を強調し、『自治から始まる分権』というベクトルを持っているように思える」と、使い方次第で大きな転換の契機になりうると主張している。