団藤保晴の
「インターネットで読み解く!」

第99回「土建屋国家からバイオ立国へ転進を」 (2001/03/08)

 この2月、二つの生命科学系ニュースが強い印象を残した。最初はヒトゲノムの解読が終わった結果、10万はあると思われていたヒトの遺伝子は3〜4万個しかないと報告されたこと。新聞の1面に出たので多くの方が見たはずだ。次は、それほどニュースとして騒がれなかったが、いろいろな器官に変身できる「幹細胞」の研究で、大きな進展があった。海外から切れ切れに聞こえてくる生命科学系ニュースへの驚き、その背後で進展するうねりの巨大さを思い、一年前に書いた連載第80回「ヒトゲノム研究での異邦人・日本」で鳴らした警鐘から一歩進めて、バイオ立国へ政治が強力にドライブすべき時だと訴えたい。

◆生命科学の進展、その埒(らち)外にいて良いのか

 ヒトゲノム全解読が米国ベンチャー企業の猛突進で前倒しに実現したことは、その第80回で紹介したとおりである。国際プロジェクトの初期には日本がかなりの貢献をしたのも事実だが、今となっては覚えているのは専門家筋ばかり。膨大な数の解読ロボットを並べて突き進む「腕力」の前に、この国の存在は忘れられつつある。

 ただ、遺伝子数がかなり少なかったことは「ひとつの遺伝子からひとつの機能性タンパク質」というほどには仕組みが単純でなかったことを示す。生命の構造が思ったよりも複雑であり、ひとつの遺伝子をいろいろに読む、といったことが行われているはずだ。これまでに明らかになっている事例からも推察できる。

 このこと自体は研究で出遅れているこの国にとって悪くはない。生命の仕組みが複雑であるほど、研究の先行者が独走し切ってしまう可能性が減る。遺伝子解読による特許だけで全てが押さえられてしまう訳でなくなるからだ。何ステップかあって機能性タンパク質に至るなら、そのステップ解明で、まだまだ一仕事できる。

 しかし、続くニュースを知ると、やはり暗然とする。

 「牛の皮膚から心筋細胞生成=万能細胞の開発で新技術−英社」)はクローン羊「ドリー」にかかわった会社が「ある組織に完全に分化した細胞を未分化の幹細胞の状態に戻す新技術を応用し、牛の皮膚の細胞から心筋細胞をつくり出すことに初めて成功した」と報じている。〔クローンについては第72回「遺伝子を資源化するクローン技術」を参照して欲しい〕

 「幹細胞」はどの臓器にも存在しているはずだが、普通は他の細胞と混在しているために区別がつかない。最近、神経や消化管で分離に成功している。例えば「『神経再生』夢見て走る 幹細胞を増やす技術確立」は、それを米国のベンチャー企業で達成した日本人女性、内田伸子さんを紹介している。

 特定の臓器の幹細胞を分離することも大きな業績だが、英社による「分化した細胞を未分化の幹細胞の状態に戻す」研究は、はるかにインパクトが大きい。

 最近話題の胚性幹細胞(ES細胞)は受精卵から胎児に育つ過程で採れ、まさに何にでも成れる万能細胞だ。欧米で研究が先行している。何にでも成るということは、受精卵に限りなく近い存在であり、倫理的な問題が生じる。米国・共和党は伝統的に妊娠中絶などに否定的で、ブッシュ新政権はES細胞研究へ政府予算を出すことを再検討しているという。

 分化した細胞を万能細胞に戻せるならば、その倫理的ハードルは超えられるし、個々人の臓器を自分の細胞から新しく造って取り替える「再生医療」の実現に大きく近づく。臓器移植など過去のものになる日が近い。実のところ、そんな技術が本当に出来ているのか、にわかに信じがたい思いがしている。

 国内でも慶応大医学部のグループが、マウス骨髄の幹細胞から心筋細胞をつくり出したニュースを先日聞いた。この国でもなにがしかは進んでいる。しかし、衝撃度は比べものにならない。

 遺伝子の解読から次に来るものは、生物「発生」のコントロールである。そのずっと先には生命そのものの「合成」といったことが考えられよう。国立遺伝学研究所が提供している「発生工学のすすめ」で、現在進められている先端の研究に触れられる。幹細胞の意義についても具体的に知ることが出来る。

◆道具に過ぎぬIT重視より生物学科の大増強を図れ

 「21世紀の科学技術の展望とそのあり方」というレポートが2000年末に科学技術政策研究所から公表されている。同研究所第4調査研究グループが各分野の専門家に大量のアンケートを配り、3800通を回収して取りまとめたものだ。「展望」から大項目を列挙する。

   
  《21世紀の科学技術の展望》
  1.遺伝子技術の発展
  2.脳科学の発展
  3.医療の変革
  4.食糧問題
  5.循環型社会・経済の形成
  6.エネルギー供給
  7.人間の生活圏の変化
  8.20世紀の「負の遺産」の処理 
  10.政治
  11.交通と旅行
  12.安全・安心
 大項目だけでも推察できようが、詳しく見ていくほど並んでいるのは生命科学分野の進展への期待である。医学医療分野ばかりでなく食糧増産、環境問題ほか、すそ野は限りなく広い。

 そのための人材育成で、この国は米国に比べ巨大なハンディキャップを背負っている。ここで第80回「ヒトゲノム研究での異邦人・日本」でも取り上げた「バイオ産業技術戦略」からデータを引用する。

    
    《生物学の学位取得者数 (1996年)》
   日本→ (学士) 1,875  (修士)  794   (博士)  192 
   米国→(学士)62,081 (修士) 6,286  (博士) 5,723 
 大学で生物学を専攻している学生の数だけで、これほどの大差がついているのだ。

 もともと日本は醸造業が盛んでバイオテクノロジーに関しては潜在能力が高いと、80年代の米国はみていた。例えば日本酒。日本酒には数百種の物質が含まれており、発酵過程で生み出される。それをひとつずつ取り出して研究するだけでも興味は尽きないと、醸造工学専門家から聞いたことがある。しかし、本筋の生物学研究のマンパワーでついている何十倍もの差を何十年も放置すれば、伝統醸造業が持っていたポテンシャルの高さが失われて当然である。

 再び「バイオ産業技術戦略」から引用すると、米国において「90年代に入り、我が国に対する評価は『生命科学分野において何ら脅威ではない、プレーヤーですらない』と一変した」のだ。

 いったい、この国の大学の学部別・学科別定員配分はどうなっているのか。文部科学省による「学校基本調査」データを見よう。

    
   《1999年 大学の学部学生数》  
           (文部科学省)  
         学生数  比率   
    総計    2,448,804   100.0%  
   人文科学  408,310  16.7   
   社会科学  978,164  39.9   
    理学    87,166   3.6   
    工学   471,310  19.2   
    農学    71,110   2.9   
   医・歯学   64,331   2.6   
   保健・他   73,332   3.0   
    商船     952   0.0   
    家政    43,053   1.8   
    教育   139,642   5.7   
    芸術    62,805   2.6   
   その他    48,629   2.0   
 生物学科は理学部に属している。その理学部の薄さは歴然としているが、生物学科がある大学自体が少ない。さらに個別の大学で生物学科を見ると驚く。この国の生命科学で牽引役のひとつとみなされている阪大の学科別募集定員を見よう。理学部定員230人の内、生物学科は20人なのだ。物理、化学の各80人、数学の50人に対してもあまりに少ない。それでも全学定員2570人に対して、生物学が20人「も」いる大学が稀少であることは、他の国立大学を回ってみればすぐ分かる。

 政府はこの1月、IT革命への遅れを取り戻すべく「e−Japan戦略」を発表した。これを読んでいて、土建屋さんの発想だと思った。「インターネットってしょせんは『道』だろう。高速道路のようにどんどん道を造りましょう。土木技術者を養成するように、IT技術者だってどんどん養成しますよ」である。

 金融機関の不良債権に、大手ゼネコンの相次ぐギブアップ。ほころびを繕うだけに追われ、負け組の処理だけにかまけている政府が景気を浮揚させられないのは当然だと思う。新世紀、この国はこうして生き抜くのだと旗を高く掲げられないで、民衆が安心して生活できるはずもない。

 生命科学の成果は、コンクリートで箱ものを造るように形で残るのではなく、新たな「知」として価値を創造していく。折しも、クローン羊「ドリー」をつくり出した体細胞クローン技術が世界各国で次々に特許として認められているとのニュースが流れた。「コンピューターの基本ソフトOSのように、様々な応用の基礎になる技術」と、特許取得した会社は説明している。この例えは象徴的だ。これから次々に生まれる生命科学の「知」とは、コンピューターソフトのように使われるたびに価値を生み出す。

 結論を申し上げたい。大学の生物学科を5倍以上に増強して、まず1万人に持ち上げる。大げさに聞こえるが、物理や化学にはまだ及ぶまい。誰の目にも必要かつ有用な生物学科が、大学の自治に任せておいて、こんなにも細々とした状況になっているのだから、政治が強力に後押しして文句は出まい。

 お金が心配だと言われるならば、前回の第98回「熱核融合炉の誘致見直しは今しか」を思い出していただこう。実用炉になる可能性が極めて薄い、ダーティな国際熱核融合炉を国際的貢献と称して誘致し何千億円も投じようとしている。この国が21世紀を乗り切るのに欠かせない人的資源を整えるのに、それ以下のお金しか掛けられぬとは言わせない。それを決断するのが政治なのだから。



 【補遺】

 理学部生物学科ばかりでなく「工学部の生物工学系や農学部もバイオを手がけているではないか」という趣旨のメールをいくつか早速いただきました。このことはもちろん承知しています。また、これまで含めた統計はありません。

 メールマガジン版の「編集後記」では「首相の首がすげ替わっても、利害調整型の政治手法しかとれないのでは変わり映えはしないでしょう。私の書いたことだけでは不十分であり、もっと多角的なバイオ振興策が必要でしょう。農学なども再編成してトータルな力を発揮できるようにしなければなりません。とにかく、振興策の官僚的な作文を書くのではなく、明確な意思を示すことが最初の一歩です」と書いて置きました。

 「植物の分子生物学に携わる研究者」からのメールは「現在の日本のバイオにおける研究では、いわゆる『理学部の生物』以外の分野から多くの研究者が流入し、活躍してます。むしろ、異分野からの流入組のほうが、学際的な知識と発想で良い成果をあげているケースが多いと感じます」と述べています。また「現場にいるものとして、それよりも日本の大学院教育の貧弱さ、その後の進路、職場の問題などが彼我の研究力の差を生み出したと感じる」と言われますが、知らない訳ではありません。逆にそれもこれも、これほど貧弱な理学部生物学科の枠組みゆえだと、私は考えています。

 農学系もバイオをもちろん扱いますが、端的な話、国内では農学系のクローン技術がクローズアップされるのは高級和牛を増やすためなのです。こんな貧弱な発想で仕事をして、海外では笑いものです。相当に広範囲なバイオ技術の応用が始まっている現在だからこそ、本線の研究で、本文にある「コンピューターの基本ソフトOS」に匹敵するような仕事を進めないと勝負にならないと、私はみています。

 人事的な停滞やよどみも承知です。現状のまま修正するのは実は難しい。教授ひとりの首を替えるだけでも大変ですが、そんなちまちましたことに時間を掛けていられない危機的状況だと思います。短期に大増強する過程でよどみも部分的なものになり、生命科学研究者の永久職場も増えますし、成果が産業化されることでも職場はさらに増えます。そういうビッグバンをやれと申し上げているのです。



 【再論3/21】直面する事態に安易な「継続」は採れない

 最近、読者から支持賛同の声のほかに「それは違う」といったメールをいただくことがある。学力低下問題、熱核融合炉誘致、バイオ立国・・・いずれも常識的で「穏健」な考え方を私は説かなかった。現状からの単純な延長上に解決策を求めるには、事態はいずれもあまりに深刻になっていると感じるからだ。実はどれも「大学の自治」「学問研究の自由」が絡んでいる。自然発生的な発展の先に、この国の未来がないのだとすれば、どこかの時点で方向をドライブしなければならない。真剣に検討すべき時期に至っている。

 「違う」と言われるメールに共通しているのは、「木を見て森を見ない」印象だろう。「勉強不足」とおっしゃるメールが来ているので、私のバックグラウンドを改めて示したい。大学が工学部精密機械工学科だったことは、実はあまり意味がない。それよりも、科学部時代に通算して7年以上、国内で手にはいる理工農医の全分野、大小の学会・研究会の大会講演抄録集を入手して、時間の限りアブストラクトだけでもと読んだ。分厚い抄録集が文字通り山積みだった。その後、地域報道部・企画報道室で遊軍をした時期にはそれを社会心理学など文系にも広げた。圧倒的多数の発表には興味を見いだせないが、光るものを見つけると、取材のために関連研究文献も、当時、大阪・中之島にあった阪大図書館を足場にして読んだことは言うまでもない。JOISの文献検索に1回1万円くらいは厭わなかった。こんなことをした科学部記者は私しかいなかったと思う。

 当該分野の専門家の皆さんと同じ知識は持ち合わせないが、その分野の隣の隣の隣・・・まで、先に述べた程度には網羅的に私は知っている。去年こんなことをしていた人が今年は、とも読んだ。その立場で、例えばバイオ立国について考えれば、現状の理工農医の枠組みを単純に拡大することが事態の打開になるとは思えない。医学部が基礎医学でそこそこの枠組みを得ているのは自明だ。農学はもう足りている。結果を出していないのは、当の皆さんの責任だ。

 はっきり言って農学系の方には不評を買っているようだから、ひとつ資料を示そう。「科学技術指標」の「第3章 研究開発システムと公的部門」にある最後の【図3-5-6】「日本の政府研究機関における専門別研究者数の推移」を見れば、農学は生物学の10倍もいる。

 前回は踏み込まなかったが、現在の理学部生物学科の枠組みをそのまま拡大するのも、もちろん無意味である。分類学など増やしても仕方なかろう。戦略的な分野に厚く生物学科を大増強し、生命科学の大競争世紀を戦えるように、人為的にドライブする。現に失敗してる「枠組み」ではなく、新しい枠組みを早急に造るのに最も魅力的なのがここだ。お金が足りないというのなら熱核融合炉など保留されたらいい。科学技術から政治経済の広い分野を見ているジャーナリストとして、ネット資料を足場に「辛口の献策」を唱えているつもりである。


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