立命館大産業社会学部 2019冬・講義録

福島原発事故と科学力失速に見る政府依存報道

 【活字メディア論】
《はじめに》

 団藤保晴です。朝日新聞で記事審査委員、科学技術や政治経済などの取材記者をし、ネット上で独自の評論・知的ナビ活動「インターネットで読み解く!」を20年以上続けています。新聞社退職後はヤフーから依頼された「Yahoo!ニュース 個人」を足場に活動中で、大学関係では非常勤講師だった関西学院大国際学部での大教室講義録6回分があり、参照していただけます。立命館では2019春学期にも別テーマ《「AI戦略と文系の皆さん」と「中国の個人監視社会」》で大教室講義をしており講義録はここです。

 今回お話しするのは日本のメインストリームメディアの大欠陥についてです。報道の自由がありなんでもニュースになっているように見えますが、日本における報道の自由は大幅に制限されていると考えられます。福島原発事故報道が大きな転換点になったと指摘できます。炉心溶融の有無をめぐり「大本営発表」報道に引きずり込まれ、政府に屈しました。自分の力で事実を調べ、起きている事態の意味を言う能力、即ちジャーナリズムの本質は失われて来ています。数年周期で中央官庁の担当記者が交代し、官庁からのリークで記事を書いている現状では官僚の理解力を超えるのは至難です。2017年、世界の二大科学誌・英ネイチャー誌特集が「日本の科学力は失速」と明確に打ち出した際は理解すらできませんでした。翌年の2018年6月、科学技術白書が渋々と「日本の科学研究が近年失速、世界で存在感が無くなりつつある」と認めても無反応に近かったのです。今年の吉野彰さんノーベル賞受賞の記事後段で初めて、各社は一斉に科学力失速の現状を指摘、2000年から始まったノーベル賞ラッシュも長くは続かないだろうと伝えました。こんな場当たりで自前の見識が無いジャーナリズムが日本の新聞各社をはじめとした既成メディアの実態なのです。



 「炉心溶融が2カ月も紙面から消えた怪」
 「ばらばら事故調にほくそ笑む原子力ムラ」
 「福島事故原因と責任隠蔽へのメディア無定見」

 ★世界報道自由度ランキングの墜落

 「国境なき記者団」が年1回発表している指標である「世界報道自由度ランキング」で日本がどう推移しているのかグラフにしました。  ランキング上位の常連は北欧三国やオランダ、デンマーク、スイスといった国々であり、2019年の日本は67位でした。日本の前後を並べると65位ギリシャ、66位ニジェール、68位マラウイ、69位セーシェルなどです。グラフの通り、日本は東日本大震災と福島原発事故の前年2010年には11位にランクされていました。まずまず座り心地が良いこの位置から2013年に53位、2016年には72位まで墜落した大きな要因は政府発表に過度に依存した「大本営発表」報道であり、取材の基本を忘れた恣意性です。放射線被ばくを恐れて記者に「現場から直ちに引け」と命じつつ紙面には「100ミリシーベルトまでは怖くない」と出す整合しない報道姿勢などでした。

 福島原発事故のあった秋、2011年10月の拙稿、第282回「原発震災報道でマスメディア側の検証は拙劣」でこう描きました。

 《この問題で朝日新聞の15日付新聞週間特集が記者管理責任者の発言を収めています。「強い危機感を持ったのは3月12日午後の1号機水素爆発」「夜になり政府は避難指示を原発から半径20キロに拡大したが」「チェルノブイリ事故での避難と同じ半径30キロから外に出て、屋内取材を中心にするよう福島の記者に指示した」

 事故が拡大していく始まりから現場を捨て完全に引いてしまう判断です。さらにフリージャーナリストが現地取材をする例が出ても動きません。「朝日OBからは『突っ込め』という声も寄せられた。社内では『志願者に行かせたらどうか』という意見もあったが、警戒区域内での単独取材には踏み切れなかった」と、知恵がない優柔不断ぶりを長々と書いています。

 記者の低線量被曝をこれだけ怖がっているのに、3月16日朝刊紙面では「100ミリシーベルト以下なら健康上の問題になるレベルではない」との専門家談話を載せているのです。今これを書けば新聞を買ってもらえなくなるかも知れません。ダブルスタンダードと言うよりも、取材力の無さ、幹部判断力の欠如が、報道紙面と取材行動と両方を縛っています》

 取材力の貧しさについてはこんな証言もあります。

 《朝日新聞の新聞週間特集を見て納得しました。科学医療エディター(部長)の談話として「原子炉は何時間空だきするとどうなるのかなど詳しいデータを知っていたら、もっと的確に記事を書けた」があります。「知っていたら」ではなく、ニュースソースを見つけて疑問に思うことを知る、データを取ってくるのが取材なのです。部員は記者会見の放送を聞いているばかりだったそうです》


 ★2カ月間も隠蔽された「炉心溶融」

 事故発生の翌3月12日午前段階で福島第一原子力発電所正門の放射線量がぐんぐん上昇し、放射性ヨウ素が見つかるとの報道を知って炉心溶融が起きて間違いなく核燃料の被覆管が損傷したと確信しました。日経新聞は冷却水が減って燃料棒の上半分が露出したと伝えました。ところが「炉心溶融」は新聞紙面、大手メディア報道から消え去ってしまい、5月半ばになって復活します。政府は炉心溶融を口にした原子力安全・保安院の審議官を発表の場から外しましたから、事故を軽く見せようとする意図があったと私は見ました。

 これは世界標準の原発報道から見てあまりにも恥ずかしく、大阪本社から東京本社に専門家のコメントも付けて「炉心溶融している」との原稿が出されましたが、東京本社は政府が認めていないとして握りつぶしたと聞いています。真偽にいささか疑問符が付くものの、5年後の2016年に経緯が明らかになりました。炉心溶融が2カ月間も政府・東電の発表から消えた理由は、東電が判断根拠を持たなかったからであり、今になって調べると「社内マニュアル上では、炉心損傷割合が5%を超えていれば、炉心溶融と判定することが明記」されていたので、判断する根拠は備わっていました。大津波4日目には5%を超す損傷が確認されて法令に従った報告書が提出されていたのです。

 そのあとで書いた第532回「隠蔽は東電だけか、在京メディアも責任を取れ」(2016/06/23)では怒って厳しく追及しました。

 《福島原発事故で炉心溶融が隠蔽された問題の報告を読んで、東電の語るに落ちる無能さが再認識されました。無批判に隠蔽に乗っかった在京メディア各社も他人事のように報道すべきではなく、自らの責任も取るべきです。原発事故に際して公式の発表は福島現地の住民や国民に広く事態の真実を知らせるためにあるのです。その本分を外れて重大事態を軽く見せようとした東電、炉心溶融を口にした原子力安全・保安院の審議官を発表から外した政府も同罪ですし、メディア内部でも疑問の声が握りつぶされていたと聞きます。報道の自由世界ランキングを大幅に下げた国内メディアの覇気の無さはここから始まったのです。

 マニュアルに「炉心損傷割合が5%以上なら炉心溶融」と定められていたのに、5年後の今頃になってその判定基準が「発見」された不思議は、21日に公表された東電の《福島第一原子力発電所事故に係る通報・報告問題に関する当社の対策について》でこう解明されています。

 『福島第一原子力発電所では、防災訓練は、予め日時が決められ、シナリオも用意されていたため、防災訓練に参加する緊急時対策班の要員らは、その都度、原災マニュアルを確認しなくても、対応することが可能であった』『本件事故当時の原災マニュアルに「炉心溶融」の判定基準が記載されていたことを知っていた者もいたが、限られた範囲の社員に止まっており』

 防災訓練で緊急時対策班員は原災マニュアルを読むなど自分で頭を使うことなく、シナリオに書いてある通りのお芝居をしていたと告白しています。だから少数の社員しかマニュアルの規定を知らなかったのです。「やったふり」をするものでしかない緊張感なし訓練が役に立つはずがありません。最初に爆発した1号機で、緊急時の命綱である「非常用復水器」を動かした経験者が皆無だった東電らしい、脱力感いっぱいの新「珍事実」です》


 ★弱者に寄り添わぬ政府とメディア、住民9割は自主避難

 事故の進行で膨大な放射能汚染が発生し、汚染地区の市民は国の指示など耳を貸さずに自主的な避難に走りました。しかし、原発から40キロ北西の飯舘村には広大な汚染ホットスポットが発生、村民は長期の被ばくを余儀なくされました。2011年5月の第258回「在京メディアの真底堕落と熊取6人組への脚光」では以下の指摘をしました。

 《福島原発事故から2カ月にもなり、ようやく《福島第一、土壌汚染800平方キロ 琵琶湖の1.2倍》(朝日新聞)など事態の全貌を考えるデータが出始め、それが大騒ぎすべき時に騒がなかった在京メディアの真底からの堕落を実感させつつあります。逆に中央官庁に依拠しないオルタナティブ情報源として、大阪・熊取にある京大原子炉の研究者6人組が長年築いてきた原子力批判能力が脚光を浴びています。

 「半減期が約30年のセシウム137の蓄積濃度が1平方メートルあたり60万ベクレル以上に汚染された地域は約800平方キロメートル」「チェルノブイリ原発事故で、強制移住の対象になった55.5万ベクレル以上の地域の約10分の1にあたる」

 今になってこう平然と記述されると噴飯モノもいいところです。4月1日の第253回「高汚染無視で飯舘村民を棄民する国とメディア」(2011/04/01)でこう指摘しました。国際原子力機関(IAEA)が福島原発の北西40キロ、飯舘村で1平方メートル当たりで2000万ベクレルという実にショッキングな汚染を検出、日本政府に通報したのに「『自分の手持ち測定データでは安全です』と言ってしまうお役所、毎日新聞に限らずこれに納得してしますマスメディアにはあきれ果てます。『どういう基準か分からないが』と書いた新聞までありました」。後者の新聞は朝日新聞です。この無視のせいで飯舘村民は1カ月半を経過してこれから避難するところです。(参照:『飯舘村南部に広い高汚染地域:現地調査で確認』2011/04/04)

 私も半年前まで籍を置いていた商業新聞は、古典的左翼の物言いならば「ブルジョア新聞」と蔑視されますが、市民大衆の大地に根を下ろす重要な仕組みを持っていました。少し年上の新聞人にしか通用しない信条「読者への忠誠心」です。有料定期読者への配慮は、広告主への遠慮より確実に上回っており、この例のように市民の安全・健康に関わる問題では弱者を守る立場から「安全側に倒した」論調が当然とされてきました。

 これが破られています。一例として毎日新聞が5月4日なって掲載した『東日本大震災:福島第1原発事故 放射線、健康への影響は 正しく知って行動しよう』を挙げます。

 焦点は低線量被ばくの取り扱いです。「科学者の間では『○ミリシーベルト未満ならば健康影響がないという”しきい値”がある』『低線量でも直線的にがん発症率が増え、しきい値がない(LNT仮説)』などと見解が分かれている」と不確かさが強調され、国際放射線防護委員会(ICRP)が取っている低線量から発ガンは比例して増える考え方がスタンダードであることを隠しています。このスタンダードを前提に、もっと発ガンが増える厳しい考え方と、逆に閾値ありとする楽観論を両方、説明するのが放射線影響を説明する常道でした。低線量であっても被ばくする本人の選択を尊重するのです。

 毎日新聞は「政府は計画的避難で実際の避難までに1カ月の猶予を持たせた。これは、がん発生のリスクが高くなるという明確な証拠があるのは100ミリシーベルト以上で、『生活への影響も考慮すると、一刻を争って避難する状況ではない』というのが理由だ」と地の文で『100ミリシーベルト伝説』に賛成し、ネット上で一方の論者から喝采を浴びました。これと同様の一方的な放射線影響報道は他の新聞でも大勢を占めています。

 このような人間を無視した報道になる理由は、霞ヶ関周辺にしか情報源を持たない在京メディアの特質によります。中央官庁から漏れ出る情報を「特ダネ」として追い求める取材習慣に何十年と浸り、代替えになる情報源を持とうとしなかったのです。取材に行く相手すら中央官庁が挙げるリストに載っていなければ信用しない有り様です》  2018年になって大多数の住民が受けた内部被曝調査での問診表から震災直後の南相馬市民の避難状況が分かり、国から屋内退避指示を受けた市民や避難対象外市民も9割が自主避難していたと判明しました。上の図は第580回「原発事故時に9割自主避難、国の指示に信頼なし」(2018/04/20)で作成しました。政府は大震災4日後の3月15日に福島第一原発から20キロ圏を外部から立入禁止の警戒区域にして住民に避難指示を出し、20〜30キロ圏を屋内退避区域にしました。しかし、市内が警戒区域と屋内退避区域、その他の区域に三分割された南相馬市では区域に関係なく大半が避難してしまい、国の指示は機能しなかったと言えます。この時、朝日新聞とNHKが南相馬に持っていた取材拠点を引き払い、以後、マスメディアは30キロ圏内の現地直接取材をしなくなるなど腰が引けた状態を続けました。

 屋内退避地域に取り残された南相馬市役所周辺は市外からの食料の搬入も滞って飢えかける有様になり、南相馬市長がユーチューブを使って世界中に惨状を訴えて海外から大きな反響を得ました。この時、南相馬市から撤退していたメディアは電話とファックスでの取材しかせず、本当の現場を知らないで大恥をかいたと言えます。


 ★専門家無しで聞き取りだけの事故調は無残

 全電源喪失の過酷事態で3つの原子炉が炉心溶融を起こし、溶けた核燃料が原子炉の底を破って格納容器に落ちていきましたが、現状がどうなっているのか全容は誰にも分かりません。これほどの大事故を究明するために政府事故調、国会事故調、さらに民間でも解明プロジェクトが立ち上がりました。しかし、調査結果はばらばらで真相は闇の中です。原子力学会が協力せず、その道の専門家がいない調査委が関係者から聞き取りしただけの調査です。本来ならマスメディアも自ら原因究明するために専門家を組織してもおかしくないくらいなのに、全く動きはありませんでした。

 政界、学界、産業界にマフィアのように巣くっている「原子力ムラ」は、当初から福島原発事故の原因も責任者も明かにしないと決めたのです。最も見苦しくて露骨なのが専門家集団である日本原子力学会の行動でした。事故の当初から「個人責任を追及するな」と学会声明していた点で際立っていました。事故翌年の学会大会特別シンポジウムで炉心溶融や水素爆発などがどう起きたか事故の詳しい分析はしていない醜態が明らかになると「学会として科学的分析を」と身内から批判が出るありさまでした。結局、実質的な解明作業はしないで通しました。

 2012年7月の特集F1「事故調が責任問わぬ始末では信頼回復は難しい」(2012/07/23)で以下のように批判しました。あまりに無残な事故調の調査結果でした。

 《国会事故調に続いて公表された福島原発事故の政府事故調最終報告を見て、責任の所在が明らかにならない始末の付け方では国民の原子力発電への信頼回復は難しいと感じました。第一に、公的な両事故調の最終報告を契機に為されるべき刑事処分の可能性が消えました。新原子力規制組織を立ち上げて次の段階に進める機運も、白黒をつけないために生まれた「灰色一色」では薄汚れてしまいます。責任者に刑事罰が当然の大事故ながら、せめて責任があった関係者は新体制から確実に外して欲しいと願うのが国民感情でしょう。しかし、両事故調の提言にはそのような配慮もありません。

 先日の特集F1「国会事故調(4)責任追及がし難い日本的ずさん」で「福島事故の責任を問うなら、まず直接の引き金になった事象を確定し、その行為の責任者や回避するための注意義務を負っていた人物を、現場から経営陣、規制官庁まで含めて特定します。その上で連帯すべき責任者を列挙します。焦点は最初に爆発した1号機」と指摘しました。電源喪失後の1号機安全装置「非常用復水器(IC)」について、国会事故調は地震による損傷説に立ちましたが、政府事故調は地震説を否定し知識が足りず運転できなかったとしています》

 非常用復水器とは大量の水を蓄えた容器で、その水がなくなるまでの8時間は電源喪失でも原子炉の冷却が出来ます。また、冷却水は後から追加できると言われます。

 《中間報告で「福島第一原発で事態の対応に当たっていた関係者の供述によると、訓練、検査も含めてICの作動を長年にわたって経験した者は発電所内にはおらず、わずかにかつて作動したときの経験談が運転員間で口伝されるのみであったという。さらに、ICの機能、運転操作に関する教育訓練も一応は実施されていたとのことであるが、今回の一連の対処を見る限り、これらが効果的であったとは思われない」とされた部分です。

 最終報告では「他方、発電所対策本部及び本店対策本部は、当直からの報告・相談以外にも、ICが機能不全に陥ったことに気付く機会がしばしばあったのに、これに気付かず、ICが正常に作動しているという認識を変えなかった。かかる経緯を見る限り、当直のみならず、発電所対策本部ひいては本店対策本部に至るまで、ICの機能等が十分理解されていたとは思われず、このような現状は、原子力事業者として極めて不適切であった」と上層部まで無能を拡大するだけです》


 ★第381回「福島原発事故、国家として原因不詳でよいのか」(2013/09/16)

 予測されていた福島原発事故の不起訴処分に、国家として原因不詳でよいのか、改めて問いたいと思います。いくつもの事故調が違った結論を出し、放り出されている現状は「原子力ムラ」の意志なのかもしれません。検察は大地震、大津波ともに予見不能だったと大括りの説明ですが、どこかに事故原因を定めて責任者の追及を始めたら結論が違う事故調から異論の鑑定が出てくるのが確実では公判が維持できないと考えたでしょう。責任者を出さないと決めていた原子力学会や原子力ムラ政府官僚がほくそ笑む展開です。これほど影響が大きい大事故ならば原因をピンポイントで究明してシステムを改善するべきところを、原子力規制委による新規制基準は事故調報告を参照もしない安全システムの大風呂敷展開でかわしています。全てが曖昧模糊になっているようでは、現代屈指のテクノロジー国家として失格だと敢えて申し上げます。

 朝日新聞の《原発捜査、尽くしたか 「なぜ誰も責任問われぬ」 東電前会長・菅元首相ら全員不起訴》は次のように伝えています。

 《検察は東電幹部らへの聴取とともに、地震や津波の専門家からの聞き取りに重点を置いた。専門家数十人から聴取するなどした結果、マグニチュード(M)9・0だった東日本大震災の発生は「政府機関の予測よりエネルギーで11倍、震源域も数倍以上で、専門家らの想定を大きく超え」ており、「全く想定されていなかった」と結論づけた》《また15・7メートルの試算についても検討した。根拠となった政府機関の予測自体が「専門家らの間で精度が高いものと認識されていたとは認めがたい」とした上で、「最も過酷な条件設定での最大値」「専門家の間で一般的に予測されていたとは言い難い」と主張。「(刑事責任を問うには)漠然とした危惧感や不安感では足りず、具体的な予見可能性が必要」と説いた。通常、予見可能性が認められなければ対策をとる義務も生じない》

 ここまでは通常の刑事処分の考え方ですが、原発には全電源喪失の過酷事態になってもまだ動く最後の命綱が存在します。最初に炉心溶融した1号機なら非常用復水器だし、2、3号機には別の装置があります。『恐ろしいほどのプロ精神欠如:福島原発事故調報告』にあるように、当時の運転チームは誰ひとりとして非常用復水器を動かした経験がありませんでした。これさえ順調に運転できていたら福島原発事故は軽微なトラブルで終わった可能性があります。しかし、津波主因説の政府事故調と違い、国会事故調は地震主因を唱えていて津波襲来以前に非常用復水器に異常が発生したと考えます。

 13日付の神戸新聞《福島第一元作業員の「遺言」詳報 東電、信用できない》にある次の部分に該当です。《最初の揺れはそれほどでもなかった。だが2回目はすごかった。床にはいつくばった。配管は昔のアンカーボルトを使っているから、揺すられると隙間ができる。ああ、危ないと思ったら案の定、無数の配管やケーブルのトレーが天井からばさばさ落ちてきた。落ちてくるなんてもんじゃない。当たらなかったのが不思議。4階にいた人たちは水が大量にゴーと襲ってきたと言っていた。それが使用済み燃料プールからなのか、非常用復水器が壊れたからなのか、そのときは分からなかった》

 このような現場の証言と事故事象の推移がきちんと付き合わされることなく放置されたままです。このままでは予測できない大地震と大津波が来て大事故になったとの「外形的事実」しか残らないことになります。創造的な洞察力を欠いているのが原子力ムラ官僚である点は第334回「原発事故責任者の1人と自覚が無い安倍首相」の政府対応から察しがつきます。政府対応が大失敗だった福島原発事故から学ぶ教訓無しと、むしろ忘れたいのでしょうか。第347回「無傷で終わる可能性が十分あった福島原発事故」で班目原子力安全委員長ひとりの知恵さえ生かせなかった経過を描きました。このままでは次の危機にも失敗を繰り返す恐れが大です。



 「ネイチャー誌の明快な主張すら理解せず」
 「日本だけ研究論文減で世界シェア大幅減」
 「大学教員数減らしのための独立法人化だった」

 ★根が深い大学改革問題をメディアは理解できない

 私は朝日賞の選考に長く携わった経験から研究の画期性や評価の在り方について第一線研究者と議論する機会が多くあり、90年代末から文科省による国立大学改革議論の危うさに気付き、2004年、国立大学の独立法人化が過ちであると指摘し、ずっと警鐘を鳴らして来ました。大学関係者の中にも鈴鹿医療科学大学学長の豊田長康さんのように科学技術立国の危機を各種データを分析、咀嚼して訴える方がいらっしゃいます。しかし、数年で担当省庁を交替していく既成メディアの記者には見てもチンプンカンプンな警鐘だったようです。文科省官僚からのリークで記事を書きたいとしか思っていない記者が、「この四半世紀、文科省が執行している政策は亡国の政策だ」と言われて根が深い大学政策の問題に手を出すはずもなかったのです。

 世界の二大科学誌である英ネイチャー誌に日本人の論文が載ろうものなら各メディアは競って大きな扱いで書いてきました。そのネイチャーの2017年3月特集が「日本の科学力は失速」と明確に打ち出したのですから、頑迷な既成メディアも目が覚めるだろうと期待しましたが、どの社も正面から受け止めようとしませんでした。この鈍感さにネイチャー誌も驚いたのでしょう、8月には再び社説で科学力失速と対応策を求める再警鐘を鳴らしましたが、政府もマスメディアも反応しませんでした。ネイチャーは特集で丁寧にも日本語プレスリリースを用意してこう述べています。

 《世界の全論文数が2005年から2015年にかけて約80%増加しているにもかかわらず、日本からの論文数は14%しか増えておらず、全論文中で日本からの論文が占める割合も7.4%から4.7%へと減少しています》《他の国々は研究開発への支出を大幅に増やしています。この間に日本の政府は、大学が職員の給与に充てる補助金を削減しました》《各大学は長期雇用の職位数を減らし、研究者を短期契約で雇用する方向へと変化したのです》  第554回「科学技術立国崩壊の共犯に堕したマスメディア」(2017/04/21)で作成したグラフです。国立大学法人運営費交付金の削減と世界での論文数シェア減少の相関ぶりがひと目で理解できると思います。犯人探しの議論が起こる中で驚くべきは日経新聞で、政府筋から示唆を受けたのでしょう、日本の科学力失速の元凶は国立大と言わんばかりの論陣を張りました。新潟大教授が明かした教員一人あたりの研究費の推移を紹介しておきます。第535回「文科省主導の大学改革が国立大の首を絞める」(2016/07/24)からです。年間で3万円ではコピー代にしかなりません。

 2003年度まで   研究費約40万円 + 出張旅費6万円
 2004年度独法化  出張旅費を含めた研究教育費が20万円
 2015年度     同上 10万円
 2016年度     同上 3万円


 ★最新のデータで知る「日本は並みの国」

 《はじめに》で述べたように2018年6月、科学技術白書が渋々と『日本の科学研究が近年失速、世界で存在感が無くなりつつある』と認めてもメディアは無反応に近かったのです。今年の吉野彰さんノーベル賞受賞から、もうノーベル賞ラッシュは長続きしないでしょうとのお断りが各社記事に付くようになりました。  第622回「迫るノーベル賞枯渇時代、見えぬ抜本政策転換」(2019/10/28)で全米科学財団(NSF)の『科学と工学の指標2018』第5章学術研究開発(英語)を見つけて作成したグラフです。ネイチャーよりも研究論文の範囲をやや広くとっています。2006年と2016年を比べて日本だけが論文数を減らしました。世界シェアが2006年の7.0%から2016年には4.2%に低下です。10年でシェア4割減はとても大きいと考えられます。2000年ごろには10%のシェアで米国に次いで二番手にいたのが今や「並みの国」です。

 研究論文でも専門家の査読があって学術誌に載るものは特にそうですが、新たな知見を人類にもたらすと言えます。そうした知的なトライの集積の中から全く新たな分野を切り開いたブレークスルー研究がノーベル賞として選ばれます。  もう一度前のグラフを見ましょう。米国が多数の受賞者を輩出しているのはシェア3割を続ける論文集積の大きさからみて当然です。中国は急速に伸ばしているものの過去の集積は小さく新中国からの受賞者はまだ1人です。韓国に受賞者が出ない点ついて国民性や教育システムなどが議論されていますが、論文集積の決定的な小ささで十分に説明できると考えます。シェア4%台からさらに落ちようとしている日本に輝かしい未来はありません。


 ★官僚の政策説明も大学の「昔に戻せ」主張も間違い

 科学技術白書が科学力低下を「公認」してから新聞各紙でも取り上げ始めました。朝日新聞なら2018年10月16日付の『日本の研究力低下、悪いのは…国立大と主計局、主張対立』などですが、切れ味はさっぱりです。これを取り上げた第595回「日本科学力をダメにした教員減強要とタコツボ志向」(2018/10/24)で次のように両者の主張をまとめました。

 国立大学協会会長で京都大総長の山極寿一さん・・・《国立大が法人化されて14年になるが、法人化は失敗だった。自由な発想で大学経営のあり方を変える狙いはわかるが、その財源である運営費交付金を削減したのは矛盾している。国は法人化を、お荷物になりかけた国立大を切り離す財政改革としてとらえたが、それは間違いだ。欧州などでは、国が財源を保障して大学を大事に育てている。日本でもそうすべきだった。それがかなわないなら、運営費交付金と競争的資金の比率を、法人化開始の時点に戻すべきだ》《国は運営費交付金の代わりに競争的資金を導入したが、この「選択と集中」の政策は間違っている。研究力が下がったからだ》

 財務省主計局次長の神田真人さん・・・《日本の外が圧倒的に流動化、開放化して、国もボーダーレスになり、全く新しい研究分野ができる時代になった。日本が変わっていないとすれば、相対的にひどく硬直的、閉鎖的になったことは間違いない。そのため論文の「生産性」が下がったのではないか。新陳代謝にも欠け、非正規のポストが激増する中、微減の正規のポストには定年延長したシニアの教員が張り付き、若手に回らないという批判も耳にする》《競争を止めれば、日本の大学は人類社会から落ちこぼれ、次の世代に廃虚しか引き継げなくなる。運営費交付金もどんどん競争化してメリハリをつけ、競争的資金は普遍化させる》

 財務省の言い分は「きれいごと」であり、騙されてはなりません。十数年を経て起きた結果は次に述べるように、国家公務員のままでは出来なかった「人減らし」でした。

 《まず財務省主計局の言い分は過去の経緯を知ればあまりに無責任でしょう。2013年に書いた第397回「国立大学改革プラン、文科省の絶望的見当違い」で財務省の本音が出ている文書「総括調査票」を取り上げました。大学設置基準に比べて大学教員は「最大で約4.7倍(常勤・非常勤教員数では約3.7倍)となる分野がみられる。特に、個々の分野の特性を勘案しても、教員数が過大となっている分野では教員数の抑制を図る」とし、教員は多すぎると明確に打ち出しています。

 科学技術立国を支える研究者として尊重するのではなく、設置基準に比べ多すぎる教員としか見ていないのが財務省の根本姿勢です。マスメディア各社はこれを見落としています。国立大学法人化はいろいろな政策意図や経緯が言われるものの、交付金を絞り続けた結果として見れば退職教員があっても補充しない現状が示す「人減らし」でした。「教員は多すぎる、まだまだ減らせる」との判断が根底にあるからこそ、交付金削減年1%積み増し措置は撤回されません。

 なんのことはない、国家公務員のままでは思うように減らせないから、法人化した大学に人減らしを強要しただけです。雇用の仕組みを考えれば若手にポストが回ろうはずがなく、こうなるように仕掛けておいて他人事のように主計局に嘯かれては困ります》

 一方で研究の国際化が急速に進みステージが変わった中で日本は取り残されつつあり、「昔に戻せ」との主張にも賛同できません。次の図を見てください。  豊田長康さんはブログ『「科学立国の危機〜失速する日本の研究力」ウラ話の1』で「研究従事者と研究資金を1.5〜2倍に増やさないことには、先進諸国に追いつけない」と主張していますが、政府は「遜色ない」「競争が足りない」「選択と集中で乗り切れば良い」と現状維持です。「選択と集中」は研究の目利きがいて的確な判断で有望な研究に予算を付けていけばよいとするものですが、2017年のノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さんが、あの東大でも助教授時代の研究論文を認められなかった例を知れば基礎研究の分野でも機能しているとは考えられません。

 第557回「やはりノーベル賞大隅さんの警鐘を無視した政府」(2017/06/19)では下のグラフを掲げて論じました。  《科学技術白書は大隅さんの研究「オートファジー(自食作用)」に政府の科研費が総額17.8億円と大きな支援をしてきたと胸を張ります。このグラフはノーベル賞に至る大研究が国によってどうサポートされたかを知る標本です。大隅さんは東大助教授だった1988年に顕微鏡下で酵母細胞のオートファジーを発見しましたが、3年間は論文にならず科研費も細っています。東大でも認められず教授になれる見込みがなく、岡崎の基礎生物学研究所に招かれて集まった若手と単細胞の酵母から多細胞へ対象を拡張、成果を出してから特別推進研究採択などで大きな研究費が付いたのです。

 認められず苦しい時期に支えてくれた研究費はどこから来たのか、科学技術白書もこう認めています。『東京大学在籍中には、上記の科学研究費助成事業と併せ、国立学校特別会計における「教官当積算校費」等によって研究が進められてきた。このことは、研究者の自由な発想に基づく学術研究を支援する上での基盤的経費の重要性をも示すものである』》

 また、別に大きな問題があります。他の先進国と伍するには、同じ学部の他の研究室の仕事にすらあまり関心を持たないタコツボ型研究システムをひっくり返すべきです。《学閥を支えている学内生え抜き昇格と決別し、タコツボでは生きていけない環境を強制的に作るしかありません。研究者は一度は外に出て公平に能力を認めてもらうシステムに一大転換すべき》と、私は提案しています。ドイツでは同じ学内での教授昇任は禁じられています。ドイツに取材に行った日経新聞の記者が「ドイツでは大学自身が選択と集中をしている」と驚きました。それは日本の官僚が言う選択と集中とは別物で、大学人同士が互いに評価しあうピアレビューの集積です。学内生え抜き昇格が出来ない以上、学外から入ってくる人材の公平な評価が不可欠であり、評価をするために大学人自身が鍛えられます。官僚依存の既成メディアは、こうした根本にある大問題も視野にとらえていません。