時評「脳死臓器移植に見えた底の浅さ」
◆2例目は予想外に早かったか
高知での臓器摘出報道の大騒ぎを見て、臓器移植の時代は大々的に始まったと誤解された方がいたかもしれない。美談のように騒ぎ立てるメディア側は、臓器提供の意思表示カードが爆発的に普及するかのように勝手に書いた。しかし、2例目が2カ月半も経って現れたことは、一般の人たちが醒めていることを示していると思う。
1例目以前の段階だった総理府による「臓器移植に関する世論調査(平成10年10月)」は、20歳以上の2,157人からのアンケートで、カードの所有者が2.6%ある一方、8割が入手方法を知らず、持っていない人の24%が持ちたいとの意思があるとの回答を引き出している。
この状況ならば、1例目の成功とメディアの報道合戦で火がつきそうなものである。この連載第50回「読者交流〜臓器移植法・心と食」で、年間で脳死になる患者年間3,000例から、どれくらいのドナーが現れるか計算した。
「ドナーカードの配布が末端でどこまで進んでいるのか分かりませんが、移植学会が望んでいる300万はとても無理です。半分の150万くらいにみましょうか。帝京大の調査によると、ドナーカード所持者の6割に記入ミスがあるとされています。有効なカードは多くて4割の60万に減ります。脳死になっても高齢だったり、病気があったりして臓器提供に適さない例も相当あるとみなければなりません。人口1億2,000万人に対して有効なドナーになれる人の割合は0.3%くらいとなり、年間3,000例の0.3%、つまり10人くらいしか出てこない」
総理府の調査では2.6%が所持していても、常時携帯している人は1%に落ちる。とっさの場合に家族には机の中からカードを探し出す余裕はないから、成人の1%、100万人くらいが持っている状態と考えられる。とすると、私の計算の3分の2程度に考えればよくなり、年間でドナーは6、7人になる。2カ月半で2人目が現れた現状は、昨年秋の総理府調査当時よりカードの普及率は、ほとんど増えていない感じである。
◆根底は医療への不信感
1例目の成功を経て、移植学会からは「意思表示カードがなくてもドナーになれるように、法改正を」との声が出ていた。この人たちは脳死臨調で何が問題とされたのか、やはり理解していないのだ、と改めて思う。脳死を一般的に人の死であるとすることに、様々な分野から異が唱えられた。
「医者にとっては『ノー・リターン』状態は『死』かもしれないが、患者と家族にとっては直ちに『死』ではない。戻ってこないかもしれないが、完全に彼岸に行ってしまったのではない、そんな中間状態を経て死に至るというのは、日本人にとってなじみの死生観念である。中間状態を思わせるものが科学的な観察として報告されると、心情的に厚生省判定基準は『死の判定』としては受け入れられない」と、連載第8回「臓器移植法と脳死・移植の行方」で書いた。
高知での1例目は、脳死の判定医が脳波の停止を認めず、差し戻すという経過を生んだ。専門医ですら揺らぐ判断に、一般の人は問題の奥深さを実物教育されたはずだ。「救急医学から見た脳死」に、正常時、植物状態、脳死の波形が示されている。この判定過程で、自発的な呼吸がなくなっていることを確認する、かなり過酷なテストが繰り返された。死者にとって、臓器が提供されて良かった、と言えるようなケースだったろうか。
何桁も違う移植手術がされ、移植医療が定着した米国でも、数々の疑問が出され、議論がある。「アメリカで、私が学んだこと(4)臓器移植が意味するもの」はこう伝えている。「こうした脳死判定論議に終止符を打つべく発表されたのが、ハーバード大学のトロウグ博士が出した論文『臓器移植のためなら殺人も許されてもよいのでは』というものだった。脳死に関する様々な判定基準やあいまいさを認めながらも、移植という行為のためであれば、この際、許されるべきだという主張である。同博士は、小児病院の医師であるが同大学の医療倫理講座の助教授でもある」
この議論に比べて、国内の臓器移植法は遅れた法律だろうか。それは、提供意思の明確な人に限って、あいまいさに目をつぶって臓器提供を可能にしている。米国よりも理屈では、むしろすっきりしている。
東京の2例目では、プライバシー保護を理由に意思表示カードの所持さえも当初は秘密にされた。経過の説明も非常に不十分である。脳死移植問題の根底は、この国の医療に対する不信感であり、賢く医者を選ばないと何をされるか分からないと、多くの人は考えている。実は、それなのに医者を選ぶ自由もデータベースも整備されていない。脳死に至るまでの医療が十分、妥当なものだったか、それこそが第一番のポイントなのだ。そのチェックをしないでおいて、段階を次へ次へ進むことばかり追いかけている報道側の姿勢と、プライバシー保護に名を借りて密室にこもる厚生省の姿勢が、広く一般の人たちを納得させられるはずがない。
※追補(5/24) 《臓器摩擦の解消は難しい》
今回分について読者から次のようなメールをいただいた。こう思われる方も当然多いと思われるので、私の考えていることを述べておきたい。
「『脳死』を人の死と捉えるべきか、私にはよくわかりません。ただ今回を含めて2例の脳死者からの臓器移植については、それほどの抵抗感も疑問も感じませんでした。むしろ成り行きとしては当然かな、とすら思いました」
「その理由は、以前に『臓器移植治療しか助かる道がないと診断された日本人が欧米に渡り、脳死者からの移植治療を受けている』といった報道を目にしていたからです。この状況が放置されつづければ、いずれ『日本人は、金に糸目をつけず外国の脳死者の臓器目当てに治療にやってくる』と言った批判がでてくることが予想されました」
日本国内でも脳死移植が行われるようになったという点では、外国に対してエクスキューズすることは出来るようになった。しかし、これから長期に渡って年間で数例ないし十数例程度の移植しか見込めない現状では、患者の外国行きは止まらないと思われる。米国であれだけのドナーが出るのは、脳死になった段階で家族と話をして了解を取り付けるからであり、国内でもその状態になれば、ドナーの数は激増するだろう。自分が急死することを想定して意思表示カードに記入、携帯する人が圧倒的に少数派であることは、誰の目にも明らかだから……。
そんな融通がきく対処が出来ないように、臓器移植法は制定された。原因は医師に対する不信である。いや、「無知な素人が」とする傲慢さに対する不信だ。「医者が『死んでいる』と言っているのだから、死んでいる」と言われて、納得できない状況が存在しうると多数の人は考えている。
医学界の側が腰を低くして「脳死と判定しても、完全な死ではないかもしれません。ひょっとしたら何かの意識は残っているかも知れません。現在の科学では分からないことです。しかし、この段階から蘇生することは考えられません。ここはひとつ、病気で困っている方のために臓器提供を考えてみていただけませんか」と、持ち出す姿勢があるならば、法律の枠組み自体が変わっただろう。医学者の判断は正しいと医学者自身は考えているかもしれない。しかし、広いサイエンスの領域を見ている者として、医学の持つあいまいさ、振れの大きさは、薬の臨床試験を例にとっても明らかだと思う。分からないことは分からないと認めることこそ科学的な態度であるとの基本を、この国の医学者は失っていないか。
※追補(5/26) 《検証の名に値しない脳死判定検証報告》
厚生省の公衆衛生審議会臓器移植専門委員会は、5/24に提出された、高知赤十字病院での脳死判定検証報告書を了承せず、手直しが必要と決めた。特に委員から疑問が集まったのは、判定の手順が法令で決められたとおりでなかった点だ。脳波が平坦であると測定する前に、先に述べた過酷な無呼吸テストをした問題である。テストによって明らかに脳への酸素供給は下がり、脳波停止の引き金にもなりかねない。つまり、決定的な一撃の恐れがある。これに対して明確な説明はされなかった。
問題なしと報告した医学的評価作業班の竹内一夫班長は、記者会見で「6人の班員はみな医師で、医師のセンスとして許容範囲と認識した」と述べたという。私が問題と感じている「医師の傲慢さ」が現れている。
ここでさらに、竹内氏が脳死判定の医学的評価に携わることに根本的な疑問を呈しておきたい。臓器移植についての長いいきさつを取材した立場でみると、氏は厚生省の判定基準を作った人物である。しかし、現実の一線現場での判定は厚生省基準よりもさらにきめ細かい検査をして行われている。例えば、聴性脳幹反応と呼ぶ、患者の耳元でクリック音を聞かせて発生する脳波を測定する検査を実施しない医療機関はないはずだ。しかし、氏はそんな検査をする必要はないと明言してはばからない老権威である。
もしも、逆に竹内氏が脳死判定をしたとし、それを一線の医師が検証する立場になったら「先生、この検査をしないで大丈夫ですか」と訊ねられるはずである。平たく言えば、一線の現場よりもずっとアバウトな立場の人が、一線のしたことを厳密に検証できようはずがない。ここまで背景を説明すれば、氏が記者会見でした発言の「真実」を読者は容易に理解できるだろう。検証には第三者機関が必要なのだ。