団藤保晴の
「インターネットで読み解く!」

時評「小泉改革と競争社会化の必然性」 (2001/08/09)

 参院選は「小泉純一郎」旋風が吹き荒れ自民圧勝に終わったが、対抗する民主党にもほどほどの議席を与えた。選挙戦を通じて何回も世論調査が繰り返され、各メディアのそれをウオッチしていると、構造改革断行の先行きについて有権者の間に微妙な揺れがあり、また、内部矛盾をはらんだ自民党を勝たせていいものかとの不安が感じられた。案の定、選挙後には山崎幹事長が「構造改革、構造改革とお経のように唱えていれば票になる」と口走ってしまう。その程度のものなのか。今回は、進む事態について寓話を作り、私見を述べたい。

◆寓話「倭国もし春秋戦国の世にあれば」

 宮城谷昌光さんの歴史小説「沙中の回廊」をヒントに、寓話を作ることを思いついた。春秋戦国時代とは秦の始皇帝が古代中国統一を果たす前の、長い長い戦乱の世である。

 島国日本と違って、大陸の国境は常に動く。民も何処からか流れ来て国をつくる。中華世界の中央部を「中原」と呼ぶ。その一角に「倭」という小国があったとしよう。兵は弱く、戦って国土を増やすことは難しく、国は細るばかりだった。

 遠く南方の「楚」は昔から強兵の国として知られ、一人一人の武芸が抜きんでていた。戦場で一対一の白兵戦になれば敵はなかった。また、西方の「秦」も着々と大国への道を歩んでいた。

 数千、数万の歩兵が争う戦場に、倭国の軍師は新しい戦法を導入した。楚の急な侵攻にあい、その強い兵に自国の兵を少しばかり武芸修業させても、かなうはずもないと、やむにやまれず採った奇策である。長い槍(やり)を多数の歩兵に持たせ密集した「槍ぶすま」を作った。一致して進み、一致して退く。肝心なのは決して隊列を乱さないことだ。

 厚い「槍ぶすま」の前では武芸に優れた楚兵も力を発揮できない。楚の侵入を撃退したばかりか、続く隣国との戦にも勝って「槍ぶすま」戦術は倭国のお家芸になった。「槍ぶすま」の幅はますます広がり数キロにもなる。敵がたじろいでいる間に、後方から射手集団が敵の頭上に矢の雨を降らせ、向かうところ敵なし。やがて中原を制覇する。

 槍の長さをもっと長くしたらどうか。「槍ぶすま」戦術の改良に、その後もいろいろな手が尽くされた。一方で、個人の武芸を磨くことは「ダサイ」とされ、代わりに槍の穂先をぴかぴかに磨くことが兵の基本動作になった。

 武芸志向の若者も少しはいたが、他国へ流れ出た。多くの若者は「一致して進み、一致して退く」訓練に明け暮れた。白兵戦などこれからの戦場では存在しないのだから、これで十分と思えた。「つまらない」と、この訓練にすら加わらない若者も増えた。

 一世代以上続いた倭国の覇権は、しかし、突如消滅した。

 戦場に騎馬軍団が現れたのである。正面方向には強い「槍ぶすま」軍団にも弱い「側面」がある。歩兵戦なら側面へ敵が回り込む前に対処できた。機動力に優れた騎馬軍団は容易に側面を衝き、「槍ぶすま」を蹴散らした。隊列が乱れたとき、倭国の兵は為す術を知らなかった。異常に長くなった槍では一対一の勝負にならない。もし槍が短かったとしても、個々の兵が武芸を磨いていないのだ……。


 寓意しているところは汲み取っていただけただろうか。日本的生産方式も、学力低下問題も、ITの登場も。


◆厳しい競争社会を欧米に押しつけたのは日本

 国が激しく入り乱れた春秋戦国時代と同様、一国だけで存在できる現代ではない。各国それぞれ、どんな事情にもそれをつくり出した流れ、つまり歴史があり、常に国境を越えた力の作用・反作用が織り込まれている。

 「小泉改革は欧米型の競争社会を日本に押しつけようとしている」と異を唱える人がいる。待って欲しい。今の欧米型競争社会をつくり出した、かなりの責任は日本にある。地球に日本という国がなければ、各国にはもっと平穏な社会が現在も続いていたであろう。

 この連載第68回「日本の自動車産業が開いた禁断」でそれは論証されている。

 自動車産業で花開いた、無駄をそぎ落とした日本的な「リーン生産方式」の普及は、果てしない競争へと続く「禁断の箱」を開いてしまった。工場労働のグローバリゼーションを急速に進めた。日本車の輸出攻勢を前に、各国の工場に固有に存在していた余裕、つまり「労働文化」は破壊され、均質の競争文化で埋め尽くされた。

 こうして競争が激化する過程で、欧米のホワイトカラーの生産性はどんどん上がり、自分を磨こうとしない日本のホワイトカラーを遠く置き去りにした。高等教育機関が対応できる体質を持っていたことが大きい。工場現場ではたとえ対等でも、世界戦略を考える経営・企画力やデザイン、販売力で見劣りしてしまうのが、現在の彼我の関係である。ホワイトカラーの大集団である金融業界が、金融工学の駆使や個別企業や事業の分析力で欧米から比較にならない後れをとってしまっている事実に端的に現れている。

 だから、単に「競争社会にする」と言って済む問題ではない。このギャップをどう取り返していくのか、政府にすべて任せずに、業界も企業も個人も戦略を立てて取り組まねば、それこそ「お経」の世界に止まってしまおう。

 第106回「小泉内閣が既に変革した若者の心」 は、今回の論旨とも通じている主張「右肩上がりの成長を続けた高度成長期以降、この国の大人たちはもう随分長い間、戦わずに済ませてきた」を中心にして、前半部分をiモード版として公開している。それを読んだ携帯電話世代からメールがいくつも届いている。一部抜き書きを紹介しよう。

 「確かに今の日本には自ら道を切り開く気持ちが薄れていたと思います。じっとしているほうが今まで得でした。しかし、これからは自分から困難に立ちむかう人が生きやすい世のなかになるでしょう」(K)

 「ぐさっ!と言う感じがしました。これからもがんばってください」(S)

 「参院選挙の結果を見た感想は、自民党にとって最後のチャンスが与えられたなー、という感じと、言いようの無い漠然とした今後の不安、しかし何かが始まるということは分かっているので、腹をくくらねばという思いが同時に有ります」(G)

 分かる人にはもう理解されたと私は信じる。ただし個人としてどうすればよいのか、特に年上世代になればなるほど、これからどう生きるべきか決めるのは難しい。

 教育のありようも変えねばならないが、それが「ゆとり」教育にあるとは思えない。日米の大学差を取り上げた時評「東大定年延長を止めない不思議」を読まれた方は、追いつくべき道のりの、あまりの長さを思って欲しい。それでも立ち上がらねばならない、ぎりぎりの「時」に我々は来ている。小泉改革がそれほどの中身を持たないのなら、別の「改革」へと乗り継いでも。



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